翔べない天使
■■■■■■






 ふわふわの癖毛にサングラスをかけた男と、彼の腕に抱きつくように歩く髪の長い女性。
 彼らは高級住宅の並ぶとある界隈を歩いていた。
 どこもかしこも嫌味なぐらい広い庭と、競い合うような豪華な造りをしている。
 普段はこんな住宅地とは縁のない彼らだが、ある状況に陥った時のみ、よくここに足を運んでいた。

 ふと、二人はとある屋敷の前で足を止める。
 他の家に比べると無駄な装飾がないためやや地味な印象を受けるが、文句なしの敷地面積にでんと建てられた屋敷には妙な迫力があった。
 それもそのはず、何を隠そうこの屋敷こそが世界屈指の推理小説家が建てた家であり、彼のひとり息子である現在日本で最も有名な探偵が暮らしているところなのだから。

「考えたわね、黒羽君」
「ほんと、警察より手回しいいですよね」

 屋敷を見上げた二人――高木と佐藤は彼のマジシャンを思い浮かべ、思わず苦い表情を浮かべた。
 何度か顔を合わせたことのあるそのマジシャンは、同居人である探偵に並々ならぬ執着心を持っている。
 それは一歩間違えれば探偵本人でさえ危うくするのではと思わせるほど、凄まじいものだ。
 佐藤や目暮は勿論、鈍いと言われる高木でさえそう思う。

 そのマジシャン黒羽快斗が、実はあの爆発の現場に居合わせ、しかも最後まで新一とともに建物内に留まり爆弾の解体をしたのだと言う。
 自力で、もといその探偵たちに脱出させられた一般客たちのその証言を聞いた時、目暮を始めとする快斗を知る刑事たちはひそかに恐れおののいた。
 同時に、二人が負傷しているとも聞いた彼らは二人の身を案じた。
 けれどいよいよ爆弾を解体し、漸く脱出できた彼らをすぐに病院へ搬送しようとしたところ……

「このまま行って下さい。野次馬には警察病院に入院したと思わせて、新一は俺が連れ帰ります。静養するにはそれが一番なので」

 自らも血だらけの手でしっかりと新一を抱き上げた快斗がそう言った。
 目暮は内臓を痛めているらしい新一を一度きちんと検査するべきだと申し出たけれど、隣家の科学者が医師免許を持つ彼の主治医だからと断わられた。
 そしてそのまま、快斗は終始新一を離すことなく、高木の回した普通車で帰って行ったのだ。

「…いつまでも突っ立ってたら余計怪しいわね。行くわよ、高木君。覚悟はいい?」
「はい…っ!」

 ごくり、唾を飲み込み、インターホンを押す。
 ――阿笠邸の。

 その後、報道陣は見事陽動にかかり、警察病院を張り込むようになった。
 病院には申し訳ないが、市民を守るため命懸けで解体作業にあたった新一を静養させるため、警察もあえてその情報を訂正することはなかった。
 けれど、それでも工藤邸まで彼らの手が伸びることもある。
 そう考えた快斗は工藤邸ではなく阿笠邸へ押し掛けた。
 病院でもない、自宅でもない、そうなった時隣家である阿笠邸は丁度良い目眩ましになる。
 そして、更にも万全を期すために高木と佐藤はわざわざ変装までして、事情聴取のために新一と快斗を尋ねて阿笠邸へとやって来たのだった。

 プツッ、という音がして、門の壁に設置されていたインターホンから応答の声がした。

『…はい』

 女性の声だ。
 それにひとまず安堵し、佐藤は事情聴取に来た旨を伝えた。

「携帯に電話を入れてるから、連絡は行ってるはずなんだけど…」
『ええ、聞いてるわ。ちょっと待って、門を開けるから』

 再びプツッ、と通話が切れると、鍵というよりは機械音のような音が鳴り、門が内側に開いた。

「…凄いセキュリティですね」
「ほ、ほらっ、阿笠博士って言ったら発明家じゃなあい!」

 何だかものものしい警備になんとも言えぬものを感じながら、佐藤は明るく高木の背中をばしっと叩くと、先陣切って門を潜った。
 そんな、自分より何倍も男らしい佐藤に情けなさを感じつつ高木も後に続いた。

 門を潜り、芝生に浮かんだ石道を通って庭を抜け、玄関の前に辿り着く。
 すると、絶妙なタイミングで扉が開いた。
 おそらく一目ではわからない位置にカメラでもあるのだろう。
 二人は迎え入れてくれた女性――以前一度だけ会ったことのある宮野志保に会釈し、お邪魔しますと言いながら邸内へ上がった。

