---------------------------------
...黄昏時の蜃気楼...
---------------------------------

























 脱兎の如く駆け出したシンに後れを取らぬよう、快斗はそのずば抜けた運動能力を駆使してシンを追いかけた。
 驚くことに、シンの足は快斗とそう変わらない速さで人混みを掻け分けていく。
 快斗は人混みに飲み込まれないようシンを追いかけるのが精一杯だった。
 やがて快斗が漸くシンの隣に追いついた時、声を掛けてきた男とは頭が少し見えるだけという程度には距離が離れていた。
 が、何やらその男と似たような上質な衣装を纏った男どもがわらわらと現われてくる。
 先ほど声を掛けてきた男が頭なのか、他の男たちに散らばるように指示を出しているのが見て判った。

 快斗は思わず眉を寄せる。
 ……あの衣装は、この国の王宮を守る衛兵のものではないか。

「シン、おまえ…」
「…」

 快斗が息を弾ませながら隣を走るシンに声を掛けるが、シンは相変わらず固い表情のまま無言しか返さなかった。
 暫く、何とも形容しがたい沈黙がふたりの間を流れるが……

「来いよ!俺、逃げ道には詳しいからさ!」

 快斗はシンの右手を掴むと、近くの狭い路地へと駆け込んだ。
 シンが吃驚したように目を見開いて快斗を見つめるが、快斗はただ不適な笑みをその口元に浮かべるだけである。

 だって。
 どんな事情があるのかなんて知らないけど、シンが逃げたいなら、逃がしてやりたいと思うのだ。
 彼が王宮とどう関係しているのか、そもそもなぜ追われているのか。
 そんなことは少しも判らないけれど、ただ、シンにこんな表情をさせたくなかった。
 あの笑顔が好き。
 だから、シンが笑ってくれるなら、そこに理由なんか必要ないのだ。



「…サンキュ、カイ。」

 シンがはにかんだような笑みを浮かべているのを後ろに見て、快斗はどうにも嬉しくなってしまう自分の気持ちを抑えることが出来なかった。
 いったい自分はどうしたと言うのか。
 今日逢ったばかりの、それも男相手に、何を振り回されているのだろう。
 けれど、それを楽しいと思ってしまうのも事実だ。
 振り回され、どう考えても厄介ごとでしかないこんな脱走劇に付き合っていることすら楽しいと思ってしまう。
 ……隣にシンがいるから。

「シン、こっち!」
「うわ…っ」

 真っ直ぐ行こうとするシンの腕をぐいと引き、更に入り組んだ道を迷わず駆け抜ける。
 時々ちらりと見える彼らの衣装にドキリとしながらも、快斗は確実な道を選んで進んでいた。
 それでもぴたりとついてくる足音に、快斗もシンも休む間もなく更に速度を上げる。

「カイ…!もっ、良いぜ?お前は関係ないんだから…っ」

 だんだん上がっていく呼吸で、それでも快斗の身を案じるように声を掛けてくるシン。
 快斗はまた、なんだか胸の辺りが暖かくなるような気がした。

「乗りかかった船だし、最後まで付き合うよ!」
「最後までって…」
「あいつらから逃げたいんだろ?俺に任せなって♪」
「カイ…」

 シンは困ったような表情を浮かべたけれど、嫌がっているようには見えなかった。

「俺はお人好しの馬鹿かもしんないけど……その馬鹿に無償でパンをくれるようなヤツを、俺も放っとけないんだよ。」

 お礼とか、そんな大それたコトではないけど。
 そう言って肩を竦めると、応えるようにシンは握られていた手をぎゅっと握り返した。
 照れくさそうな顔は走った所為ばかりでなく赤く、けれど口元に浮かんだ嬉しそうな笑みに自然と快斗の笑みも深くなる。

 好意を自然と渡すことは出来るできるくせに、人から好意を受けることに慣れていないらしい不器用なシン。
 そんなところも彼らしくて、微笑ましくて。
 もっともっと、色々な彼を知りたいと快斗は思い始めていた。






* * *






 快斗とシンの素晴らしい俊足によって、シンを追っていた男たちからふたりは見事に逃げ切ってみせた。
 だいぶ日は傾き初めているし、商店街からはかなり離れてしまったけれど、なんとか無事に振り切れた開放感からか、ふたりの顔には楽しそうな笑みが浮かんでいる。

