黒羽快斗という男は、例えるなら、研ぎ澄ました刃を鞘一枚で隔てたような男だ。
 新一の最初の印象はそんなものだった。

 彼はとても信頼されている。
 この支部の最高責任者にして最高指揮官だからというのはもちろん、彼の人当たりや愛想の良さも影響しているのだろうと思う。
 他の者はその鞘の意外な堅牢さや、鮮やかな装飾に目を奪われているのかも知れない。
 ただ、新一には、鞘の奧に隠された何よりも鋭利で危険な刃が見えていた。

 彼の笑みはどこか危うさを孕んでいる。
 そしてそれが、自分にだけは違うのだということに、そう時間もかからずに気付いた。










「工藤!」


 廊下をひとり歩いていると、後ろから声をかけられた。
 振り向かなくとも解る。
 いつもごく僅かな気配しか感じさせない男が、気でも抜いているのか、ぱたぱたと足音を立てながら走ってくる。
 基地内の司令部で新一のことを“工藤”と親しげに呼ぶ者など、彼しか居なかった。


「黒羽。中佐と話してたんじゃないのか?」
「あれくらいの雑務、俺なしでもこなしてもらわなきゃ困るって」


 苦笑して肩をすくめた快斗。
 確かにその通りだと思いながら、新一は快斗の様子をマスクごしにじっと見つめた。

 他の将校たちの前での笑顔とはまるで違う、生き生きとした笑顔。
 なぜ自分にこんな笑顔を、この男は向けてくるのだろうかと新一は思った。


「この後ちょっと時間空いてっからさ、手合わせしねぇ?」


 ニッ、と口角を上げ、挑発的な視線を投げてくる。
 整った顔立ちを、その瞬間、冷涼な気配が包み込んだ。

 新一と快斗は、どこか顔立ちが似ている。
 ふたりとも各パーツが絶妙な位置取りをしている、ということなのかも知れない。
 ただ、幾分筋力の付きにくい体をしている新一は繊細な印象を受けるが、鍛えられた体をしている快斗は同じ顔でも男くささを感じさせる。
 大体にして、決まりすぎるほどに着こなしている軍服が悪いのだ。
 黒地に白のラインの入った軍服には、階級を示す紋様が描かれている。
 まるで人の上に立つのを義務づけられているかのような空気が、常に彼のまわりを取り囲んでいた。
 新一はなんとなく悔しく思いながらも、快斗の申し出を快諾した。

 あれから、快斗と新一はよく訓練をともにするようになっていた。
 快斗の言うとおり、自分より強い者との実践は新一に確実な力をつけてきている。
 そうして自分より強い者が快斗しかいないとあれば、自然と剣を交わす機会も増えていった。
 最初は面倒くさそうにしていた新一も、今では自分から誘うこともそう少なくない。


「やんのは良いけど、手ぇ抜くんじゃねぇぞ」
「俺が手ぇ抜いてるって?」
「全力じゃねーだろ」


 そう、もう何度となく打ち合っているというのに、この男は未だ本気を見せたことがないのだ。
 まだ新一の実力がそこまで達していないのだから仕方ないとは思う。
 けれど、自分とそう年も変わらない快斗にいつまでも負け続けているのは、面白くない。

 そうして快斗は全く悪びれた様子もなく、あどけなく笑って言うのだ。


「全力でやったら、工藤、すっ飛びそうなんだもん」


 そのあまりな物言いに新一はムッとして、隣を歩く男をおいてさっさと訓練場へと向かった。
 慌てて走り寄ってくるのを横目で捕えながら、新一はこっそりと溜息を吐く。

 “大佐”の立場を離れた快斗は、頭も良いし会話の要領も心得ていて、新一としても一緒にいて楽な人物だ。
 自然と共に行動することも多くなった。
 初めは周りの反応を気にしていた言葉遣いにしても、今ではほとんど気にならない。
 まるで普通の友人同士のようである。
 けれど、だからこそ目に付くのだ。
 この男のミステリアスな部分が。

 一見、新一にはまるで気を許しているような快斗だが、けれど確実にどこかで一線を引いている。
 新一はその一線に、一度ならず触れかけたことがある。
 けれどその度、言葉巧みに逃げられているのだ。