「二人の様子はどうですか?聴取も受けられるようなら、だいぶよくなったかとは思うんですが…」

 新一の主治医だと言う志保に佐藤は遠慮がちに尋ねた。
 志保は今年二十八になる佐藤よりもずっと若い。
 刑事としての観察眼から見ても新一や快斗と大差ない、甘く見ても二十歳過ぎが限度だろう。
 そんな彼女が博士号を持つ阿笠に劣らぬ科学者でありながら、医師免許すら持っているだなんて。

(世の中、天才っているものなのね)

 けれどよくよく考えてみれば新一のまわりは彼自身を筆頭に、快斗だ優作だ服部だ何だとひとえに天才と呼ばれる者たちばかりだ。
 所詮は類とも、天才のもとには天才が集まるということなのだろう。
 そう思う佐藤は、彼女もまた端から見れば天の才に恵まれているということに気付いていなかった。

 ふと、佐藤の質問を受けた志保が不機嫌そうに眉を寄せた。
 心配になった佐藤は、本当はまだとても聴取なんてできる状態ではないのか…!?と焦る、が。

「腹立たしいほど元気よ。とっとと追い出したいぐらいにね」

 忌々しげにそう吐き捨てた志保にリビングへ通された佐藤と高木は、一歩踏み込んだ瞬間、思わず固まってしまった。

 そこには。
 丁度お昼時だからだろうか、昼食を取っている快斗と新一がいた。
 それはいい。
 そこに問題はない。
 仕事中だからと、まだお昼を食べてないなどと言って佐藤も高木も怒ったりはしない。
 そうじゃなく。
 目の前には――
 マジシャンの膝に座らされた探偵と、その探偵にご飯を食べさせられているマジシャンがいた。

 その光景はまるでアレだ。
 お母さんが赤ん坊にご飯を食べさせている構図だ。
 ただ、探偵を抱っこしているマジシャンがお母さんなのか、それとも、マジシャンにご飯を食べさせている探偵がお母さんなのか。
 もとより、そこに論点をおくこと自体がズレているのか。

「あ、佐藤刑事、高木刑事」

 漸くこちらに気付いた探偵がのんびりと、しかも笑顔つきで言った。

「や、やあ、工藤君、黒羽君。元気そうでよかったよ」
「いえ、ご心配かけてすみませんでした。それにわざわざ来てもらっちゃって…」
「そんなの、お世話になったのはこっちの方だから全然かまわないんだけど」

 だけど、、、その後が続かない。
 何を言えばいいのか、高木は軽くパニックを起こしていた。
 果たして、この光景に突っ込みを入れてもいいものか。
 それとも、ご飯が済んでからでいいよと笑えばいいのか。
 あるいは、何も見なかったことにして、このまま聴取を初めてもいいのか。

 戸惑っている高木の隣で、佐藤が言った。

「早速で悪いけど、お昼が食べ終わったら聴取に入ってもいいかしら?事件はほぼ解決してるけど、二人の証言はどうしても必要なの」
「勿論です」

 どうやら佐藤は二番を選んだようだった。





 昼食が終わった後、志保のいれたコーヒー片手にソファでくつろいでいた二人の前に、快斗は抱き上げて連れてきた新一を座らせ、自分もその隣に座った。
 なるほど、新一は例の一見で内臓にダメージを受けたが、足も怪我していた。
 歩けない彼を常に快斗が抱き上げて運んでいたとすれば、先ほどのあの光景も納得できる。
 しかも快斗の両手に巻き付けられたものものしい包帯は彼の怪我の重さを示していて、こちらもなるほど、この手では箸が持てないのも仕方なかった。
 ここにきて漸く合点がいった二人は意気揚々と聴取に取りかかり、慣れた新一に誘導されるように快斗も証言し、彼らの事情聴取は実にスムーズに運んだ。

「それじゃ、受け取ったリモコン用の携帯は瓦礫の中というわけね」
「うん。壊れてはないと思うけど、保証はできないな」
「まあ、それは私たち警察の仕事だからこちらで何とかするわ」

 佐藤と高木はすっかり覚めてしまったコーヒーを飲み干すと、それじゃあと言って立ち上がった。
 今回は犯人が自首しているし、それを裏付けるだけの充分な証拠も、証人もいる。
 これで漸く事件が解決するだろう。
 けれどまだまだ仕事は山積みだ。
 一ヶ月以上も前から参加していただけに、最後がベッドの上という状況が新一には何とも悔しかった。

 けれど、「そう言えば」、と言って振り返った佐藤に、快斗と新一は揃って視線を投げる。

「そう言えば杉浦夫人の方から、黒羽君にって伝言があったのよ」
「俺ですか?」
「ええ。ありがとうって。それから、よくわからないんだけどもうひとつ…」

 もうひとつ?と首を傾げる快斗に、佐藤は彼女のありのままの言葉を告げた。

「翔べないことを誇りに思う=v

 快斗が僅かに目を瞠る。
 それは、洞察眼に長けた、それも誰より側で快斗のことを一番知っている新一だからこそ気付けたことだ。
 二人は志保に見送られ、警視庁へと戻っていく。
 おそらくまた恋人同士のフリでもしながら戻るのだろう。
 快斗は不思議そうに、けれど探偵の強い眼差しで自分を見つめる新一に気付き、苦笑した。

