花も嵐も踏み越えろ






 新一はキスが好きだ。
 最初の時こそ恥ずかしそうにしていたけれど、快斗とのキスを気に入ってくれたのか、あれから何度か唇を合わせてみたけれど、嫌がる素振りは一度も見せない。
 だから快斗は何度となくキスをした。
 朝起きた時。コーヒーを手渡す時。読んでいた本から顔を上げた瞬間。
 啄むような口づけに、新一はいつもくすぐったそうに笑う。
 そして、夜寝る前。ふと視線が絡み合った時。
 吸い寄せられるように唇を合わせ、それでは足りないとばかりに深く交わり、舌を絡ませ、唾液を貪るような口づけを交わす。
 そんな接触さえも震えながら喉を鳴らして享受してくれる新一。

 嫌がられてはいない、と思う。
 こういうところで同情心を垂れ流しにできるほど器用な人じゃない。
 むしろ好意がなければ決してこんな行為は享受できないだろう。
 気障で二枚目な印象を抱かれがちな新一だが、恋愛面に関しては驚くほど純情で潔癖なのだ。

 自信はあった。
 彼を振り向かせる自信なら。
 それでも、彼の抱えるものの大きさを知っているから、不安もあった。
 死ぬまで彼の傍を離れる気はない、その思いを知って尚、この思いごと受け入れてくれるだろうか、と。

 だから。
 その言葉を聞いた時は、――泣くほどに嬉しかった。















chapter 20 : 奇跡は終わらない

















「快斗、今日暇か?」

 いつものように朝食の準備をしてから朝に弱い新一を起こしに行くと、珍しく新一は一人で起きていた。
 寝ぼけ眼で擦り寄ってくる姿が可愛くて気に入っている快斗は、それが見られないことを少し残念に思いながらも、既に習慣となったおはようのキスをしっかり仕掛けながら答えた。

「うん。そろそろ食料のストックがなくなるから買い出しに行くつもりだけど、それぐらい。なに、新一もどこか出かけるの?」
「ん。つーか、お前ん家行きたくて」
「俺ん家?」
「だめか?」
「全然だめじゃない。けど、急にどうして?」

 現在潜伏中の新一は余程の用事――電話だけでは解決できそうにない事件の呼び出しやアリバイ工作など――でなければ外出しない。
 必要物資の調達にしても、快斗と一緒に買いに行くこともあるが、基本的に生活能力の低い新一は余計な出費をしてしまう(消費量を考えず大量買いして快斗に叱られた)ので、快斗が一緒に暮らすようになってからは自然と快斗の担当となった。
 もともと出不精の嫌いはあったけれど、その反面で体を動かすことが大好きな新一にはちょっと辛い生活である。
 だから、普通なら心配になってしまう事件の呼び出しなんかでも、新一が外に出られるならとつい笑顔で見送ってしまう快斗だったが。

「お前のおふくろさんに挨拶しとこうと思って」

 まさかそんな答えが返ってくるとは思わなくて、つい吃驚してしまった。

「挨拶?」
「いつかは行こうと思ってたんだよ。お前こっちに入り浸りだし、同居人の俺が挨拶もなしってのは申し訳ないしさ」
「そんなの気にしなくてもいいのに……」
「俺は気にすんだよ。丁度周りも落ち着いてきたし、まだまだ油断はできねーけど、変装してなら大丈夫だと思うんだよな」

 だから挨拶に行きたいのだ、と。
 そう言った後に、新一はふと微笑んで。

「まだ、さ。ほんと、油断はできねーけど。お前と知り合いだってことさえ秘密にしなきゃなんねーかも知れねーけど、……工藤新一として、同じ大学にくらいなら、通えるかも知れないから」
「……っ!」

 その言葉の、意味。
 老いない肉体となってしまった新一は、長い時間を一所で過ごすことができなくなってしまったけれど。
 大学に通う四年間は、自分に与えてくれるというのだろうか。
 快斗は自分の声が震えるのを感じながらも言葉を振り絞った。

