昔から第六感は鋭かった。
 いつ背中を銃口で狙われてもおかしくない犯罪組織に身を置くようになってからは、その感覚に更に磨きが掛かった。
 それは決して自慢できるようなことではないけれど、そのおかげでこうして彼≠フ異常を知ることができたのだから、礼のひとつも言いたくなると言うものだ。
 急に慌ただしくなった警察の動きに何かあると踏んで盗聴してみれば、案の定、工藤新一が行方不明なのだと言う。
 今日の朝に警視庁へ行くと言っていた探偵に「もしや」と思ってみれば、この様だ。
 最近は色々と隠し事の多い彼だが、今回ばかりは頼ってくれるのかも知れない、そう思っていたのに。

 哀は現在、ヘッドフォンから流れてくる情報を絶えず聴いている。
 警察の無線を無断で傍受させて頂いているのだ。
 新一を捜すため、現状を理解するためには法を犯すことも何とも思わない。
 無線から聞こえてくる名前は工藤新一≠ニ怪盗キッド=Aそしてスコッチ=B
 キッドはおそらく新一を捜すために奔走しているのだろう。
 それよりも哀はスコッチ≠ニいう名に震え上がった。
 今がどういう状況なのか、正確に理解してしまった。

「全く、無能なんだから警察は…!」

 一向に進展しない捜査内容に苛立ちを抑えることができない。
 普段探偵である彼の力を借りているのだから、こんな時ぐらいしっかりしろ、と怒鳴りつけてやりたくなる。
 哀はパソコンのキーを弾きながら、自分も新一の居場所を探っていた。
 警察には分からない様々なルートがあるのだ。
 だが、同じように新一を捜すあの怪盗が、哀の知るルートを知らないはずがない。
 無駄な足掻きと知りながら、それでも哀は何もせずにはいられなかった。

 その時、ふと。
 背後に誰かの気配を感じ、それが誰であるかを知って驚きながらも哀は振り返った。

「俺も全く同感だね…」
「――キッド!」
「説明、後でするからさ。新一の治療をお願い…」

 と言っても、キッドにもどういう事態なのかいまいち把握できていなかった。
 叩いて埃がわんさか出てくるのは、おそらく白牙だろう。
 彼は新一のことも知っているようだし、何よりいつもキッドを一歩先から導いていた。
 自分たちの知らないところでいったい何をしているのか…

 キッドは哀の返事を待たずに診療台へと新一をそっと横たえた。
 あまりの出血の多さに顔面蒼白になりながらも哀は急いで治療を始めた。
 今更もう意味があるのかも分からない止血を施し、傷を負ったカ所を消毒して縫合していく。

「キッド、貴方も隣のベッドに横になってなさい」
「え?」
「自分で分からないの? 貴方の肩、とっくに限界を超えているわよ」

 そう言われて見遣れば、肩から溢れ出した鮮血によって白いスーツは赤黒く染められていた。
 新一を降ろした時点で安心したのか、痙攣を起こしている。
 言われるまで気付かなかった自分にキッドは苦笑した。
 自分のことなど二の次で、とにかく新一が心配で心配で仕方なかったから。

「…工藤君、こんな状態で…大丈夫かしら…」

 医者である哀が弱気になってはいけない。
 それでも、医者であるからこそ分かってしまう。
 助かる見込みが限りなく低いことが。
 けれど、キッドはその不安を掻き消すように力強く頷いてみせた。

「大丈夫。絶対大丈夫。新一に生きる意志がある限り、新一は必ず目を覚ます」
「…どこからくるのかしら、その自信は」
「俺がこの世で二番目に信頼を寄せてる人が言ってた。絶対大丈夫だって。あいつが絶対と言うことは、絶対なんだ。それに…目を覚ます予感がしてる」

 だって、この胸はまだ熱いから。
 彼の居場所を見つけだす、その存在を感じ取るこの胸は今もまだ熱いから、彼はきっと還ってくる。

「そう…、そうね。私が弱気では駄目ね」

 天井から吊された点滴を細い腕に打ち、呼吸を促すために人工呼吸器をつけた新一。
 ここは病院ではないが、現状はまさにICUで生死の境を彷徨う重症人さながらだ。
 それでも、鼓動も脳波も、微弱ながらに確かに動いている。
 新一は必ず目を覚ます、そうどこかで確信している自分を哀も感じていた。

