の欠片










 雨が降り出してすぐに、傷によくないから建物の中へ入ろうと言った白馬の誘いをやんわりと断わって、新一はただ濡れるままに雨に打たれていた。
 熱の籠もった体には冷たい雨が丁度いい。
 まるでこの雨が熱に浮いた体を冷やしてくれているかのようだ。
 そんなわけはないと、頭の片隅では分かっているけれど、それでもただ濡れていたかった。
 再び動き始めた暗闇。
 掴んだはずの平穏が、再び遠ざかろうとしている。
 ともすれば呑み込まれてしまいそうな恐怖に、新一は必死に抗った。
 弱くは在りたくない。
 こんな体だからこそ、弱く在ってはならないのだ。
 せめて心だけでも強くなければ、迫り来る暗闇に容易く呑み込まれてしまう。
 奴らと関わった瞬間から、既に新一の人生は大きく変わってしまったのだ。
 降り出した雨は小雨だったけれど、着実に冷気が新一の体を蝕んでいた。

「…まず傷の手当をしましょう」

 数分後、ようやく到着した車に乗った白馬の第一声はそれだった。
 車に乗り込めば、気を利かせた運転手が二枚の暖かいタオルを差し出してくれる。
 新一は礼を言ってそれを受け取り、頭から被ってその秀麗な顔を覆った。
 荒くなるばかりの呼吸を、白馬に気付かれないように。

「小さな傷だからと言って侮ってはいけませんよ、工藤君」
「…悪ぃけど、治療はいいよ。帰ってからやる」
「駄目です。どれだけ傷付いてると思ってるんですか?」

 ビルからスコッチが消えた後、上着を脱いだ新一を見て、白馬は一瞬呼吸するのを忘れた。
 透き通った白磁の肌に幾筋も刻まれた傷口から鮮血が流れゆく様は痛々しく、しかしそんな姿でさえも彼の魅力を損なうことはなかった。
 傷を負って尚、追いつめられて尚怯むことのないその蒼い双眸は、見る者全てを魅了する。
 新一は白馬の尤もな申し出に苦笑を漏らし、掻い摘んで説明した。

「好意は有り難いんだけど、俺、ちょっとワケ有りでさ」
「え? それはどういう…?」
「主治医みたいな奴がいるから平気だぜ。帰ったらちゃんと見て貰うよ」
「そう、ですか」

 ショックだったのだろう、白馬は少しばかり戸惑っている。
 噂の名探偵の体には何か問題があるのだろうか。
 そう思ったけれど、そこはプライベートな問題だからと、白馬は口に出して問いただすような無粋な真似はしなかった。
 そしてまた少しの沈黙が降りる。
 聞くことを躊躇っているのかも知れないと思った新一だが、ちらりと横目で見た彼の横顔はそんな風に見えなかった。
 躊躇ってはいない、ただタイミングを計っている。
 …そんなところだろうか。

「…君は」

 唐突に紡がれた声には静かな威厳が含まれていた。
 それは、彼が真実を究明する探偵だからとか、警視総監の息子だからと言うこととは少し違うようだった。

「君は奴のことを知っていたのですか?」
「…いや、知らない」

 嘘ではない。
 正確に言えば、奴が誰なのか知らなかった、が正しい。
 なぜなら、新一は今日始めて奴に会ったのだから。
 いきなり核心をついてきた白馬の慧眼さが嬉しいような困ったような、新一は複雑な心境だ。
 同じ探偵として優れた者と相対することは決して嫌いではない。
 むしろ好ましい方だ。

「ですが君は、あの時奴のことをスコッチ≠ニ呼んでいませんでしたか?」
「あれはあいつが勝手にそう名乗ったんだ」
「そうですか…ですが、奴は君のことを知っているようでしたね。しかも、君に執着しているようでした」
「ああ、そうだな」
「何か心当たりはありますか?」

 新一は未だ顔をタオルで覆ったまま、震えそうになる声を必死で堪える。
 怯えからではなく、呼吸困難からくる震えだ。
 次第に酷くなる発作は既に限界に近づいているからなのか。
 秀麗な眉はひそめられ唇はきつく引き結ばれている。
 なかなか返らない答えを肯定とみなしたのか、白馬は尚も話を続けた。

