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...黄昏時の蜃気楼...
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「こンの、泥棒
――――――!!」



 がやがやと賑わう商店街に、老人のしわがれた声が響き渡った。
 近くに居た者は何事だと振り返るが、所詮見慣れた光景で、特に誰も手を出そうとはしない。
 こめかみに青筋を立てた主人に気の毒だと同情の視線を送りながらも、泥棒と呼ばれた少年の逃げ足の速さに瞠目してしまうのだった。

「泥棒だなんて、人聞きが悪いなぁ。ちょっと分けてもらっただけじゃん。タダで♪」

 それが泥棒というものだが、幸い誰にも突っ込まれることなく、少年は身軽に人並みを掻き分けていく。
 肩には相棒の白鳩が止まっていていかにも動きにくそうだが、少年と同じくやはりこちらもタダモノではないのか、見事なバランス感覚で少年から離れることはなかった。
 やがて、老いた果物屋の主人は追い掛けることを諦め、肩で息をしながら怒声を上げ始める。
 それに少年は苦笑を返して、戦利品を片手に家並みの隙間へと体を滑り込ませた。

「そんな怒ることかよ。なぁ?」

 懐から取り出したリンゴを服の袖でキュッ、キュッ、と磨く。
 紅く美味しそうに光るリンゴを同じく懐から取り出したナイフで切り分けると、相棒の白鳩へと差し出した。
 黄色い嘴で嬉しげに平らげる鳩に、少年は満足げに微笑んだ。



 少年の名前は黒羽快斗。
 日に焼けたおさまりの悪い髪と群青の瞳が印象的な、小柄な少年だった。
 けれど、見かけに騙されてはいけない。
 愛想の良い笑みや砕けた口調に騙されやすいが、その体は驚くほどに逸脱した運動能力を備えている。
 そうして彼は自分の特性を生かし、各国を点々と渡り歩く間の食料や衣類などは全て“頂戴”してきたのだ。
 全ては家を―――還る場所を持たない快斗が生きていくための手段だった。

 快斗は懐からもうひとつリンゴを取り出す。
 先ほどのは相棒にあげてしまったので、これは自分用のものだ。
 実は昨日の朝からまる一日以上何も口にしていなかったので、既に空腹を訴えることもなくなった快斗の腹にとっては大事な食料である。
 人より大食いというわけでもないが、それでも快斗は成長期の少年の標準なみには食べる。
 漸くありつけた食事に、いざ食べようと口を開けたのだが――――――
 ふと、自分を見つめる少女と目が合ってしまった。

 じっと見つめる小さな双眸。
 その物欲しそうな視線の意味することを、快斗は嫌というほどよく知っていた。
 まだ昔、自力で食料を調達する術の無かった頃の自分もこんな目をしていた。
 食べたいのに食べるものがない、だから――――――誰かが与えてくれないか、と。

「……食べたいの?」

 快斗がそっと声を掛けると、その小さな女の子はびくりと肩を震わせた。
 どうやら似ているのは年格好だけで、ここでキッパリ「うんv」と言えない辺り、幼少時代の快斗ほど不貞不貞しくもないようだ。
 快斗は怯えてる少女ににっこりと邪気のない笑みを向け、悪戯めいた口調を優しいものに変えると。

「おいで。お腹減ってるんだろ?リンゴで良かったらあげるよ♪」

 自分の大切な食料ですら、あげてしまうのだった。

 少女はびっくりしたように目を見開き、欲しいけれど怖いような…とでも言うようにもじもじしている。
 快斗は小さく肩を竦めると、すっとリンゴを差し出した。

「ほら。このリンゴをよく見ててね?」
「…ぇ」

「1…2…3!」

 手の中にあったはずのリンゴがポンッと弾ける。
 後には赤やら黄色やらの小さな紙切れが残っただけで、そこにはリンゴの跡形もない。
 少女はわけがわからないと目を瞠るが…

「君のポケットの中を見てごらん。」

 優しくそう言われて、おどおどしながらもポケットに手を突っ込む。
 すると、そこからは先ほど消えたはずのリンゴが出てきた。
 更に少女が目を瞠る。

「今のは俺の生まれた国の下町で教わった遊びで、“マジック”って言うんだよvそのリンゴは君のポケットの中から出てきたんだから、遠慮なく食べて♪」

 まったくもってそのリンゴは快斗が入れたものだが、小さな子供にはマジックのタネはわからないだろうと思い、そう言った。
 すると少女はおどおどしていた顔に満面の笑みを浮かべる。

