快斗の記憶が飛んでしまってから、今日で一週間。
 キッドとしての記憶はあったため仕事に支障はなく、もともと器用だったため工藤邸での生活にも快斗はすぐに馴染んでいった。
 まさに、言われなければ記憶がないとはわからないほど、快斗も新一も自然に接していた。










●○台風一過○●










「あ゛ぁ?」

 ソファに腰掛けながら電話を受けていた新一から、なんだか不穏な声が聞こえてきた。
 食後のコーヒーをふたりぶん用意していた快斗は、その普段の彼らしからぬ低い不機嫌な声に、思わず聞き耳を立ててしまう。

「んなもん、俺の知ったことか。…はぁ?薄情?…あのなぁ、そういう問題じゃないだろーが。」

 今や新一は不機嫌を顕わに、その端正な眉は寄せられてしまっている。
 なんだかちょっと心配になって、快斗はふたり分のコーヒーを手に新一の隣へと腰掛けた。
 コーヒーをテーブルに置き、空いた手で新一の髪をそっとそっと梳いてみると、新一は嫌がる素振りもなく大人しくしている。
 新一の携帯に電話がかかってきた時点で、警部からの要請だろうかと思っていた快斗だが、どうにも違うようだ。
 彼がここまで素を見せる相手は、例えそれが不機嫌の素っ気ない態度だとしてもそう多くない。
 そうすればその相手が誰であるかはかなり予想が出来る。
 おそらく、西の地で名を挙げていると自称する探偵だろう、と。
 某財閥のお嬢様相手にも多少はこんな態度を取るが、そこはフェミニストな新一のこと、普段はこれでも手加減しているのである。

「……わぁったよ。言っとくけど、俺はもてなさないからな。」

 その言葉に快斗がぴくりと反応する。
 新一は溜息を吐きながらも短く断わって、携帯をソファへと放り出した。

「あーもー、なんであのバカットリは事前に連絡よこさないかなっ」

 ぶつぶつ文句を言いながら甘えたモードに入っているのか、新一がぽすんと快斗の肩へと顔を預ける。
 未だ髪を梳き続けている手が気持ちいいのだろう。
 ちょっとトゲトゲしていた新一の雰囲気がだんだん落ち着いていく。
 それを確認しながら、快斗は遠慮がちに今の電話について尋ねてみた。

「今の、西の探偵から?」
「そ。なんか、一泊だけ泊めてくれってさ。」
「…なんで?」
「一日だけなのにホテルは勿体ないとかなんとか。よく知らねー。」

 よしんば、その理由は納得しても良いのだが。
 なぜ、こちらに了解も取らずに当日になってから決定事項を伝えてくるのか。
 そのあたりの非常識さが信じられない、と新一は怒っているのだった。

「もう東京駅ついたらしいから、もうちょっとしたら来ると思う。」

 快斗は、なんだかんだと文句を言いながらも服部を認めている新一を複雑そうな顔で見つめた。
 新一と同じ探偵である服部。
 そこには快斗の入っていけないところがあるようで、少しだけ……実は結構。悔しい。
 黒の組織の壊滅を成し遂げられたのは怪盗キッドの力があってこそだが、その時の記憶のない快斗には、いつものような余裕が持てないのだ。
 あれから一週間、久しぶりに感じた不安に、快斗は新一の髪を梳いていた手をそっと腰に回して引き寄せた。
 多くの壁をぶち抜いて今の関係を築いたふたりだけど、その経過が抜けてしまえば、なんとも脆い関係に思えてしまう。
 そんな快斗の心を知ってか知らずか、新一が蒼い目をこちらへと向けてきた。

「快斗、どうした?」
「…何でもないよ。」

 記憶がなくても大丈夫だと笑って言ってくれた新一に、不安に思ってしまったことは悟られたくなくて。
 まして言葉を交わしたこともない西の探偵に妬いていたとは言えなくて。
 快斗は曖昧な笑顔を向けたのだが。

「嘘、何でもなくない。その顔はなんか気になってる時の顔だぜ?」

 蒼い目が真っ直ぐに、嘘は許さないと言っている。
 どうにも快斗は、新一にポーカーフェイスを向けることが出来ないのだ。
 それは記憶のあった快斗が、新一にだけはそれを向けないと決めていたからなのだけれど。
 快斗は小さく苦笑した。