 新一の治療が一段落するまでには結構な時間を要した。
 途中、異変に気付いた博士はこの光景を見てかなりのショックを受けていた。
 傷だらけの新一と血まみれの怪盗と、どう見ても尋常でないその光景はともすれば通報されてもおかしくない状況だと言うのに、事情を話せば博士は深い理解を示してくれた。
 それどころか、怪我をしたままのキッドを心配するほどだった。
 この人はいつでもとても温かい人だなと、哀は言葉にせずとも深く感謝した。

「それじゃあ、今から貴方の治療をするわ。遅くなってごめんなさいね」
「ううん。俺のは大したことないから」

 そうは言っても、こちらも普通なら即手術が行われてもおかしくないほどの大怪我だ。
 哀はさっさと治療に取り掛かった。
 いつの間にか砕けた話し方になっているキッドに、信頼してくれているのだろうかと思えば、何だか少しくすぐったい。
 探偵と同じく秘密主義な怪盗は隠し事も多いだろうが、こうして頼ってくれることが何より嬉しかった。
 自分の力などちっぽけなものだが、少なくともこうしてふたりの力になることはできる。

「とにかく簡単でいいよ、姫。応急処置とかで。俺、この後行かなきゃいけないとこあるから」
「…そうね。貴方じゃないとできないことだものね」

 鋭い哀は、キッドが言いたいことを言葉少なに正確に理解する。

「無能な彼らだけど、必死で捜そうとしてくれていることだけは分かってるわ」
「うん。今、捜査の指揮を執ってるの、知り合いの警部なんだ。感謝してる」
「用事が終わったら真っ直ぐ帰って来なさい。治療の続きをするわ」

 応急処置と言うことで、今はただ止血を施し、あまり効かない痛み止めを打っただけの状態だ。
 けれどキッドはそんな素振りなど少しも見せずに、警視庁へと向かった。
 工藤新一に扮して。















の欠片















 現場は騒然としていた。
 連れ去られたはずの探偵が親同伴でいきなり警視庁に姿を現したのだから、無理もない。
 日本警察の救世主こと工藤新一と、世界屈指の推理作家こと工藤優作の登場に、緊迫していたはずの現場は安堵と驚きの波に呑まれた。
 いち早く正気に戻った高木は、未だ捜索の指示を出し続けているだろうふたりの警部と探偵の元へと駆けた。
 新一に扮した快斗は、こちらに気付くなり押し寄せてきた数え切れない警官の相手に大忙しだ。

(この扱いは何なんだ〜〜っ)

 と、思わず快斗が驚いてしまうのも仕方ないだろう。
 工藤新一を慕う者は多い。
 普段は隠れ新一ファンの方々も今回の騒動ではかなり気を揉んだようで、その反動のように、いつも以上の人集りに新一に扮した快斗は取り囲まれていた。

 騒ぎの一旦である工藤優作氏とは、警視庁へ向かう直前、阿笠邸を出た瞬間に会った。
 なんとなくだが、この人と偶然¥oくわす、なんてことは有り得ないのだろうと快斗は思った。
 絶対に、何か理由があるからこそ彼はこうして姿を現し、快斗の隣に立っているのだ。
 快斗は新一に変装していたと言うのに、優作の第一声ときたら…

『やあ、怪盗キッドだね』

 にっこり笑顔で爆弾発言。
 変装の天才と言われる怪盗キッドに向かって、それも、似ても似つかない赤の他人ではなく、元々似た顔立ちの人物に変装していたと言うのに、この言い草。
 それでもこの人だけは欺けないのだろうと、快斗は装うことを初めから放棄した。
 流石は探偵の父親、と言ったところだろうか。

『これから警視庁へ行くんだろう? それなら私を連れて行きなさい。帰れなくなってしまうよ』

 そう言った優作氏の申し出を有り難く受け、ふたりは今に至っている。
 そうこうするうちに、目暮、中森、白馬が大慌てで駆け込んできた。
 新一捜索の全体の指揮を執っていた三人だ。

「工藤君! 無事だったのかね…って、優作君っ?」
「やあ警部、愚息が世話を掛けたようで申し訳ない」

 優作は癖のある顔で綺麗に笑い、馴染みの警部の肩をぽんぽんと叩きながら宥めに掛かった。
 中森ときたら、突然の有名すぎる推理作家のお目見えに、かなり狼狽えている。
 それを苦笑で見遣って、快斗は最大の難点である白馬をちらりと伺った。
 白馬なら、これが本物の新一でないことを見抜いてしまうのではないかと思ったのだ。
 まあこの場でそれを問い質すほど馬鹿ではないだろうから放っておくか、と結論付ける。
 案の定、怪訝そうな視線を送るだけで、あんなに気を揉んでいた白馬は警部ふたりの一歩後ろに控えたままだった。

