そこは白馬の自宅兼研究所というだけあって、見た目は普通の――と言うにはかなり豪奢ではあったが――一戸建てだった。
門に設置された監視カメラや最先端技術を駆使した防犯装置などを見れば、この家のセキュリティがどれほど高レベルなものかが分かる。
流石は警視総監の息子、と言うよりは、仮にもICPOに籍を置く者だけのことはある。
白馬に促されるまま家へと上がれば、彼にばあやと呼ばれている女性が迎えてくれた。
落ち着いた物腰の五十代半ばくらいの初老の婦人だ。
彼女は少し白の混じった、けれど全体的に色素が薄いためかあまり目立たない髪をきつく巻き上げ、落ち着いた色の服を着ていた。
それですらどこか高級なイメージを与えるのが、白馬探をお坊ちゃん≠セと思わせる要因だろう。
彼女はにっこりと嫌味のない笑みを浮かべ、深々と腰を折った。
「おかえりなさいませ、探坊ちゃま。そしていらっしゃいませ、工藤さま」
「ただいま、ばあや。何か暖かいものを出してくれるかい?」
「畏まりました」
ふたりが通り過ぎるまでひっそりと傍らに控える彼女に新一が「お邪魔します」と声を掛ければ、彼女はまたにっこりと笑った。
せっかく綺麗に敷き詰められた絨毯の上を濡れた体で歩くことには抵抗があったけれど、同じように濡れた白馬が気にすることなく進んでいくので、新一もそれに倣った。
通されたのは、一目見て高価な代物と分かるアンティーク調のテーブルと椅子が並べられた客間だ。
そのひとつに促されるまま新一が腰掛けると、白馬もその真向かいに座った。
「研究施設は全て地下にあります。あらゆる人災・天災の被害が及ばないようにね。ひとまず体を温めてから向かうとしましょう」
「長居はしないぜ。迷惑になるし」
「このままだと風邪を引いてしまいますよ。君の主治医という方にも何か言われるんじゃないですか?」
「…まあな」
白馬の言葉は尤もだ。
新一が風邪など引こうものなら、ここぞとばかりに哀は小言を吐くだろう。
いや、小言なんて可愛いものではない。
新一が渋々頷くと、まるでタイミングを見計らったかのように先ほどの婦人がお盆にカップをふたつ載せて現われた。
扉が開くなり室内に立ち込めた鼻孔を擽るコーヒーの香ばしい香りに、新一の気持ちも自然と緩む。
組織の残党の相手をするうちに、無意識に体に力が入っていたのだろう。
婦人は慣れた手つきでカップをテーブルに並べると、失礼しますと小さく告げて客間を後にした。
口内に広がる味は苦く深く、コーヒーの味には少しうるさい新一の舌も満足させた。
「本当ならここでシャワーでも浴びて体を温めて下さい、と言いたいところですが、飲み終えたら早速地下へ行きましょうか」
「ああ、分かってる」
美味いコーヒーを堪能できないのはちょっと残念だが、そんな悠長なことを言っている場合ではない。
この豆はどこで購入しているのか後で聞こうと決めて、新一は味わう暇もなくコーヒーを飲み干した。
ほぼ同時にふたりはカップを置き、白馬の誘導で地下室へと下りていく。
真っ白い壁に包まれた階段を下りて扉を開けば、またも真っ白い壁に包まれた広い空間が拓けた。
研究所と言われるだけあって白を基調としたそこには清潔感が漂っている。
あちこちに設置された専門機器が、地上から見える高級住宅と不釣り合いだった。
珍しそうに辺りを見回す新一は、阿笠邸の地下にある研究施設を――新一の主治医も務めるようになった哀によって医療器具も揃えられたそこを連想していた。
あそこもまた白を基調とした造りになっている。
「工藤君、どうぞこちらへ」
白馬はネクタイを緩めてカッターのボタンを上からふたつほど外すと、ひとつの小さな機械の前にロールのついた椅子をふたつ並べ、片方に自分が腰掛け、もう片方を新一に勧めた。
新一が腰掛けるとすぐに、機械を起動してキーボードで何事かを打ち込み、細いコードが付いた何かを読み取るライトのようなものを取り出す。
