場所はイギリス。
 誰が見ても溜息を吐いてしまうような、そんな豪邸の中。
 どこを見ても白を基調とした造りのそこは、清潔で美しいイメージを見た者に与える。
 その中で、造りに見合う年代を感じさせる黒い手巻き式の電話が、突如として鳴り響いた。

 ここの電話はあまり鳴らない。
 それはここの家主が海外と日本とを行ったり来たりする生活を送っているためだ。
 彼に連絡を取るには、携帯電話を使用した方が早い。
 日本のものとイギリスのものとを常に持ち歩いているからだ。
 だから、ここの電話はあまり用を成さない。
 勿論、鳴ることもある。
 けれどそれは、ある一定の状況下に陥った場合だけのことである。
 そしてその場合とは、常に切羽詰まった状況であった。

 優雅にソファに座して、原本の小説を片手にくつろいでいた彼は、表情を引き締めると敏速に受話器を取った。
 電話をかけるためというよりは趣味で揃えた手巻き式の電話は、さすがに使い勝手が悪い。
 けれど彼は手慣れた様子でそれを使っている。


「Hello, whom is it?」


 本場イギリスの、綺麗な発音で流暢に話す。
 当然相手も英語で返すと思っていたが、彼の予想は大いに外れた。


『やぁ、こんにちは。元気にしているかい?』


 彼は受話器を持ったまま暫し硬直し、それでも、なぜこの人が自分に電話をかけてくるのだろうかと思考した。
 面識がないわけではないが、深い関わりがある訳ではない。
 それどころか、実際は顔を合わせたのはたった一度きりである。
 それも特殊な場面での。

 なんとか冷静を保ちながら、声を紡ぎ出す。


「工藤、優作さん、ですか。」

『そうです。』

「貴方のような方が、僕に何の御用ですか…?」


 世界屈指の推理小説家と言われている、工藤優作。
 けれどそれだけの男ではないのだと知っている。
 長年培ってきた経験が、たった一度の会話で嫌と言うほど警告していた。

 不審を顕わに尋ねると、優作は受話器越しに微苦笑をこぼした。
 くすりと笑う様が嵌っていて、癪に障るどころか息を呑んでしまうそうになる。

 けれど次の瞬間、硬く冷え切った声音が端的に告げた。


『息子を頼みたい。』
















◆◆◆ 蒼天使 ◆◆◆
















 新一はぶすくれた表情でテーブルに腰掛けていた。
 本当はその勢いのまま自室に駆け込んでも良かったのだが、それではあまりに子供っぽいような気がして出来なかったのだ。
 けれどその表情は、明らかに不機嫌ですと言っている。
 それだけで快斗と白牙の微苦笑を誘うには充分だった。


「怒んないでよ、新一。」

「お前も納得したはずだろう?」


 まるであやすような声音に、新一の機嫌は更に降下していく。

 本当は新一だってわかってる。
 このことについては数日前にきっちり話を付けた。
 最終的に納得し、頷いたのは新一自身だ。
 別に誰に強要されたわけでもない。

 …でも。


「訓練なら俺だって行って良いじゃねーか。」


 結局はそこに戻ってしまうのだった。

 快斗と白牙は今日、白牙の故郷である中国に向かう。
 目的は訓練。
 そこに問題はない。
 問題なのは、なぜそれに自分がついて行っては駄目なのかということだ。
 先日の組織の残党との戦いで、自分の弱さを痛感させられたのは新一も同じだった。
 それなのに、白牙は快斗だけを連れて行くのだと言う。
 新一はそこが気に入らないのだ。


「あのね、新一。」


 いつのまに寄ったのか、快斗が目の前に立っていた。
 真剣な表情が見つめてくる。
 ふわりと優しく両手で顔を包まれて、新一は目を逸らすことが出来なくなった。
 視線をぴたりと合わせたまま、快斗が優しい声で言う。


「俺は今、焦ってる。俺のこと、新一のこと、組織のこと、…パンドラのこと。色々ありすぎて、でも全部棄てられないから、焦ってる。」


 新一は黙って頷いた。
 快斗が怪盗なんてものをしている理由も知ってるし、それをしなければならない状況だと言うことも知っている。
 刻々と迫る、彗星。
 大人しくはしてくれない、組織。
 狙われる、自分と快斗。
 新一だって焦らずには居られないだろう。