「それ、ほんと……?」
「ああ。赤井さんとも話して決めた」
「ほんとに、一緒に大学行けるの……?」
「同居っつーのは内緒だけどな。……大学で知り合った友人、ぐらいなら問題ないんじゃねーかな」
「――しんいち……っ!」

 飛びついて、抱きしめて。
 いきおい腕の中の新一ごとシーツに沈み込んで、それでも快斗は抱きしめる腕を緩めなかった。
 苦しいはずなのに、そんな必死さを嬉しそうに受け止め、新一はくすぐったそうに笑う。
 そんな声さえも逃すまいと、新一のなにもかもをこの腕の中に閉じ込めてしまおうと、快斗は一層腕に力を込めた。
 もう大声で叫んでしまいたい。
 嬉しい。大好き。愛してる――と。

「だから、おふくろさんに挨拶させてくれよ。お前はよくても、大事な息子を危険にさらすかも知れねーんだ。おふくろさんの承諾がもらえなきゃ、大学は行かねーからな」
「分かった! つーか、絶対オッケーだから! 俺が新一大好きなの、母さんも知ってるから!」

 すると、途端に新一の顔がボッと赤く染まった。

「おまっ、なに……っ?」
「心配いらねーよ? 男同士とか、諸々承知の上で応援してくれてっから♪」

 最早新一は言葉もない。
 よもや快斗がこんなにもアブノーマルな恋愛を身内にまでカミングアウトしているとは思わなかったのだろう。
 けれど、母子二人きりの母子家庭で培った絆は新一が思うよりずっと深くて強いのだ。
 一人息子が運命をともにすると決めた相手なら、それがどんな相手だろうと無条件で応援してくれるほどには。
 けれどそんな言葉で新一を追い詰めるわけにはいかないから、と。

「親に挨拶なんて、プロポーズみたいだよな♪」

 その時は、多分の本気と冗談交じりにそう言った快斗だったけれど。



* * *



 恋人を連れて行く。
 喜々としてそう母親に連絡を入れた快斗は、得意の変装術で新一を見事な美少女へと化けさせた。
 と言っても髪の色、形、ボディーラインを変えただけでマスクは被っていない。
 挨拶に行くのに偽物の顔で行くわけにもいかず、だからといって一度脱いでしまったマスクはもうつけられないため、顔は薄化粧を施すだけに留めたのだが……流石は元大女優の息子。薄化粧だけで十分すぎるほどの美少女になってしまったので、全く問題なかった。
 いやむしろこれはこれで目立って困りものだったが、そこはそれ、この快斗が変な虫など寄せ付けるはずもない。

 そうして黒羽邸へとやって来た二人は。

「きゃああ、いらっしゃーい!」

 玄関先での抱擁という、千影の歓迎を受けていた。



「ふふ、ごめんなさいね。つい嬉しさが振り切れちゃって」

 玄関先から居間へと場所を移動し、千影は息子と息子の恋人にお茶を出すと、ようやく人心地ついたようにそう言った。
 新一も既に被っていたカツラやら詰め物やらを取って工藤新一へと姿を戻している。
 帰る時にはもう一度同じ格好をしなければならないのだが、変装したまま挨拶するのだけはどうしても嫌だったらしい。

「ご挨拶が遅れてすみませんでした」
「いいのよ。事情なら差し障りのない程度は聞いてるし、私たちのことを考えてくれてのことだってちゃんと分かってるから。こちらこそ、不肖の息子が迷惑をかけてしまってごめんなさいね」
「迷惑だなんて、僕の方こそ彼には頼りっぱなしで……」

 猫かぶり、というよりは両親に叩き込まれた躾の賜だろう、普段のズボラさをくるりと隠した新一はとても礼儀正しい。
 快斗としても自分の母親を大事にしてくれているのだと思えば嬉しかった。
 けれど、今日は世間話をしに来たわけではないのだ。
 新一は居住まいを正すと、真剣な表情で話を切りだした。

「実は、今日はとても大事な話があってお訪ねしました」

 その真剣な声に、千影もそれまで浮かべていた穏やかな表情を真面目なものに変える。

「僕の……事情は、ご存知ですか」
「ほんの少しだけね。貴方が探偵さんで、とても大きな事件に関わっていたことと、快斗も無関係ではなかったこと、そして安全のために貴方との関わりを隠さなければならないということだけ」
「……十分です」