「とにかく、今回は何とか無事に帰れたからよかったものの…あまり無茶はせんでくれよ、工藤君」
「はい、すみませんでした…」
「怪我はないのかね?」
「実はちょっと怪我してるんですよ、肩を。だから警部、事情聴取や説明は後日でも宜しいかな?」

 事情聴取は新一本人から聞くのが一番だろうと、快斗も優作の案には賛成だ。
 しかし、迷わず「肩」を怪我したと言い切った彼に、快斗は「侮れない…」と溜息を零した。
 教えてもいないのにどうやって見抜いたのか。

「それはいかん、すぐ警察病院へ…!」
「いえいえ、結構ですよ、警部」
「だが、優作君…?」
「医者でしたら最適な方を知ってるんですよ。この後、その方のところへ行って治療して貰いますから」

 私の知り合いですから間違いありませんよ、とにっこり微笑みながら言う優作を、いくら目暮と言えど止めることはできなかった。
 新一が普通の病院で対応できる体質でないことは、親である優作は当然知っているだろうし、快斗だとて普通の病院で看てもらうことはできない体質だ。
 下手をすればどこぞの研究施設なんぞに送られかねない。
 何より、警察病院なんかに連れて行かれては新一本人でないことがばれてしまう。
 快斗は有り難く優作の提案に乗らせて頂いた。

「本当にご迷惑をおかけしました。警部も警察の皆さんも、白馬も、有り難う御座いました」

 そう言って深々と頭を下げた快斗は満点の演技だろう。
 だが、初めから疑っている白馬には嘘くさく映ったようで、彼の眉がぴくりと動いたのを見逃さなかった。

(ま、言いたいことがあれば後で言ってくるだろ)

「工藤君。君はまだ高校生なんだから、もっと大人を頼りなさい。こんなことは迷惑でもなんでもないんだからな」
「中森の言う通りだ。こんな時ぐらい我々に頼ってくれたらいいんだよ、工藤君。いつも頼りっぱなしなのは我々の方なのだから…」

 ふたりの警部の小言を殊勝な態度で受け取って、快斗はぺこりと腰を折った。
 それを潮時と見て、優作は快斗の肩を抱くと同じく警部たちにお辞儀した。

「おふたりの協力には心から感謝します。今後も息子を宜しく頼みますね」

 では、と残して優作と快斗は警視庁を後にした。



 快斗は背後についてくる白馬の気配に気付いていたが、あえて無視した。
 聞きたいことがあるのは分かっているが、警視庁内で聞かれるのは御免被りたい。
 優作も気付いているのだろう、口元が笑っている。
 行き同様タクシーを拾って帰ろうと、タクシー乗り場付近で立ち止まると、意を決したように白馬が姿を現した。

「すみませんが、工藤君…ちょっといいですか?」

 ようやく現れた探偵に快斗がにやりと笑う。
 その笑みは工藤新一のものでも黒羽快斗のものでもなく、夜を駆ける怪盗のものだ。
 快斗は白馬の目が見開かれるのを楽しそうに見遣った。

「やはり君は工藤君ではないんですね!」
「よく分かりましたね、白馬探偵。用件とはそのことでしょうか?」
「誤魔化さないで下さい! 貴方がここにいると言うことは、工藤君は、どこにいるんです!」

 彼を助けるために奔走していた怪盗がここにいると言うことは、彼は動けない状態だと言うことか。
 或いは、まさか…
 目の前で百面相をしている白馬に声を掛けたのは、優作だった。

「新一なら無事だよ、白馬探君。ただ、今は治療中で動けない。だが警部たちには無事を報告しなければならないし、それなら新一本人に顔を出させるのが一番だと思ってね」
「…どういうことですか? 貴方たちは知り合いだと?」

