「新一、もう起きるの?」
時刻は夜の十時を過ぎたばかり。
今日はもう籠もると宣言した通り、快斗も新一もしっかりサボリを決め込んでいた。
ずっと抱き締めていると言った言葉の通りに快斗は一日中新一を離さず、新一もそんな快斗から発作がおさまっても離れようとはしなかった。
二人だけの気怠く充足した時間を共有して、もうこのまま朝まで眠ってしまおうと快斗は思っていたのだが。
てっきり眠ってしまったものと思っていた新一がのそりと起きたのに気付き、覗き込むように蒼い瞳を見つめて言った。
「起きて大丈夫なのか?」
「ん。発作はもうおさまったし」
「あー…いや、そっちもそうなんだけど…」
苦笑しながら頬をかき、快斗は言いにくそうにその先を濁す。
何を言いたいのか瞬時に悟った新一もまた苦笑した。
「平気だよ。どっかの誰かが、人のこと壊れ物みたいに扱いやがったオカゲでなっ」
「わっ。だって新一に無理なんかさせらんねーもんっ」
ばふっと頭上から枕をぶつけられ、けれどちっとも威力のこもってないそれに快斗は笑みを返す。
こんな風にじゃれ合える程度には回復してるから気にするなと、そう言外に伝えてくる新一を、枕をどけて抱き締めた。
戦場で、まるで糸の切れた絡繰り人形のように崩れ落ちる新一を見た時、とても言い表すことなどできない恐怖に包まれた快斗は無我夢中で駆け寄った。
受け止めて、名前を呼んで、抱き締めて。
…自分の無力さを思い知った瞬間だった。
またいつ発作に襲われても絶対に新一を渡したりしない思いで、快斗は新一を抱いた。
寒さなど感じる暇もないほど、己の熱を。
誰ともわからない奴の声など聞こえなくなるほど、己の声を。
そうして引き留めることができたことに、快斗は心底安堵した。
――けれど。
「俺、ちょっと出掛けてくる」
やんわりと快斗の腕を押し返して逃げ出した新一に、快斗はえ?と聞き返した。
本当にもう体は大丈夫そうで、倒れたことなど嘘のような動きで新一はベッドから抜け出す。
その後に続いて快斗もベッドから降りた。
「出掛けるって…?」
「ちょっと、やりたいことがあるんだ」
「それは今やらなきゃ駄目なのか?平気そうに見えても発作起こしたばっかなんだぜ」
「ん…時間が惜しいから、さ」
新一は曖昧な笑顔を向ける。
いや、他人から見たらそれは普段と変わらない笑顔なのだろうけれど。
新一にポーカーフェイスを向けられることのない快斗が、気付かないわけがなかった。
「…どーしたんだよ」
自然、声も低くなる。
良くない予想ばかりが浮かぶが、快斗はそれを打ち消すように新一を見つめた。
けれどその顔を見ていると、余計に不安になってきて。
そんな快斗の様子に気付いてか、新一は笑みを苦笑に変えて快斗に歩み寄った。
真剣な眼差しで拳を作ったまま直立している快斗の手を取り、新一はそっと引き寄せる。
その手を自分の頬に宛い、呟いた。
「…お前の服、借りても良いか?」
「どういう、こと…?」
「…駄目なら、諦めるけど」
「そうじゃないっ。駄目なわけじゃないけど、なんでっ?」
快斗は新一に取られていた手を奪い返すと、その手で新一の頭を抱え込んだ。
がっちりと掴んで離さない。
視線を、表情を、何も見落とさないように。
この蒼い目が何を考え、何をしようとしているのか。
新一はただ快斗の好きなようにさせ、真っ直ぐに快斗の目をひたと見据えた。
けれどどこまでも蒼く透き通った瞳の中に、快斗は何も読みとることはできなかった。
「どこに、…行くつもり?」
言葉が喉に詰まって出てこない。
言いたいことはたくさんあるのに、そのどれも上手く伝えることができない。
目の前にあるのは、決意を固めた新一の瞳。
それはもう、きっと覆すことなどできなくて。
快斗は胸が詰まる思いで新一が何か応えてくれるのを待った。
ほんの数秒がとても、長い。
「…思い出したんだ。ずっと忘れてたことを。…忘れちゃ、いけなかったのに」
沈黙の後、新一はそう切り出した。
「忘れてたこと…?」
「…それで、わかった。このままにしてたらいけないと思う。だから、行くんだ」
「何が?なんでっ?そんなんじゃ、全然わかんない…っ!」
離したくない、離れたくない…!
言えない気持ちを伝えるように、快斗は頭を抱えていた手を新一の背に回し、思い切り抱き寄せた。
束縛はしたくない、大事だから。
何よりも新一の気持ちを尊重したいから。
だけど。
「いなくなるつもりなのか…っ」
俺の前から、いなくなるつもりだというか。
もし、そうなら。
――たとえそれが新一の意志だとしても、そんなのは許さない…!
