翔べない天使
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「…かい、と……」
血を吐くような絶叫のあと、微かな囁きが耳に届いた。
快斗は一瞬全ての動作を忘れ、ついで瓦礫の山に貼り付くように耳を押し当てた。
「新一!?」
「……無事、か…?」
「――馬鹿野郎!おまえの方こそ…っ」
あとはもう声に成らず、喉の奥で消えてしまった。
聞くまでもない。
無事であるはずがないのだ。
こんなにも心許ない声、おそらく肺かどこかに傷を負っているに違いない。
だと言うのに、新一は快斗の心配をするのだ。
言いようのない感情が腹の奧に沸き上がる。
けれど、一刻も早くここから新一を救出するべく、快斗は止めていた手を再び動かし始め……
「…エレベーターのシャフト、使って、…一般人、…逃がしてやって、くれ…」
その手が再度止まる。
僅かに震えていたかも知れない。
世界は紅く見えた。
――怒り、で。
「爆弾の、カウントダウン…始まっちまったんだ…あと三十分もねぇ…」
それは、つまり。
この自分に、新一をおいていけとでも言っているのだろうか。
快斗はともすれば震えだしそうな手を握りしめた。
そして朱に染まった視界を振り切るように固く目を瞑る、けれど。
「もう安全な道とか、そんなの言ってらんねぇ、から…早く……」
抑え込もうとした感情を煽るような新一の言葉に、それは呆気なくも崩れ去った。
「――巫山戯んな!」
ダンッ、と振動が響いた。
衝撃で掻き分けられたコンクリートがカタカタと揺れた。
ただでさえ血まみれの拳が、新たな血を噴き出して床を紅く彩る。
「おまえは、それを、この俺に言うのか。この俺に向かって、おまえが、言うのか」
「…かいと…、でも、」
「――許さねぇぞ、今の言葉…後悔させてやるっ」
言うが早いか、快斗は一心不乱に手を動かし始めた。
途中何度も掛けられる新一の呼び掛けを全て無視して、ただひたすら瓦礫を取り除いていく。
時間がない。
爆弾が爆発してしまう。
けれど、何より、いつまでもこんな重く冷たいコンクリートの下に新一をひとりでいさせたくなかった。
どんなに抗おうと人間は何れ死ぬ。
増して、自分たちは多分他の誰よりも死に近い場所に立っている。
だからせめて、その瞬間くらいは。その瞬間までは。
自分が唯一と決めた相手と、何よりも側近くにいたいから……
ふと、隣に伸びる手がある。
腕は止めずにそちらを仰げば、さっきの女性だった。
女性特有の白く頼りない指で、それでも快斗に負けない懸命さで瓦礫を掻き分けていく。
ふと、逆隣にも伸びる手がある。
見れば、それは先ほど快斗に抗議し新一を疑っていた少年だった。
その向こうには彼の連れである少女もいる。
それだけじゃない、いつの間にか、置いてきてしまったはずの客が集まり快斗を取り囲んでいた。
彼らは皆一様に腕を伸ばし、傷付くたびに顔をしかめながらも、それでも手を止めずに動かし続けている。
「なんで…」
呆然と呟かれた言葉に応えたのは、右隣にいる少年だった。
「あんたは嘘吐きだ」
「え…?」
「俺たちを助けられるのは工藤新一だけだとか言いながら、自分はこんなに血だらけじゃんか」
黒羽快斗がマジシャンだなんてこと、ここにいる誰もが知っている。
そのマジシャンにとって手がどれほど大事なものかなんて、誰もが知っていることだ。
「俺もあんたも、工藤新一だってただの子供だけど、でも――
信じるほかにもできることがあると、思ったから」
そう言った少年はくしゃくしゃに顔を歪めている。
その隣の少女はすでに泣きはらした紅い目をしている。
爆弾を仕掛けた張本人である杉浦夫人も、噛み締めた唇が痛々しいほど強張った顔をしている。
誰もが死をおそれていた。
そして誰もが、大事な人を守るために必死だった。
「みんな――…」
快斗の顔もくしゃりと歪んだ。
これだからいけない、と思う。
これだから、
…人を歓ばせるマジックというものがやめられないのだ。
自分はどうしようもなく愚かだ。
人間は救いようがない愚か者だ。
そしてその愚か者が、快斗も新一もどうしようもなく好きなのだ。
多くの人の手によって、瓦礫の下敷きになっていた新一は無事救出された。
新一は腹部にひどい傷を負っていて、内臓も少し痛めているらしく何度も口から血を吐いた。
けれど応急処置だけで済ませるとすぐに快斗の肩を借りて立ち上がり、エレベーターシャフトから彼らを外へ逃がした。
時間は残り十分を切っている。
「あなたたちも早く逃げないと…」
けれど、最後まで残った杉浦夫人がそう言ったのへ、快斗と新一は首を横に振った。
「まだ、爆弾を解体してないからね」
「貴方は先に脱出して下さい」
「な…っ、何言ってんの!そんな暇どこに…」
「みんな避難したわけじゃないし、脱出が間に合うとも限らないでしょ。だから、俺たちが解体するよ」