「だから俺は、今よりずっとずっと強くならなきゃ駄目なんだ。」

「それなら俺だって一緒じゃねぇか。」

「うん。新一も強くならなきゃ駄目だ。」

「なら、」

「でも今回は、駄目なんだよ。」


 新一は口を噤んだ。
 噤むほか無かった。
 なんで、と反論したかった声は、音に成らずに喉へと消えた。
 快斗が……痛いほど真摯な眼をしていたから。


「お前がいると、俺は強くなれないんだよ。」

「……なん、で。」


 お前はお荷物だ。
 そう言われている気がして、新一は顔を歪めた。
 けれどそうではないのだと、優しく頬を撫でる快斗の手が伝えてくれる。
 新一は微かに目を伏せて、快斗の言葉を待った。


「新一は優しいから。…こんな俺を、殺してくれるって言ってくれた。すごく嬉しかったよ?」


 本当に、心底嬉しそうに快斗が笑う。
 なんだか眩しいような錯覚に、新一は思わず目を眇めてしまう。


「だけどね、それじゃ駄目なんだ。俺はその優しさに甘えちゃいけない。甘えたら、弱くなる。強くなれない。」

「快斗……。」

「新一がいると、…俺ってまだまだ弱いから、甘えたくなっちゃうんだ。だから、一緒に行けない。」


 新一は瞳を伏せて、頬に触れていた快斗の手を掴んだ。
 掴んだ手にぎゅっと力を込めて、伏せていた目をぎゅっと閉じて。
 それから目を開けると、まっすぐに見つめてくる。
 その瞳は、蒼く輝いていた。


「…そこまで言うなら、邪魔しない。」

「邪魔なんて、」

「でも。そういうことだろ?」

「新一…」


 ふ、と新一が息を吐く。


「別に良いんだ、わかってる。俺はお前みたいに体力もないし、発作なんて爆弾抱えてるし、…こんな目だし……」

「そんなことねぇ。」


 新一の手を振り払って、快斗の手が再び顔へと伸びてくる。
 その手ががっしりと新一の後頭部を捉え、ぐいと引き寄せられて。
 反射的に目を閉じた新一の瞼に、暖かい何かがそっと触れた。
 吃驚して目を開ければ、予想以上の至近距離に快斗の顔が覗いていて、暖かい何かは快斗の唇なのだと知った。

 カッとして怒鳴ろうとした新一の声を遮って、快斗が言う。


「俺はこの蒼い瞳が大好きだよ。」


 額に掛かっている前髪を、マジシャンの繊細な指が優しく梳く。
 その心地良い感覚に、新一の逆立っていた神経も次第に穏やかになっていく。


「伝説の瞳だからじゃなくて、何よりお前の意志を強く強く反映させる、この蒼い目が大好きだ。」


 それにね、と快斗は続けた。


「体力がなくても、新一にはそれを上回るだけの能力がある。発作だって薬を飲まなきゃそうそう起きないだろ。」


 だからそんな風に、悪く言わなくて良いんだよ、と。
 快斗の声が優しく告げて、新一は自分がまるで我侭な子供のようだと、少しだけ悔しくなったけれど。
 これ以上慰められるような自分では駄目だと、小さく頷いた。

 その様子を傍観していた白牙の手が伸びて、新一の整った黒髪をぐしゃぐしゃと撫で回した。


「帰ったら次はお前の訓練に付き合ってやるから、体怠けさせるんじゃないぞ。」

「!…絶対だからなっ」

「ああ。」


 食らいつくように見上げてきた新一に、白牙は苦笑した。

 新一が今回の件になかなか頷こうとしなかったのは、自分だけが取り残されるように感じたからだ。
 新一は白牙の手腕を知っている。
 快斗の才能も知っている。
 幼かった頃ならまだしも、今の快斗なら、驚くような吸収力で力を付けていくだろうことは、簡単に予測出来ることだ。
 そうなった時、新一は本当に快斗に“守られる”だけの存在になってしまう。
 それだけは、そうなることだけは、どうしても嫌だったのだ。
 けれど、帰ってきたら自分の訓練にも付き合ってくれると言う白牙に、新一は漸く納得したのだった。

