阿笠邸のリビングに、なかなかに妙な顔ぶれが揃っていた。
 ひとりは人の好さそうな初老の男で、丸眼鏡から穏やかな瞳を覗かせた彼は、盆に載せた麦茶をひとりひとりの前に並べている。
 その隣で彼を手伝っているのは、まだ小学生に上がったばかりの幼い少女だ。栗色の髪は時折赤みがかった光を発し、グレーの瞳は鋭く、表情も小難しげにしかめられている。
 ひとり悠々と椅子に腰掛けているのは、世界屈指の推理作家と称される人物だ。その口元に浮かべられた微笑は全く油断ならない。
 白い衣装こそ着ていないが、纏う気配は世間を騒がす大怪盗そのものである少年は、彼らが並ぶテーブルからひとり離れ、壁に凭れ掛かっている。
 我が物顔でソファでふんぞり返っているのは、世間から姿を眩ましてもう何年も経つはずの、けれど未だにその世界の最高峰として名高い殺し屋だ。

 無言のまま麦茶を配給し終わった阿笠と哀は、ソファに並んで腰掛けた。
 まず口を開いたのは、壁に凭れている少年だった。

「…是非とも、どういう状況なのかご説明頂きたいですね」
「同感ね。キッドはともかく、なぜ私や博士までここにいるのか説明して欲しいわ」

 すっかり憔悴しきった白馬を宥め、なんとか帰らせた後、彼らは優作によってこの場に引き留められた。
 如何にもわけ知り顔をした探偵の父親には一言文句を言ってやるつもりだった哀だが、予想外の展開に少々混乱している。
 もちろん説明はして貰うつもりだったが、無理に聞くつもりはなかった。
 けれど優作は、哀や阿笠にも是非聞いて貰いたいからとふたりを呼び止めたのだ。

 新一を寝かせつけた白牙と快斗が地下室から上がった後、説明を始めるからと言う優作に、彼らはリビングへと場所を移した。
 そして今、阿笠の提案で麦茶が用意され、一同は重い沈黙を保っていたのだが…
 ようやく一息吐いて、快斗と哀はひとり涼しい顔をしている優作に説明を求めた。

「貴方と白牙が知り合いと言うことも驚きましたが、なぜ急に二人が出張ってくるのか」
「世界最高峰と言われた殺し屋が、工藤君やキッドとどういう繋がりなのかも教えて欲しいものだわ」

 話を振られた殺し屋本人は全く知らん顔である。
 どうやら全ての説明は優作に任せるつもりらしい。
 優作はやおら居住まいを正すと、試すようにふたりを見つめた。

「話はとても長くなるんだがね。それでもいいかい?」
「構いません」
「ええ」

 ふたりの真剣な目を見て、優作は困ったように苦笑を浮かべた。
 本当は、恨まれたとて仕方のない状況なのだ。
 全ての原因は新一にあり、彼らはただ巻き込まれただけなのだから。
 けれどそう思う心のどこかで、彼らであれば、あの子のためなら喜んで巻き込まれてくれるだろうことを確信している。

「分かった。では順を追って話そう。ただし、新一にはまだ内緒だよ。時期が来たら、少しずつ話していくつもりだから…」

 でなければ、きっとあの子は壊れてしまうだろう。その身に背負った、重すぎる運命≠ニ言うものに…















の欠片















「まず始めに言っておくけれど、私と君は初対面ではないよ、快斗君。君は覚えていないだろうがね」
「えっ?」

 それに快斗は心底驚いた。
 初対面でないとしたら、いったいいつ会ったのだろうか。
 覚えていないと言うことは、記憶にも残らないほど幼い頃だろうか。

「私はね、君の父親である盗一と知り合いだったんだよ。友人だった」
「貴方が俺の親父と…?」
「そう。先日から君たちの周りで起こっている数々の事件は、全ては遙か昔から定められた宿命なんだよ」

 何かを思い出すように目を瞑った優作は、どこか辛そうに見えた。
 実際、辛い思いをしてきたのだろう。
 自分の息子があんな状態を強いられる理由を、彼は知っているのだろうだから。

「快斗君。君は蒼い瞳の伝説≠知っているね?」
「はい。詳しくは知りません。調べても見つからなかったので。でも、その伝説が本物であることは知ってます」
「結構だ。きっとあの子が自らばらしたのだろう?」
「はい」
「それに、君はパンドラの伝説≠熬mっているね」
「知ってます」

