カーテンの隙間から差し込む、陽光の心地良さに微睡む。
昨夜の大荒れが嘘のように穏やかな朝。
天気は良いし、腕の中は暖かいし、よく眠れたし……
と、そこまで考えて、怪盗キッドこと黒羽快斗は違和感に気付き、パカッと目を開けた。
腕の中には確かな重みがある。
否、ちっとも全然重くはないのだが、その重みは本来あるはずのないもので……
それはもう穏やかな寝顔を惜しげもなく晒しているその人に、快斗の思考能力は暫く停止するはめになった。
●○台風一過○●
平成のシャーロック・ホームズ、日本警察の救世主、東の高校生探偵……
彼を称する名は多く存在するが、とにもかくにも、自分の腕の中で眠るその人は、快斗が唯一と認めた“名探偵”その人で。
今が夜であったりここが警察のギャラリーたちの中だというなら、わかる。
けれど生憎、今は日差しの心地よい真昼時。
更に言うなら、ここはある意味見慣れた工藤邸の現在の家主、新一の寝室だった。
そう。
快斗は、よりにもよって探偵と同じベッドで、しかもしっかりと腕に彼を抱き締めながら眠っていたのだ。
(な、何で?…名探偵会いたさにここまで来ちまったとか?その上ベッドに潜り込んじまったわけ!?)
……実は、工藤邸に無断でご訪問した前科が何度もある快斗。
あながち冗談とも言えない状況に、快斗はだらりと背筋に冷や汗が伝うのを感じた。
「……ん…」
快斗の緊張が伝わってきたのか、新一が眉を寄せて小さく唸る。
快斗は停止していた思考を瞬時に復活させると、直ぐさま状況の分析をした。
今の快斗の服装は、寝るのに最適なタンクトップにズボン、といった様子。
眠っている新一の恰好も似たり寄ったりだ。
部屋の中を見渡しても、快斗=キッドと結びつくようなものは何ひとつ落ちていない。
つまり、快斗が怪盗キッドだとバレることはないはず。
が、そこでハタと疑問に気付く。
…“快斗”と新一は、知り合いでも増して友人でもないのだ。
素顔では顔も会わせたことがないというのに、この状況をどう説明すれば良いのか。
一瞬の思考の後、説明のしようがないと結論付けた快斗は、さっさとこの場を逃げ出すことにした。
眠る新一の寝顔は可愛くて、抱き締める温度も愛しくて、とてもとても勿体ない状況だけれど。
何せ、彼は快斗がずっと思い続けている人なのだ。
数えるほどしか対峙したことはなくても、快斗の、キッドの視線を奪うには充分すぎる魅力の持ち主で。
その、一瞬の迷いがいけなかったのか。
「……、と…?」
いつの間にか目を覚ましていた新一が、上半身を起こしてどこか遠い目をしていた隣の男に声をかけた。
寝ぼけているのか、その声は聞き取れるか際どい微かなもので。
けれど名探偵の声を快斗が聞き逃すはずもなく、弾かれたように新一を凝視した。
(わああ、目ぇ覚ましちゃった!どうしよう!?)
ポーカーフェイスを張り付けたまま新一を見つめつつ、内心ではわたわたとパニックを起こしている。
そんな快斗を、新一は不思議そうな瞳で見つめていた。
が、そこで快斗はあることに気付く。
新一の目は、勝手に家に上がり込んであまつさえベッドにまで上がり込んでいる見知らぬ男に対して、というよりは……
「あの…俺……」
快斗は恐る恐る声をかけた。
けれどその先を続けることが出来ずに、しかめっ面になりつつも口を噤む。
不用意なことを言えば、自らの首を絞めかねない。
ここは新一の様子を見つつ、現状を把握するしか策はない……と、思っていると。
「かいと?」
名前を呼ばれ、吃驚してしまう。
思わずポーカーフェイスもどこかへ吹っ飛ばしてしまい、快斗は目を瞠った。
その様子に、まだ寝ぼけの入っている新一は怪訝そうに眉を寄せる。
「…どうかしたのか、かいと?」
「あ、その……俺のこと…知ってる、の?」
今度は新一が吃驚したようで、大きな蒼い瞳を更に大きく見開いた。
そうして徐に手を伸ばすと、快斗の頭をぐいと引き寄せる。
突然のことにろくな抵抗も出来ずに、快斗は引かれるままに新一の方へと倒れ込んだ。
必然的に、鎖骨の当たりに顔を埋めるような形になってしまい……
(わ、わ、ちょ、名探偵ぃ〜ッ!鎖骨が…!)