新一が「腕を出して下さい」と言われるままに袖をまくり左腕を差し出すと、白馬はライトをそこに宛った。
何だかスーパーのレジで読み取られるバーコードを連想しながら、新一はその様子をじっと見守っている。
形や操作から、これらの機械がどのような働きをするのかは大体予想できるが、新一には取り扱えそうもなかった。
「やはり何か金属のようなものですね…左腕の肘の内側に深く入り込んでいる…」
モニターに映し出されるデータを白馬がキーを打ちながら次々と処理していく。
何度かその作業を繰り返した末、白馬が苦い息を吐いた。
「これは…思ったより厄介ですよ、工藤君」
「なに? 追跡装置なんだろ?」
「ええ。非常に微弱ですが電波を飛ばしています。たぶん、専用のコンピュータがあるはずです。でなければこの信号をキャッチするのは難しいでしょう。…それも、確かに厄介なんですが…」
「…なんだよ、はっきり言ってくれ」
どうにも歯切れの悪い白馬に新一が先を促せば、言いにくそうにしながらも白馬は口を開く。
「はい…この微弱な追跡電波の他にも、特殊な電波を出しているんです。微かにですが磁気もあるようですから、簡単に手術などで取り出すことは難しいでしょう」
「除去できないのか…面倒だな。で、その特殊な電波ってのは?」
「まだ分かりません。特殊なものですから。これがどう影響するのか、または何も影響しないのか、それも分かりません」
組織の残党が用いたものだ、何の影響もないはずがない。
ただの追跡装置ならわざわざ相手に悟られる危険を冒してまで体に埋め込む必要はないし、監視ではなく殺しが目的なら、この装置を埋め込む隙のある相手など簡単に殺せるだろう。
人の体を幼児化させるような面倒な薬を作った組織だ。
何らかの影響を及ぼす可能性のある特殊な電波を放つこの追跡装置の方が余程現実的だ。
苦い表情を浮かべる白馬を余所に、新一はまるで他人事のように冷静だった。
いや、むしろ自分のことだからこそ冷静でいられると言った方が正しい。
他の誰かでなくてよかったと、心底からそう思っているのだから。
それから随分と長い間、白馬は眉間に皺を寄せながらモニターと睨めっこをしていたが、一向に謎の信号を解明することはできず、打開策も見つからないまま時間ばかりが過ぎていった。
「もういいぜ、白馬。そもそもこういうことはおまえの分野じゃないだろ?」
「確かに僕は推理を得意とする探偵ですから、こういった研究はある意味フィールドが違いますが…そうも言ってられないでしょう。この機械を扱えるのは僕だけなのですから」
尤もな反論に新一は暫く考え込み、あるひとつの結論に達した。
少し――と言うか、断然気は進まないが、そうも言っていられない。
「じゃあ、今分かった有りっ丈のデータをMOに入れて俺にくれないか?」
「構いませんが…」
首を捻る白馬に新一は観念したように白状した。
「俺の主治医、実は医者じゃねーんだよ。もちろん医師免許も持ってるけど、もともと科学者なんだ。あいつの専門だからあいつにも調べてもらおうと思って」
「本当ですかっ? そう言うことならちょっと待って下さい、今すぐMOにおとしますから!」
この短時間で割り出せたデータを有るだけ全てMOに叩き込んで、新一は白馬に呼んで貰ったタクシーで家へと帰った。
「送りましょうか」と言う白馬の申し出は丁重に断った。
疲れた体には魅力的なお誘いだったが、主治医が隣の家に住んでいると知られるわけにもいかない。
何と言っても彼女はまだ七歳の少女で、たとえその頭に計り知れない知識が詰め込まれていようとも、白馬の目にはそうとしか映らないのだから。
月の欠片
「おはよー、快斗!」
「よ、青子」
いつも通りの朝、快斗は眠い目を擦りながら欠伸を噛み殺し、門の前で待っていた隣に住む幼馴染みに声を掛けた。
朝は一緒に登校するのが習慣だ。
幼い頃から続けていれば「照れ」なんてものはどこにもなく、既に腐れ縁となっている。