昏い色が燻る快斗の目に、ふわりと微笑む新一の姿が映った。
「何言ってんだよ。ここから消えてどこに行けってんだ?」
「…え?」
「快斗んとこに帰ってくるしかねぇじゃん。…寂しがりだしな、お前」
新一は自分の手も快斗の背に回すと、顔を上げて額と額をコツンと合わせた。
今にも泣き出しそうな目とそれを嬉しげに見つめる目が、真っ直ぐにぶつかる。
そこに嘘偽りの色はない。
「だからさ。お前の服、貸して。…ちゃんと返しに来るから」
ちょっとの間だけ、ここを離れるけど。
それでもここへ帰ってきたいと思うし、必ず帰ってくるから。
寂しがり屋で独占欲が強いくせに、俺のために我慢してくれてる、お前のために。
それから、自分のために。
「…良いよ。俺の軍服、着てってよ。」
新一の決意が変わることはないと感じた快斗は、くしゃりと顔を歪めた。
それでも最後の強がりで良いよと笑って見せて。
「軍服は拙いだろ」
「良い。その代わり、俺もお前の借りるから…」
大佐が少佐の服を着ていては格好が付かないだろう、と言いそうになったけれど、新一は言うのを辞めた。
「…わかった」
新一としても軍服の方が有り難かったし、快斗にもその方がきっと良いのだろう。
自分たちにとって軍服はただの制服ではなく、戦闘服でもあるのだ。
命を懸けて戦場で戦うとき、司令部で多くの命を抱えながら指揮をするとき。
全てを共にしているのは、この服。
何より思いが込もるなら、何より思いを込めるなら、これ以上のものはない。
「もう、すぐに出るのか?」
「ああ」
「…そっ、か」
じゃあ持ってくる、と快斗は寝室を出ていく。
新一は何も言わずにその背中を見送った。
なかなか戻ってこなかった快斗にも何も言わず、その目元が少し赤いのにも何も言わず。
持ってこられた、快斗の黒い軍服に袖を通した。
「やっぱちょっと大きいな」
「俺、着痩せするからね」
「あんま背ぇ変わんねーのに」
そんな、いつもと変わらない会話で重くなりそうな雰囲気を拭って。
新一は少しだけ大きい軍服を纏って、快斗に向き直った。
「…行ってくる」
快斗はぎこちない笑みを浮かべて、頷いて見せた。
新一も頷いて扉に向かう。
その手を、そっと遠慮がちに掴まれた。
振り返り様に抱き寄せられ、息も詰まるほどの強さで掻き抱かれ。
快斗は新一の首元に顔を埋めたまま、絞り出したような掠れた声で言った。
「待ってる、から…っ」
新一は――
今更だったけれど。
行きたくない、と思ってしまった。
誰より強くて、誰よりも弱い彼を置いていきたくない、と。
けれど、こめかみにひとつキスをして。
「続きは今度な」
わざとにっこり笑って、快斗の腕から逃れ、扉を出た。
静寂の中に扉の閉まる音が響く。
腕の中はあったはずの温もりは消え、そこには虚しい空気ばかりが残った。
冷たくて、どんなに掴んでも何も応えてはくれない、空気だけ。
快斗はぎゅっと手を握りしめる。
「狡いよ、新一」
お前のその笑顔に、俺は限りなく弱いんだからさ……
すでに灯りが半分近く消えている廊下を、こつこつと響く靴音も低く、新一は歩いていく。
朝の早い生活の中では、この時刻に起きている者はまずいない。
その中をひとり歩いていく。
ひどく、我慢してくれていると思う。
本当ならもっとずっと強く引き留めたかっただろうことを、知っている。
彼は自分で思っているほどポーカーフェイスがうまくはないのだ。
それは新一だからこそわかったのだが、一番隠さなくてはならないはずの相手に隠せていなかったのは事実だ。
それでも新一はここを去る。
帰ってくるつもりは、勿論ある。
あの言葉は紛れもない新一の本音であり、事実己の居場所はもうそこしかないと思っている。
ただ、帰ってこれるのは数時間後のことなのか、明日のことなのか――或いはもっと先なのか。
それは新一にもわからなかった。
それでも、行かなければならない。
忘れていた、忘れてはならなかった記憶を思い出したから。
ずっと昔から感じていた、漠然とした想いに基づく記憶。
自分が、全身に黒を纏う理由。
(お前はとっくに気付いてたみたいだけど…)
黒は喪色。
…死者の、色。
人の命を奪う自分が、踏みしだいた命の上に立つ自分が、その事実を決して忘れないために。
奪った命を全てこの背に負って生きていくと決めたから。
だから。
「還るさ」
俺はまだ、この手にかけた人々に報いれるだけの何も、成してはいない。
砂漠の夜は寒い。
昼間は照りつける陽光から、夜は体温を奪う冷気から、軍服はこの身を守ってくれる。
それでも肌寒いと感じるのは精神的なものだからと、新一は仕方ないと思うことにした。
昼間の惨状が嘘のように、血の跡は風に舞う砂に覆われ、もう見る影もない。
