Pandra Game
- stage 6 -











「新一…どうしてここに…」
 洞窟に施した力が破られた感覚はなかった。だというのに、なぜ彼がここにいるのか。気になることはそれだけではない。彼のすぐ隣では、鳥の頭に獅子の体を持った超獣が、まるで今にも飛び掛からん勢いでこちらを睨み付けている。それを新一が辛うじて押し止めているように見えた。
「轟音が聞こえたからな。アヌービスに連れてきてもらった」
 そう言った新一の隣で、アヌービスと呼ばれた超獣が威嚇するように低く唸る。その唸り声よりも、真っ直ぐ見つめてくる新一の眼差しから逃れたくて、快斗は視線を俯けた。
 わけの分からない居心地の悪さを感じる。いや、本当は分かっている。これはこの場を目撃されたことへの後ろめたさだ。悪党相手とは言え怪我を負わせ、その上放置して立ち去ろうとしたことへの罪悪感だ。そもそも、彼は相手が悪党であることさえ知らないのだ。死体と怪我人に囲まれてひとり佇む快斗は、どこからどう見ても加害者である。現にアヌービスは「神聖な森でよくもこんな真似を」と毛羽立っている。
 だが、新一にだけは疑われたくなかった。誰にどんな誤解をされようと構わないが、初めてキッドの真実を見つけてくれた彼にだけは嫌われたくなかった。それでも、ここに転がる男たちに怪我を負わせたのは紛れもなく快斗だ。知らず握った拳に力がこもる。
「――分かってるから、心配すんな」
 え?、と顔を上げた時、新一は快斗の目の前にいた。真っ直ぐな眼差しは快斗を責めるどころか、どこか心配げな暖かい色を湛えている。
「おまえが何の理由もなく人を傷付けたり、増して人を殺したりするような奴じゃないって、ちゃんと分かってる」
 だからそんな情けない顔すんな、と髪を撫でられ、快斗は湧き起こる衝動のまま新一に抱き付いた。肉の薄い体はすっぽりと腕の中に収まってしまう。それなのに、まるで自分の方が彼の腕の中にすっぽりと包み込まれているような錯覚を起こした。
 探偵である新一が真実を見逃すはずがない。それは分かっているけれど、思わず錯覚しそうになる――もしかしたら彼は、誰よりも自分のことを理解してくれる、この世で唯ひとりの人なのかも知れない、と。
「大体、天敵である俺でさえ懐に抱え込んじまうようなお人好しに、人が殺せるはずねーもんな」
 新一は苦笑を浮かべながらまるで子供をあやすように快斗の背中を二、三度軽く叩くと、へし折れた木に凭れたままその様子を眺めていた男たちに向き直った。男たちはそのあまりに真っ直ぐな眼差しにびくりと肩を揺らす。心に疚しさを持つ者は、この瞳の前に立たされて平然となどしていられないだろう。
 男たちに歩み寄ろうとするのを慌てて止めようとした快斗を遮り、新一は体の自由を奪われながらも視線鋭くこちらを睨み付けてくる男――炎の力を持った男の前に立ち、静かに見下ろした。この男の目を、新一はよく知っている。人を傷付け、人の命を奪うことに何の感慨も抱かない氷の目だ。かつて戦った黒の組織の男、ジンやウォッカがこんな目をしていた。視界の片隅で無残に横たわる女性に手を下したのは、おそらくこの男だろう。
「…ここが俺のテリトリーじゃなくてよかったな」
 ぼそりと呟かれた言葉に、男が痛みを堪えながら目を眇める。
「なんだ、おまえ…?」
「ここが俺のテリトリーなら、あんたが積み重ねた罪状や証拠を閻魔のように並び立てて、監獄にぶち込んでやるところだが…」
 残念ながら、ここは法がまかり通る世界ではない。だからといって殺人が許されるはずもないのだから、バビロニアのハンムラビ法典ではないけれど、この程度の刑罰で済むのであればむしろ感謝されるべきだろう。
 新一は男の前にしゃがみ込むと、出血箇所と骨折箇所の確認を素早く済まし、手近にあった木の枝と男が身につけていた服を使って止血や添え木を始めた。
「せめて応急処置だけはしてやるから、後は自力で何とかしろ。快斗も手ぇ貸せ」
「…なんで新一がそんなこと」
「こいつらの怪我は自業自得だが、こんな奴らのためにおまえが人殺しと呼ばれるなんて、俺が我慢ならねえ」
「!」
 思いも寄らない言葉に、驚きのあまり快斗が固まっていると、不意に新一が振り返った。
「――俺におまえを捕まえさせるな」
 はっ、と息を飲む。その目は、罪を許さない断罪者の目をしていた。
 彼は、殺人犯を捕まえるために必要とあらば、不法侵入だろうと器物破損だろうと、極端な話、殺人以外の行為であれば自らそれを行うだろう。言い換えれば、彼にとって許せない行為とは殺人そのものなのだ。それだけは、絶対に犯してはならないファールなのだ。それを犯す者は、たとえ快斗であろうと彼は容赦なく監獄へ送り込むだろう。そう、彼の目が言っている。
「…分かった」
 しっかりと頷けば、新一は満足そうに頷いた。