 隣にいるのが犯罪者と知りながら共謀しているのか、と優作を詰る白馬を、快斗はやんわりと否定する。

「それは誤解ですよ。私と彼は今日初めてお会いしたのですから」

 快斗だとて、なぜ優作がここにいるのか分からないのだ。
 だが、何か理由があるからこそ彼はここにいるのだ。
 白馬は困惑しきっていたが、生憎説明してやれるほど快斗も現状を理解できているわけではない。
 謎を知るのは間違いなく白牙と、そして――工藤優作。

「息子の容態が気になるのでこれで失礼するよ、白馬君。君もあの子を気に掛けてくれて有り難う」

 タクシーが一台停まる。
 今にもそれに乗り込もうとする優作に、白馬は必死に言い募った。

「待って下さい! 彼を一目看させて下さい! でないと、心配で…!」

 動けないほどの怪我を負ったと言う、新一。
 昨夜、無理矢理にでも家に帰さなかったら。
 今朝、自宅まで迎えに行っていたら。
 もしかしたら、こんなことにはならずに済んだかも知れない。
 それは悔いても詮無きことだが、白馬はそう思わずにはいられなかった。
 白馬のあまりに必死な様子に、優作は少し思案した後、「それなら一緒に来なさい」と言ってタクシーに乗り込んだ。

「ただし、今から見聞きすることは警察には秘密にしてもらうが、それでもいいかな?」
「構いません」
「ああそれと、彼ら≠ノも秘密だ」
「…分かり、ました」

 優作の言う彼ら≠ェICPOのことだと悟り、白馬は驚きを隠せないまま頷いた。
 なぜこの人は知っているのだろうかと疑問に思う。
 快斗はひとり今の会話の意図が理解できなかったが、この場で問い質すほど不躾ではなかった。
 必要であれば後で自分で探ればいいのだ。

 その後は彼らの間に会話はなく、無言で家まで帰った。
 工藤邸の前にタクシーが停まり、優作が料金を払って三人揃って降りる。
 初めて見た工藤邸のでかさに、白馬は一瞬面食らっていた。
 そのまま工藤邸へ入るのかと思えば、優作も快斗もその隣の「阿笠」と表札の出された家へ躊躇いもなく向かったため、どういうことかと首を捻りながらも白馬はふたりの後に続いた。
 インターホンを鳴らせば、恰幅のいい老人が玄関から顔を覗かせた。

「優作君、待っておったよ。下に哀君がおる。新一を見に来たんじゃろう?」
「ああ博士、すまなかったね。ろくに事情も話していなかったのに」
「わしは構わんよ。時期が来たら話してくれればのう。それよりそちらは…?」
「初めまして、白馬探と申します」

 尋ねられたのが自分のことだと気付き、白馬は咄嗟に挨拶した。
 どうもここでは、工藤優作もこの老人も、目の前にいる新一が彼本人ではないと知っているようだ。
 いったい彼らにどういう繋がりがあるのだろうか。

「とにかく入ってくれ」

 まず優作が入り、その後に快斗、白馬と続いて上がり込んだ。
 前を歩くふたりが真っ直ぐ地下へと続く階段に向かうので、白馬もそれに続く。
 階段を降りて扉を開ければ、そこは研究室と医療室を併せた様な造りになっていた。
 こんな普通の家の地下に…と白馬が驚きに瞠目する。
 けれど驚いたのも一瞬で、目に入ったベッドの上に寝かせられた人物に、その姿に、白馬はショックのあまり言葉を失った。

 そこには点滴を打ちながら人工呼吸器をつけ、脳波や心拍数を計るコードを全身につけた新一の姿があった。
 血の気のない顔は、驚くほど蒼白だ。

「工藤君――!」

 白馬は思わず叫んでいた。叫ばずにはいられなかった。
 けれど、そのままふらふらと歩み寄ろうとして、唐突に掛けられた冷たい声に動きを止められた。

「騒がないで頂戴。今の彼は絶対安静なのよ」

 声の主を捜そうと視線を巡らせ足下に辿り着いた白馬は、そこから見上げている小さな少女を見つけた。
 栗色の少し赤みがかった髪に、どこか異国の空気を纏った少女。
 切れ長のグレーの瞳が冷ややかに白馬を観察している。
 この場所に最も似つかわしくないはずの少女が、なぜか最も相応しいような気がしたのは、きっと着ている白衣の所為だけではない。

