Pandra Game
- stage 5 -











「そろそろ起きろよ、新一」
 ゆらゆらと体を揺すられている。心地よい微睡みから無理矢理引きずり出され、新一は煩そうに眉を寄せながらもうっすらと目を開いた。途端に視界へ飛び込んできたのは、見慣れた苦笑を浮かべた怪盗の顔だ。
「快斗…もう朝か…?」
「朝というか昼というか。ほんと朝に弱いよな、おまえ」
「ほっとけ…」
 今更この相手に己の寝汚なさを指摘されたところで痛くも痒くもない。新一は覚醒しきらない体をなんとか起こすと、盛大に欠伸しながらうんと伸びをした。
 あれから、すでに二週間が経った。その間、新一も快斗も一度ももとの世界に戻っていない。快斗が言うには、この世界ともといた世界とでは時間の流れが違うらしく、下手をすると一月近く帰れないこともあるらしい。現に快斗はこの世界でもう一年近く暮らしているのだが、現実世界ではまだたったの二週間しか経っていないのだとか。
 そうなると次に気になるのは、こちらの世界にいる間、もとの世界で自分はどういう状態なのか、ということである。姿が消えたり意識を失ってたりするのはまずい。仮に意識があったとしても、自分の記憶に残らない行動を取られるのも堪らない。
 だが、その点もどうやら心配いらないようだった。曰く、「ただ眠っているだけ」らしい。要するに、現実世界の肉体が眠りに落ちると、精神のみがこの世界へと飛ばされ、現実世界の肉体が目覚めれば、精神も現実世界へと戻ることができるのだ。つまりここは「夢の世界」とでも言えば分かりやすいだろう。
『でも、忘れるなよ。精神と肉体は繋がってる。仮にここで命を落とせば、魂を失った肉体はいずれ衰弱して死に至る』
 そう言った快斗の表情は真剣そのものだった。問い返すことはしなかったが、おそらくそれもパンドラから聞かされたことなのだろう。
「…んで、俺は今日もここで力の特訓してなきゃなんねーわけか?」
「しゃーねーだろ。力も使えない奴がほっつき歩くには、この森は危険すぎる」
 新一がぶすくれた顔で文句を垂れる。確かに、この森が危険であることを新一は身を以て知っていた。この世界に連れてこられたその日に、巨大なバケモノ鳥に危うく食い殺されるところだったのだ。だが、あの鳥の言葉を信じるなら、もう新一を襲う超獣はいないはずだった。鳥曰くの「女神」である新一を襲うものは、この森にはいないらしいので。
 そこまで考えて、新一の表情は一層険しくなった。それもそのはずだ。「女神」などと称されて喜ぶ男がいるならお目に掛かってみたいものだ。
 新一は、自分がバケモノ鳥に「女神」と呼ばれていることを快斗に言わなかった。最初は単に忘れていただけなのだが、後になって思い出した時、改まって話すにはあまりに情けない話だったものだからついつい先延ばしにしてしまい、今に至る。たとえ「どうして言わなかったんだ」と詰られたとしても、「聞かれなかったから」と開き直る気満々だった。
 二週間をともに過ごし、こんな異世界で「怪盗」だの「探偵」だのと呼び合うのも馬鹿らしいからと互いに名前で呼び合うことを許しはしても、二人が心の底から打ち解け合うまでには、もう少し時間が必要だった。
「魚で気絶しちまう奴には安全なのになぁ」
「わああ! その名を口にするなああ!」
 ……そんな冗談を言えるくらいには、すでに打ち解けていたけれど。
「そんなんでよく今まで平気だったな」
「平気だよ。川や湖には近寄らないようにしてたし、飲み水はこの奥にある水路で確保してたからな」
「…俺、その水路で釣ったんだけど」
「敢えて見ないようにしてたんだよ!」
 あの時の恐怖を思い出しているのか、快斗はそれを振り切るように、何か意味不明な声を発しながら抱えた頭をぶんぶんと横に振った。こんな致命的な弱点を抱えていながらよく怪盗紳士を演じていたものだと、新一は逆に感心してしまった。
「と、とにかく! 俺は石の情報を集めてくるから、新一は大人しく特訓してろよ!」
「分かったからとっとと行け」
 そんな冷たい言葉に背中を押され、先刻新一の口に上ったおぞましい単語の余韻に肩を震わせながら、白い衣装にシルクハットを被った奇妙な男はすごすごと洞窟から出ていった。全く、あれが世間を大いに騒がせた怪盗紳士の素顔とは。呆れたように首を振る新一の口元に浮かぶのは、けれど失望ではなく穏やかな微笑だった。