吸い寄せられるように、白い肌に視線が釘付けになってしまう。
更に新一の身体から微かに匂う甘い香りに、頭の芯が痺れてしまいそうになる。
そんな快斗の葛藤を余所に、新一は快斗の癖毛にそっと指を差し込むと、後頭部を念入りに調べだした。
「快斗、お前、頭大丈夫か?」
「はぁ??…俺の頭がおかしいってのか?」
「違う、そうじゃなくて。どっか痛くねーか?」
頭がおかしいと言われていると勘違いした快斗だが、どうやらそうではないらしい。
そうしてよくよく考えてみれば、何だか身体のあちこちが痛いような気がする。
……とりわけ、後頭部当たりは。
新一のひんやりとした手が当たると気持ちが良い。
「あー…そこ、痛いかも。…特に。」
「当たり前だ、こぶ出来てる。」
優しい手つきで怪我の度合いを確かめながら、そこで漸く新一は快斗の頭を解放した。
遠ざかる鎖骨に残念なような助かったような複雑な心地で、快斗は新一と向き合う。
怒ったような新一の表情を見て、どうしたのかと思わず首を傾げた。
むぅとふくれながら、怪我したら言えっつってんのに…などと新一はぶつぶつと文句を言っていたが。
「お前、俺が誰だかわかってるか?」
「工藤新一、高校生で探偵。」
「じゃ、自分のことは?」
「……黒羽快斗、同じく高校生。」
少し迷ったが、快斗は素直に答えることにした。
新一は快斗のことを名前で呼んでいるし、いつ知り合ったのか皆目わからなかったが、とにかく“黒羽快斗”は新一の知り合いらしいので。
「それじゃ、なんでお前がここにいるのか……わかるか?」
まさに先ほどからそれがわからなくてぐるぐるしているのだが。
快斗はニガイ表情で押し黙ることしか出来ない。
新一は小さく、はぁと溜息を吐いた。
「多分、一過性の記憶障害だと思う。」
「は!?」
「お前、俺が誰かわかっても、俺たちのことわかんねーみてーだし。」
「俺たち、って…」
「どうせ昨日の台風で墜落でもして頭打ったんだろ。」
相変わらずふくれている新一が、何に対して怒っているのか快斗にはわからない。
怪我をしたら真っ先に自分には話せ、という約束をしていたからなのだが、そんな約束も覚えていないのだから仕方ない。
確かに墜落したけれど、大したことがなかったので話さなかっただけなのだ。
が、それも今の快斗にはわからないことである。
眉尻を下げて何だか情けない表情で佇む快斗に、新一はふぅとひとつ息を吐いて。
それから意地の悪い不適な笑みを浮かべて、“探偵”の顔で言うのだ。
「俺がお前の恋人だって言ったら、“お前”はどうする?……怪盗キッド。」
…もともとこの名探偵に心酔している怪盗が、こんな笑みに敵うはずはなく。
自分が怪盗キッドだとばれていることに驚かなくもないが、この探偵と恋人同士などというオイシイ状況を快斗が手放すはずもない。
何せ、彼との記憶がなくとも相変わらず惚れているのだから。
内心で新一の笑みに眩暈を覚えながらも、快斗も“怪盗”の顔で不適に笑った。
「…稀代の名探偵を、もう一度この手にするまでですよ。」
それまでの疑問も不安もどこかへ吹き飛ばし、快斗は愉しげに笑う新一の体を抱き締めた。
* * *
「どうやら半年ほど吹っ飛んでるみたいね、貴方の記憶。」
あの後、さっさとベッドから這いだしたふたりは、お隣の阿笠邸へと訪れていた。
理由は勿論、快斗の頭を見てもらうためである。
そう言ったふたりに志保は開口一番、「とうとう吹っ切れたのかしら?」などと言ってくれたりして、志保の存在こそ知っていたが小さな少女であった頃の記憶しかない快斗としては、なんだか微妙な心境だった。
そんなこんなで検診(と問診)の結果、快斗の記憶は半年ほど抜けていることが判明した。
体については、あちこちに内出血している痣はあるもののほんとに大した怪我はどこにもなく、ふたりはひとまず安心した。
問題は、後頭部に負った打撲である。
一過性とは言え記憶障害があるとなると、色々と問題が出てくる。