 そうして新一は、今までは「興味ない」の一言で済ませてこれたことが、いつの間にかそうでなくなっている自分に気付く。
 黒羽快斗という男に、どうしようもない関心を抱いている自分がいる。
 知りたいと、思う。
 けれど同時に、その危うさに踏み込んでは行けないとも思う。
 そう思うほどに、鞘の奧の隠された剣は鋭利で危険だった。





「そこ、もっと腰落とせって!」


 キィンという金属音が鳴る合間に、快斗の良く通る声が響く。
 新一は快斗の重たい剣戟を両手で握った剣で受け止めながら、言われるままに腰をぐっと落とした。
 重たかったはずの剣が幾分軽くなる。

 快斗はギリギリと押していた腕の力を一旦緩め、額にうっすら浮かぶ汗をぐいと拭いながら言った。


「工藤はもともと力の付きにくい腕してるんだから、無理に腕の力だけで受け止めようとするな。腰をしっかり落として、身体全体で受け止めるんだ」


 さらりと痛いところをつかれて、新一はムッとしながらも微かに頷く。
 そんな新一に快斗は苦笑しながらも、少し休憩しようかと構えていた剣を下ろした。

 ここは優作が新一のためにと特別に作らせた区域で、よって許可のある者しか入ることも出来ないし、存在すら知らない。
 ここでの訓練時は新一は仮面をつけていないため、表情は相手に筒抜け状態である。
 新一の体力も相当なもので、快斗と同様にうっすらと額に汗が浮いている程度だ。
 訓練のために軍服は脱ぎ、黒のタンクトップ姿のふたり。
 そこからすらりと伸びる肢体は、それほどまでの力がどこにあるのかと疑わせるほどに、細い。

 初めこそ、身体のことについてアレコレ言われると反論していた新一だが、今ではそんなことはしなくなっていた。
 新一の身体が細身であるのも、筋肉がつきにくいのも事実である。
 そんなものに拘っているよりは、快斗の的確な注意を取り込んだ方が自分のためだと思ったのだ。
 けれど、コンプレックスというものはそう簡単に消えるものではない。
 少しばかり機嫌が悪くなるのも仕方ないというものだ。


「最初に比べたら、随分強くなったと思うぜ?」


 快斗の向かいの壁に凭れている新一は、徐に顔を上げる。


「もとから腕も良いし覚えも良いし、そのうち、全力の俺とやり合えるようになるよ」
「…そのうちって何時だよ」
「まだ当分はかかると思うけどね。一ヶ月でここまで来たんだから、そう遠くないでしょ」
「…あっそ」


 面白くない、と新一は、水分補給用に持ってきていた水をぐいとあおった。
 それから快斗の方へと放り投げる。
 快斗はサンキュ、と返しながらそれを同じようにあおった。


「マジでさ、たった一ヶ月で、お前の実力はもう噂になってんだろ?」
「ああ…なんか聞いたかも」


 初めは仮面の騎士が珍しい、といった程度のものだった。
 それがいつの間にか、おそらく入隊直後に鎮圧した紛争のせいだろうが、黒衣の謎の騎士の手腕に誰もが感嘆したのだ。


「少なくともこの支部の連中にはお前の実力はもう認められてるぜ」


 にっこり笑ってそうのたまった男に、けれど新一は一瞥を寄越しただけで。
 誰に認められようと、この男の実力にはほど遠いという事実は変わらないのだ。
 それがただ、理由もなく悔しいと思っているのだから。

 と、外から慌ただしい足音が聞こえてくる。
 ふたりはばっと立ち上がると、それぞれの軍服を掴んで直ぐさま訓練場を飛び出した。
 特別区だというだけあって、ここには連絡が届きにくい。
 何かあったのだろうと当たりを付けて、ふたりは真っ直ぐに基地へと向かった。










 司令塔の扉を開けると、慌ただしく動き回る将校たちの視線が一気に集まってくる。
 そうして縋るように、高木中尉が快斗に言った。


「た、大変なんです、大佐!巡回中の二等兵が、誤ってシエルの商人に斬りかかってしまったみたいで…!」
「今、シエルの国境警備軍とうちの警備軍がやり合ってるんです!」


 どうしましょう、と指示を仰ごうと必死な彼ら。
 国境問題に発展しかねないこの状況に、誰も彼もが顔面蒼白になっている。
 だから、誰も気付かなかったのだ。
 シエルと言われた瞬間の、快斗の強張った表情に。
 刹那の間掠めていった、凍るほどの冷気に。

 けれど、たったひとりだけ――新一だけは、それを敏感に感じ取っていた。


(…なんだ?)