「情けないんだけどさ……」
「うん?」
「嫉妬、してる。」
「…服部にか?」
「そう。」

 そう言って新一の髪に顔を埋め、腰に回した腕にほんの少し力を込める。
 より強く抱き寄せて、体全体で新一を感じ取れるようにして。

「文句言いながらも受け入れてるだろ?だからほんのちょっとだけ……」

 強い強い、独占欲。
 記憶もないくせに、ここまで辿り着いた道のりも知らないくせに、独占欲と嫉妬だけは人一倍だなんて。
 すると新一は、不適に笑いながら「嘘吐き」と呟いた。

「嘘吐くんじゃねーよ。ほんのちょっとじゃないだろ?ほんとはすごく妬いてるくせに。」

 クスクスと楽しそうに笑いながら、まるでなんでもないことのように言う新一。
 快斗は一瞬面食らって、けれどすぐに悪戯な笑みを浮かべると、じゃれるように目元にキスをおとして。

「うん。ホントはめちゃくちゃ妬いてる。」
「だろ。」
「うん……」

 そのまま顔中に、羽のようなキスをおとして。
 最後にそっと唇を重ねると、快斗は漸く新一を解放した。
 ……腰の手はそのままだったけれど。

 快斗は未だに、唇にキスをするのはかなり緊張してしまう。
 新一は快斗の全てを受け入れてくれるから、キスをしようとしても嫌がったことはない。
 抱き締めるのも髪を梳くのも、心地よさそうに甘受してくれる。
 それでも、嫌がられることはないとわかっていても、新一に触れる時の快斗はかなり緊張しているのだ。
 キスをしてしまえば、抱き締めてしまえば……その先もねだってしまいそうで。
 だから、ほんのちょっと違う話題で気を紛らわせてみたりする。

「じゃあさ…西のが来てる間、俺はどうしたら良い?」

 自分が怪盗であることや新一との関係、それらを知らないだろう服部を前に、どうしたら良いのか。
 少し寂しくても、そうした方が良いと言うのなら、暫く実家に帰っても良いし。
 そう思って尋ねた快斗だったが。

「そうだな。それじゃ、ふたりで逃げるか♪」
「………はい?」

 思わず間抜けな返答しか出来なかった。

「逃げるってどういうこと?」
「だから、服部をここに一晩泊めてやって、俺たちが別に移るってこと。」
「…仮にも客なのに、良いの?」
「良いんだよ。もともともてなさないって言ってるんだし。それに…」

 嫉妬深い怪盗さんがいるみたいだし…?
 言ってる新一はとても楽しそうだ。
 快斗もだんだん楽しくなってくる。
 元来、遊び盛りの高校生なのだから当たり前だろう。
 なんたってこれはつまり、所謂“愛の逃避行”というヤツなのだから♪

「良いね。それでどこに逃げる?」
「んー……お前の隠れ家のひとつ、かな。」

 新一の目元がほんのり赤くなる。
 それを快斗は不思議そうに眺めてから、頷いた。
 隠れ家なら、たとえ西の探偵が新一を追い掛けようとしても、見つからない自信がある。

「それじゃ、あいつが来る前に逃げちまおう!」
「オッケーv」

 そうしてふたりは服部に「鍵はポストに入れとくから後は好きに使え」とだけ伝えると、楽しそうに笑いながら快斗の隠れ家へと逃げ出した。



* * *



 東京の中心地からちょっと離れた、14階建てのマンション。
 そのマンションの最上階の一室に、快斗の隠れ家はあった。
 高い位置であればあるほど、グライダーで夜空を飛び回る怪盗には好都合なのだろう。
 お昼を過ぎた2時頃、漸く新一と快斗はそこへ辿り着き、午後の一時に微睡んでいた。
 ここにはもともと必要最低限のものしか置いてなかったのだが、今はそこそこ生活感が漂っているのに快斗はまず驚いた。
 ベッドやカーペットすらない、最低限の救急処置道具と仕事用のパソコンしかなかったはずが、今ではコーヒーカップや歯ブラシまである。
 「お前が色々揃えてくれたんだよ」と新一に言われ、ようやく納得したのだった。

「なんか変だな。」
「うん?」

 ふたりはせっかくのふたりきりの時間をくっついて過ごそう……とは思わずに、なぜかテレビゲームをしてたりする。
 ゲームの苦手な探偵が、コントローラーを相手に四苦八苦しているのを微笑ましそうに横目で眺めながら快斗は呟いた。
 新一は相変わらずコントローラーと格闘しながら、それに返事をして。