「お兄ちゃん…ありがとう…」
「どういたしましてv」

 少女は嬉しそうに微笑むと、リンゴを持って駆けていった。
 きっと、同じように飢えているだろう大事な人のもとへ、あの小さなリンゴを分けて食べるために行ったのだろう。
 あの子にはそんな優しさを見た。
 だからこそ、貴重な食料を簡単に譲ってしまったのだが。

「…あー、どうしよう……このハラのムシ…」 

 相変わらず快斗の腹はぐうぐう鳴っている。
 2つ盗らせてもらったリンゴは、ひとつを相棒に、もうひとつは少女にあげてしまった。
 自分の分はない。
 もともと、生活のために盗みはしているが一応それを罪だと知っているし、あまり盗りすぎるとその人の生活にも支障を来しかねないからと、最小限のものしか盗らないようにしているのだ。
 そのおかげで墓穴を掘ったのだからなんとも間抜けな話だが。

 再びあの商店街に行くのはおそらく危険だ。
 年の割に随分追いかけ回してくれた果物屋の主人のおかげで、結構な人数に顔が割れてしまっただろう。
 そこへのこのこと顔を出せば、盗られる前に捕まえようとばかりに追い立てられるに違いない。

 快斗は盛大な溜息を吐いた。
 どうやらもう暫く絶食しなければならないらしい、と。

 けれど、それは予想外の声によって免れるのだった。



「……アンタ、損な性格してんな。」

 背後から聞こえた声に振り返る。
 今の一部始終を見られていただろうそれに多少の不機嫌さを覚えながらも、元来の愛想の良い性格から無視を決め込むわけにも行かず……

 けれど、快斗はこの瞬間を二度と忘れることはないだろう。



 そこに立っていたのは、快斗とそう変わらない背格好の少年。
 否、変わらないのは背格好ばかりでなく、顔もどことなく似通っている。
 まあ世の中には自分と同じ顔が3人はいるというので、そこにはあまり驚かなかったのだが。
 快斗が驚いたのはもっと別の理由だ。

 どこが、とは言えない。
 強いて言うなら、内側から溢れる彼の何かが、快斗にそんな錯覚をさせたのだろうか。
 いっそ恐ろしいほど澄み渡った深い海の蒼を連想させる瞳、風が吹けばサラサラと流れる漆黒の髪、惜しげもなく晒された細い二の腕の健康的な白さ。
 驚くほど綺麗な少年だった。
 ……けれど、ニッカリと悪戯そうな笑みを浮かべている彼は、どこからどう見ても快斗と同じ遊びたい盛りの少年である。

「自分の食いぶちをあんなガキにやっちまうなんて、かなりのお人好しだな。」

 その小綺麗な顔とはちょっとギャップのある砕けた口調にやや気圧されながらも快斗が反論した。

「別に良いだろ?俺はまた自分で盗れば良いけど、…あの子はきっとそんなこと出来ねぇんだから。」

 なにせ、あんな幼気な少女だ。
 話しかけただけでおどおどしてしまうほど気の小さい少女に、生活のためだと割り切って盗みを行うことなど出来るはずもない。
 それをそんなふうに馬鹿にされれば、いくら愛想の良い快斗と言えど不機嫌にもなる。
 唇を尖らせながら突慳貪にそう返した快斗に、けれど少年は楽しそうな笑みのままで言った。

「悪いとは言ってねぇだろ?俺、そういう馬鹿、大好きなんだ。」

 クツクツと笑っている少年に、快斗は目を開く。
 てっきり馬鹿にされたものだとばかり思っていたがそうではなく――――――しかも大好きだと言ってしまうあたり、彼も同じ穴の狢なのだろう。

 けれど、今の世の中、そういった考えは受け入れられない。
 なぜなら世界に孤児は溢れかえり、浮浪者は数え切れないほど居る。
 そんな甘い考えでは生きていけないし、狡猾でなければ生き抜けない世界だ。
 無条件の優しさなど、裏があるとしか思えない連中で溢れかえっている。
 そんな中で、彼の言うような“お人好しの馬鹿”は自然と受け入れられなくなっているのだが……