 前々から、彼は実はとんでもないお節介のお人好しではないだろうかという疑いを持っていた新一だが、正直、まさかこれほどまでとは思わなかった。新一の眠っていた毛布の横には、大きな葉っぱの上に用意された食事がある。勿論、あの怪盗が用意したものだ。それも、単に木に生っていた実や摘んできた葉が無造作に置かれているのではなく、口にしやすいように調理されたものだ。どこの世界に探偵に手料理を見舞う怪盗がいるのだと最初の内は呆れたのものだが、今ではすっかり慣らされている。
 起き抜けで正直あまり空腹は感じていなかったが、折角だからと、新一は用意されていた食事に手を付けた。更に微妙なことに、これがまた美味いのだ。少なくとも、食への関心が薄い割に味には煩い新一を黙らせるほどには。
 食事を済ませてしまえば、大好きな本とも隔離されたこの場所では他にやることもないからと、新一は快斗の言いつけ通りに特訓に取り掛かることにした。
 この世界に来たその日に快斗から見舞われた力≠フ攻撃は、凄まじいものだった。確かに、あんな力を持つ者を相手に己の身ひとつで対抗するのはかなり危険だ。使えるなら使えるに越したことはないからと、この二週間特訓を行っているのだが……
「…うぐぐぐぐぐ…!」
 胡座をかいて座った、目の前。ぽつんと置かれた葉っぱに右手を翳し、あれやこれやと色んなところに力を込めてはみるものの、葉っぱはぴくりとも動かない。
 そう。新一の特訓は、この二週間、全くと言っていいほど進歩していなかった。
「――だああ! なんっで何も起きねーんだよ!」
 思いの丈を叫び、その勢いのまま背中からばったりと倒れる。変なところに力を入れたせいで、すでに新一の体はありこちで筋肉痛を起こしていた。
 快斗にも色々とアドバイスを貰ってはいるのだが、もともとそんな超常の力に対する概念というものを持ち合わせていない新一には、はっきりさっぱり理解できなかった。
 センスがない。それで済むならとっくに投げ出している。だが、投げ出すわけにはいかなかった。いつまでもこんな洞窟の中に閉じ込められているなんて真っ平だし、何よりずっと快斗のお荷物のままでいるなど、冗談ではなかった。
 快斗が、キッドが長年探し求めてきた宝石、パンドラ。その長年の因縁にけりをつけるため、パンドラは砕かれた。それが原因で、今度は世界を崩壊の危機から救わなくてはならなくなった快斗。
 その話を聞いた時、決意したのだ。自分も彼とともに砕かれた宝石の欠片を集め、彼の力になろう、と。
 同情なんかではない。使命感でもない。ただ、パンドラという宝石を追い求めていたわけでもない自分がここにいる理由を知りたい、それだけだ。そのついでに彼の力になることがあったとしても別にいいんじゃないかと、思った。
 だというのに。
(これじゃ、足手纏い以外のなにもんでもねーよ)
 はあ、と溜息を吐く。いっそ腹立たしいほどに、葉っぱは何の変哲もなくそこに鎮座ましましている。これが吹き飛ばせるようにならなければ次の段階には進めない、と言われているのだが、これでは先が思いやられる。快斗によれば、彼がいるのは新一の十段階以上も先、ということだった。
「大体、『手から風が吹き出るイメージを思い浮かべろ』って言われたって、手から風が出るわけねーもんなぁ」
 改めて自分の右手をまじまじと監察してみるが、どう見ようと普通の人間の手だ。ここから風だの炎だのが吹き出るはずがない。有り得ないことを思い浮かべろというのがそもそも無理な話なのだが、快斗に言わせれば、その現実主義が最大の壁となっているらしい。
 結局、異世界にいようと新一は新一なのだ。これまでに培った知識や常識が全て通じないと分かっていても、目の前で起こる現象を何とか自分の中で消化させなければ先に進めない。全く以て損な性分である。
 とは言え、ふて腐れていても始まらない。再び起き上がった新一は気合いを入れ直して特訓に戻った。集中力においては、全てに於いて規格外である怪盗をも凌ぐ新一である。
 そして、何かに夢中になった時の常で時間も忘れて没頭していた時――轟音が、鳴り響いた。



 その数時間前。洞窟を後にした快斗は、キッドの衣装をひらめかせながら獣道を駆け抜けていた。これほど鬱蒼とした森の中では、ハングライダーで飛行した方がずっと早く移動できるのだが、それではあまりにも目立ちすぎる。現実世界ではむしろ敵の目に付くためにわざと目立つ行動を取っていた快斗だが、超獣を相手に同じことをしていたのでは、あまりにこちらの分が悪すぎた。