 白牙は不意に手を止めると、長身を屈めて新一の顔を覗き込んだ。
 その目の真剣さに、新一は息を呑む。
 それまでの笑みもどこへやら、少しも笑っていない表情で白牙が言う。


「俺たちが居ない間、目立ったことは絶対にするな。」


 白牙の言いたいことを悟り、ゆっくりと頷く。


「出来ることなら警察の要請も全部キャンセルさせたいぐらいなんだが……流石にそれは聞いてくれそうにないな、救世主さまは。」

「…俺への要請は、切羽詰まってるからだ。」

「わかってる。ただ、無茶はするな。」

 わかってるだろう?


 視線でそう語りかける白牙に、新一は再び頷く。
 それに白牙も頷いて、新一の頭に乗せていた腕をどけた。

 自分たちが敵に回している者はあまりに多い。
 正体すら掴めていない者も大勢居るのだ。
 そんな中で、自分ひとりの力で全てをどうこう出来ると思えるほど、新一は馬鹿ではない。



 肩に荷物を背負って玄関へと向かう、快斗と白牙。
 新一は無言でその後ろについて行った。

 片手をひょいとあげただけであっさりと出て行った白牙。
 玄関で靴を履き終えた快斗が、背後に佇む新一へとくるりと向き直る。


「それじゃ、新一。行ってくる。」

「……ん。」


 にっこり笑って頬にキスをしてくる快斗に、軽い蹴りを見舞って追い出して。
 さっさ歩き出した白牙に駆け寄り、一度だけ振り向いた快斗は、それきり振り向かずに工藤邸をあとにした。

 新一は仄かに赤みの差した頬を手で拭って、ぶつぶつと文句を言う。
 快斗のこんなスキンシップは、ほぼ日常化していて、もう初めの頃ほど真剣に怒ることもなくなっていた。
 それでも慣れてしまうのは何だか嫌で、その都度蹴りを入れていたりする。

 新一は、これからこの家の中がひとりだけになると思うと、胸のあたりが物足りないような気がした。
 それが“寂しい”と言う感情だとは気付かないまま、パタリと音を響かせ扉は閉まった。










* * *


 快斗と白牙でいなくなってしまってから。
 急に静まりかえった家の中で、時計の針の音が妙に耳についた。
 カチカチと規則的に、一寸の狂いもなく時を刻むその音を聞いているのが何となく嫌で、新一は小説を読みふけっている。

 お隣の阿笠邸は、夏休みと言うことで早速恒例のキャンプに出ている。
 コナンの消えた今、少年探偵団の頼れるお姉さんとなった哀は、勿論強制参加だ。
 まあ、本人も嫌がってるわけではないのだが。

 と、いい加減小説の文字を追うだけの行為にも飽きてきていた頃、工藤邸のインターホンが鳴った。
 ただでさえ浮上していた意識は、その音で完全に浮上させられる。
 新一はさっさと本を放り出すと、玄関に向かった。

 玄関に付けられた小型テレビ。
 身辺が危うくなってから、快斗が嬉々として取り付けたものだ。
 それに映された門の外に立っている人物を見て、新一は首を傾げる。
 良く知っている人物だ。
 良く知っているが……現在は日本ではなく、海外に居るはずなのだが。

 とにかく不審人物ではないらしいと新一は扉を開け、その人へと声をかけた。


「よぉ、白馬。」


 倫敦帰りの、怪盗キッドを追いかけ回す、自分と対等の力を持った探偵である。
 こんにちはと言って、丁寧に軽く腰を折ってお辞儀をする白馬の姿が目に入る。
 新一は内心複雑な気持ちでひょいと片手を上げた。

 新一は現在、今はちょっと中国に行ってしまっているが、件の怪盗と一緒に住んでいる。
 事情が事情であるからこの状況に不満はないが、それでも純粋にキッドを追い掛ける白馬に悪い気がしてしまうのだ。
 そのせいか、最近はあまり白馬と顔を合わせることもなくなっていたのだが。