 いつの間にか態度を改めるように姿勢を正した快斗を、哀は不思議そうに眺めていた。
 正直、哀はふたりの会話についていけなかった。
 自分の知らない単語がいくつも出てくるのだから無理もない。
 蒼い瞳の伝説≠熈パンドラの伝説≠焉A哀は聞いたこともなかった。
 だが、それが新一と関係のあることは確かだ。
 哀は今すぐにでも問い質したい気持ちを必死で抑え、隣で静かに話を聞いている阿笠を倣って口を噤んだ。
 そんな哀の様子を察し、優作が優しく笑いかけた。

「君にも分かるように説明しよう、宮野志保さん」

 いきなり本名を呼ばれ、哀は内心の驚きを隠すことができなかった。
 あまり子供らしく振る舞うことができない哀を怪しく感じるのは仕方のないことだと思うが、本名を知っていると言うことは、即ち哀が誰かを知っていると言うことだ。
 だがそんな疑問よりも話の続きを聞きたくて、哀は視線で優作に先を続けるよう促した。

「この世に生まれし唯一にして稀有なる蒼い瞳を持つ者。その瞳はまるで蒼い炎を宿すかのように怪しく輝く。それが蒼い瞳の伝説≠セ」
「…それが工藤君なの?」
「一万年に一度、生まれてくるそうだよ。ボレー彗星が近づくと言う、その時に」
「なっ、に…!」

 驚いたのは快斗だ。
 そのフレーズには聞き覚えがあった。
 一万年に一度、ボレー彗星が地球に接近するというその時に赤い涙を流すという、それはパンドラではなかったか。

「落ち着いて、快斗君。順を追って話すから」
「…分かり、ました」

 快斗は震える拳をゆっくりと力強く握り締めた。
 一瞬、信じられない仮定が脳裏を過ぎった。
 だがそれはあくまで仮定だ。まだそうと決まったわけではない。

「次にパンドラの伝説≠ノついて話そう。快斗君はよく知っているね。君が盗一から怪盗キッドを受け継いだ理由でもあるのだから」

 神妙に頷く快斗の横で、哀は「受け継いだ」と言う言葉にぴくりと反応した。
 世間で噂される、怪盗キッド二代目説。
 以前の哀は信じていなかった――と言うより、興味がなかったため気にしたこともなかったのだが、新一を介して知り合った怪盗はまだ高校生の少年で、世代交代したことは明らかだった。
 だが、優作の言葉を信じるなら、快斗は父親からキッドの名を襲名したことになる。
 それも、優作が彼の父親と「友人だった」と言ったことから、おそらくその人は既に他界しているのだろう。
 そこから推測されるキッドの存在理由に思い至り、哀は静かに目を伏せた。

「パンドラとは人間に永遠の命を与え、不老不死を与えると言われる石だ。ビッグジュエルと呼ばれる大粒の宝石の中に赤色のもうひとつの宝石が眠っていて、月に翳せば赤く輝くと言う。それがパンドラだ」
「そして一万年に一度、ボレー彗星が地球に最も接近する時、その石を満月に翳せば…永遠を与える涙を流す、とも言われていますね」
「そう。パンドラの伝説はそう伝えられているね。…しかし…」

 それは間違った伝説なのだよ。
 にこりと笑いかける優作に、快斗は衝撃を隠せなかった。
 それが間違った伝説だと言うなら、快斗がこの二年をかけて行ってきたことは全て無駄だったと言うのだろうか。
 隣家の親子を騙し、世間を欺き、この手を罪に染めてまでしてきたことは無意味だったと言うのか。
 いや、それよりも、その伝説が間違っているのなら、いったい何が正しいと言うのか。

「湾曲された伝説がいつの間にか定着し、真実を覆い隠していた。よくあることだよ」

 そこで仕切り治すように、優作は手にした麦茶をごくりと飲み下した。
 快斗は自らも喉が渇いていることに気付いていたが、なぜか飲む気にはなれず、話の続きを待った。
 哀と博士はひたすら静聴している。
 白牙はと言えば、退屈そうに長く伸ばされた自分の黒髪を弄っていた。

「蒼い瞳の伝説≠ヘかなり謎に包まれていただろう。調べてもなかなか分かることではないから、この伝説を知る者は極僅かしかいないはずだよ。快斗君も鍵≠ニいう単語は見つけたんじゃないかな?」
「はい。でもそれしか分かりませんでした」
「それはそうだ。全ての情報を隠滅したのは、私だからね」
「!」