「俺の知ってる空間と180度違うのに、それでもなんだかここ、すげー落ち着く。」

 見慣れない光景が、けれどすごく暖かく胸に滲みて。
 仕事で怪我をした時には大抵ここに来ていたせいか、良い思いでなど少しもなかったのに、それでも。
 今はこんなにも、胸が暖かい。
 そんな快斗に、新一は嬉しそうに笑った。

「ここにはしょっちゅう来てるからな。体が覚えてるんじゃねぇ?」
「え?新一も一緒に?」
「そ。デートっつったら大抵ここ。」

 俺たち有名人だし、俺は人混み苦手だし、一緒にいれたらどこでも良かったし、などと呟いている新一に、快斗は思わずちょっと頬を染める。
 ほんとに今更だけど……ふたり一緒ならどこでも良いとは……かなりらぶらぶな発言だ。
 それを無意識なのだろう、何の臆面もなく言ってくれる新一。

「あ、くそっ」
「あはは、新一の負けー!」
「ゲーム苦手なんだから手加減しろよ〜」
「おや?名探偵を相手に手加減が必要なんですか?」
「!」

 ムッと眉を寄せた膨れっ面でチロリと睨んでくる新一に、快斗は不適に笑ってみせる。
 いくらゲームとは言え怪盗と探偵、手加減なしの真剣勝負にいつも精一杯に挑んできたのだ。

「もう良い、本読んでやるっ」

 新一はさっさとコントローラーを手放すと、持参の小説に手を伸ばそうとする。
 ほんの冗談のつもりだった快斗は慌てて新一の手を掴む。

「ごめん、怒っちゃった?新一…」

 その手を引き寄せて、新一の顔を覗き込んで。
 突然視界一杯にはいってきた快斗の、なんだか情けない顔に新一は可笑しそうに笑った。

「ばーか、冗談だよ。情けない顔すんなって。」
「うん…ごめんね。」
「謝んなよ。謝んなきゃなんねーことしたのかよ?」

 違うだろ、と微笑む新一になぜか既視感を覚え、快斗は目を瞬いた。

(俺はこの言葉を、言われたことがある…?)

 すると黙り込んだ快斗をどう思ったのか、新一が快斗の鼻先に掠めるようなキスをした。
 快斗はちょっと吃驚して、それから何だか微妙な沈黙が降りて。
 ふたり、視線を絡めたままで。
 そうして、そっと、今度は唇が重なった。
 今までの遠慮がちな、触れるだけのものではなく。
 お互いを絡め合い、深く求め合うような口付けを交わして。
 漸く離れたときには、ふたりとも少し熱っぽい目をしていて、どうしようもない恥ずかしさが込み上げてきた。
 快斗は覆い被さりかけていた体を起こし、新一は寝転びかけていた体を起こして。
 互いに顔を赤くしながら、どうにも気まずい沈黙を払うために、快斗はあまり関係ない話を切りだした。

「そっ、そういえばさ!なんで良く来るのがここの隠れ家なんだ?」

 ここは東京の外れで、工藤邸からも結構遠い。
 しょっちゅう通うにはあまり適当な場所ではない気がしたから尋ねた快斗だったが。

「え…っ」

 新一の顔がみるみる赤くなっていく。
 何と言ってもこの場所は、快斗と新一が初めてお互いの気持ちを告げた場所でもあるのだが、快斗に襲われた場所でもあるのだ(笑)
 それでもふたりにとっては大事な場所なので、気恥ずかしく思いながらも入り浸るようになってしまったのだが。

(言えねぇ…!絶対言えねぇ、顔から火ィ噴いて死ぬ…!)

 狼狽える新一を余所に、なんだか聞いてはダメなことを聞いたような、それでもそんな新一を可愛いな、などと快斗は思っていた。
 何を言われなくても、ここで何かがあったことは一目瞭然だ。
 稀代の探偵がポーカーフェイスを綺麗に忘れ去ってしまうぐらいの、何かが。
 つまるところ、キス以上のことが。