「安心して下さい。この車内は特殊構造ですので、あらゆる盗聴器の類の電波を妨害します。外部には決して情報は漏れないと約束しますよ」

 なるほど、それで自分をここへ誘ったのかと、まるで他人事のように妙に落ち着いてこの状況を見ている自分を新一はおかしく思った。
 燃えるように体が熱い。
 それでも、まだ冷静な判断はできる。
 これは白馬に言うべきことではない。
 組織と無関係の人間に軽率に真実を話し、危険の渦中に引きずり込むような真似は、たとえ相手が誰であろうとしてはならない。
 しかしだからと言って嘘を吐くわけにもいかず、結局新一は黙秘を続けるしかなかった。

「…それでは質問を変えましょうか。奴はあのとき拳銃のようなものを取り出し、そして君の左腕に撃ち込みました。しかし君の腕に出血は見られませんね。見せてもらえますか?」

 それでも何も答えない新一に嘆息し、白馬は「失礼します」と声を掛けると新一の腕を取った。
 黙秘する割には抵抗もしない新一を訝りつつも袖をまくれば、触れた腕の熱さに白馬は思わず柳眉を寄せる。
 しかしどうしたのかと問うよりも先に、そこに現われた注射針のような痕を見てやはり、と白馬は確信した。

「あの音はサイレンサー付きの銃声と言うより、何かもっと別のものを打ち込んだ音に聞こえました。これは…何か注射痕のように見えますね。やはり出血はしていない。…もしかしたら毒物かとも思いましたが、あの後も君は普通に動いていたし、僕が思うにこれは液体と言うより何か固形物が打ち込まれた痕ではないでしょうか。僕の推理通りだとすれば、それは…」

 白馬の声が不意に途切れる。
 掴んでいた新一の腕が微かに震え始めたのだ。
 妙に高い体温と言い、もしかして本当に薬物だったのだろうかと慌てた白馬は、タオルを被ったまま俯いている新一の顔を覗き込み――瞬間、全ての動作を忘れた。

 熱で潤んだ蒼い双眸が、彷徨った末にじっとこちらを見つめてくる。
 上気した白磁の肌は今や淡い紅に染まり、薄く開かれた唇から漏れる吐息は浅く熱い。
 額や頬にうっすらと浮かぶ汗は雨粒と混じり合い、漆黒の髪を頼りなく貼り付かせた姿はどこか怪しい艶を帯びて見えた。
 こくりと喉が鳴る。
 まるでこの世のものとは思えない美貌は、正直、心臓に悪い。
 だが、その強ばった表情やきつく握り締められた拳から、彼が耐えている苦痛の凄まじさを悟り、白馬は焦った。
 もしかせずとも、先刻からの沈黙はこのせいか。

「工藤君、まさか毒物だったんじゃ…!」

 前言を撤回し、今にも病院へ突っ込んでいきそうな白馬に、けれど新一はうっすらと笑みさえ浮かべながらゆるゆると横に首を振った。
 その儚さに白馬はひどい恐怖を覚える。
 彼は白馬にとって既に失うことのできない大切な存在だ。
 そして、白馬が求めて止まない彼≠ニよく似たこの探偵が、彼≠ニ被って見えたのだ。
 どちらを失うことも、白馬にとっては恐ろしいことだった。

「違う…これは、スコッチとやり合う前からだ…わけあり、って…言っただろ?」
「それは、つまりどういう…?」
「軽い…発作、なんだ…っ」

 時折堪えるように苦痛に顔を歪ませる新一を見る限り、少しも「軽い」発作には見えなかった。

「おまえの…胸ポケット…」

 噛み締めるようにそう呟かれた言葉にはっとし、白馬は新一から預けられていたスーツの胸ポケットを探った。
 するとそこには小さなピルケースが入っていた。
 大慌てで「何錠ですっ?」と尋ねれば、人差し指を立てた新一に一錠を取り出した。
 飲み下すための水を用意しようとしていると、力無い手が白馬の手の中から錠剤を奪う。
 水なしで飲める薬だったのだろう、新一はそのまま飲み下すと、息苦しいのか胸元を肌蹴させ、何度も浅く短い息を吐いた。
 暫くそのまま様子を見守っていると、ようやく落ち着いてきたのか、新一がぽつりぽつりと話し出した。