 けれど、何もかも謎なこの男のことなどわかるはずもなく。
 そのまま指示に入った快斗に、新一はただ黙って従うことにした。


「中佐以下五名ほどで怪我人を、俺と少尉とで鎮圧に向かう。相手を刺激しないよう、あとの者は待機していてくれ!」


 そう言い置いて、快斗はさっさと踵を返した。
 新一は無言でその後に続きながら、前を歩く快斗の背中を探るようにじっと見つめる。
 けれどそれで何かがわかるはずもない。
 相変わらず謎な男は謎のまま、黙って歩いていると思っていると。


「…悪ぃけど、出来るだけ死者を出さないように、出来るか?」
「…ああ」
「頼む」


 その台詞を聞いて、新一は思った。
 快斗がなぜ他の者を連れず、自分を指名したのか。

 新一は以前怒った紛争を鎮圧した際、たったひとりの死者も出さなかった。
 それは誰もが知ることだ。
 新一自身、出来るだけ死傷者を出さないように、というのが信念であった。
 それを快斗は知っている。
 だからこそ自分が指名されたのだ、と。

 それからは無言のまま、ふたりは戦地へと急いで馬を走らせた。










* * *


 戦地は、すでに血みどろの争いになっていた。
 争いとはこういうものであり、仕方がないとわかってはいても……心臓を掴まれる思いがした。
 人間の身体から流れ出る鮮血は、砂に吸い込まれている。
 まるでゴミ人形のように転がっているのは、かつて呼吸をしていた人間。
 新一は言いようのないやるせなさを感じながらも、次々と敵を沈めていく。

 たとえ快斗に敵わずとも、その実力はすでに隣国にも轟くほどの手腕である。
 一介の国境警備軍がそうそう敵うはずもない。

 けれど。
 人の心とは、時に実力以上の力を引き出すことがある。


「うわああああああ!!!」


 涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、突っ込んでくる男。
 年の頃は、まだ二十歳を過ぎて少し、と言ったところだろうか。
 格好からしても大した階級ではない。
 せいぜい二等兵か一等兵といったところだ。

 男は真っ直ぐに新一へと向かってくる。
 次々と仲間を沈めていく新一にキレたのかも知れない。
 新一は他の兵士の剣を受けながら、妙に冷静な頭でふと考えていた。

 そういえば。
 殺された商人の中にはは、若い女がいた。
 年格好も彼と同年代ぐらいで。
 その手には――花束が、握られていたという。
 その花束は――男女が生涯を誓い合う儀式に、用いられるもので。

 待っていたはずの、幸せに満ちた未来を、奪われてしまったのだろう。

 やるせなさを新一が襲う。
 なぜ、死ななければならなかったのか。
 なぜ、彼は彼女を失わなければならないのか。
 なぜ――自分は、剣を振るっているのか。

 男の形相は、怒りと哀しみ、憎悪、絶望……
 様々な負の感情をない交ぜにしたような、そんな顔をしている。

 この表情を見る度に、迷わないと決めたはずの腕が、なぜか剣を振るうのを束の間拒絶する。
 振るった先にあるのが、命だと知っているから。

 だから――まるで無防備な新一の、剣を振り上げて無防備になった腹に、男の剣が深々と突き刺さった。

 ――はず、だった。


「…ッカヤロォ!ぼーっとしてんじゃねぇ!!」


 気付いたら、新一は砂の上に倒れていた。
 その上には覆い被さるようにして、快斗が乗っかっている。
 いつも満面の笑みの快斗が、怒りに顔を歪めて新一を睨み付けている。


「くろ、ば…?」
「生き残る気がないなら出てくるんじゃない!」


 語気荒く叱咤し、快斗は新一の上から退いた。
 手を引いて、立ち上がらせて。
 そうして漸くそこで、新一は快斗が怪我を負っていることに気が付いた。


「おい、黒羽、それ…」
「五月蠅い。勝つ気がないならひっこんでろ」
「…それ、俺を庇ったのか…?」


 返事はじろりとした睨みだけだったが、新一は確信した。
 右の上腕にきれいに入った一筋の線。
 そこからは結構な量の出血が見られた。

 新一は、なぜこの男が庇ったりするのだろうか、と思った。
 あの瞬間に呆けていた新一の責任であって、増してこんなに怒られる理由もないというのに。

 それでも。
 ほんの少し。
 …嬉しさを感じたのも、事実。

 この怒りは、自分に向けられている。
 裏返せば、気にかけているからこそ怒るのだ。

 それからの新一は、もう迷うことなく剣を振るった。
 自分が何のために軍人になったのか。
 迷っていてはいけないのだ。
 突き進むしかない道を選び、立っているのだから。
 それでもやるせない“死”を目の前に、少し怯んでしまう自分が居る。
 それは多分一生消せないのかも知れない。
 …否、消してはいけないのかも、知れない。

