花も嵐も踏み越えろ






 少しずつ、少しずつ、色を変えてゆくそれは、そう――…

 まるで花のような。















chapter 19-2 : 恋心

















 宣言通り、あの日から快斗は片時も新一の傍を離れなかった。
 新一の潜伏地であるマンションに転がり込み、当然のようにここで暮らしている。
 高校も自主退学して大検にも合格している快斗はセンター試験まで特にすることもなく、変装なしでは外に出られないため必然的に引き籠もりがちになってしまう新一と一緒に、日がな一日家の中にいる日も多い。
 新一としても別に知らぬ仲でなし、ワシントンにいた頃は当たり前のように二人で暮らしていたのだし、気楽な同居生活がまた始まるのだと思っていたのだが……
 その矢先の、あの告白。

 ――愛してるって言ってるんだ、新一、お前を。

 恋愛音痴の新一でも流石に気づいた。
 快斗がもう、恋なんて甘酸っぱい時期など疾うに通り過ぎた果ての、恋なんかよりもずっと深くもっと重たい、愛という名の感情で自分を思ってくれていることに。

 新一は、蘭とのそれが恋にならなかったことにもう気づいている。
 確かに恋しく思う時期はあったはずなのに、胸焦がれるような灼熱や荒れ狂うような嫉妬を覚える前に、いつの間にか凪いだ海のように穏やか気持ちへと変化してしまった。
 理由なら分かっている。
 コナンとして接してきた日々、温かい家庭そのものの生活を家族として過ごす内に、彼女への思いがまるで本物の家族に向けるような愛情へと変わってしまったこと。
 しかしそれなら『母』や『姉』としてではなく、『妻』としてでもよかったはずだ。
 なのにそうならなかったのは、『温かい家庭』というものこそが自分には縁のないものだと気づいてしまったから。

 とても家庭的な蘭。
 夫より早く起きて朝食の支度を済ませ、仕事へと出かけていく夫を見送り、昼間は自分の趣味のために時間を費やし、夕食を作って夫の帰りを待つ。
 ごく普通の夫婦の在り方、けれどそこに自分の姿を当てはめることはできなかった。
 自分の体が普通じゃないと気づく前から、自分ではそんな風な善良で誠実な夫にはなれないと気づいていた。
 事件と聞けば飛び出して、日本どころか海を越えてどこまでも行ってしまうだろう自覚があるし、銃や爆弾を持った相手だろうと躊躇うことなく立ち向かい、多少の犠牲はやむを得ないと無茶をするだろうことは目に見えている。
 それを分かっていながら、また、同じことが彼女に言えるだろうか?
 ――待っていてくれ、なんて。

 そんなことは言えない、そのことに気づいた時から、それは恋じゃなくなった。
 新一の初恋は実るどころか破れもせずに、恋ではなくなってしまったのだ。

 あれから、新一には恋愛というものが分からなくなってしまった。
 体の異常を知ってからは、恋愛そのものを不要なものとして切り捨ててしまった。
 だから新一にはよく分からない。
 快斗が自分に向けてくれる感情も、自分が快斗に抱いている感情も。

 結局、新一は快斗に応えられなかった。
 快斗のことは好きだ。
 できることならずっと一緒にいたいと思う。
 でも、それは恋じゃなかった。まして愛であるはずがない。
 それでも告白を嫌だとは思わなかったし、困ったけれど、嬉しくなかったわけでもない。
 ただ快斗の気持ちに追いつけないだけだ。
 少なくとも、今はまだ。

「今はそれでいいよ。無理に応えろなんて言わないから、嫌いじゃないなら傍にいさせて」

 そんな快斗の言葉に甘えて、この曖昧な生活をスタートさせた。

 快斗は優しい。
 昔からその傾向はあったけれど、告白されて以来、目に見えて優しくなった。
 いや――甘くなった、というか。

「しんいち」

 気のせいでなく、名を呼ぶ声でさえ甘ったるい。
 それはもう、聞いている方が恥ずかしくなってしまうくらいには。

 ソファに座って本を読んでいた新一の首にまとわりつき、猫のように頭をすり寄せてくる快斗はちょっと笑ってしまうくらい可愛いと思う。
 新一は読んでいた頁に指を挟んで本を閉じ、じゃれてくる快斗の頭をぽんぽんと叩いた。

「どうした?」
「ううん、どうもしない」
「? 変なやつ」

 変、と言われたのに、快斗は嬉しそうに喉を鳴らして笑う。
 本当に猫みたいだ。
 ……それだけで終わっていれば、だが。

「枯れそうだったから」
「枯れる? なにが?」
「俺、新一が足りなくなると枯れちまうから。今まで会えなかった分の新一を補給してるんだ」

 一瞬で頬に血が上るのが分かった。
 というか、鼓動がうるさい。
 それになんだか胸も苦しい。
 最近はこんなことがしょっちゅうで、『動悸・息切れ・眩暈』なんて、どこかの製薬会社のキャッチコピーのような症状にすぐ陥ってしまう。
 不老不死なんてふざけた体になっておいてなんだが、そのうちあっさり死ぬんじゃないかと本気で思う新一だ。

「おまえ……ほんと、キザ」
「新一、照れてる?」
「照れてねーよ!」
「そお?」

 あからさまな嘘をやんわりと受け流してくれるところも、なんだかだるだるに甘やかされている感じがして恥ずかしい。
 そうかと思えば、目暮警部からの呼び出しで、お忍びで警視庁に出かけた時に、事件に没頭するあまり連絡するのも忘れて翌日の明け方に帰宅した時のあの動揺ぶりときたら。