いつまでたっても変わらず素直で可愛い青子は、快斗にとってかけがえのない大切な存在だ。
快斗が人に言えない秘密を持ってからも、何も疑わず真っ直ぐに信じてくれている。
たまに罪悪感を感じることもあるけれど、罪に手を染めても自分が変わらないことで報いようと決めていた。
「また眠そうな顔してるね、快斗。いつも遅くまで何やってるの?」
「んー? お子さまの青子には分からないようなサイトまわってんのv」
「なっ! 快斗のスケベ!」
快斗のにやついた笑いに顔を真っ赤にして、青子は渾身の力を込めて通学鞄を快斗に叩きつけた。
もちろん避けることなど造作もないことだったが、快斗はわざと叩かれて「痛ぇー!」と呻いてみせる。
それに満足したのか、ふん、と鼻息荒くさっさと先を歩き始めた彼女に、快斗はこっそり苦笑を漏らした。
実際は青子が想像しているようないかがわしいサイトではなく宝石や組織の情報を探るのが常なのだが、最近では専ら蒼い瞳の伝説≠ノついて調べて回っている快斗だ。
しかし、下らない伝説かと思えば、それは伝説と呼ぶにはあまりにも世に出回っておらず、一部の権力者連中だけが妄信していると言う、なんとも曖昧なものだった。
下手に誰でも知っているお伽話のような伝説ならそこで興味も失せるのだが、ここまで世間に広まっていないと逆に信憑性が沸く。
気付けば快斗は夢中になっていた。
それは快斗の知るある伝説とよく似ていた。
そう――パンドラの伝説に。
だがパンドラの伝説とは違い、疑いようのない証拠と呼ぶべき人物を知っているだけに、ただの伝説だと笑い飛ばすことはできなかった。
違法行為だと知りながら、それも今更だと快斗は様々な機関に不正なアクセスを行ってきたが、有力な情報は何ひとつとしてない。
唯一手に入れたキーワードと言えば「鍵」という言葉だけだった。
それですら何を意味しているのか見当も付かない。
誰かが意図的に情報を消している。
それが、連日連夜調べ回って手に入れることができた唯一の確実な情報だった。
それでも、まるで断片的にしか手に入らない情報に日々翻弄されながらも、快斗は探ることをやめようとは思わなかった。
伝説に躍らされた男が、世界最高峰の殺し屋に依頼し、工藤新一に手を出した。
そうした連中がいる限り、新一は数限りない危険と隣り合わせでいなければならないのだ。
快斗は彼を守ると約束した以上、そして彼からも許しを得た以上、彼を危険に曝す要素は全て取り除くつもりだった。
季節は春から初夏へ移ろうかというこの頃、窓の外の桜はすっかり裸になり、青い葉が風に揺れている。
久々に遅刻せずに朝から来たのはいいけれど、この気候が眠気を誘い、快斗は教室に着くなり机と抱き合っていた。
朝の快斗が眠たがりであることを知るクラスメートは特に気にした様子もない。
もう少しすればたちまち元気になって、お馴染みの少女と夫婦喧嘩を始めるのが日常だ。
その青子も、今朝ばかりはあの変態発言もあって相手にしないようだった。
チャイムが鳴り、朝のショートホームルームが始まる。
担任教師が点呼を始めた。
ふざけた割に真面目な生徒が多いこのクラスでは欠席者も少なく、順調に点呼が進んでいく中。
「――白馬君。…あら? 白馬君は来てないのかしら? おかしいわねぇ、いつもなら休むときはきっちり連絡があるのに」
白馬の名前でぴたりと点呼が止まってしまった。
白馬の時間への煩さ、もとい正確さについてはクラスメート全員からのお墨付きだ。
彼ご自慢の時計はコンマ単位で彼を動かしてくれるらしい。
そんな彼がたとえ警察からの要請にしろ、無断で学校を欠席したことは一度もない。
余程大事な用があったのか、他のことに気を取られて怠っているのか。
担任の独り言に近い呟きを聞き逃す快斗ではなく、すぐにぴくりと反応すると体を起こした。
その目に鋭い紫紺の輝きを浮かべて。
(白馬が無断欠席だと…?)