「…アンタも馬鹿なクチ?」
「ああ、そうだな。しかもお前に食べ物を譲ってやろうっていう、更に馬鹿だ。」

 そう言って少年は懐からパンを取り出すと、快斗へと差し出した。
 細長いそのパンは、先ほど快斗が盗みを行った果物屋とそう離れていない並びにあったものだ。
 おそらくそこで快斗を見つけて追っかけてきたのだろう。

「…コレ?」
「別に腹が減ってた訳じゃねーから、お前が食って良いぜ。」
「え?じゃ、なんで盗ったりしたの?」
「おめーと一緒にすんじゃねーよ。俺はちゃんと金で買ったんだ。」

 眉を寄せた少年は突慳貪にそう言うと、うりゃ、とか言いながら快斗の口にパンを無理矢理突っ込んでくる。
 快斗は慌てて降参のポーズを取ると、有り難くパンを受け取るのだった。

「じゃ、お言葉に甘えまして。」
「おぅ、甘えろ。」

 そう言って少年はまた楽しげに笑う。
 快斗は、その、まるで太陽みたいに眩しく暖かい笑みに魅了されている自分に気付いた。

 世の中の汚さを知らないわけではないだろうに、なぜ、こんな風に笑えるのか。
 モノをきちんと買う金があるなら、盗られることの悔しさを知らないはずがない。
 だというのに、なぜその行為を咎めないのだろう。
 どうして――――――こんな風に笑えるのか?

 快斗の知っているどんな人も、こんな風に笑う人はいなかった。
 生活の苦しい者は、どんなに強がってもその苦しさがどこかに滲み出る。
 その上、快斗と連んでいる相棒は―――鳩ではなく小さな少女なのだが―――快斗よりずっと辛い思いをしているため、こんな風に笑うことはなかった。



「アンタ……名前、なんての?」

 なんの得にもならないそんなこと、いつもなら聞いたりしないのに。
 どうしても聞きたくて。

 すると少年は少し考え込んだ後に答えた。

「そーだな…シンとでも呼んでくれれば良いや。」
「なにそれ。偽名なわけ?」
「なんつーか、俺って色々訳ありでさぁ。」
「ふぅん…まあ良いけど。俺も訳ありだしさ。じゃ、俺のことはカイって呼んでよ♪カイでもカイくんでもカイさまでも良いぜv」

 一瞬複雑そうに眉間に皺を寄せたシンだったが、快斗のその冗談に楽しそうに苦笑を零す。

「“さま”なんて柄じゃねーぜ、カイ。」

 なんとはなしに呼ばれた名前が心に響く。
 その声があまりに自然で、快斗は理由もなく喜んでいる自分の心を不思議に思った。






 シンからもらったパンを腹におさめると、漸く快斗の腹のムシは鳴くのをやめた。
 これぐらいの量では1時間もすればまたぐうぐう鳴りだしてしまうだろうけど、それでも今を凌げたことは有り難い。

「さんきゅ!美味かったよ。」

 素直にお礼を言うと、シンは満足げに微笑む。
 その笑顔を見て、快斗はシンもきっと自分と同じ理由でこんなお人好しな行為をするのだろうと思った。

 別に、何の見返りも求めずに善意を示せるほど、快斗は聖人ではない。
 見返りならちゃんともらってるのだ。
 様々な“感謝の気持ち”を。
 それは単にありがとうという言葉だったり、嬉しそうな笑顔だったり、そういった些細なことが、けれど快斗にとっては何よりのお返しとなるのだ。
 今の、世知辛い世の中で、それでも快斗は笑いながら生きていこうと思っている。
 父親がいないのも母親が誰か知らないのも、本当なら不幸だと思うことだろうけど……
 思ったところで、生きていくための何の糧にもならない。
 それなら、哀しいと塞いでばかりいないで、辛くても笑っていられる強さを身につけたかった。
 そしてそれは、いつの間にか快斗の中の信念となっていた。

 “ありがとう”と言われることの嬉しさ。
 その言葉は、快斗にも自然と笑みを分けてくれる何よりの魔法の言葉なのだ。
 そして、満腹とまではいかないが満足そうな快斗を見て、シンもまたこんなに嬉しそうに笑ってくれる。
 快斗は、今日初めて逢ったばかりのシンにひどく惹かれ、もっと色んなコトを知りたいと思い始めていた。