 なぜそうまでして危険な超獣を追うのか。それは、砕けた宝石の欠片のひとつを彼らが持っている可能性が高いからだった。
 あの宝石にはパンドラの永遠の命が封印されていた。それが欠片となった今も不思議な力は秘められたままだ。そのため、散り散りになった欠片が各地で不思議な現象を引き起こしているのだ。
 そして、快斗はある情報を手にした。一年ほど前、病で死んだはずの超獣が突然息を吹き返した――と。その噂を耳にした時、「当たりだ」と思った。だから快斗はこうしてこの森のありこちに罠を仕掛け、超獣を捕らえては欠片を持っていないかを調べているのだ。おかげで超獣にはすっかり天敵≠ニして知れ渡ってしまったが、ここで諦めるわけにはいかなかった。
 快斗はすでに五つの欠片を集めた。しかし、たったの五つだ。一年もこの世界にいて、たったの五つ。……少なすぎる。
 だが、それだけならまだよかった。本当に存在するかも分からない宝石でさえ見つけ出してみせた快斗だ、確実に有ると分かっているものを探し出すことは容易い。時間は掛かろうとも、全てを見つけ出す自信が快斗にはあった。
 しかし、今、一年前と状況は大きく変わった。その要因は――新一。
(俺の問題に勝手に巻き込んで、その上もし怪我なんかさせることになったら…)
 そんなことは、絶対に許されない。快斗は何が何でも新一を守るつもりだった。
 新一には言っていないが、実はあの洞窟には超獣を近づけさせないための力以外に、新一を外に出さないための力も施してある。彼から何の反応もないところを見ると、彼はまだ気付いていないのだろう。
 このまま彼を無事に現実世界へ戻すためにも、快斗は一刻も早く宝石の欠片を集めなければならない。なぜそうまでして彼を守りたいと思うのかはよく分からないが、多分、初めてキッドの真実を見つけ、それを受け入れてくれた彼を、どこか特別に感じているのだろう。
(俺の感覚が正しければ、洞窟の守りはまだ破られていない…今の内になんとか欠片を見つけて移動したいな)
 この森を出れば安全、と言うわけではないが、少なくとも超獣に襲われる心配はなくなる。何度かこの世界の人間とも接触したが、人間相手であれば快斗の力だけでも何とかなるだろう。
 だが、最も危惧すべき存在は、盗賊≠ニ呼ばれる連中だ。彼らは人も獣も誰彼構わず襲い掛かり、取れるだけ搾り取った挙げ句、一糸纏わぬ哀れな者を無情にもその辺に放り出していくような輩だ。同じ盗人≠フレッテルを貼られた者として、そういう仕事≠する連中を快斗は何よりも嫌悪していた。そういう連中に限って強い力を持ち、それを誇示したがるのだから始末に負えない。
 しかしそれも、この森を出てしまえば問題ない。彼らはあえて危険な森の中に好んで暮らしているため、人の多い都などには滅多に顔を出さなかった。
(新一が奴らと顔を合わせることにでもなったら、もう最悪だ…ここでの欠片集めを後回しにしてでも森を出る)
 そんなことを考えていたからだろうか。快斗は、どこからともなく聞こえてきた絶叫に、すぐに臨戦態勢を取った。ぴりぴりと気を研ぎ澄ませ、全ての五感を、第六感を全開にして周囲に張り巡らせる。
 声はか細い女の金切り声だった。超獣に襲われたのか、それとも盗賊に襲われたのか。
(…おそらく後者だな)
 超獣は余程のことがなければ人間を襲わない。特に女は、この世界では生命を生む聖なる生物として尊ばれている。それを襲うのは、この世で唯一神聖を失った生物――人間でしか有り得ない。
 躊躇ったのも束の間、快斗は声がした方へと駆けた。関係のない面倒事に首を突っ込んでいる余裕などないのだが、それでも居合わせてしまったからには知らぬ振りもできない。その点は、怪盗も探偵も変わらないようだった。
 やがて視界に飛び込んできた光景に、快斗はまるで醜悪な小鬼でも見るように目を眇めた。その目に浮かぶのは、紛れもない嫌悪と侮蔑の色だ。
 三人の男に取り囲まれた女は、すでに息をしていなかった。
「…随分と、あくどい真似をする」
「あー?」
 男のひとりが振り返る。第三者の登場に驚いた様子はなく、ただ遊びを邪魔された子供のように、迷惑そうに顔をしかめただけだった。
「なんだおまえ?」