「なー。お前って足速ぇーな。」

 汗ばんできた額を拭い、塀の上を器用に歩きながらシンが快斗に声を掛けた。
 快斗は塀の横を歩きながら、同じように額の汗を拭っている。

「シンだって速いじゃん。」
「俺、結構いっぱいいっぱいだったのに、お前、余裕な面してる。」
「そう?コレでも一応しんどがってるんだけどねー。」

 なんたって、1時間以上にも及ぶ全力疾走だ。
 それも平坦な道ならまだしも、家並み人並みを避けるようにして曲がりくねった道を通ったものだから、体力消耗は二割り増し状態である。
 さすがの快斗だとて疲れないはずもないし、だからこうして汗をかいてるわけなのだが。

「単にポーカーフェイスが巧いんだよ。」
「…ふぅん。」

 シンは絶妙なバランス感覚で、塀の上を歩きながらひょいと肩を竦めて見せた。
 その顔はどことなく沈んで見える。
 どうしたのかと、快斗は思ったままに尋ねた。

「どうかした?」
「別にどうもしねぇけど…」
「うん?」

 シンが、赤く染まりだした空を見上げるように空を仰いだ。
 彼より低い位置を歩く快斗に、その表情を読みとることはできない。
 けれど、なぜかあの沈んだ顔のままなのではないだろうかと、思った。

 そうして空を仰いだままにシンが言うのだ。

「…それって、哀しくねぇ?」

 ポーカーフェイスでくるりと覆って。
 他人に見えないよう、自分の心を隠してしまうのは哀しくないか?

 快斗は、なぜシンがそんな顔をしているのか、なんとなく判った気がした。

 顔の似たふたり。
 背丈も、声もそっくりなふたり。
 ……増してその存在までも似ているなんて。

 シンはおそらく、快斗に自分の姿を重ねてしまったのだろう。
 まわりから一線を置き、くるりと自分の本心を隠してしまうことに慣れてしまい。
 けれど、そのことの寂しさに気付いてしまった。
 だから、同じように本心を見せない快斗を見て、哀しくないのかと尋ねてしまったのだろう。

「…確かに哀しいかもね。」

 けれど。

「でも、コレは俺が選んだことなんだ。最初は自分の境遇にムカついてたこともあったけどさ。変えられないなら、自分で変えるしかないだろ?
 だから俺は誰の所為にもしない。自分でコレを選んだ。」
「……別に、誰かの所為だなんて思わないけどさ。」
「うん。それでも、ずっと自分を作ってなきゃならないとすごく疲れるよね。
 でも、“ほんとの自分”でいられる人が居たら、頑張れるんじゃない?」

 快斗だって、色んな紆余曲折を経て今の自分を手に入れたのだ。
 たくさん傷もつくったし、癒しの手を求めても誰も与えてくれないことだってあった。
 けれどそれでも精一杯生きてきたから、今の自分をそれなりに好きでいられる。
 たとえ偽の自分を装うことに慣れてしまっても、ほんとの自分を見失ったわけではないし……
 なにより、ほんとの自分でいられる相手を決して見過ごさないから。

「…俺、シンのそういう存在になりたい。」
「え?」

 きょとんとした顔が妙に可愛らしい。



「なんか、一目惚れしちゃったみたい。」



 シンの大きな瞳がこれ以上ない程に見開かれ、零れ落ちてしまうんじゃないかと思った。

 ……実際には、シンが塀から滑り落ちたのだが。










「〜〜〜ッ!?」

 自分の足に引っ掛かって塀から滑り落ちたシン。
 顔面から地面へとモロに突っ込んでしまうと、慌てて手で顔を庇いながら目をぎゅっと瞑ったのだが……
 予想外に、その後に続くはずだった衝撃がなかかった。
 それもそのはずで、シンがバランスを崩したのと同時に受け入れ態勢を整えていた快斗がしっかりとシンの体を受け止めたのだった。

「…っとぉ、危ないなぁ。」
「カイ、悪ぃっ。大丈夫か?」

 降ってきたシンを見事に受け止めたものの、突然のことだったため、快斗も背中から倒れ込んでしまった。
 その衝撃は自分の背中で吸収したためシンにはほとんど届いていない。
 とりあえずは良かったものの、けれど背中は結構痛かったりする。
 快斗はシンにばれないように苦笑を浮かべ、大丈夫だよと返した。
 救いは、シンの体が予想以上に軽かったことだろうか。
 育ち盛りの男でしかもお坊ちゃんだと言うなら、この軽さはないだろうと思うのだが……

 ふと、今の体勢に気付く。
 地面に仰向けに寝転がる自分、その上に跨るようにして顔を覗き込んでくるシン。
 その上、シンの顔に心配そうな色がありありと浮かんでいるとあれば、快斗のとるべき行動はひとつしかない。