「…新一が爆弾を探してる時にね。彼女と少し喋ったんだ」
「それで?」
「彼女、俺が天使で新一が神さまだなんて言うから、それは違うって言ったんだ」

 だけど。

「俺、新一は天使なんじゃないかって、時々真剣に思う」
「――はっ?」
「新一だけじゃない、志保ちゃんや親父やおふくろ、青子や寺井ちゃんや阿笠博士…
 みんな、天使なんじゃないかって思う」

 笑う時。怒る時。泣く時。叱る時。
 自分ですら目を逸らしてしまいたくなる時でさえ、正面から向き合ってくれる人たち。
 真っ直ぐで。綺麗で。眩しくて。
 そんな時思うのだ。
 まるで天使のようだ――と。

「だから、人間は誰もがきっと天使だったんだって、言ったんだ。翼のない天使、…翔べない天使だって」

 杉浦と彼女は、社内恋愛が発展しての結婚だった。
 彼女は職場を離れ主婦業に専念し、その後二年は杉浦も良い夫で、彼らは仲の良い夫婦だった。
 そんな杉浦が変わったのは――
 会社が倒産してから。
 職もなく、気力もなく、落ちぶれていく夫。
 もとが有名大卒のエリートであったため、反動も大きかったのだろう。
 そして彼女は、自分の励ましにも応えてくれない夫を見限って家を出た。

 彼女をずっと愛すと言った男は。
 彼女を愛することを忘れ、やがて彼女を見ることもなくなった。

 ――手ひどい裏切りだと、感じた。

 だから離れた。
 だから、この手を離したというのに。
 彼女を愛すことを忘れた男は、彼女がいないばかりに、今度は犯罪を犯した。
 エリート意識が強く、プライドが高く、だからこそ人一倍正義感も強いはずだった男が。


 ――裏切ったのは自分なのだと、気付いた。


 人は完璧じゃない。
 ただ盲目的に神を信じ続けられる天使のように、完璧にはできていない。
 だから道を踏み外す。
 だから疑心暗鬼にもなる。

 彼は完璧ではなかった。
 だから彼女を守りきれなかった自分に深く絶望した。

 人は完璧じゃない。
 ただ盲目的に神を信じ続けられる天使のように、完璧にはできていない。
 けれど。
 だからこそ。
 人は人を、自分だけを見つめていてくれる誰かを、その人だけを、見つめていられる。

「あの人たちはすごく遠回りをした。多くの人を巻き込んで、たくさん命を奪った。それは勿論、許されるものじゃない。
 でも。
 そうやって遠回りして、漸く大事なものを見つけたんだと思う」

 神を愛さなくなった天使は楽園を追放された。
 かつて空を翔た翼はもうない。
 決して軽くはない、代価。
 烙印を押され、地に落とされ、かつて天使だった生き物は懐かしむように時折空を見上げる。

 けれど、彼らはその烙印を誇りに思った。
 翔べないことを、誇りに思ったのだ。

「これから苦しい日が続く。でも、あの人たちはもう大事なものを見つけたから。きっと、終わりのない贖罪の日々でも、生きていけると思う」

 ふ、と新一が吐息とともに笑みをこぼした。

「――似てるな」
「…うん、…だね」
「だから放っておけなかったんだろ?」
「だって。放っといたら、彼女死んでただろ」
「――だな」

 かつて。
 そう呼ぶほど遠くもない、過去。
 自分たちはどうしようもない罪に、この両手を染めてきた。
 罪に基準はない。
 ただ己がそれに罪悪を感じ、そして傷付き哀しむ誰かがいれば、それを罪と呼ぶのだろう。

 自分たちはあまりに多くの哀しみを生み出しすぎた。
 その重荷に耐えきれず、何度崩れてしまいそうになったことか。
 けれどそんな時、いつもお互いの存在がにすぐ側にあったから、終わりのない贖罪の日々でもこうやって生きている。

「俺、新一がいなかったら死んでた」
「ああ」
「新一も、俺がいなかったらきっと死んでた」
「…ああ。…だろうな」
「こんな俺がこんなにも幸せでいいのかって思う時もある」
「…うん」
「それでも、俺は新一に会えてよかった」
「…うん」
「新一は――」

 快斗が目を伏せる。

「俺と会ったことを、後悔してない?」

 新一は笑った。
 まったく、この男は。
 今更何を言っているのだろうか。

「俺の誇りはおまえだよ――快斗」


 楽園を追放され。
 地獄にすら追放された。

 それは世界中の誰より憎らしく、世界中の誰よりも愛おしい。



 ――俺の、堕天使。



back //