「君は…君が、宮野さん? 工藤君の主治医という…」

 白馬の言葉にすっと目を細め、哀は素っ気なく「馬鹿ね」と呟いた。

「私は灰原哀。貴方、頭と目は大丈夫かしら? こんな七歳の子供が彼の主治医なわけないじゃない」

 言っていることは尤もなのだが、いちいちその仕草や口調が裏切っている。
 その矛盾が、自分の言葉が正しいのだと白馬に確信させた。
 そもそも、主治医でなければ彼女が白衣を着てここにいる理由が見当たらない。
 「宮野」ではないとしても、彼女が新一の主治医であることは間違いないと白馬は確信した。
 静かに呼吸している新一を複雑な目で見遣る優作の横で、同じように新一を見つめる快斗は、まるで壊れ物に触れるようにそっと眠る新一の頬へと触れた。

「姫、新一の容態は?」
「安定してきてるわ。貴方が連れてきた時に比べると随分よくなってきたみたい。驚いたわね…死んでもおかしくなかったのに。貴方の言ったことは正しかったみたいよ」
「よかった…私の用事も一息吐きましたよ。…彼をここに連れて来てしまったのは、予定外ですが」
「まあまあ、彼もこの子のことを心配してくれていたようだし、いいじゃないか。何より君の正体を見抜いてしまったのだしね」

 さらりと痛いところを突かれ、快斗が黙り込む。

「…なんでもいいから、さっさと上着を脱いで診察台に行きなさい。痛み止めなんかとっくに切れてるんでしょう?」
「姫は騙せませんね。すみませんが、宜しく頼みます」

 そこでようやく気付いたように、快斗は優作を振り向いた。

「ああ、優作さん、宜しければ彼を帰して下さいますか? このままここにいられたら、治療も何もできませんから」

 にっこり微笑みながらあくまで白馬の干渉を拒む快斗に、優作は軽く肩を竦めて白馬を連れ出した。
 白馬は今の会話にすっかり言葉を失い、優作に促されるまま地下室を後にした。
 死んでもおかしくない。
 その言葉が、ひどくショックだった。
 やはり彼はそれほどの重傷を負っていて、救い出せこそしたが、かなり酷い状態なのだ。
 放心している自分を落ち着かせようと、阿笠から出されたお茶も、今の白馬にはとても飲めそうになかった。





「無茶なことをする人たちね、ほんと…」
「今回は反省してる。もっと新一の側にいればよかった…姫との約束もあったのに、ごめんね…」
「…いいの、とは言わないけど。彼は生きてるわ。そして貴方も生きてる」

 上着を脱いで診察台に腰掛ける快斗は、既にキッドの仮面を捨てている。
 せっかく閉じかけていた傷も、無理に動いた所為でまた開いてしまった。
 哀は気持ち程度に麻酔をかけ、傷を縫合していく。
 はっきり言ってかなり痛いと思うのだが、流石は怪盗キッド、その痛みにも顔をしかめることさえしなかった。

「彼が大人しく守られてくれるような人じゃないことは知ってるの。でも、とても危なっかしい人だから、誰かに側で止めてもらいたかったのよ。…私じゃ無理だったから、誰かに」
「うん…俺も今回痛感した。もうちょっと頼ってくれるかと思ってたのに」
「彼相手に受け身では駄目よ。強引なくらいが丁度いいんだから。だから貴方にお願いしたの。貴方ならきっと、彼とともに歩めるだろうから…」

 哀は、ただ待つことしかできない自分が疎ましかった。
 全てが終わった後に聞かされるなんて嫌なのに、ただ守られているだけのお荷物になんてなりたくないのに。
 どんなに望んでも、彼の隣を歩くことはできないのだ。
 それどころか、彼の後ろを歩くことさえできないのだ。
 だから、彼と同等の力を持つ誰かに、彼の隣を歩く強さを持つ誰かに、彼を支えてもらいたかった。
 それは単なるエゴだとよく分かっている。
 それでも心配なのだ。自分を省みず、危険を冒してまで他人を救おうとする人だから。
 思案に沈む哀を、快斗の声が呼び戻した。

「誤解しないで。姫も新一とともに歩んでるんだよ。こうやって新一を助けるのは、姫にしかできないことでしょ。俺には薬なんて作れないからね」
「…その気になったらできるでしょう」
「でも、俺は新一と一緒に戦うだけで手一杯だから。だけどこうして怪我をした時には、助けてくれる人が必要でしょ。俺たちには姫が絶対必要なんだよ」