「なぁ、なんで?」

 なんだかこの可愛いヒトをほんのちょっと苛めてみたくなって、快斗はにっこり笑顔で問いつめる。

「いや、そ…その……」
「ん?v」
「…ぁの………。」

 ……………………。
 ………………………………。

「しんいちぃ〜vv」
「わぁっ」

 がばっっ!!
 すでにゆでだこ状態の新一に、快斗はそんな効果音つきで抱きついた。

「だめだ、お前可愛すぎっvv」
「はぁ!?」
「なんでそんなに可愛いんだよーっ」

 恋人の欲目を抜いたとしても、誰でも多分同じ事を思うんじゃないかと真剣に快斗は思う。
 普段の威勢はどこへやらで顔を真っ赤にして狼狽える新一を、可愛い以外のなんと例えると言うのか。
 けれど、とにかく工藤新一は男の子なのだ。
 健全な男子高生、可愛いなどと言われるのを良しとするはずもなくて。

「アホなこと抜かすんじゃねーっ!!」

 気付いたときには半ば(以上)本気で、快斗の鳩尾に蹴りを繰り出していた。
 超高校級の蹴りは見事にクリーンヒットし、快斗は見事に吹っ飛んで。

「イッッてェー!!」

 盛大に背後にあったテーブルに後頭部を強打し、快斗は悲鳴を上げていた。
 さすがにやりすぎたかと青くなりかけた新一に、本気で涙目になった快斗が言った。

「お願いだから新一、自分の蹴りの威力ぐらい把握しろよ……いつか人殺すぞ、マジで……」

 腹も痛いが頭も痛くて、さすがの怪盗キッドもちょっと情けない顔になる。
 新一は素直に悪いと言いながら、ぶつけてしまった快斗の頭を丹念に調べ出す。

「大丈夫か?」
「ん、結構痛かったけど平気だろ。」
「そっか…ごめん、な。」
「いや、大丈夫だよ…って………あれ?」

 快斗がキョロキョロと辺りを見渡す。
 数回目を瞬いて、困惑顔が新一へと戻ってくると、こき、と首を傾げた。

「なんでここに居るの?…っていうか……そういや、今日っていつだ??」

 今度は新一がぱちぱちと目を瞬いた。
 それからすぐに思い当たって、

「お前、ようやく頭戻ったのか!」
「は?」
「この一週間、快斗、記憶吹っ飛ばしてたんだよ。」
「……はい?」

 何だか信じられない言葉を聞いて顔をしかめた快斗。
 新一は頭のこぶの処置をしながら、この一週間のアレコレについて快斗に話すことにした。



「…なんていうか……俺ってマヌケ……」

 快斗の感想はそんなものだった。
 なんたってあの怪盗キッドが、悪天候のため墜落して頭を打って軽度の記憶障害とは、ちょっと余所では言えない話である。

「いや、でも妙に殊勝で可愛かったぞ、お前。」
「む。それじゃ普段の俺はヤナヤツみたいじゃん。」

 半ば本気で膨れる快斗に新一は楽しげに笑う。

「違うだろ?記憶がなくても快斗なら、俺は好きだってことだよ。」

 幸い頭のこぶは今回も大したことがなさそうで、ちょっと塗り薬をつける程度ですみそうだ。
 それから哀の言葉を思い出して新一はこっそり笑う。

“貴方のその紙一重の頭だったら、案外殴ったらどうとでもなりそうよね。”

 まさに殴って記憶を取り戻してしまった快斗。
 さすがは灰原だ、などと新一が感心していると。

「なに笑ってんの…?」

 嫉妬の色をありありと浮かべた快斗の顔が視界いっぱいに広がる。
 そうして笑みを浮かべていた新一の唇に、遠慮なく入り込んでくる快斗。
 やっぱり記憶のない時の快斗の方が殊勝で可愛いと、新一は思った。
 記憶のなかったときの自分にすらも嫉妬し、それを隠そうともせずに見せつけてくる快斗。
 そうして新一は、そのどちらも愛しいと思っているのだから。

「ナイショだよ。お前にも教えてやんない。」
「………。」

 快斗の瞳に燃える昏い色を、新一は心底愛しいと思う。

「快斗。俺のこと、好きか?」

 新一がクスクス笑って尋ねる。
 その瞳には間違いなく自分に向けられる暖かい色を浮かべられていて、快斗もふっと笑った。

「当たり前。愛してるよ。なに、信じられない…?」

 そんなこと思ってもないくせに、問いかけてくる快斗。
 ゆっくりとした動作で快斗に床に縫い止められながらも、新一は抵抗しない。
 そうして新一は緩く首を振った。

「信じてるさ。」

 だってそうだろう…?
 記憶がなくても変わらず俺を愛してると言った男の、何を疑うことがあるのか。



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