 道理でいくら探っても分からないはずだと、快斗は妙に納得した。
 世界屈指の頭脳を持ち、数え切れないほどの伝手を持つこの人なら、やってやれないことはないだろう。

「あの子は鍵だよ。パンドラに繋がる正しい伝説の、鍵」
「新一が鍵…? 正しい伝説とは、いったい…」
「もともと蒼い瞳の伝説≠ニパンドラの伝説≠ヘひとつのものなんだよ。しかし、それをわざとねじ曲げた者がいた」

 どくり、と。
 心臓が高く脈打つのを、快斗はどこか遠い心地で聞いていた。
 不意に心臓が熱くなったような気がして、服の上からぎゅっと握り締める。
 ふと見遣れば、哀も同じように胸を押さえていた。

「――白き衣に守られし蒼き月の御子、其の身に蒼き命の炎を宿さん=v

 口を開いたのは白牙だった。
 そしてその後を優作が引き継ぐ。

「パンドラは宝石じゃない。御子と呼ばれる人間のことだ。そう、つまり、パンドラとはその瞳に蒼い炎を宿す――新一だ」
「そんな!」
「工藤君が…」

 呆然と呟く哀とは対照的に、快斗は悲痛な叫びを発した。
 ふたつの伝説に共通した言い伝えを聞いて、もしや、と思った。
 けれどそんなはずはないと、そうであって堪るかと思った。
 それなのに。
 まさか、真実、新一が快斗の探し求めていたパンドラだったなんて。

「御子とはパンドラに戒められた魂を持って生まれてくる人間のこと。その身に抱くパンドラが真の力を発揮するのは一万年に一度だけだ。だが、生憎御子はそれ以外にも不思議な力を持っていてね…」
「不老不死を与えることはできない。だが、治癒能力を持ってる」
「だから、いつの世に生まれてこようとも、邪な思想を持った人間に利用され、不幸な末路を迎えてきた」
「その御子を守るために生まれたのが、白き衣と呼ばれる者たちだ」

 淡々と語るふたりの言葉を、快斗と哀は思考をフル回転させながら聞いていた。
 その間にも熱くなった心臓が悲鳴を上げている。

「白き衣は邪な心を持った人間から御子を守り、永遠とも言われる苦痛の戒めから解き放つ役目を持つ。だが、戒めを解けるのはその中のひとりだけだ」
「その白き衣ってのは複数いるのか?」
「そう、全部で六人だ。六は調和を示す数字だ。御子の魂を解放することによって永遠≠ニいう不自然なものをこの世から無くし、世界の調和を促すと言われている」
「つまり、伝説を湾曲させたのはその白き衣というわけね?」
「そういうことだ」

 優作に代わり語り出した白牙に哀と快斗は意識を向けた。
 この先に続く言葉を、熱い胸のどこかで悟りながら。

「そしておまえたちが、その白き衣と呼ばれる者たちだ」
「俺と姫が…」
「私もその伝説とやらに関係してたってこと…?」
「そう。それから俺もな」
「あんたもっ?」

 快斗は意地の悪い笑みを浮かべる白牙を凝視した。
 優作と連んでいるのは、そういう理由からだったのか。

「なんだか話が急展開すぎてついていけないわ…」

 姫、ごもっとも。
 右手で額を押さえながらそう言った哀に、快斗は心の底から同意した。
 既に怪しげな伝説に片足を突っ込んでいた快斗はともかく、突然非日常に突き落とされた彼女の心労は如何ほどか。
 だが、そうなると気になることがまだ他にも出てくる。

「じゃあ、親父は? 親父もその白き衣って奴だったのか…?」
「盗一は違うよ。彼はただ私に協力してくれたんだ…新一を守るために、怪盗キッドとして」

 複雑な面持ちで笑う優作に、快斗は困惑した。
 白き衣ではなかったが、盗一は優作に手を貸していた。
 つまり、そもそも父が怪盗になった理由は――命を落とした理由は、そこにあったのだ。