 分かる?と言って真剣に覗き込んでくる瞳に、哀はくすっと笑みを零した。
 縫合も済み、真っ白の清潔な包帯を快斗の肩にぐるぐると巻いていく。

「…有り難う」
「お礼を言いたいのは俺の方だよ。これからも頼りにしてるよ、姫」
「……その、姫って言うのはどうにかならないのかしら」
「あ、駄目?」

 照れ隠しに毒突いた哀の頬は、心なし赤かった。
 「必要」という言葉は、哀にとって何よりも嬉しい言葉なのだ。
 組織壊滅後に死を覚悟していた哀を引き留めたのも、新一の「必要」と言った一言だ。
 お人好しの探偵に負けないくらい人の好い怪盗に、哀は少しだけ微笑んだ。

「工藤君についててあげて。私は彼の狸親父に文句のひとつでも言ってくるわ」

 絶対、何か知ってるって顔してるものね。
 それだけ言うと、哀はさっさと部屋を出て行ってしまった。
 自分に気を利かせてのことなんだろうな、と快斗は苦笑する。
 快斗自身、ついさっき自覚したばかりの感情だと言うのに、小さな姫君には既に見抜かれていたらしい。

 快斗は診察台からゆっくりと起き上がると、揺るぎないしっかりとした足取りでベッドに横たわる新一の側へと立った。
 椅子を引き寄せてすぐ隣りに座り、点滴の施されていない方の手を両手でしっかりと握る。
 その手に軽く口付けて、囁くように言った。

「…あの時のおまえ、めちゃめちゃ格好よかったぜ…?」

 おまえを殺すと、本気で銃を構えてくれた人。
 望まないままに闇に堕ちるぐらいなら、おまえのこの先の人生全て背負ってもいいから殺してやる、と。
 そう言われた時、完璧に自覚した。
 なぜこんなにもこの人を守りたいと思うのか。
 なぜこんなにもこの人を大事に思うのか。
 好奇心だ何だと子供染みた言葉で自分を偽ってみたたところで、この心は確実にこの存在へと惹き付けられていたのだ。
 放っておけないのではなく、一緒にいたい。
 守ってやりたいのではなく、一緒に戦いたい。
 独りで傷付いて死んでいくぐらいなら、ともに戦ってともに死にたいと、そう思うのだ。
 なぜなら――彼のことが好きだから。
 こんな単純な理由に今更気付くなんてあまりにも情けないけれど、覚え立ての感情は留まるところを知らなくて。

「目、開けてよ…俺、おまえがいないと駄目なんだ…」

 おまえがいないと、闇しか見えなくなる。
 おまえがいないだけで、世界は全ての光を失うんだ。
 だって、おまえが俺の太陽だから。
 おまえが俺の、全てだから。

 快斗は握った手に力を込めた。
 硬く目を閉じ、熱すぎて今にも流れ出てしまいそうなものを必死で抑える。
 痛いのも苦しいのも彼であって、自分ではない。
 叶うなら、彼の痛みも苦しみも、全て引き受けてあげるのに…!

「――バ…ロ……んて顔、してんだよ…」

 不意に、握り込んでいた新一の手がぴくりと動いて。
 次いで聞こえてきた声に、快斗は弾かれるようにその目を開いた。
 途端、目に映った大好きな人の顔が、蒼い目が、これが夢ではないのだと教えてくれる。
 夢じゃない。新一が、目を覚ましたのだ。

「新一…っ!」
「んな泣きそうな面、してんじゃねーよ…バカイト…」
「新一、新一っ! よかった、気がついて…!」

 快斗は喋りにくそうにしている新一から人工呼吸器を外してやる。
 一度は死にかけたと言うのに、驚くほどの回復力だ。
 快斗は吃驚しながらも、横たわる新一の体に抱きついた。
 そこから伝わる、確かに脈打つ心臓の鼓動に心底安堵する。
 弱々しいが、新一の手が快斗の頭をあやすように叩いた。

「悪ぃ…心配かけた。おまえが来てくれて助かったよ」
「ほんとだぜっ、全く! 次からは隠し事は一切なしだからな? 絶対禁止!」
「ああ…俺ももう御免だぜ、こんなに痛いのは…」

 ふ、と新一の笑った吐息を感じて、快斗も満足げに笑った。
 抱き締めていた力を緩めて、そっと体を離す。
 やはり笑った新一の顔が見られて、滅多に笑いかけてはくれない探偵の笑顔に、快斗はひどく嬉しくなった。