 そうして三人の男たちは、現役高校生の中では確実にトップクラスの腕を持つ二人に応急処置を施された。これで、余程運に見放されていない限り彼らが死ぬ確率は無に等しくなった。この世界での供養の仕方は生憎快斗も知らなかったが、何もしないよりましだろうと、二人は女性の遺体を埋葬して簡単に供養した。
 その一部始終を黙って眺めていたアヌービスが、ここにきてようやく口を開いた。
「この男が森を穢したのではないことは分かった。しかし、なぜ貴方が我々の天敵とともにいるんだ?」
 白い服に白い帽子。こんな奇天烈な格好をした人間が他にいるはずもない。間違いなく、目の前にいるこの全身白尽くめの男こそが超獣を襲っているアヌービスたちの天敵だ。その男と、なぜ女神≠ナある新一が親しそうに話しているのか。「何もしないでくれ」という新一の命令に従って抑えているが、できることなら今すぐその喉元に食らいついて噛み殺してやりたいくらいだ。
 けれど、人間の倍はある巨体の遥か上空から見下ろすアヌービスの睨みをものともせずに、快斗はむしろ睨み返す勢いでアヌービスを見遣った。
「俺も、ぜひとも知りたいね。アヌービスと言えばこの森の守護神の名だ。その守護神が、どうして新一と一緒にいるんだ」
 パンドラが住まうがゆえに聖域≠ニ呼ばれるこの森の守護神、それがアヌービスだ。その聖域の守護神であるということはつまり、パンドラの守護神と呼んでも過言ではない。そのアヌービスが、パンドラの支配を受けない存在、侵入者とも言うべき存在であるはずの新一となぜ並び立っているのか。
 一触即発の危うい空気を放つ二人を窘めるように、新一は二人の間に立った。
「とにかく、話は場所を変えてからだ。あの洞窟まで戻ろう」
「…敵にわざわざ塒を明かせるわけないだろ」
 別に塒はあの一カ所だけではないが、あそこが最も見つかりにくく、新一にとっても安全だろうからと連れてきた場所だ。それをわざわざ敵に教えられるはずもない。
 けれど新一は緩く首を振った。
「アヌービスは敵じゃない。きちんと説明すれば、快斗が天敵じゃないってこともちゃんと分かってくれるはずだ」
 なぜなら快斗の目的は、要するにパンドラの望みを叶えることなのだ。アヌービスがパンドラの守護神だと言うのなら、快斗の行いが彼女の望みを叶えるために必要なことだと彼も理解してくれるかも知れない。
 そもそも新一という接点がなければ言葉を交わす機会すらなかった二人だが、利用できるものは大いに利用するべきだ、というのが新一の持論だった。
「お願いだ、アヌービス。快斗の話を聞いてやってくれ」
 新一にとっては快斗もアヌービスも、突然異世界に飛ばされて戸惑うことしかできなかった自分を助けてくれた恩人だ。できることならどちらとも争いたくない。
 鷲に似た顔を器用にしかめていたアヌービスは、少しの間を空けた後、苦々しい溜息を漏らしつつも、新一の前へゆっくりと頭を垂れた。
「貴方が、それを望むなら」

 来た時同様新一はアヌービスの背に跨り、快斗はもう身を潜める意味もないからとハングライダーで塒へと向かった。現実世界と違い自ら風を生み出し操ることのできるこの世界では、風向きや風速を気にする必要もない。三人が塒に着いた時、時刻はすでに昼を過ぎ、太陽は徐々に西に傾きつつあった。
 洞窟に施しておいたはずの二重の結界は、やはり片方だけ――新一を洞窟の外に出れないようにするための結界だけが破られていた。岩の影の見えにくいところに描かれた紋様には盛大なひびが入っている。新一には以前にも一度力を破られているため、今度は絶対に破られないよう、以前よりもずっと強固で完璧な結界になるよう力を施していたにも関わらず、である。逆に言えば、一度は快斗の力を破っているのだから、紋様こそないけれど新一にも力が使えるということだ。だからこそこうして毎日特訓しているのだが、あまり順調ではないようだからと油断していた。
「いつの間に力を扱えるようになったんだ?」
「力って…何が?」
「ここを出る時、洞窟に施しておいた俺の結界を破っただろ?」
「結界? そんなのあったのか?」
 思い当たる節がないのか、新一が眉を寄せながら首を傾げていると、彼の傍らで静かに控えていたアヌービスが小馬鹿にしたような口調で言った。
「女神にそんなものが通じるはずがないだろう」
「…女神?」
「ア、アヌービス! その呼び方はやめろって言っただろ!」
 顔を紅潮させた新一が食ってかかるが、アヌービスはどこ吹く風だ。ここに来る前にも散々注意したというのに、彼はまるで懲りていない。
 隠し事をしていた後ろめたさというより、男が女神などと称されている情けなさに新一がおそるおそる振り向けば、意外にも快斗は笑うでも驚くでもなく、ただ不思議そうに新一を見ていた。
「女神って、新一が?」