「盗一は新一がパンドラだと知って…私に協力してくれると言ってくれた。彼は白き衣ではないのだから危ないと言ったんだけどね。彼はあれでいて頑固な男だから、こうと決めたらもう聞いてくれなくて」
「親父は…貴方に協力して死んだんですね…?」
「そうだ。私が彼を巻き込んだために、彼は命を落とした。言い訳はしないよ。君の私怨は、本来私に向けられるべきなのだから」
「優作!」
「本当のことだろう、白牙。どんな言い訳を並べても、決して納得できるものではないんだよ。大事な人の命というものは」

 快斗は、突然目の前に突き付けられた事実に激しい頭痛がした。
 盗一を殺したのはパンドラに目が眩んだ組織の連中だ。
 その事実を履き違えるほど愚かではない。
 けれど、ずっと知りたいと思っていた、なぜ父がパンドラを探していたのか、その理由はここにあった。
 父は妻でもなく息子でもなく、友人の事情に巻き込まれて命を落とした。
 優作が言うように、他でもない盗一の息子である快斗には彼を詰る権利があるだろう。

 だが、そうするには、快斗は工藤新一という人間に関わりすぎた。
 関わって、惹かれて、もう絶対に失えないと感じるほどに彼を想いすぎた。
 だってもう、父が彼を守りたいと思ったように、快斗もまた彼を守りたいと思っているから。
 優作を恨むことなど、快斗には到底できなかった。

「親父は…きっと自分の意志でそれを決めたはずだ。その結果、俺と母さんを残していくことになったとしても、志半ばで諦めることを決して良しとしない人だったから…だから、俺には貴方を恨むことはできない。新一を恨むことも」
「快斗君…」
「貴方を恨んだりしたら、親父や、それに母さんにまで怒られそうだ」

 そう言って快斗は笑った。
 実際はかなり無理のある笑いだった。
 全てをすぐに納得できるほど、快斗はまだ大人ではなかった。
 たとえ大人であっても、簡単に納得できないのが大事な人の命というものだろう。
 それでも貴方を恨んだりはしないのだと伝えたくて、快斗はただ無理に笑った。
 だって快斗は、巻き込まれたなんて思っていないのだ。
 この現状が新一の所為だとは思わない。
 たとえ全てが決められた運命だったとしても、結局は自分が決めたことしかできないことを快斗はよく分かっている。
 新一を守りたい。それは快斗が望んだことだ。

「教えて下さい。親父はなぜパンドラを探していたのか。本物のパンドラが新一だと分かっていたなら、有りもしない宝石を探す必要はなかったはずでしょう」
「確かに伝説は湾曲されたけれど、赤い宝石を孕んだビッグジュエルは確かに存在するんだよ。そして御子の魂を戒めから解き放つには、そのジュエルが必要なんだ」

 だから盗一は宝石を探しに行った。

「しかし、その宝石を見つけだすことができるのは白き衣と呼ばれる者だけなんだ」


「――そして、白き衣の中でも白き罪人≠ニ呼ばれる者にしか見つけだせないのよ」


 凛と響いた女の声。

「なぜなら、その『探す』と言う行為そのものが危険極まりないから」

 だから彼に関わっていいのは、その危険に堪えうる力を持つ者だけ…
 それまで五人分の気配しか感じられなかった室内に、突如としてもうひとりの気配が割り込んだ。
 思わず息を呑むほどの美貌。
 艶やかな赤と黒に彩られた彼女は、まさに東洋の美。
 赤みがかった黒髪をさらりと背中に流すその麗人は、赤魔女を自称する小泉紅子だった。

「――紅子!」
「こんにちは、黒羽君。それとも今はキッドとお呼びした方がいいかしら?」

 なんでおまえがここに…と言いかけた快斗を、優作が遮った。

「やあ、赤の魔女殿。お待ちしてましたよ。来てくれて有り難う」
「ご招待に預かり光栄ですわ」
「流石は朱音さんの教え子だ。素晴らしい力を持っておられる」
「いいえ、師に比べましたらまだまだですの」

 くすくすと笑いながら親しそうに会話を交わす優作と紅子に、快斗はますますわけが分からないと頭を抱えた。
 いったい彼らはどこでどうやって知り合うと言うのか。
 クラスメートが赤魔女という時点で既に普通ではないと思っていたが、まさかここで彼女が現れるとは、快斗は予想だにしなかった。