そう言われてすぐに思い当たるのは、少し様子がおかしかった昨日の白馬だ。
宝石を盗まれたことを悔しがるでもなく、逃した怪盗を憎むでもなく、ただどこか張りつめたような表情を浮かべていた。
その隣に佇む新一の自然さが逆に不自然に見えるほどだった。
何かある、そう思ってふたりの後を追った快斗は、けれど新一から電話で帰るよう促され、それに従った。
もしかせずとも、自分は帰ってはいけなかったのだろうか…?
(…なんか嫌な予感)
思い立ったら即、行動。
この世界での「迷い」は「死」を意味する。
快斗はいきなりガタン!と音をたてて勢いよく椅子から立ち上がると、驚いたクラスメートと教師の視線を一身に浴びながら、悪びれた様子もなくしれっと言い放った。
「先生! 俺、今日は早退する!」
「く、黒羽君? 君は今来たばかりじゃないのかな…?」
来たばかりも何も、授業も始まっていないこんな状況でいきなり早退などと言われれば、度肝を抜かれてしまった担任に罪はないだろう。
「入院中の母が心配なんで、お見舞いに行ってきます! あ、今日はもう来ないと思いますからっ」
「え、ええ??」
ちなみに、快斗の母が現在入院中と言うのは本当の話だ。
とは言え、ただちょっとばかり旅行だなんだとはしゃぎすぎた所為で疲労が溜まり、安静を言い渡され入院を余儀なくされただけなので問題はない。
当然、ただの口実だ。
目的はあくまで名探偵の安全確認と、オマケとばかりに白馬の意向調査と言ったところである。
「先生なら母を案ずるこの気持ち、分かってくれますよね…?」
そう言って快斗は怪盗キッドさながらの気障な物腰で恭しく彼女の手に口付けてみせた。
そうして彼女は、もう何度もこの手に引っかかっていると言うのに、今日もまた快斗の早退を認めてしまうのだった。
ポーッと放心している担任には目もくれず、快斗は鞄を手にさっさと教室を後にする。
階段も邪魔だとばかりに飛び越えて校舎から抜け出すと、工藤邸へと駆け出した。
途中、携帯電話を取り出して新一の携帯へと電話を掛ける。
(出ろよ、出ろ出ろ出ろ出ろ…)
嫌な予感に内心焦りながら携帯のコール音を聞いていれば、相手は大してコールを待たずに出た。
『黒羽だろ? どーしたんだ?』
「おや、名乗る前に相手の名前を当てるな、じゃなかったかな?」
『…切るぞ』
「あ、ごめんごめん、冗談だってv」
ジョークの通じない頭の堅い探偵の元気そうな声に、快斗は心底ほっとしたような笑顔を浮かべる。
珍しく快斗の勘が外れたようだ。
とは言え早退してきてしまった身で今更学校に戻るわけにもいかないので、快斗はこのまま工藤邸へと向かうことにした。
相手は学校に行っているのだろうが、まあ鍵なんてあってないようなものだし、ここは怪盗らしく勝手にお邪魔すればいい。
「それよりおまえ、今学校か?」
『いや』
「…どこ?」
ただでさえ出席日数が危うい新一だ。
余程のことがなければ学校を優先することを快斗もよく知っている。
『昨日の件で事情聴取に行くんだよ』
「服部に任せるんじゃなかったのか?」
『そのつもりだったんだけど、白馬が来いって言うからさ』
「ふぅん。白馬もそっちに行ってるんだ」
と言うことは、白馬の無断欠席の理由も事情聴取ということになる。
だがそんなことは日常的によくあることで、白馬が欠席の連絡を忘れるほどの理由だとは思えない。
つまり新一はまだ快斗に隠していることがあるのだろうと当たりをつけて、快斗はおどけた口調を改めた。
「なぁ…昨日何かあったのか?」
その真摯な口調に受話器の向こうで新一が息を呑む。
それを見逃してやるほど快斗は易しい相手ではない。
「名探偵、隠さずに言えよ。俺の護衛、認めたんだろ?」
『…ああ。でも、大したことじゃないんだ』
「おまえのその言葉は信用できない。おまえの言う『大丈夫』は俺で言う『ヤバイ』だ」