その中に転がる、死体。
ヴェルト軍の死者は全て領内に担ぎ込まれ、後日葬儀が行われる予定だ。
つまり、ここに転がっているのは埋葬されることのないモヴェールの戦士たちの亡骸だ。
選りすぐれた精鋭だったからだろう、死んだのは三人。
だが三人だけ、ではなく、三人も、死んだのだ。
種族は違えど命の重さに優劣はない。
新一は連れてきた愛馬に二人のモヴェールを乗せ、もう一人は自ら背負い、未だ訪れたことのないモヴェールの森へと足を踏み入れた。
歩く度に舞い上がる砂からはマスクが守ってくれる。
あまり奥地に入ってのろのろと埋葬するわけにもいかないので、森のはずれで申し訳ないとは思いながらも、新一はそこに穴を掘った。
人が三人入れる、ぎりぎりの大きさ。
もう少し掘り下げようかと思ったとき、
『…ここで何をされてるんですか』
背後から、透き通るような声が聞こえた。
けれど新一が驚くことはなく振り返りもしない。
そう、これは予想していたことなのだから。
一瞬寒気に襲われかけたが、快斗の想いが染みこんだこの軍服が新一の思考を繋ぎ止めてくれる。
「見て、わからないか」
『…いえ。なぜそうされるのか、と聞いた方が良かったですかね』
声が一段と近くなる。
歩く音も、服の擦れる音すらしなかったのに、気配はすでに後ろまで来ていた。
「冷たいだろ」
『…』
「死んだらただでさえ冷たくなっちまうのに、こんな冷気に晒されちゃ余計冷たいだろ」
それなら、生まれた地の森や土、花に囲まれていたいじゃないか。
新一の返答に、男はクッと低く笑い出す。
その笑いが嘲るようなものなら新一も腹ぐらい立てたかも知れないけれど、ただ可笑しそうに笑う男に毒気を抜かれてしまった。
新一は掘っていた手を止めて、そっと振り向いた。
そこには月光を背負い、真っ白い服に全身を包んだ、不思議な雰囲気の男が立っている。
いや、少し身を屈めて笑っていた。
「何がおかしい」
『いえいえ。人間にも面白いことを考える人がいるんだな、と』
「死者を悼むのがおかしいか」
『いいえ…』
そこで男は急に笑いを引っ込めると、驚くほど冷涼な気配を放った。
『個人的には好きですけど、今の世の中じゃなかなか受け入れられないでしょう?』
「関係ない。俺はしたいようにする」
『どうか気を悪くしないで下さい。何せ私も、あなたと同じ変わり者ですから』
男は幾重にも巻き付けられた白い布を靡かせながら歩み寄り、まるで石を拾うような軽々しさで戦士たちの亡骸を抱き上げると、新一が掘ったばかりの穴にそっと横たえた。
鼻につく、いっそ無礼なほどに慇懃な言葉遣いやからかいを含んだ物言いに反して、ひどく優しく丁寧に。
純白の衣装に土が付くのも構わず膝をつき右手の拳を額に押し付け、固く目を瞑り祈りを捧げる。
『…冥福を』
真摯な声がぽつりと呟いた。
それから新一も手伝って三人の遺体を埋葬すると、二人は漸くまともに向き合った。
『初めまして、人間の方。私はキッド。モヴェールです』
「…」
『昼間と服装が違うようですが、貴方が黒衣の騎士でしょう?』
「…そうだ。工藤新一だ」
『宜しく、新一』
すっと差し出された手を、一瞬躊躇した後新一は握り返す。
男は頭にも白い布を巻いており、そこから覗く髪は日に焼けたうす茶色で、右目には片眼鏡のようなものをしていた。
おかげで顔の造形ははっきりとしないが、殺気らしいものが感じられないことに新一はひとまず安堵した。
「殺されるかもって予想で来たんだけど」
『とんでもない。私達は争いを好まない種族ですよ』
「それでも、人間は忌み嫌う存在だろう?」
まして、馴れ馴れしく握手を交わすなど有り得ないと思ったのだけれど。
『他の者はどうだか知りませんけど、私は中立な立場ですからご心配なく』
「そうか。なら、安心して言わせてもらう」
今夜、ここに来た理由。
殺されるかも知れない危険を冒してまでここに来た、その理由。
「あんた、…キッドだっけ。昼間いただろう?ここに」
『おや。姿は現わさなかったつもりですがバレてましたか』
「バレバレだよ。あんたみたいに気配の鮮烈な奴がいて、気付かないはずがない」
『…それで?私がいたからなんだと?』
そこで新一は黙り込むと、す…とマスクへと手を伸ばした。
黒い、新一の顔を覆い隠していたものがはずされ……
新一は瞑っていた瞳を開くと、キッドを見据えて言った。
「俺は、あんたたちに関係があるんじゃないかと思ってね」
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キッドと漸く接触することが出来ました。
第二章もすでに四話目ですが…何話までいくんだか。