「黒羽君。貴方には予言を与えたでしょう? 光の魔神、白き罪人を滅ぼさん、と」
「つまり、その時点で赤の魔女殿には君が白き罪人であると分かっていたのだよ」
「え…俺が?」
「そうよ。まだその時期ではないからと、巡り始めた運命の輪に逆らうために、彼との邂逅を避けるよう忠告したのに、貴方は少しも聞いてくれなかったわね」
「あんな占い、信じられっかよ」
「快斗君、彼女は優秀な魔女だよ。占いではなく予言だ。彼女は赤魔女である朱音さんの正式な継承者だ」

 真顔で訂正を入れる優作に、快斗は渋々口を噤んだ。
 魔女なんて非常識な存在をそうすんなりと受け入れられるわけがない。

「まさかおまえも白き衣だなんて言うんじゃないだろうな」
「あら、私はただの助言者よ。貴方たちに必要な助言を与え、道を踏み外さないよう導くだけ」

 赤の魔女は代々、月の御子の助言者を果たしてきたのだ。

「彼女の師である朱音さんから私たち夫婦に接触があったんだよ。だから私は新一がパンドラであることを知り、彼を守るために行動することができた」
「もう朱音さまはお年ですから、継承者である私が代わりに助言者としての使命を受け継いだのよ」

 私の力、信じてくれたかしら?
 にっこり微笑む紅子に、快斗は心底嫌そうに溜息を吐いた。
 次々に明らかになっていく真実に、正直疲れてきている。
 それでもそれが新一に関わることである限り、快斗は先を聞かずにはいられなかった。
 新一を狙う者は多い。
 そしてパンドラに魂を戒められているがゆえに、何度この世に転生しようとも苦しまなければならないなんて、そんなのは酷すぎる。

「つまり、新一がパンドラで。六人いる白き衣の中の三人が俺と姫と白牙で。紅子が助言者なんだな? で、新一を救うには、白き罪人である俺が宝石を見つけるしかない、と」
「そうだ。宝石を見つけ、その中の赤い石が涙を流さない限り、新一の魂を解放することはできない。これから先も永遠に苦しみ続ける」
「…工藤君の回復力にも、そのパンドラが関係してるのかしら?」
「そう、生命力が強いからな。新一はたとえ心臓や脳に致命傷を負わされようと、死ぬことも許されない」
「…苦しいわね」

 死ぬことも許されないなんて。
 欲に駆られた人間に囚われれば、その先の一生なんて考えるまでもない。
 私利私欲を満たすため、まるで道具のように扱き使われ、ぼろぼろになるまで利用されるに決まっている。

「私は巻き込まれたなんて思わないわ。彼は大切な人だもの…私が彼を守る白き衣だと言うのなら、やってやろうじゃない」

 全面戦争だって構わない。
 そう、自分を救ってくれた彼を救うためなら、この身がどれほど傷付こうが構うものか。
 あの稀有な魂を、貴い存在を、永遠の苦しみから解放できると言うのなら、哀は喜んで力になる。

「俺は言うまでもないね。新一のためだけじゃない、俺自身のためにも必ず宝石を見つけ出し、あいつの魂を解放してやる」

 彼が欲目に駆られた人間に好き放題にされるなんて、冗談じゃない。
 もとより彼なしの生活など快斗には考えられなかった。
 危険だって構わない。
 自分のため、彼の笑顔を守るためにも、必ず彼の魂を解放する。

「それを聞けて安心したよ…」

 優作は酷く嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
 無言のまま静かに目を伏せている白牙も同様だ。
 今まで抱えてきた秘密の重責からようやく解放されたような、そんな心地だった。

(おまえの息子を巻き込んで済まない、盗一)

 知らず、優作は心の中でかつての親友に謝罪していた。
 あの日、彼が死んでしまった日から、ずっと後悔ばかりの日々が続いていた。
 自分の息子を愛するばかりに、親友を巻き込んで死なせてしまった、と。
 そうして彼の妻や息子に合わせる顔がないからと、それまで続けていた黒羽家との繋がりも断ってしまった。
 けれど彼はどこかで気付いていたのかも知れない。
 息子である快斗こそが、白き罪人であることに。
 でなければ、快斗に白牙の訓練を受けさせるなどと言う真似はしなかっただろう。

 優作の友人であった白牙と盗一が親しくなるのにさして時間は掛からなかった。
 優作はいつか訪れるだろう時≠フために、白牙に頼んで新一を鍛えさせた。
 そして盗一もまた、優作の知らないところで快斗に訓練を受けさせていたのだ。
 それは、ここに来て白牙に聞いて初めて知ったことだった。