「おまえの言う通り、あれは毒物なんかじゃない。薬関係でもないな。もし薬だったら、俺、意識飛ばしちまうぐらい酷い発作になってたし…」
「そうなんですか…?」
「おまえに知られちまったのは予定外だな。内緒だぜ? 警部にも他の誰にも、俺の体のことは言わないでくれ」
「…ええ」

 先ほどの厳かな口調はどこへやら、完全に意気消沈してしまった白馬に新一は苦笑する。

「で、俺に埋め込まれたもんだけど。おまえの推測通り、多分発信器の類だ。じゃなきゃ奴はあんな台詞言ったりしねえ」
「やはり…。では、これから君は更に危険な状況に陥ったと言うことではないですか?」
「さぁな」

 今更、この程度のことが危険だとは思わない。
 今までだって命を狙われたことは何度もあった。
 幼い頃から有名人の子供だと言うだけで誘拐されかけたこともあるし、探偵と名乗り始めてからは数え切れない恨みを買った。
 だが、そんな自分を煩わしいと思ったことは、過去数える程度しかない。
 まだ幼かった頃、探偵として守るべき者を守れなかった時、そして――コナンだった時。
 その程度だ。
 悲観するのは主義じゃない。

「では、僕が君を守りましょう」

 唐突にそんなことを言い出した白馬を新一が唖然とした表情で見遣るが、彼はこの上なく真剣な眼差しだった。
 二度も、思いも掛けない人物から「守る」などと言われて、流石の新一も言葉がない。
 そんなに自分は頼りなく見えるのだろうかと、どこか根本的に間違った結論に至った。
 頼りない云々が問題なのではなく、国際的犯罪者にマークされた時点で当然の処置であると言うことは、完全に彼の頭の中から抜け落ちていた。
 工藤新一とは、こと自分のことにかけては全く鈍感な男なのだ。

「守るって…おまえは探偵だろ? それにこれが発信器と決まったわけでもないし…」
「いえ、そうだとしても、君の周りにはまだ国際的犯罪者がいるではないですか」

 思わず強張りそうになったが、新一は必死で平静を保つ。
 まさかキッドのことを言っているのだろうか、と。
 けれど、白馬の口から出たのは別の名前だった。

「国際犯罪者、危険度S級の超危険人物。凄腕のスナイパーにして体術までをも駆使する、イギリスから生まれたと言われる殺し屋――アレス」

 その名前に、新一は目を瞠った。

「彼と先日の婚約パーティで接触しましたよね。あの時、あの場にいたほとんどの者は覚えていないようですが…君は明らかに彼と面識があった。そして工藤君…君は彼と敵対していましたね。彼の撃った銃痕が発見され、それを検証した結果、イギリスで彼が暗躍していた頃に残されたものと一致しました。従って彼は本物のアレスだと判断されます」
「…おまえ、何者だ?」

 一介の高校生探偵が知るはずもない。
 超危険人物とまで言われる殺し屋が過去に残した僅かな爪痕など。
 日本警察ですら、あの時現れた彼が本物であったかまだ分かっていないのだ。
 それを、彼らの知らない間に検証まで済ませているとはどういうことか。
 しかも、婚約パーティの後、新一はアレスについて密かに警視庁に探りを入れたが、イギリス出身などというプロフィールは見つからなかった。

 ――いや、探っていない機関はもちろんあった。
 しかしそれをしては法に触れるからと止めておいたのだ。
 けれど目の前の彼は、その門外不出であるはずのデータを知っている。
 それは何を意味するのか。
 白馬の口から紡がれる言葉が、新一の耳にゆっくりと流れ込む。

「僕は――ICPOの者です」

 半ば予想していた返答に、それでも新一はそこに嘘がないか確かめるようにじっと白馬を見つめた。
 白馬はそんな新一を真っ向から見つめ返す。
 だが、そもそも新一は彼の言葉を疑っていなかった。
 彼の目は嘘を吐いている者のそれではないし、増してそんな嘘を吐く必要が彼にあるとも思えない。
 何よりも決定的な証拠は、先ほど彼が挙げたアレスの情報だ。