「…非常に不本意ながら、そうらしい。こいつらが俺を襲わないのもそれが理由だ」
 そうは言うものの、新一にも本当のところはよく分からない。アヌービスに会うのはこれでまだ二度目だし、ずっと洞窟で力の特訓ばかり行っていたから彼以外の超獣には会ったこともない。なぜ自分が女神などと呼ばれるのか、そもそも女神とは彼らにとってどういう存在なのか、新一は何も知らなかった。
 しかしそれも快斗が教えてくれるだろうと楽観していた新一は、
「ところで、女神って何?」
 という快斗の発言に唖然としてしまった。
「嘘だろ! おまえも知らねーの?」
「知らない。つーか、俺だって何でも知ってるわけじゃないんだぞ」
 それもそうだ。そもそも快斗は別の世界の住人であって、この世界の人間ではない。ただ新一よりもこの世界での経験値が多く、新一と違いパンドラから知識を与えられたというだけで、何も全知全能というわけではないのだから。
 新一は隣で静かに成り行きを見ているアヌービスを振り返った。
「アヌービス、あんたなら知ってるだろ? 女神って何なんだ?」
「何と聞かれても困る。女神は女神だ」
 以前と同じく全く答えになっていない答えを返され、新一は思わず頭を抱えた。だが、以前のようになあなあで流すわけにもいかない。
「じゃあ、何を以て俺を女神と判断するのか、女神だとどうして襲っちゃいけないのか。それくらい分かるだろ?」
 初めてこの世界に飛ばされてきたあの日、アヌービスは新一を仇敵である快斗と見誤って襲おうとした。その時、新一は快斗の罠に嵌った彼を助けた。それが理由でアヌービスは新一と快斗が別人であることに気付いたのだが、それでは新一を女神だと判断する根拠にならない。それとは違う何かを以て、彼は新一を女神だと判断したはずだ。それに、「女神を襲ってはいけない」というからにはその理由があるはずだ。
「どうして俺を女神だと思うんだ?」
 すると、アヌービスはいつものあの敬うような色を湛えた瞳で新一をじっと見据えた。
「女神にはどんな力も通じない。我らが仇敵たる白衣の盗賊、その力は確かに強大だが、如何に強い力であろうと容易く破ることができる、その事実が、貴方が女神であることの証明に他ならない」
 そう言われれば、思い当たる節が新一には確かにあった。アヌービスが身動き取れなくなるほどの岩が、なぜか簡単に動かせた。快斗がこの洞窟に施したという結界にも、彼に言われるまでその存在すら気付かなかった。
「なら、俺を襲わない理由は何だ? あんたたちにとって女神って何なんだ?」
 自分が女神と呼ばれる存在であること、それこそが、新一がここにいる理由なのではないか。その答えが分かるのかと詰め寄る新一だったが、アヌービスはただ淡々と言った。
「我々は女神を守らなければならない。そう、魂に刻み込まれている。だから我々は、貴方を脅かす全ての者から貴方を守らなければならないのだ」
 そうして静かに立ち上がり臨戦態勢に入ったアヌービスを前に、快斗も静かに両手を翳した。
 超獣の持つ力は、人のそれとは比べ物にならない。だからこそ快斗は対峙を避けるために罠を張る。盗賊と呼ばれる無法者であろうと、この聖域では決して単独行動を取らない。それがどれほど危険な行為か分かっているからだ。
 けれど快斗は、片手であれだけの風を生み出すことのできる男だ。両手を解放した彼を相手に、如何に超獣であろうとも無傷でいられるはずはない。
 新一は慌てて二人の間に割り込んだ。
「ちょっと待て、おまえら! 喧嘩しに来たわけじゃねーだろ!」
「無理だよ、新一。話すだけ無駄だ。危ないから下がってろ」
 その諦めきった、いや、むしろ始めから期待などしてもいない口調に腹が立つ。
(何が無理だ! やりもしねー内から諦めやがって…!)
 快斗は怪盗だ。罪人だと、罵られ追い回されることに慣れきっている。そこにどんな理由があるのか、それを誰かに理解してもらおうなどと思ってもいないのだろう。自分を理解し、手を差し伸べてくれる人などいるはずがないと思っているのだろう――かつての新一がそうだったように。
 だが、必ずしもとは言わないが、無駄なことなどないのだ。新一は、快斗が意味もなく他人を傷付けるような人間でないと知っている。同様に、アヌービスが話せば分かってくれることも知っている。話をした上で決裂するならまだしも、何もせずにただ対立を嘆くなどあまりに愚かしい。
 快斗の両手から爆風が吹き出し、アヌービスの口から火炎が吹き出すのと同時に、新一は叫んでいた。
「ごちゃごちゃうるせえ! やめろって言ってんのが分かんねえのか――!」
 その瞬間、放たれた爆風と火炎は跡形もなく消滅した。





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暴君新一(笑)