「優作さん。貴方が苦しむ必要はありません。親父は死んだ。それはもう覆せない現実です。でも新一はまだ生きてる。俺はあいつを失いたくない。だからやれるだけのことをします。貴方の息子のためだけじゃなく、俺のためにも。だから…」

 あまり自分を責めないで下さい。
 そう言った、いつの間にかすっかり頼もしくなってしまった親友の忘れ形見に、優作は深く頭を下げた。

「有り難う。私は選ばれた者ではないから、息子のためにも君たちのためにも何もしてやれない。しかし、勝手だと分かっているが――どうかあの子を、頼んでもいいだろうか」
「喜んで」
「当たり前だわ」
「今更だな」

 三者三様の答えに、優作は思わず笑ってしまった。そして深く深く感謝したのだった。

「――ところで、白き衣ってあと三人いるんだよな?」
「そうだ」
「紅子。残りの三人、おまえの魔術とやらでぱぱっと見つけらんねーの?」
「簡単に言ってもらっちゃ困るわ。朱音さまが御子を見つけ出したのだって、かなりの魔力を消費されたのよ。だからこんな未熟な私に助言の継承を頼まれたのだから」
「月の御子やパンドラに関しては強力な防壁が掛けられているらしくてね。いくら魔女殿と言えど、簡単に見つけ出すことはできないそうだよ」
「じゃあなんで俺たちは白き衣だと分かったんですか?」

 それは哀も気になっていたことだ。
 不思議そうにしているふたりに答えたのは白牙だったが…

「おまえたち、さっきから胸押さえてるだろ? だからだよ」

 その答えに、ふたりは同じように首を傾げた。
 言葉が少なかったかと、白牙は苦笑しながら言い直す。

「昨日、俺はおまえに月下白を盗み出すよう忠告しただろう?」
「ああ…半信半疑だったけどちゃんと盗ってきた。でも時間なくてまだ確かめてないな」
「その必要はない。それはパンドラじゃないが、おまえたちには必要なものだ。月下白は白き衣を見極める宝石なんだ」

 そう言って白牙は上着の釦を外すと、胸を顕わにした。

「ここに丸い痣みたいなものが見えるだろ? おまえたちにもあるはずだ。御子と月下白が近くにあれば、心臓が熱くなってこの痣が浮かぶ。そして一度浮かんだら二度と消えない」
「確かに、心臓が熱かったけど…」
「魔女殿の予言のおかげで快斗が白き衣なのは分かってたんだが、そっちの女の子までとは思わなかった」

 快斗は服を捲り、確かに心臓の真上に浮き上がった痣を見つけた。
 既に熱さも痛みもなかったが、そこにはくっきりと丸い痣が浮かんでいる。
 哀もちらりと覗いてみたが、言われた通り痣が浮かんでいた。

「ようやく、なんであれを盗めと言ったのか納得できたよ…」
「おまえたちの行動はいちいち見張ってたんだ」
「…まさか、新一が攫われた時もっ?」
「ああ。でなきゃおまえに居場所を伝えられるわけないだろう」
「じゃあなぜあんなになるまで彼を放っておいたの!」

 哀は表情も厳しく食って掛かった。
 いくら彼の生命力が強いと言っても、彼が傷付いていく様を黙って見ていたとあれば、許すわけにはいかない。
 治りが早かろうが、その痛みは変わらないはずだ。
 決して弱音は吐かない人だけれど、だからこそ、許されることではない。
 けれど白牙は哀の剣幕に怯むことなく言い切った。

「本当に危なくなったら助けた。だが、今回はおまえが動かなきゃ意味がなかったんだ、快斗。白き衣と呼ばれようが、その宿命の元に生まれようが、全てを選択するのはおまえ自身だ。強制されて動くんじゃ意味がないんだよ。だから、おまえの心に従って動いて貰わなければ意味がなかった」

 白き衣として新一を守護する者に相応しいかどうか。
 白牙はそれを見極めなければならなかったのだ。
 宿命も何も関係なく、ただ純粋に彼を守りたいと思い、動くこと。
 快斗はそれを試されていた。

「…全ては俺の力不足の所為か…」
「ぎりぎり合格だ。新一を守りたいって気持ちは本物みたいだしな」
「そう。だから今日、君たちに全てを話そうと決めたんだよ。白牙に昨日連絡を貰って、即帰国してきてしまった」
「これからは罪人の役目を安心しておまえに任せられる。おまえがもしどうしようもないボンクラだったら、無理でも無茶でも俺がやるつもりだったからな」