「おまえがICPO、か…」
「はい。ただし、特例ではありますけどね。僕はまだ学生ですから」

 でもICPOの籍はありますよ、と言ってIDを見せる白馬に、確かに彼ほどの探偵なら特例だって降りるだろうと新一も納得した。

「先日僕が倫敦へ帰郷したのは本部に報告に行くためでした。もちろん、アレスの件でね」
「それであの時、おまえは俺に何も言って来なかったんだな?」
「本物かどうか確かめる必要がありましたからね。仮定の段階で下手に君を尋問して僕のことがばれるわけにはいかなかったんです。君は僕を遙かに越える慧眼の持ち主ですから、下手に口走ってはばれてしまう可能性が高かった。現に、僕のたったあれだけの行動で君は既に疑問を抱いていたようですし」

 それは買い被りだと、新一は苦笑を浮かべる。
 白馬の意外な正体に驚かされたのは確かで、ただ相変わらずのポーカーフェイスに隠されたそれを白馬が見抜けなかっただけだろう。
 だが、彼の行動の節々から、何か他とは違うものを感じていたことも事実。
 ただの探偵にしては行動が鋭く、スコッチほどの実力者を前に彼は怯むどころか反撃して見せた。
 それは明らかに場慣れした者の動きだった。
 普通に過ごしている人間にはとてもあんな行動は取れないだろう。
 そう――たとえ西の探偵であっても。
 おかげでスコッチとのことを平次や中森、何より彼≠ノ知られずに済んだ。
 そう思い、新一はふと窓の外を見遣った。

「白馬、これっておまえん家に向かってるんだよな?」
「そうです。予め君の腕に撃ち込まれたものが発信器の類だと見越して、僕の研究所にある器具で何とか取り外せないものかと思いまして」
「そっか。サンキュな」

 いえ、とはにかむ白馬を余所に、新一は尻ポケットに突っ込んでおいた携帯電話を取り出した。
 白馬がICPOの人間だと聞かされた時から、新一には気になることがあった。
 それは、このリムジンの後を追う彼≠フ存在だ。
 これも単なる第六感だが、そもそも彼≠フ性格上、新一を追って来ないはずがない。
 だが、このまま彼≠ノ尾行を続けさせるのはまずいだろう。
 仮にも白馬はICPOの人間なのだから。
 今はまだ気付いていなくても、何を切っ掛けに気付かれるか分からない。
 第一、自分の腕に埋め込まれた秘密を知られたくなかった。
 知られれば、また余計な心配をかけてしまうことになる。
 彼≠ノも、哀にも。

「話の腰折って悪ぃんだけど、主治医に電話かけてもいいか? 帰ったら看てもらわなきゃならねーから」
「もちろん構いませんよ」
「サンキュ」

 白馬は扉に設置された機械を操作し、電波妨害システムを解除する。
 そうして新一は短縮登録してある哀にではなく、暗記していた彼≠フ――黒羽快斗の番号を押して電話を掛けた。










* * *


 快斗は現在、間に五台の車を挟み、リムジンの後をバイクで追跡していた。
 あの後。
 招待客に紛れて帰るふりをしてこっそり引き返した快斗は、彼らの死角からずっとふたりを観察していた。
 やがて降り出した雨に、当然屋内に避難するものと思えば、腕を引き屋内へ連れ込もうとした白馬をやんわりと振り払い、新一は雨の中ずっとそこに立ち尽くしていた。
 何をしてるんだ、風邪を引くだろうと、すぐにでも室内に連れ込みたい気持ちを抑え、快斗はただそんな彼を見守っていた。
 新一に付き合い白馬もまた雨の中佇んでいたが、ふたりとも口を開くことはなかった。
 やがて長い沈黙の末にようやく到着したリムジンにふたりが乗り込むのを見届け、快斗もその辺から適当に拝借したバイクに跨った。
 そうして怪しまれてはいけないと、常に一定の距離を保ちながらふたりの乗ったリムジンを追跡した。