 それでも、立ち止まらないと決めた自分を。
 叱咤し、前に押し出してくれる存在が――この男なのかも、知れない。

 だから、こんなにも、気になって仕方ないのだろう、と。
 まだ気付くことのない感情に蓋をして、シエルとの紛争を鎮圧させたのだった。










* * *


 もともと平和主義国のシエルとは、今回の件は出来るだけ穏便に対処するよう、外交で決定が交わされた。

 新一は今、快斗の大佐室に足を踏み入れている。
 怪我の治療のため、自分より2年早く軍に入り軍医をしている幼馴染みのもとへ連れて行こうとした新一だが、快斗はそれを断わった。
 一通りの医学の知識なら身につけているから自分でする、と。
 けれど腕を怪我している快斗は片腕しか使うことが出来ない。


「…だったら、俺がやる。…俺のせいでも、あるし…」


 そう言った時、吃驚したように快斗は目を見開いていた。
 けれど直ぐに破顔し、嬉しそうな顔で一言。


「ありがと」


 と言った。
 そうして新一は今、大佐の私室にいるのだが。

 治療の間中、これ以上ないほどに顔に笑みを張り付けている人物は、先ほど新一を叱りつけた本人とはほど遠いものがある。
 あまり人に気を許したりしない新一だが、この黒羽快斗という男は認めているのだ。
 けれど、あまりに彼には謎が多い。
 その謎を口にすることもまた、彼の望むことではないのだろう。
 だから聞いたりしないのだが、だからと言って気にならないわけではないのだ。
 新一は複雑な表情で治療を行っていた。


「別に工藤が気にすることないよ?」
「ばーろ。だからってへらへら笑ってられるかってんだ」
「だってさ、身体が動いちゃったんだもん。剣を前に逃げようともしない工藤を見てたら、さ」
「…悪かった」


 快斗が何と言おうと、この怪我の原因は新一にある。
 だから素直に謝ったのだが。


「謝るなって、大した怪我じゃないし」


 快斗は苦笑してそんなことを言うのだ。


「あ、でも、またあんなことしたら今度は殴っても知らねーからな」

 俺、工藤を死なせたくないから。


 その、不意打ちのような台詞に、不覚にも嬉しいと思う自分が居る。
 新一はそんな自分を否定したいようなそうじゃないような複雑な気分になって、俯いた。
 そして、自分もまた怪我をしていることに気付く。
 紛争の後半は、かなり無茶な剣の振り方をしていたからだろう、手の皮は擦りむけ、結構悲惨な状態になっている。
 その怪我を見て、ふと。


「…俺の怪我も、見て、もらえるか」


 思ったよりもすんなりと、言葉が出た。
 決して気を許さないためにと、自ら一度断わっていたけれど。
 この男になら、それもいいかも知れないと、新一は思った。

 と、途端に見るからに嬉しげに顔を綻ばせた相手に、新一はなぜか気恥ずかしい気分になって、ぷいと顔を背けた。
 その顔は、心なし赤い。

 自分で断わっておいて都合が良いな、とか。
 そんなことも思わなくもなかったけれど。


「勿論。…怪我したら、いつでもおいでよ」


 その嬉しげな声を聞いていたら、全てはどうでも良くなってしまった。





 黒羽快斗という男は、研ぎ澄ました刃を鞘一枚で隔てたような男だ。
 鋭利で危険な剣を隠し持っている。

 けれど。
 孤高なその男の、唯一気を許せる相手が自分だと言うなら。

 そんなのも悪くないと、新一は思った。






TOP

空色の国、番外編第二弾!というわけで今度は新一サイドでしたー。
こんな感じでふたりは惹かれ合っていきます。
…が、わかるでしょうか??自分て書いてて辻褄が合うような合わないような…。
支離滅裂でしたらすみません。
番外編を!とのお声を下さった方々に捧げます。