「あっ、白い服! こいつ、噂の一匹盗賊だ」
 ふざけたネーミングに抗議をする気も起こらず、快斗は静かに右手を翳した。相手がこちらを敵≠ニ判断するにはそれで充分だ。男たちも慌てて手を翳す。
 そもそも、平気で人を殺せるような輩と交わす言葉など、快斗は持ち合わせていなかった。彼らのわけの分からない理論など、聞いているだけで反吐が出る。
 だが、最初に振り返った男は窘めるように仲間の腕を掴むと、そんな快斗を面白そうに見遣った。
「意外と喧嘩っ早いな。別にあんたに迷惑かけた覚えはねーけど?」
「おまえの存在だけで充分不愉快だ」
 有無を言わさず、快斗は翳した右手から爆風を噴出した。
 内在する力≠ヘあらゆるものに変換することができるが、時に鳥≠ニ称されることもあるがゆえか、快斗は風との相性が最もいい。こちらの世界で初めて新一と会った時、彼に見舞ったのもこの風の力だ。勿論あの時は多少の手加減をしていた。相手を痛めつけるためではなく、動きを封じるための攻撃だったからだ。
 だが、今は違う。相手は人を殺すことに何の感慨も抱かない外道だ。ここが異世界だとか、そんなことは関係ない。どこだろうと、他人の命を蔑ろにする外道に手加減する必要など、微塵も感じなかった。
 男の手から噴出した火炎と爆風が衝突し、凄まじい轟音と衝撃を放つ。びりびりと鼓膜が震え、支えた足に掛かる負荷をぐっと堪える。炎も風も一瞬にして消滅していたが、ふたつの力がぶつかった場所を中心に、半径三〇メートル四方に生えていた周囲の草木が放射状にへし折れていた。まるでミステリーサークルだ。いったいどれほどの力がぶつかれば、これほど凄まじい光景が生み出されるのか。
「へえ…やるな」
 感嘆の声を上げる男は無視し、快斗は第二、第三の攻撃を仕掛けた。
(まずいな…)
 炎は風と相性が悪い。いや、敵・味方の界なく炎を強化してしまうため、敵となった時には風が不利になってしまうのだ。それでも相手が格下ならば大した問題もないのだが、この男は――できる。男も自身の有利を確信しているのだろう、にやにやと下卑た笑みを貼り付けた口元が腹立たしい。
 けれど、快斗は怯まなかった。相性の良し悪しなど関係ない。強い者が勝つ、それだけだ。そして快斗は、誰にも負ける気などなかった。
 炎で相殺されるなら、もっと強大な風を。炎を煽るどころか、飲み込むような風を。
 イメージする。風がとぐろを巻く様を。それは竜巻のように、新たな風を飲み込んでは更なる威力を培ってゆく。そうして体の裡に嵐を育ててゆく。
(まだ…まだだ…)
 力≠フ強さとは、如何に精巧なイメージを作りあげられるか、ということだと快斗は考えていた。新一は探偵だ。探偵は自ら何かを生み出す芸術家ではなく、すでにあるものを分析する批評家だ。だから彼は思うように力を発揮できないのだろうと、新一の特訓に一週間付き合った快斗は結論付けた。対する快斗は、怪盗にしてマジシャンという根っからの芸術家である。無から有を生み出す想像力に関しては誰にも引けを取らない。
 すでに快斗の中の風は今にも皮膚を突き破ろうかという程に膨れ上がり、暴れ狂っていた。これを食らえば、下手をすると骨折程度では済まないかも知れないが……
(…ま、自業自得っつーことで)
 あっさり結論を下すと、快斗は逃げの姿勢を一変し、男に向かって右手を翳した。その手首を左手で支え、ぐっと両足を踏ん張る。快斗のただならぬ様子に何かを感じ取った男が構えるが、もう遅い。快斗の掌から噴出する凄まじい豪風に抗う暇もなく、男たちはまるでマッチ棒のように吹き飛んでいた。
 軽く五、六本の木を薙ぎ倒し、ようやく体が地面に落ちる。あちこちから血を流し、それでも生きていた男のひとりが、信じられないものでも見るように快斗を見上げていた。
「お、まえ…どこで、こんな力…」
「…運がよければ、仲間に助けてもらえるかもな」
 運がなければ超獣に食われて終わりだ。
 男の言葉は完璧に無視し、それだけ言い残すと快斗は踵を返した。けれど、振り返った先に佇んでいた人物を見てびくりと肩を竦めると、硬直してしまった。
 ――全ての罪を糾弾する探偵が、じっと静かにこちらを見つめていた。





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ようやく続きが書けた…のはいいけど、何か話が勝手に進んでいく(-_-;)