 ヘルメットの奧に隠し持っていたイヤホンを耳に付け、周波数を合わせる。
 実は、以前阿笠邸にお邪魔した際に、新一の携帯電話に発信器と盗聴器を兼ねた小型機器を取り付けていた快斗だ。
 当然、彼の許可は取っていない。
 だが発信器も盗聴器も、もしもの時のための命綱なのだ。
 新一にとって携帯電話は命と頭脳の次に欠かせない必需品であり、活動範囲の広い探偵の唯一の連絡線だ。
 そのため常に肌身離さず持ち歩いている。
 まるでプライベートを覗き見るようで悪いとは思いつつも、秘密主義の探偵相手にそんな悠長なことは言っていられなかった。
 今がその「もしもの時」なのだから。

 あの後、新一の様子におかしなところはない。全くの普通だ。
 だが、彼のポーカーフェイスは怪盗キッドにも引けを取らない一級品だ。
 顔に出ていないからと言って信用はできない。
 だが、白馬の様子を見れば一目瞭然だった。
 どこか緊張した面もちでぴりぴりと落ち着かない気配を放っていた。
 怪盗として第六感に優れた快斗だからこそ分かる。
 何かが、あった。
 だからこうして快斗はふたりの後を尾行しているのだ。
 白馬を信用していないわけではないが、ふたりに何かが起きた場合、すぐに対処できるようにと思っての判断だった。

 しかし、取り付けたはずの盗聴器からは周波数を合わせても何も聞き取ることができず、聞こえてくるのはザーザーと言う雑音だけだった。
 快斗はあのリムジンの特殊な構造を知らない。
 もちろん盗聴防止システムが取り付けられていることも知らなかった。
 相変わらずの雑音しか届けないイヤホンに舌打ちし、快斗は追跡のみに専念することにした。
 なんてことはない、リムジンはまっすぐ白馬の家へと向かっている。
 雨の中、警察の事情聴取をさぼってまでいったいどこへ行くのかと思ったのだが、今回は当てが外れたか。

 そう思い始めた時、快斗の携帯が不意に鳴り出した。
 直感的にそれが彼からのコールだと悟り、慌てて取り出す。

「はいっ」
『宮野か? 工藤だ』
「え? 哀ちゃん? 違うよ、俺は黒羽だよ」
『実は例の発作が起きちまってさ…今、白馬の車で送ってもらってるんだ。ちょっとあいつの研究所で調べたいもんがあるから遅くなるけど、その後で診察してくれないか?』
「…工藤?」
『そっか、サンキュ。発作なら薬飲んでおさまったから…ああ、無茶はしねーよ。それじゃな』

 新一はそれだけ言うと通話を切ってしまった。
 この謎の電話の意図を解明しようと、快斗は400もあるらしいIQをフル回転させた。
 彼は、快斗の尾行に気付いていたのだ。
 天性の探偵である鋭い嗅覚を持った彼なら有り得ないことではない。
 そしてその探偵がいるのは、同じく探偵を名乗る白馬探のリムジンの中。
 つまり彼は、自分を尾行している快斗に気付き、心配はないと伝えるためにこんな電話を寄越したのだ。
 快斗をキッドと疑う白馬に余計な疑いを持たせないために。
 けれど大して親しくないはずの快斗に電話を掛けるのはあまりに不自然すぎるから、わざわざ宮野志保≠フ名前を出した。
 そこで灰原哀≠フ名前を出さないところが実に彼らしい。
 おそらく車内で発作を起こし、それを心配した白馬に「主治医に連絡する」とでも言って電話を掛けたが、実在する小学生の灰原哀≠フ名前を出すのは危険かも知れないと判断してのことだろう。

 どうやら杞憂だったらしいことに快斗はひとまず安堵した。
 一風変わった方法で連絡してきた彼に苦笑して、借り物のバイクを自宅へと向けて走り出す。
 そう言えばまた母に「無事仕事終了」の報告を忘れていたなと、それほど時間は経っていないにしろ心配を掛けるわけにもいかないからと、快斗は再び携帯を取り出すと母へ電話を入れた。