 ふふん、と鼻を鳴らす白牙に、快斗は先ほど新一に抱きつかれていたことを思い出してカッとなった。

「そういや白牙! あんた、新一とどういう関係なんだ!」
「おまえと同じ。新一にあれこれ教えたのが俺」
「…通りで」

 建物の三階から飛び降りても平気なわけだ。
 あんなに反射神経がいいわけだ。
 あんなに度胸がいいわけだ…

 ニヤニヤ笑う白牙を快斗は嫌そうに睨み付けた。
 その様子を呆れたように眺めているのは哀と紅子と博士である。
 優作はひとり楽しそうだった。
 いや、嬉しそう、と言った方が正しいだろう。

「長話になってしまったね。新一の目が覚めるまでまだ時間があるし、夕食にしようか?」

 今日は色々と大変で、長い一日だったから。
 そう言って締め括ろうとする優作に文句を言ったのは白牙だった。

「ちょっと待て! それ、俺に作れって言うんじゃないだろうな?」
「なに、楽しみにしてるよ、白牙。君の料理の腕は逸品だから、きっとみんなを満足させてくれると期待しているよ」
「〜〜〜ックソ! しょうがねえ、やってやるよ! クソうまい料理を食わせてやらぁ!」

 優作に遊ばれている白牙に「ザマァ見ろ」と快斗が思ってしまったのは、周知の秘密だった。










* * *


 重傷の大怪我から新一が復帰したのは、それから四日後のことだった。
 一度は死にかけた彼のその回復力には驚かされるばかりだ。
 或いは毒薬を飲んでも死ななかったのは、彼のこの特異な体質ゆえかも知れない。
 けれどそれもパンドラの影響なのだと思えば胸中複雑になる哀だったが、そんな様子はおくびにも出さなかった。

 既に紅子は自宅へと帰り、優作もロスへと帰ってしまった。
 独りロスに残されていた有希子が帰ってくるよう催促したのである。
 息子の現状をよく知っている彼女だが、信頼している博士やかつての師である盗一の息子、そして白牙がいるならと安心しているのだ。
 白牙は新一の警護のため、今後もこちらに残るらしい。
 快斗はと言えば、眠り続ける新一の側を、飽きもせずに片時も離れようとしなかった。

「新一。目、覚めた?」
「…おう。頭がぼーっとする…」
「たぶん哀ちゃんの薬の影響だよ。心配しなくてもそのうちはっきりしてくるよ」

 うん…と寝ぼけながら相槌を打った新一は、急にハッと目を見開いた。

「黒羽! 白牙はっ?」
「…えーと…白牙はねぇ…」

 なぜか言い淀む快斗を怪訝に見遣っていた新一だが、快斗の背後から現われた本人を見てほっと一息吐いた。
 長い絹糸のような黒髪を後ろでひとつに束ね、覗く黒曜石の瞳が穏やかに笑っている。
 百九十センチの長身で見下ろしながら、白牙は新一の頭を撫でた。

「俺ならここだ、新一」
「白牙…おまえ、今までどこに行ってたんだよ」
「あれ? この間みたいに抱きついてくれないのか?」
「! バーロ、あれは…っ」

 真っ赤になって白牙を睨む新一を、快斗は面白くなさそうに見つめていた。
 ふたりの関係は自分と同じ師弟だと聞いたものの、快斗は納得していなかった。
 なぜなら新一の態度が、それだけだと言うには少々おかしいからだ。
 あれから何度か白牙に直接確認してみた快斗だが、一度としてまともに答えて貰った覚えがない。

「分かってるよ。心配かけて悪かった」
「死んだと思ってたんだぞ? 連絡ぐらいよこしやがれ、このバカ!」
「ひでーな、俺にバカなんて言うのおまえぐらいだぜ? 優作だって滅多に言わないのに」
「そりゃあの親父もバカだからだよっ」

 ふん、と荒々しく鼻で息を吐き、新一はそっぽを向いてしまった。
 その仕草は子供染みていてなんとも可愛らしいのだが、快斗は気が気でなかった。
 今の会話でなんとなく分かってしまったけれど…