受話器の向こうで、新一は言葉に詰まった。
確かにこの状況を「大丈夫」と言うにはあまりにも危険すぎるだろう。
敵には常に自分の位置を把握されているため、いつ襲われても不思議ではない。
しかも新一は、腕に撃ち込まれたものが何であるか、取り除く方法があるのか、主治医にして科学者である哀に頼らなければならなくなったわけで。
従って、彼女にもいらぬ心配をかけることになった。
端正な顔はしかめられても美少女に変わりないが、その口はどこまでも毒舌で辛辣だ。
新一は散々説教された挙げ句、最後には「救いようがないわね」と呆れられ、それだけの被害(?)を被ったにも拘わらず、昨夜は結局何も得るところはなかった。
けれど、だからと言って素直にこの状況を快斗に伝えることにも抵抗があった。
快斗は自分を新一のボディガード≠セと思っているが、新一は快斗と共同戦線を組んでいる≠ツもりだ。
その認識の違いが、新一の口を重くしているのだ。
守られるのは性に合わない。こそこそ隠れて暮らすのもまた然り。
沈黙を続ける新一がそんなことを考えているとも露知らず、快斗は腹の底から溜息を吐いた。
肺の中が空っぽになりそうな勢いだ。
「なあ名探偵。俺はおまえが弱いなんて思ってないぜ。おまえが弱いから護衛しようってわけじゃないんだ」
『じゃあなんだよ』
「――俺が嫌だから。俺の知らないところでおまえが独り戦ってるのが嫌だから。おまえが傷つくのが嫌だから」
不機嫌を隠そうともしなかった新一が、受話器の向こうで息を呑んだ。
「俺は我侭なんだよ。おまえも納得したんだから、契約違反はなしだぜ?」
『…分かったよ。…昨日、さ。組織の残党とやり合っただろ? そん時に、実は――っ!?』
何かを言いかけたはずの新一の言葉が、途中で不自然に途切れた。
「…工藤? おい、どうした? 工藤?」
怪訝に思った快斗は新一の名前を何度も呼ぶが、応える声は一向に返らない。
次第に焦りが生じる。
快斗は声を荒げて名前を呼び続けたが、耳障りな破壊音とともに通話が切られ、「ツーツー」という音だけが虚しく響いても、最後まで答が返ることはなかった。
「工藤――!」
茫然と携帯を見つめたのも束の間、快斗はすぐさま工藤邸へと向けて走り出した。
通常なら優に三十分はかかるだろう道を、途中で拝借したバイクをフルスロットルで走らせ、僅か六分足らずで到着した。
しかしそこにあったのは潰れて原型の分からなくなった携帯電話と、警視庁に寄った後に彼が行こうと思っていただろう通学鞄だけだった。
* * *
「工藤君、遅いですね」
「本当に来ると言ったんだろうな?」
「はい。昨日約束しましたから」
警視庁へ事情聴取に訪れた白馬は、警察署の門扉に中森警部ら数人の警官とたむろしながら、約束の時間を過ぎても現れない新一を待っていた。
約束の時間は九時で、現在はそれを十五分ほど過ぎている。
白馬ほどではなくとも時間に正確な新一が約束の時間に遅れるとは珍しい。
(まさか…いや、でもそんな…)
言いようのない不安が白馬の胸を占める。
今この場で新一の危険な状況を知る者は白馬だけだ。
言うべきか言わないべきか。
もちろん彼の身の安全を考えれば中森に伝えるのが一番なのだろうが…
「遅い! 全く、寝坊でもしてるんじゃないだろうな」
「彼に限って有り得ませんよ」
事件とあれば寝る間も惜しんで没頭してしまうような人だ。
その彼がこの状況下でのんびりと睡眠を貪っているとは到底思えない。
「携帯に電話してみましょうか」
そう言って携帯を取りだした白馬だったが、そう言えば彼の携帯番号を聞いていなかった。
他に知っていそうな人はと見回してみても、名前も知らない警官たちはもちろんのこと、課が違う中森など論外だろう。
電話で連絡がつかないとなれば、後は直接自宅に向かうしかない。
「中森警部。彼の番号が分からないので、直接彼の家に行ってみます」