日常生活に影響はほとんどないし、キッドとしての記憶ももちろんあるので仕事にも差し支えはない。が。
せっかく新一と恋人同士だと言うのに、一緒に暮らしだしてからの記憶がないというのが、快斗は悔しくて仕方がなかった。
どんな新一でも記憶しておきたいのに、と。
なんだか難しい顔で黙り込んでしまった快斗に新一は苦笑して、ふわふわの癖っ毛をくしゃりと撫でる。
「焦ったってしょーがねーだろ?ゆっくり行こうぜ、快斗。」
新一がにっこり笑ってそんなことを言ってくれるものだから、快斗は改めて今の幸せを噛み締めた。
思えば、初めての邂逅の時……時計台でのジョーカーを調べたのが始まりで。
喰えない探偵に興味が沸き、気付けば子供になってた奇特な探偵に好意を持ち、同じ敵を持つ探偵を守りたいと思い、そして共に戦いたいと願い。
まるで自然な成り行きで、当たり前のように愛していた。
途中経過の記憶が抜けようと、探偵を思い続けてきたその心は消えなかったらしい。
愛しさは相変わらず快斗の中に満たされている。
ほんのちょっとふたりの世界に入りかけているばかっぷるに、志保はもう呆れるしかなかった。
これぐらいの記憶障害、大したことないだろうとは思ったが、もともと彼らにはいらぬ世話だったのだ。
「貴方のその紙一重の頭だったら、案外殴ったらどうとでもなりそうよね。」
ついついそんな言葉が出てしまう志保だったが、ほんの少し怯える快斗に対して、新一はただ苦笑するだけだった。
志保の毒舌にも、これだけずっと一緒にいれば慣れてしまうのだ。
どれだけ悪態を吐こうと、いつもふたりのことを考えてくれているのはよくわかっているから。
「あのさ…俺、お前のことなんて呼んでた?」
と、何だか妙に低姿勢で快斗がそんなことを聞いてきた。
新一は不思議そうに首を傾げる。
「何で?」
「…同じように呼びたいな、って。」
「呼びたいように呼べよ。別に前と同じようにする必要はねーだろ?」
「だけど…」
「今のお前も快斗なんだからさ。“快斗”が呼びたいように呼べば良い。」
ほんの些細なことのようだが、それすらも思い出せない自分が少しだけ歯痒い。
けれど新一は、そんな快斗の心の端にある小さな蟠りも解きほぐしてくれる。
快斗の中にある蟠りとは、記憶のない自分がまるでニセモノであるような不安。
けれど新一は、そんな快斗も快斗だと認め、笑ってくれる。
快斗は嬉しさに、たまらなくなって思わず新一をぎゅっと抱き締めた。
「俺、すげー愛されてるっぽい…」
「その、ぽいってのは何だ、こら。」
「…訂正。愛されてるv」
「ったりめーだろ。」
大人しく抱き締められながら、照れて少し赤みの差した頬で新一が笑う。
快斗は、そうしたいという衝動のまま……少し躊躇いながらも、新一の目尻にそっと、口付けをおとした。
(……やってらんないわね、全く。)
なんだか存在を忘れられかけている志保は、もう文句を言う気も起きずに、ただその様子を傍観していた。
というか、彼らにとって志保は居るのが当然で、つまりこれが自然な状態だという認識があるのだ。
志保にとっては迷惑極まりないことだが。
「それじゃ、新一。」
すっかり元気を取り戻した快斗は、呼んでみたかった名前を口にする。
探偵と怪盗という間柄であって、馴れ合うことは出来ないのだと思っていたからこそ、自分に禁じてきたその名前。
口にしてみればとてもしっくりする。
それは、普段から呼びにれていたからなのかも知れない。
そんな小さなことが嬉しくて、ついつい笑みをこぼしてしまった。
快斗のその笑顔を見て、新一も嬉しそうに微笑みを返す。
「いつ記憶が戻るのかわかんないけど……宜しくな?」
「ああ。宜しく、快斗。」
ガラにもなくちょっとだけ照れて。
こんな状況は滅多にないのだからどうせなら楽しんでしまおうと、臨機応変な思考を持つふたりは、そうして記憶のない日常を満喫することにしたのだった。
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