「…なんかあったの?」
「…八年前に、誰かの護衛に行ったっきり帰って来なかったんだよ、このバカは…」
「そっか。それで新一、抱きついちゃったわけね」
「なっ! だからあれは、抱きついたとかそんなんじゃ…」
「いや、俺は抱きつかれたぞ。盛大に」
「う、うるさい!」

 顔を真っ赤にしながら抗議する新一を余所に、なんだそう言うことか、と快斗は納得した。
 そう言うことなら仕方ない。あれは感動の再会というやつだったのだ。
 そんな馬鹿げた遣り取りをしながらも、ここで本題を忘れては行けないと頭を切り換える。

「新一、起きれそう?」
「大丈夫じゃねぇの?」
「…てきとーだな」

 疑問に疑問で返されても困ってしまうのだが。
 しょうがない、と快斗は立ち上がると、軽すぎる体を軽々と抱き上げた。
 既に点滴もコード類も取り外してある。

「わっ、おいコラ何すんだ降ろせバーロ!」
「新一くん、歩けないでしょ? だから連れてく。ああ、腕に埋め込まれた発信器は、白牙が奪ってきたパソコン使って取り外したから。もう心配いらないぜ?」
「…悪ぃ」

 勝手な行動をしたという自覚があるのだろう、思ったよりあっさり謝った新一に快斗は思わず笑みを浮かべた。
 不満そうに顔をしかめた新一は、けれど抵抗することなく快斗に体を預けている。
 白牙は内心複雑そうな様子でふたりの後に続いた。

 やって来たのは阿笠邸の屋上だ。
 外は既に暗くなっており、満天の星空にぽっかりと純白の月が顔を出している。
 いつの間に出てきたのか、屋上には哀もいた。
 事情の全く呑み込めない新一は、ただ説明を待った。

「――とまあそんなわけで、この間の催し会場にいた七瀬って男が白牙でさ。月下白はおまえに必要な宝石なんだってさ」
「…盗んだままなのか?」
「ああ、安心していいよ。優作さんが月下白買っちゃったらしいから」

 はあ?、と目を見開いた新一は、次の瞬間には盛大な溜息を吐いていた。
 どうやらまだポーカーフェイスを保つほどの元気はないらしい。
 ことの成り行きで新一が伝説の蒼い瞳を持った人間なのだと知らされたと説明された哀は、油断できない彼の小説家を思い浮かべて嘆息した。
 くすくす笑いながら、快斗は月下白を新一に手渡す。

「月下白は、蒼い瞳を持つ者にとっては大事なお守りみたいなものなんだって。だからそれをおまえが月に翳さなきゃならないんだ」

 ほら、と言って手渡されたそれを、新一は複雑な面もちで受け取った。
 新一の手の中にすっぽりと収まった宝石は、それまでとは少し違い輝きを放つ。
 銀色の光を弾いていた宝石が、真っ白の――まるで月のような光彩を放った。
 まるでこここそが自分の有るべき場所なのだと主張しているかのよう。

「新一、月に翳してみろ」

 白牙に促されるまま、新一はいつもキッドがそうしているように月下白を月に翳した。
 すると、月光を弾いて一層白く輝いたかと思うと、次の瞬間、月下白はまるで粉のように砕け、夜の中に消えてしまった。

「え? どういうことだ?」

 困惑しているのは新一だけだった。
 既に月下白について説明を受けている快斗や哀は、神妙な顔つきで黙っている。

「心配するな、新一。月下白はおまえの一部となった。これからはずっとおまえを守ってくれるだろう」

 これで、白き衣と呼ばれる者が現れれば、誰がそうなのか自然と知ることができる。
 月下白は新一の中へと吸収されたのだった。

「さあ、とにかく今日はここまでだ。軽く食事を摂ったらまた寝ろ。完全に元気が戻ったら、警視庁に報告にでも行くんだな」

 ああそうだ、あんな大事件を起こしておいて何のお咎めもないわけがない。
 既に新一に扮した快斗が片を付けているとも知らず、新一は馴染みの警部の小言を想像して、頭を抱えるのだった。





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優作と白牙に説明して貰いました。
ああもうややこしすぎで、書きたいこと全部書けたかどうか…。
ごめんなさい、このへんが私の限界らしいですv
そんな訳でこの話はこんな設定の元で出来てます。
読みやすすぎですね…スミマセン。苦。
とにかく、月下白はこれで終わりました。
この後の展開、考えてたハズだけどどっか抜けちゃったなぁ…(ォィ

03.04.21.