* * *


 新一は遠ざかっていく快斗の気配に、白馬に気付かれないようにそっと息を吐いた。
 主治医に電話を掛けるふりを装って、まるで会話しているかのように受け答えし、一方的に通話を切った。
 だが、頭のいい彼にはそれで通じると思った。後は自分が彼に悟られるようなヘマをしなければ問題ないとは思ったが、聡い彼に気付かれやしないかと冷や冷やした。
 快斗の気配が完全に消えるのを待ってから、新一は改めて白馬へと向き直った。

「それで工藤君、ここからが本題です。君はアレスとも関わりがあるんですか?」
「あいつの仲間かって意味で聞いてるんなら、蹴り倒すけどな」
「もちろん違いますよ。君が探偵であることは他でもない僕がよく分かっています。そうではなく、アレスもまたスコッチ同様、君に執着している印象を持ちました」
「…あいつは、殺しを楽しんでるんだよ。今度は俺で遊ぶとかふざけたこと抜かしてやがった。関わりと言うよりは、標的ってやつだな」
「な――っ! それで君は平然と生活してるんですか? 警察の保護下に入ってもおかしくない状況じゃないですか!」

 白馬は目を白黒させながら新一に詰め寄った。
 対する新一は「そうか?」と小首を傾げるだけで、自分がどれほど危険な状況にいるのか、まるで分かっていない。
 この稀代の探偵は、頭はいいくせに危機感と言うものが全く備わっていないのではないかと、白馬は真剣に悩んだ。
 だが、稀代の探偵だからこそ、彼に限ってそんなことは有り得なかった。
 新一はもちろん、自分が危険な状況にいることを分かっている。
 分かっていながら、警察の保護下に入ろうなどという発想は全く出てこないのだ。
 なぜなら彼は誰かに頼るどころか、たとえ自らを囮にしてでも獲物を捕らえようとする男なのだから。

「詰まるところ、おまえの仕事はアレスの逮捕なのか?」
「いえ、僕にはまだそれほどの大任は任されていません。増して相手があのアレスなら尚のことです。流石にICPOもこんな子供に任せるほど無責任ではありませんしね。僕の仕事はあくまで調査です」
「それで俺に、か。まあ、確かに当たりだったけどな」
「はい。ですが、君は少々危機感や自覚というものがなさすぎませんか? アレスだけでも充分厄介だというのに、スコッチとかいう謎の怪盗にまで狙われて…」

 それに新一は微苦笑を浮かべた。
 ICPOだ何だと言いながらも、やはり白馬は白馬でしかないんだなと嬉しく思う。
 心配性なところは変わらないらしい。
 まあこの場合、この状況を「心配性だ」などという言葉で片づけてしまうのは、やはり問題有りだったが。

「危険な状況は分かってる。でも元を辿れば、結局俺は奴らと関わらなければならなかったんだ」

 アレスはある人物からの依頼で、「蒼い瞳の伝説」に基づく蒼い瞳を持った人間を捜していた。
 蒼い目の人間など世界中に何万人といるし、その全てを調べて回るにはかなりの時間と手間が掛かるだろう。
 だが、新一がその伝説の瞳を持った人間である以上、いつかは辿り着いていたはずだ。
 現在は「おまえは後回しにする」と言われているが、いつ気紛れを起こすか知れない。
 現に面白いからという理由で、仕事に関わりない時にもちょっかいを出してくる。
 そしてスコッチは黒の組織の残党だ。
 組織を壊滅に追いやった憎い敵を狙うのは当然だろう。
 とは言え、予想とは些か違った理由で狙われることになったのだが。
 それも――怪盗キッドまでもが。
 悔しそうに唇を噛む新一をどう思ったのか、白馬が眉を寄せながら言った。

「それはどういう意味ですか?」
「いや…俺が探偵である限り、こそこそ隠れてなんかいられねえってことだよ。こうしてる間にも、あいつは鼻歌交じりに人を殺してるんだろうからな…」

 そんなことはあってはいけないことだ。
 そしてその事実を知りながら見て見ぬふりをすることもまた、許されることではない。
 たとえ危険でも、危険だからこそ、動ける者が――自分が動くのだ。