「相変わらず変わってないな、そのなんでも自分で背負い込んじまう無茶なところは」

 気配すら感じなかった背後から突然聞こえた声に快斗は内心驚愕を抑えられなかったが、その声の主が誰であるかを悟ると、彼に驚いたところを見せるのが嫌で、その全てをポーカーフェイスに隠すと至極嫌そうな顔を作って振り向いた。
 予想通り、そこに立つのは白牙だ。
 七瀬啓吾の扮装を解き、昔と変わらない姿で佇んでいる。
 ようやく現われたひとり物知り顔の男に文句のひとつでも言ってやろうと思った快斗だが、快斗が何かを言う前に反応したのは新一だった。

「白牙…? 白牙、なのか?」
「そうだよ、新一。久しぶり!」
「――白牙!」

 にっこり笑いながら寝台へと近寄った白牙に、新一は跳ね起きるなりまるで抱きつくようにしがみついた。
 驚いたのは快斗だ。
 新一と白牙が知り合いらしいことは気付いていたが…
 なんで抱きつくわけ、新一!?

「こらこら、いい子だからまだ寝てな。目が覚めたら好きなだけ話せるから…」

 譫言のように名前を呼び続ける新一の瞼を白牙がそっと手で押さえると、何をしたのか、新一はそのまま崩れるようにして眠ってしまった。
 その様子を半ば驚き、半ば面白くなさそうに快斗は眺めていた。
 白牙のことは全面的に、信頼はしていないが信用はしている。
 新一に害を与えることはないと言う点だけは認めてやろう。
 だが、いったいどういう知り合いなら、あの工藤新一に抱きつかれることになるというのか。
 どうやらただの知り合いというわけではなさそうだ。

「…つまらないって顔してるぞ、快斗?」
「別にっ」

 子供のように唇を尖らせながら快斗は白牙を睨み付けた。
 その様子に満足そうに微笑んで、白牙は突然態度を改めた。

「快斗。おまえに全ての事情を話す。とりあえずあの倫敦小僧を追い返したら、優作から話してくれるだろう」
「…やっぱあんたは事情知ってんのかよ」

 快斗は面白くなさそうにかつての師を睨み付けた。
 ――そう。
 今の快斗があるのは全て、父親から受けたマジシャンとしての矜持と腕、そして白牙から受けた訓練の賜だった。
 全ての知識をこの人から授かったと言っても過言ではない。
 その全てを吸収できたのは快斗の才能以外の何物でもないが、そのおかげで、この過酷な運命を乗り越えることができた。

「時が来た。全てはまだ始まりに過ぎないんだよ」

 これからもっとしんどくなる。おまえにとっても、そして新一にとっても…
 快斗の鼓動が、どくりと鳴った。










* * *


 警視庁にその通報が届いたのは、工藤親子が顔を見せる少し前だった。
 それは、とあるビルの爆破通報だ。
 幸いそこは人通りも少なく、爆弾についても余程綿密に計算されていたようで、誰ひとりとして巻き込むことなくビルは崩壊した。
 もともと使用されていない廃ビルだったことも幸いした。

 だがその数日後、警察の調査によって分かったことだが、ビルの瓦礫の中から人間と思しき遺体が発見された。
 瓦礫に潰され炎に焼かれ、既に男か女かも分からなくなっていたが、その死体の頭蓋骨に銃で撃たれたとみられる痕跡が見つかり、警察はこの爆破を殺人事件として調査した。
 しかしどんなに調べても遺体の身元は割り出せず、爆破を起こし殺人を犯した犯人も遂に割り出せず、事件は迷宮入りとなった。
 その事件が起こったのが、工藤新一が連れ去られた日と同じだと言うことで関連性も考慮されたが、新一本人に覚えがないことと、唯一の証人であるかも知れない怪盗キッドを捕まえられないために、真実は永遠に謎のままである。

 ひとりの探偵と怪盗、そしてふたりの殺し屋が引き起こした事件は、そうして幕切れしたのだった。





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…9で終わるつもりが、最後にもう一話追加です。
これじゃなんの説明もないもんね;
白牙も出たけど出ただけになってしまった…v
優作は出る予定じゃなかったのに、なんか出たガッちゃってv
今回ちょっとラブ度上げたつもりだったんですが…駄目?v
快斗に気持ちを自覚して頂きました。
無自覚なのはあとは新一だけ〜vv

03.04.20.