「新一、どこも怪我してねーな!?」
「お、おう。悪ぃな、仮眠のつもりがうっかり寝ちまって、警部たちも気を遣って寝かせといてくれたみたいで、遅くなった」
「……なんでもいいよ、新一が無事なら」

 そう言って玄関先で抱き付いてきた快斗の寄る辺無さときたら、もう二度と無断外泊はすまいとこの新一に決心させるほどで。

(……ほんと、大事にしてくれてんだな、おまえ)

 新一は栞を挟んで本をテーブルに置くと、片手を快斗の首に回して自分からもそっと頬を寄せてみた。
 ぴったりと合わさった頬からじわりと滲んでくる心地いい快斗の熱。
 こうして寄り添うのは新一も好きだ。
 他の友人はもちろん、親友である服部でも、もしかしたら初恋だったかも知れない蘭でも、こんな風に落ち着いた心で触れ合うことはできないだろう。
 この距離を自然なものとして受け入れられるのは、きっと快斗だから。

「新一……?」

 自分からくっつくのは平気なくせに、くっつかれるのは恥ずかしいのか、珍しく顔を紅くした快斗にくすりと笑みを零す。
 けれど新一が冷静でいられたのはそこまでだった。
 なぜなら、呆けたように新一を見つめ返していた快斗が、そっと瞼を閉じて顔を近づけてきたから。

「――っ」

 まさか、そんな、これは、まさか!?
 と焦る新一などお構いなく、快斗の顔が徐々に近づいてくる。
 しかも予想外にゆっくりなのは、もしかしなくても新一に選択権を授けたつもりなのだろう。
 受け止めるも、逸らすのも自由だ、と。

 新一の鼓動は今や破裂寸前だった。
 耳の真裏でドックドックと大合唱している。
 快斗に聞かれる前に逃げ出さなければ、そう思うのに、近づいてくる唇から目が離せない。

 そして新一は――目を閉じた。

 目を閉じ、口も堅く閉じて、鼻に蓋があるならそれすら閉じていただろう。
 要するに、息さえ止めてしまったのだ。
 どこもかしこも力がこもって強張った唇に、軽く、なにかが触れる。
 それが快斗の唇だったのかどうかなんて新一に分かるはずもない。

 幸いすぐに離れていったお陰で新一が呼吸困難に陥ることはなかった。
 それでも目を開けられずにいると、コツンと額になにかをぶつけられる感触がして、新一は恐る恐る目を開けた。
 ぶつかったのは快斗の額だった。
 額を寄せ合い、鼻の頭も触れ合いそうな距離でじっと見つめてくる快斗と目が合う。
 吸い込まれるような、青にちょっと赤みがかった、不思議なアメジストの彩り。
 その瞳が緩くカーブを描き、にっこりと、まるで今にもとけてなくなってしまいそうなくらい甘やかな、嬉しそうな笑みを浮かべている。
 未だかつてこんな目を向けられたことは一度もない。
 こんな、愛しくて愛しくてたまらないのだと雄弁に語る眼差しなど。

 ――恥ずかしい。

 逃げるように瞼を閉じれば、また唇にあの感触が降ってきた。
 しかも今度は一度だけじゃなく、強張った唇をほぐすように優しく何度も触れてくる。
 その度に快斗はわざとちゅ、ちゅ、と小さな音を立て、新一を追い詰める。
 ああこれはキスなのだと、今自分は快斗とキスをしているのだと知らしめる。
 恥ずかしくて苦しくてたまらない。
 それなのに、触れる度に胸に降り積もっていくこの痺れるような感覚はなんなのか。
 嫌悪でも戸惑いでもなく、温もりを感じてしまうのはなぜなのか。

 まだ、分からない。
 分かりたくない。
 もう少しだけ。

 どうしようもなく苦しくなって思わず開けてしまった上唇を軽く吸い上げてから、快斗はようやく離れてくれた。
 はあ、と詰めていた息を吐く。
 ずっと熱い胸の内で渦巻いていたせいか、ひどく熱い息だった。

「……キス、しちゃったね?」

 そう言って笑う顔がやけに男くさい。
 息を吐く新一の頬にそっと掌を添え、滑らかな親指がひどく艶めかしい動きで下唇を撫でてゆく。
 その感触にさえ震えてしまう。

「ふ……」
「しんいち、かわい……」

 思わず声を漏らせば、顔を赤らめた快斗がひょいとソファの背を飛び越えて新一の正面に回り込んできた。

「ね、新一、嫌じゃなかった?」
「……」
「逃げなかったよな、新一」

 どう答えていいのか分からず、新一は紅い顔を背けた。
 嫌じゃなかった、逃げなかった、でもだからそれがどういうことなのかなんて聞かないで欲しい。
 そんな心の声を察してくれたのか、快斗はそれ以上なにも言ってこなかった。
 その代わりのように、飽きずにまた顔を寄せてきて。

 新一は三度、目を閉じた。



 少しずつ、少しずつ、自分の中のなにかが色を変えていく。
 たとえるなら、それはそう、まるで花が綻び咲いていくように。
 鮮やかに色づいていくように。

 この花が咲ききったなら認めよう。
 これが『恋』と呼ばれるものなのだと。





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