「しかし、何の装備もなしに戦える相手ではありませんよ。アレスはその世界でも最高峰…歴代でも次点を争う存在ですからね」

 歴代で次点とまで言われる殺し屋、アレス。
 ふと、引退して尚「世界最高峰」を掲げ続ける男の名を思い出した。
 そんな薄汚れた世界にいながら、決してその光を絶やすことなく輝き続けた銀の月…いや、牙のような鋭い危うさを秘めた男。

「世界最高峰を維持し続けるのは、白牙か」
「ご存知なんですか? …まさか、彼にまで狙われてるなどと言わないでしょうね?」
「いや、違うよ」

 新一は苦笑を浮かべ、思い出しかけた記憶を今はまだ封印した。

「大丈夫だよ、白馬。おまえが心配するほど俺は柔じゃない。今日だって、この発作がなければたぶん傷を作ることもなかった」

 それは強がりでも何でもない、事実だ。
 スコッチの腕も決して悪くはないのだが、あのジンやアレスには遠く及ばない。
 おそらく万全の状態であったならば、キッドや自分にすらも敵わなかっただろう。

「それに、まさか奴をまだ怪盗と思ってるわけじゃないだろう…?」
「…確かに」

 白馬は新一の鋭すぎる洞察力にただただ感服するばかりだった。
 いつの間に悟ったのだろう、この人は。
 白馬はスコッチのことを怪盗≠ニ呼んだにも拘わらず、自分が既に奴の正体を別に見出していることを見抜かれている。
 つまりは彼もまた奴の正体に気付いていたと言うことなのだろう。

「奴はどちらかと言うとアレスと似た空気を持っていましたから、怪盗ではないでしょう。おそらく…君を狙うと言っていたことからも、裏の中でも裏の存在…」
「…ああ。奴は死≠ノ慣れている」
「奴を見たとき、初めから何か違うとは思っていたんです。それは服部君も同じのようでした。ですが、それが何か初めは分からなかった。分かったのは、君のいたあの階へ着いた時、驚くほどの殺気を感じたからでした」
「ふぅん、服部も気付いたわけだ」

 新一は、スコッチを一目見ただけで怪盗ではないと見抜いて見せた。
 彼の慧眼は、白馬や平次が持つそれを遙かに凌ぐだろう。

「とにかく、君には少し自重してもらいますよ。君の力不足だと言ってるわけではありません。単に君の命が大切なだけです。君が死ねば哀しむ人が、きっと君が思う以上にたくさん存在する」

 人を惹きつけて止まないその双眸を好ましく愛おしく思う人々は数多く存在するだろう。
 たとえばブラウン管越しでしか知らない人々でさえも、彼のその真っ直ぐな双眸に魅了されずにはいられない。
 そしてそれは時に犯罪者でさえも惹き付けてしまうのだ。
 だからこそ、彼の周りにはキッドを始め、アレスやスコッチと言った犯罪者たちが集まってくるのだ。
 それほどまでにこの探偵は多大な影響を及ぼしている。
 かく言う白馬も、彼に魅了された者のひとりだった。

「とりあえず、今日は主治医んとこ行って帰ったら寝るし、明日は学校終わったら事情聴取に行く。それでいいだろ?」
「いえ! それでは心配ですので、明日は朝一で事情聴取に行きましょう! 僕も行きますから、君も絶対来て下さいよ?」
「…わぁったよ」

 自分が危険なことをしていることは重々承知しているし、白馬が自分を心配してそう言ってくれているだろうことは理解していたので、新一はとりあえず明日は彼の言うとおりにしようと頷いた。

「では、丁度そろそろ僕の自宅兼研究所に着きます。危うい話題はここまでにして、君の腕に埋め込まれたものについて調べることにしましょう」
「ああ、頼むよ」

 深々と溜息を吐きながら、それでもこの厄介な発信器はどうにか外したい新一だった。





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白馬…そんな設定有りか!?
有りなんです。だってここはパラレルだからv(死)
白馬が良く倫敦に行くのはそういうことだったんです、ここでは。
ほとんど白馬と新一の会話ばかりですね。
K新なのにキッド(快斗)が出張ってこない;
次は快斗の活躍です。新一さんオヤスミ予定。
いや、予定は未定って奴なんですけどね。
(こんな話で誰かついてきてくれるのかしら。苦。)

03.04.11.