「待ってれば来るんじゃないのか?」
「ええ…ただ、少し気になることがあるんです」
「なんだ? 気になることとは」
何と聞かれても答えるわけにもいかずに曖昧な言葉を返していると、白馬はふと、ひとりの警官が一点を見つめたまま固まっていることに気付いた。
彼は大きく目を見開いて、ぽかんとだらしなく口を開けている。
まるで信じられないものでも見ているかのように、何度も瞳を瞬いている。
白馬はその様子を不審に思い、「どうしたんです?」と問いかけながら自身もその方向へと視線を巡らせ――固まった。
「か…、怪盗キッド――!」
白馬の声を耳にした中森は「なにぃっ?」と怒鳴りながら勢いよく振り返った。
見れば、まだ太陽も昇り切っていない朝日の中、月夜に活躍するはずの白い怪盗が警視庁の屋上からマントをはためかせながらこちらを見下ろしている。
背中に月光ではなく陽光を背負っているため、本人かどうかは定かではないが、あんな鬱陶しい格好をする者がそうそういるとは思えない。
「キッド! なぜ貴様がここにいる!」
「…怪盗キッドは朝も活動するんですか?」
中森の怒声も白馬の皮肉も軽く躱して、キッドに扮した快斗はただ白馬を見据えながら言い放った。
「白馬探偵に聞きたいことがあります」
その、いつもの嘲るような声とは明らかに違う真摯な響きに白馬が息を呑む。
しかと状態になった中森は怒りに顔を歪ませたが、怪盗の普段と違う出現にその理由を知りたい気持ちの方が勝ったのか、いったい何を聞くつもりかと白馬を睨み付けるように見ていた。
「僕に何を聞きたいんですか?」
「昨夜、工藤探偵に何があったのかを教えて頂きたい」
「…どうして君が工藤君のことを聞きたがるんですか?」
顔の見えない相手が不意に冷気を増したような気がして、白馬は内心で狼狽した。
白馬はもちろん、工藤新一の影にちらつく白い怪盗の存在には気付いていた。
婚約パーティにアレスが現われた時、予告状もなしに突如として現われたキッド。
あれは誰がどう見ても、彼が新一を庇っていたようにしか見えなかった。
あの日、白馬は新一に何も聞かなかったが、ふたりの関係が気にならなかったわけではない。
ただより危険な犯罪者の調査に忙しくてそちらが後回しになってしまっただけのことなのだ。
けれど当然、キッドからは白馬が望む答えは返らなかった。
「彼の命を失いたくないのなら、質問に答えて下さい」
「!」
「貴方には到底理解できないことがあるんですよ。蛇の道は蛇と言うでしょう」
白馬は、自分の知らない何かをキッドが知っているのだろうと思った。
そして白馬は、彼が知らない昨夜の新一について知っている。
もしかせずとも、これは彼の秘密を聞き出せるチャンスだ。
世紀の大怪盗の最大の謎、その犯行理由を暴く絶好の機会だ。
けれど。
「…分かりました」
白馬は一度唇を噛み、真っ直ぐにキッドを見返す。
今一番大切なことは、新一の安全の確保だ。
そう判断した白馬は、最早躊躇うことなく全てを話した。
「彼は昨日、スコッチと名乗る怪盗に追跡装置のような物を体に埋め込まれました。僕の研究所で調べましたが取り除くことはできなかったので、今後の対策も練るつもりで、今日、警視庁へ必ず来るように言ったんです。いつまたあの怪盗が接触してくるか分からなかったので」
「そんな重大なこと、一言も聞いてなかったぞ、白馬君!」
「…奴は、もう現われたんですね…?」
怒鳴る中森を余所に、白馬は怪盗だけを見据えて話す。
キッドもまた中森を気に掛けている余裕はなかった。
「そうですか…有り難う御座います、白馬探偵。名探偵は私が必ず、闇色の魔の手から救い出します」
まだ何か言いたそうな白馬と中森には目もくれず、キッドは陽光を弾く眩しいほどの白装束を翻し、文字通り消えるようにしてその場から去った。
残された中森は「どういうことだ」と白馬に詰め寄る。