「シンはよくここに来るの?」
「んー……たまに、だな。」

 少し難しい表情になったシンに、そう言えば訳ありがどうとか言ってたなぁと快斗は思い起こす。
 自分にも言い明かせない秘密の顔があるから根ほり葉ほり聞こうとは思わないが、なんとはなしに思考を巡らせた。

 綺麗な顔をしたシン。
 けれどその顔とは裏腹に、着ている服は結構粗末なモノだった。
 上等とは言わないがそれなりの布はボロボロに裂け、あちこちに泥が付いている。
 けれど、布の裂けた部分からのぞいているシンの肌や、艶のある黒髪は、どう見てもお日様の下で日夜働いている人間のものではなかった。
 そこから予想出来ることは――――――シンはわざとこんな格好をしている、ということ。

 浮浪者ばりの格好でいながら食料を買う金をしっかりと持ち、訳ありで名を明かせない人物。

 果たして快斗にはそんな人物は思い至らなかった。

 どこか裕福な家庭の御曹司がお忍びで遊びに出ている、という考えはあまりしっくりこない。
 もとから生活の豊かな人間は浮浪者を嫌うし、何より粗末な服を纏うことを恥と考える人間が、進んでこんなボロい服を着るとは考えられなかった。
 或いは変わり者のお坊ちゃんなのだろうか。
 けれどこのあたりでそんな人間がいれば噂のひとつは流れていようものだし、生憎とそんな噂は流れていない。
 つまり、快斗にはシンの素性は全く判らなかった。
 けれど。

「ま、いっか。」

 だって、たとえばシンの素性を知ったところで、きっと今の自分の態度が変わることもなければ、シンの快斗に対する態度も変わることはないのだ。
 今目の前にあるシンが快斗にとっての全てで、それがありのままの姿である。
 素性ひとつで態度を変えられるほど、快斗は良い育ちをしていない。

「何が、まいっか、なんだ?」

 と、不思議そうな顔をしたシンがこきっと首を傾げる。
 きょとんと、吸い込まれそうな深い蒼をした瞳がのぞき込んでいる。
 快斗は思わずぷっと吹き出してしまいそうになるのを必死にこらえるが…

「何でもない、何でもない。こっちの話だよ。」

 それでも不思議そうに見遣るシンに、快斗はたまらず笑ってしまった。
 まるで今にもこぼれ落ちそうな瞳が相棒の白鳩とそっくりだった、などと言ったら、彼は怒るだろうか?
 怒らせてみるのも面白いと思うけれど。
 だって、シンの表情はなんだか見ていると飽きないのだ。
 その綺麗な顔からは想像できないほど悪戯げに笑ったり、子供みたいに可愛らしい顔をしたり。
 きっと、シンは怒っても可愛いのだろう。

「なに笑ってンだぁ?」
「いや、シンちゃんてば、俺の相棒とそっくりなんだもん。」
「…相棒ってまさか、その鳩か?」
「当たり♪」

 暫くの沈黙。
 すると、

「この野郎、良い度胸じゃねーか、カイ!」

 案の定、拗ねるようにして怒りだしたシンに、快斗は腹を抱えて笑い出した。
 形の良い眉を吊り上げて、文句を言いながら胸ぐらを掴んでくるシン。
 やっぱり、シンは怒っても可愛いかった。

 本気ではない蹴りをふわりとかわして、それまで座り込んでいた家並みの隙間から飛び出す。
 頭から湯気でも出てきそうなシンは、快斗を追いかけるようにしてついてきた。
 快斗はなんだか楽しくなって、さきほどとは別の笑顔を浮かべる。
 時々後ろを振り返っては追いかけてくるシンの姿を確認し、からかうように逃げ回った。

 そしてつい、突然始まった追いかけっこに周囲の視線が自然と集まってしまったことに、気付くのが遅れた。



「…あ!見つけましたよ!!」



 その声に弾かれるようにして振り返ったシン。
 表情はどことなく固い。
 快斗は、シンの“訳あり”があの男なのだろうと瞬時に悟った。

 快斗とシンの追いかけっこは、いつの間にかその男からの脱走劇に変わっていた。












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