「そんな怪我でどうやって…!」
彼女は快斗の袖をぐっと掴んで抗議する。
新一の腰に回された手も、新一の右手を掴む手も、見ている方が痛々しいくらい真っ赤になっていた。
そんな手では満足にものを掴むこともできないだろうに、どうして爆弾を解体できるというのか。
新一にしても腹から血を流し足を引きずった状態では満足に動くことなどできないはずだ。
けれど二人は、双子のようにそっくりな顔で、同じように不敵に笑いながら言うのだ。
「だから、俺たちが解体するんだよ」
「快斗は俺の足。俺は快斗の手。幸い良すぎる頭はどっちも残ってるから、後はどうにでもなります」
彼女は戸惑い、けれど二人の決意が変わらないと知ると、それなら自分も残ると言い出した。
「これは私の撒いた種だもの。私が逃げるわけにはいかない」
あの爆弾は彼女ではなく、別居していた彼女の夫が作ったものだから、彼女自身は爆弾の解体に手を貸すことはできない。
それでも快斗と新一だけを残して自分だけ逃げ出すわけにはいかないと思ったのだろう。
けれど二人はそれも拒否した。
なぜ、と詰め寄る彼女に新一は優しく、けれど厳かに言った。
「貴方は生きなければならない。遺族の憎しみや罪の意識に苛まれても、生きて彼らに償わなければならないんですよ」
誰もいなくなった空間で、快斗に抱きかかえられながら新一は休むことなく手を動かす。
デジタルの時計が刻一刻と時を刻んでいく中、空調の切れたフロアは熱風呂のように熱い。
けれど噴き出る汗を滴る側から快斗が拭い去っていくため、新一は何も気にすることなく爆弾の解体を進めた。
ただ、この場を包み込んだ沈黙だけが耐え難い。
差迫る刻限は彼らの精神ですら蝕んで、遂に堪えきれなくなった快斗が押し殺した声で囁いた。
「…誓えよ」
刹那、新一の手が止まる。
「二度とあんなこと言わないって、誓えよ」
それが何を指すのか、たとえ新一が探偵でなくてもわかったはずだ。
快斗は先の新一の言葉を言っているのだ。
まるで自分をおいて逃げろと――おまえだけでも生き延びろと、そう言ったも同然なあの言葉を。
「俺はおまえなしじゃ生きられない。
そりゃ、体は生きられる。俺の意志なんかお構いなしに心臓は動く。けど、心は死んじまう…
そんなの、よくわかってるだろ?」
聞いているのかいないのか、新一は手も止めずこちらを見ようともせず、返事すら返さない。
それでも根気強く答えを待った快斗が痺れを切らした時、漸く新一は口を開いた。
「…そんなの、誓わねえよ」
快斗の手に力がこもる。
なんで、とその手が新一に問いかける。
新一はもくもくと解体を進めながら、それでも気持ちだけは確かに快斗へ向けながら言った。
「これから先、多分俺たちは何度でもこんな場面に遭う。その度俺は、何度でも繰り返して言う。おまえは逃げろ、おまえだけでも生き延びろ、ってな。
――当然だろ?それだけ、…おまえが大切なんだ。
おまえは俺に誓えと言うけど、おまえだって同じ場所に立たされた時、絶対俺と同じことを言う。そして俺も、おまえと同じように怒鳴るだろう」
大切だから。
その存在が、自分の全てだから。
だから、相手が本当に望むことを知りながら、それでも人は思ってしまうのだ。
あなただけでも生きていて欲しい、と。
「だから俺は誓わない。何度だって同じことを言う。だから――」
だから、おまえは。
「おまえはその度、馬鹿野郎って怒鳴ってくれれば、それでいいんだ…」
快斗の手に力がこもる。
けれど、その手が問いかけてくることはもうなかった。
ただ、囁いていた。
たとえ目の前に死が迫っていても、今なら離ればなれになることはないね、と。
――その後。
消防士たちが救出活動に行き詰まってる中、百数十名にも及ぶ一般客が自力でエレベーターシャフトから脱出したと言う。
四階のフロアで爆弾が見つかったこと、その爆弾の時限装置が始動し爆発までもう時間がないこと、そしてその爆弾を止めるために探偵ともうひとりの少年が残ったことなど、彼らの証言から情報を得た警察はすぐに周りにいた全ての人間を避難させた。
けれどどれだけ時間が経っても、爆弾が爆発したという報告は遂に入ってこなかった。
やがて現場を指揮していた警部の携帯に入った一本の着信が、無事爆弾の解体に成功したとの吉報を知らせ、再会した救出作業によって多くの命が救われた。
そして、四階のフロアまで漸く救助の手が届いた時。
そこには疲れ果て気を失うように眠り込んだ探偵と、その探偵を守るように抱き締めたマジシャンがいたらしい。
けれど傷だらけの探偵は、なぜか口許に笑みを浮かべていたとかいないとか……
そうして十数名の命を奪った爆発事件は犯人の自首と、爆弾が解体されたことによって最悪の事態を免れ、終幕したのだった。
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