「すみません、警部。お忙しい警部たちの手を煩わせないためにと、口外しないよう言われていたので…」
「馬鹿者! もっと警察を信用しないか! 君らは探偵と言われようがまだ子供なんだぞ? 忙しさなんぞ人命とは比べ物になるか!」
「…はい」
「とにかく、工藤君の身柄を探し出す! 急いで目暮に連絡を取ってくれ! 残りの者はキッドの追跡だ!」
「命」と言われて危険を悟ったのだろう、それからの中森の指揮ぶりはなかなかのものだった。
二課の、キッド専任と言われようとも普段はひとりの刑事である。
白馬は自分たちだけで全てを解決しようとしたことを少しだけ悔い、自らも新一を見つけ出すための捜査を開始した。
* * *
「ったく、冗談キツイぜ…っ」
快斗は忌々しげにそう吐き捨て、目立つ衣装を早々に脱ぎ捨てると、再びバイクに跨って走り出した。
IQ400の頭脳をフルに稼働して、新一が――スコッチが行きそうな場所を、頭に叩き込んだ地図を頼りに弾き出していく。
目立たない倉庫、或いはどこか組織に関わりの有りそうな会社、廃ビル、空き地…
生憎東京には犯罪を行うに適した場所が多すぎる。
思いつく限りの場所を虱潰しにあたるしかないのかと、快斗は舌打ちした。
(やっぱりあのとき帰るべきじゃなかったんだ…名探偵も名探偵だ、俺に隠し事するからこう言うことになるんだ!)
つい考えてしまう最悪の事態を、頭を振り払って押しのける。
まさか。
しかし、それはないと、それだけはないと信じたい。
あれがなければ生きていけないのだ。
あの人がいなければ、自分はとてもこの闇の中を生きてなどいけないのだ。
どんなに闇に落ちても、周りを闇に囲まれても、消して消えない光を持つ人。
自らの心に光を持つ人。
――光の魔神。
彼がいなければ、快斗は先の見えないこの無限の暗闇に囚われてしまうだろう。
救い出す、そう言った気持ちに偽りはない。
けれどそうするだけの力が、情報が、時間が、今は足りなかった。
彼の魔神へと続く道が見当たらないのだ。
(おまえが傷付くのは嫌だ…!)
優しい探偵。
優しすぎて、人の分まで血を流すような探偵。
そのくせ、絶対に「痛い」なんて言わない、とてもとても強い人。
そんな彼を少しでも守れたならと、彼の「護衛」になったと言うのに……なんてザマだ。
心で悲鳴を上げながらも、快斗はひたすらバイクを走らせた。
と、不意に携帯が鳴り出し、有りもしない希望を抱きながら、快斗は速度をそのままに電話に出た。
聞こえてきたのはやはり望んだ声ではなかった――が。
『そっちじゃない。彼の居場所は逆方向だ』
「…なに?」
『彼を助けたいなら俺の言う場所に行け。そこに彼は居る。急がないとヤバイぞ。おまえに迷っている暇はない』
「あんたは誰だ! 昨日の男だろ?」
『…おまえの最優先事項は名探偵≠カゃなかったか?』
思わず言葉に詰まった快斗に男は何を言うでもなく、ただ新一の居る場所とやらを告げて電話は切られた。
キッドの格好ではない快斗をキッドだと理解し、知るはずのない携帯に電話を掛けてきた男。
…罠、かも知れない。
だが、快斗に迷っている暇はなかった。
もし罠だったなら、相手があの男となればかなりの苦戦を強いられることになるだろうが、今はひとつの可能性に懸けるより他ない。
何より優先すべきは新一の身の安全だ。
快斗はバイクを反転させると、逆方向に向かって走らせた。
BACK TOP NEXT
あああ。キッドの活躍がない;
次!次こそ活躍します、多分…。
最初の予定じゃもうちょっと違う話だったのに、
だんだん変な方向に来てしまった…。まいっか。ゎ。
こんな朝っぱらから警視庁に現われて良いのか、キッド。苦。
快斗は良いかも知れないけど、この後新一は警部達にどう説明するつもりなのかしら?(他人事)
次はほとんど新一とキッドのみの予定です。
03.04.13.