「急にどうしたんだ?何か事件?」


 新一がそう話しかけると、白馬は怪訝そうに眉を寄せた。
 更に新一も怪訝そうに眉を寄せる。
 そんな目で見られる覚えはないからだ。

 が、次の台詞に、新一は完全に瞠目してしまうのだった。


「何言ってるんですか。日本を発つのは今日の予定でしょう?」

「……はぁ!?」


 日本を発つ。
 つまり、どこぞの海外へ出掛ける、と言うこと。
 それはわかる、わかるんだが。


(……そんな話聞いてねぇぞ!)


「……もしや、何も聞いてないなんてことは…」

「……………。」

「…あるんですね。」


 こくりと頷いた新一に、白馬は頭を抱えたくなった。
 頭の中に回ってる言葉は、何を考えてるんだあの人は!である。


「日本を発つって、何で?」

「優作さんから頼まれたんですよ。」

「……なんて?」

「夏期休業の間、貴方を連れてフランスに滞在してくれ、と。」


 当の本人に何の相談もなく話を進めている自分の父親に、新一は怒りを通り越してもう呆れるほかなかった。
 何より気の毒なのは白馬である。
 あの父親と17年付き合って来てある意味慣れている自分ならまだしも、何の免疫もない白馬を巻き込むのはどうかと思う。

 それに、第一。
 白馬に頼むあたり…フランスと指定するあたり。


「知られてるのか?」

「……そのようです。言った覚えは全くないんですが。」


 苦笑する白馬に、新一も苦笑を返したのだった。
 優作の情報量が半端ではないことは、息子の自分がよく知っている。


「巻き込んで悪かった。」

「いえ…僕としても、何かと狙われやすい君を放っておくよりは、行動を共にした方が安心できます。」


 またも子供扱いかと眉を寄せたが、新一はそれ以上は突っかからなかった。
 それよりも気になるのは。


「フランスって言うんだから当然……リヨンか?」

「まぁ、何を言われたわけでもありませんけどね。僕はそのつもりです。」

「へぇ、本部に連れてって貰えるんだ?」

「すでにあちらにも許可を取ってありますから、入れますよ。」

「ふぅん。」


 新一の瞳が愉しげに眇められる。
 なんだかんだと言いたい文句はやまほどあるが、ICPOに興味がないかと言われればあるに決まっている。
 そのあたりも考慮してのことだろうと思うとちょっと悔しいが、好奇心に反抗心は勝てない。
 と言うより、新一の場合好奇心をまさる欲求は存在しなかった。


「ICPOの研修生ですから、色々と活用すると良いですよ。」

「……良いのか?俺、一般人だぜ?」

「良いと言うか君の場合は…ぜひにとお願いしたいですね。事件体質のうえ、命も狙われますし。身を守る術を更に磨くのも良いと思います。」

「まあ、そりゃそうだな。」


 自分の事件体質は嫌と言うほどよくわかっている。
 一般レベルなら己のみを守るのも用意だが、相手が世界クラスの殺し屋となれば話は別だ。
 国際刑事警察機構で色々と学ぶのも悪くない。

 そうと決まれば、と早速準備に向かおうとした新一を、けれど白馬が引き留めた。


「実は、優作さんに言われてもうすでに荷物は運んであります。」

「…まじかよ。なら、パスポート取ってくる。」


 用意周到のくせに、肝心の自分には連絡を寄越さないのだから、全くもっと質が悪い。

 新一は溜息をついて、二階の自室へと向かった。





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久々スタート、SeacretKey シリーズの新連載♪
先はとっても長そうだけど頑張ります。
こんなヘボ設定ですが、待っていて下さった方、お待たせです。
蒼天使はタイトル見りゃ解ると思うけど新一メインです。
今回はほぼ快斗出てきません。笑。
ちょろっと書くかも知れないけどね…予定ではまず出ない。
話を進めていく上で必要なので。
また別にこの時期の快斗編みたいなの書きますが。
では、暫くお付き合い下さいませvv

03.06.25.