 そこで新一はなにかを振り切るように一度瞑目して。

「僕は貴方の大事な家族を巻き込んだ。ですから、貴方には包み隠さず全てお話しします」

 次に目を開けた時、迷いのない真っ直ぐな目でそう言い切った。
 覚悟していた快斗さえ息を飲んでしまうほどの強さで。

「僕の体は、ある薬を飲んだために老いることができなくなりました。今はまだ僕の体の変化に気づく人はいないでしょうが、これから五年、十年と経てば嫌でも目立ってしまう。だからそうなる前に、僕はいずれ自分の存在を消さなければならなくなるでしょう」
「消す、って……?」
「工藤新一を社会的に殺す、ということです」
「そんな……っ」

 千影は目を瞠りながら両手で口を押さえた。
 信じられなかった。
 夫を殺した組織、それを潰してしまうほどの探偵なのだから、息子の恋路が一筋縄ではいかないだろうと予想はしていた、けれど。
 まさかそれほどの重責を負わせられているとは思わなかったのだ。
 まさか――存在することも許されない、なんて。

 それなのに、話を聞かされるだけでも相当なショックだったのに、当事者であるはずの新一は笑みすら浮かべてみせるのだ。
 感情の滲まない、全てを受け入れるかのような微笑は、とても静かで。
 そんな風に笑えることこそが、衝撃でもあって。

「でも、じゃあ……それで貴方はどうするの?」
「FBIがバックアップしてくれるそうなので、心配いりません。たぶん、名前を変えながらアメリカをあちこち移動することになると思います。向こうは広いですから、日本よりはどうにかなると思いますし」

 淡々と語る口調が、彼の覚悟を物語っていて。
 既に知っていたこととは言え隣で聞いている快斗も堪らなく感じていたが、それらの事実を初めて知らされた千影は、最早涙目になっていた。

「なんで、貴方が……貴方だけ、そんな思いを……」
「僕だけじゃありません。同じ境遇にいる女性がもう一人います。彼女は僕が飲んだ薬の制作者で、僕以上に辛い思いをしている」
「そんなの……比べられるものじゃないわ……」
「……、……。これは、名探偵と呼ばれていい気になっていた僕の自業自得なんです。だから誰も責める気はありません」

 千影の目から堪えきれなかった涙がぽろりと零れ落ちる様子を、新一はただ申し訳なさそうに見つめている。
 その様子を隣で見守りながら、きっと彼は涙の理由を厳密には理解できていないのだろうと、快斗は思った。
 理解できていれば、自分がどれだけ哀しいことを言っているか分かっていれば、きっとこんなことは口にできない。
 いっそ頑是ない子供のように無茶苦茶に泣き喚いてくれたら、などと思っているなんて、考えつきもしないのだろう。
 彼はとても心が強くて、なのに自分の心にだけはなぜかとても鈍い人だから。自分のために泣く術を知らないのだ。
 それこそが千影の涙の理由なのだと、分かってくれない新一がもどかしい。

「――…でも、」

 と続けて、新一はその先を躊躇うように俯いた。
 彼にしては珍しく、まるで目を見ながら話すことなどとてもできないとでも言うように。
 組んだ両手に額を預ける姿は、まるで祈りのようで。
 懺悔にも似ていて。

「でも、あと四年だけ、猶予が欲しいんです。工藤新一として、あと四年だけ。その四年を、できることなら……快斗と過ごしたい。快斗と、いたい」

 一緒にいたいんです、と。
 絞り出すように囁く新一が堪らなくて、快斗は俯いた頭ごと抱き寄せた。
 新一は微かに震えていた。
 泣けない新一が、それでも泣きそうに顔を歪めていて。
 噛み締めた唇が、青白い顔が痛々しくて。
 それさえも愛しくて。

「――危ないことかも知れない。俺たちだけじゃなく、母さんまで危険にさらすことになるかも知れない。それでも俺は、この四年を新一にあげたい。もちろんその先もずっと傍にいるつもりだけど、……『工藤新一』に、俺の四年をあげたいんだ」

 話せない新一の代わりにそうと告げれば、千影は泣きながらもしっかりと頷いてくれた。
 名が変わろうと新一が新一であることは変わらないけれど、『工藤新一』として『黒羽快斗』の傍に確かに存在した、その事実を残しておきたいのだ、と。
 それが危険なことだと分かっていても、ありのままの自分でいられるきっと最後になるだろう機会を、僅かな時間でもいいから手にしたいのだ、と。
 そんな、わがままにもなっていないような小さな望みを、どうして拒むことができようか。

「これでも、盗一さんの妻だったのよ。快斗の母親なのよ。……大事な息子たちのためなら、ちょっとの危険くらいどうってことないわ」
「千影さん……」
「それにもし危なくなっても、貴方たちが守ってくれるんでしょ?」

 涙を拭いながら悪戯っぽく笑う彼女に、新一もくしゃりと破顔して。

「必ず、守ります。貴方も、快斗も、二度と悲しまなくて済むよう。僕が、必ず」

 それは自分の台詞だとも思ったけれど、純粋に嬉しかったから、快斗は素直にその言葉に頷いた。
 新一が快斗を守ろうとしてくれるように、自分も彼を守ろう、と。

「さあっ、ちょっと湿っぽくなっちゃったけど、ご飯の支度しちゃいましょうか! 今日は二人とも食べてってくれるでしょう?」
「よっし、俺も手伝う!」
「あら珍しいわね、快斗が家でご飯つくってくれるなんて」
「別にー。新一には毎日つくってるし」
「やだ、ソレって惚気?」

 軽快なテンポで交わされる親子の会話に、けれど新一が慌ててストップをかける。
 そうなのだ。
 今の話もとても大事な話だが、もっと大事な話があるのだ。
 むしろこれを伝えるために新一は今日ここに来たと言っても過言ではない。
 今日のために、新一は計り知れない覚悟を決めてきたのだから。

「あ、その、もうひとつ大事な話がっ」
「「――え?」」

 同じタイミングで振り返った似た者親子に、ごくり、と新一は唾を飲み込んで。



「あの、快斗を――俺に下さい!」



「……へ?」

 と、思わず間抜けな声が出たのは、快斗の口からだ。
 彼は今なんと言ったのか。
 自分をくれと、そう言ったか。
 快斗の聞き間違いでなければ確かにそう聞こえた気がしたけれど……でも、どういう意味で?
 しかし快斗以上にテンパっているらしい新一は、尚も意味不明な言葉を言い連ねていく。

「その、人並みの幸せとか、そういうのは望めないって分かってます。俺は男だし、探偵だし、こんな体だし、日陰の身だし。本当はマジシャンとして成功して欲しいとも思うんです。でも、それは幸せじゃないって、男でも、探偵でも、こんな体でも、日陰の身でも、俺がいいって言ってくれて。駄目って分かってるけど、俺、すごく嬉しかったんです……!」

 今や新一の顔はしゅんしゅんと茹で上がってトマトのようだった。
 けれど呆気に取られている快斗を真に驚かしたのは、次の言葉こそで。



「俺、快斗が、好きなんです――!」



 鼓動が止まった。
 その直後、壊れたように鳴り出した。
 勘違い、であるはずがなかった。
 聞き間違い、でもない。
 だって新一は真っ赤な顔で泣きそうになりながらも、それでも間違いなく伝えてくれた。
 快斗が好きだ、と。

 快斗が、好きだ、と。


「絶対守ります。だから、快斗を俺に下さい!」

 躊躇いなくそう言い切った新一は、この上なく格好良くて。
 赤く染まった顔は、この上なく可愛くて。
 こんなにも極上の存在が、自分を好きだと言ってくれたのだ。

「しっ、しんいちぃ〜〜〜〜!!!」

 うわあん、と、その瞬間思わず声を上げて泣いてしまったのは、仕方がないと見逃して欲しい。
 だって、新一からのプロポーズなんて、快斗にとってはまさに奇跡のようなことだったのだから。





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