 ぎゅうっと、シンの体に腕回して抱き締めた。

「ぅ、わっ」

 シンの小さな悲鳴が聞こえたけれど、快斗は聞こえないフリをする。
 だって、折角腕の中にあるこの温もりを手放すのは、なんだかとても勿体ないから。

「カイ??」
「シンってば、細ぇーっ」
「あ゛!?」
「それに何か良い匂いがする…」

 やはりどこかのお坊ちゃんなのだろう、香水の独特な匂いがする。
 それも派手で嫌味ったらしいものではなく、彼らしいどこか凛とした涼やかさを持つような匂い。
 彼の体に馴染んだその香りが快斗の心を擽って。

「それで、シンは?」

 快斗の問いかけにシンは瞳を瞬いた。

「言っただろ?一目惚れしたんだ。それで、シンの返事は?」
「えっ、…ぁ…」

 たった今し方のことなのに、どうやらシンは塀から落ちたことで忘れてしまっていたらしい。
 快斗は小さく苦笑して、それでも返事をくれるまでじっと黙って待っている。
 シンの深い蒼色の瞳を見ているだけで、普段ならあまり好まない沈黙も苦痛だとは思わなかった。

 シンは困ったように視線を巡らし、何か言おうとして口を開けるが、けれどすぐに何も言わずに閉じてしまう。
 それでも返事を待ち続けている快斗に応えようと、必死に考えてくれているようだった。
 快斗はただ、その蒼い瞳をじっと見つめる。



 自分でも何を言っているんだと笑ってしまいそうだ。
 逢ったばかりの男に一目惚れだなどと言われれば、快斗なら迷わず「コイツは馬鹿だ」と結論づけて、さっさとサヨナラしてしまうだろう。

 けれど“一目惚れ”なのだ。
 まさに一目見ただけで、快斗はシンに心奪われてしまったのだ。
 太陽みたいな笑顔も、子供っぽい怒り顔も、お人好しな性格も、 知れば知るほど好きになるし、もっともっと知りたくなる。

 初めは判らなかった。
 シンの一挙一動にドキドキしている自分。
 シンのためなら厄介事にも首を突っ込んでしまう自分。
 どうしてそんなことをするのか、自分でもよく判らなかった。
 けれど、彼と話しているうちに気付いたのだ。


 ……シンを、哀しませたくない。


 彼には本当の“自分”でいられる相手がいないのだ。
 だから、偽りを纏って周囲を欺くことは哀しくないのかと快斗に聞いたのだろう。

 けれど、少し考えれば判ることなのだ。
 誰だって偽物の“自分”を纏って生きている。
 言い換えればそれは、大人になるにつれ自然と身につけていく“生きていくための術”でもあるのだ。
 そうして本当に信頼できる人の前では、飾らないありのままの“自分”でいられる。

 だから、シンに信頼される人になりたいと思った。
 なぜなら――――――好きだから。



「シンは、俺のこと嫌い?」

 シンの瞳をじっと見つめたまま、快斗がそっと問いかける。
 すると、間髪置かずに、

「嫌いじゃない。」

 と返ってきた。
 思わず嬉しさに頬が緩む。

「じゃあ、好き?」
「……判んねぇ…」
「なんで?」
「そういうの…よく判んねぇよ…」

 気まずそうに瞼を伏せるシンに、けれど快斗は優しく問う。

「じゃあね、俺と居るとつまんない?楽しい?」
「楽しい。」
「俺と話してんのは?」
「楽しい。」
「じゃ、俺に話しかけてきてくれたのは?」
「…せっかく盗んだリンゴ、ガキにやっちまうから…」
「…だからパンをあげようと思った?」

 …せっかく自力で盗ったリンゴをあげてしまうようなお人好しに、ただ同情でパンをくれてやろうと思ったの?
 少し哀しげに問う快斗に、けれどシンは違うと小さく首を振る。

「…………………………追い回されてるクセに笑ってるお前が、すげぇ楽しそうだったから。」

 快斗から視線を外した、聞こえるか聞こえないかの微かな声。
 夕日の所為ばかりでなくうっすらと顔を染めながらのそれを、快斗が聞き逃すはずもなく。

「シンー!!」
「ぅわっ」

 快斗は遠慮もなくシンの体を思い切り抱き締めた。
 ただの気紛れで声をかけてくれたわけじゃなく、快斗を見て、気になったからこそ声をかけてくれた。
 抱き締められたシンは、顔を真っ赤にしてぎゃーぎゃーと暴れながらも、心底から快斗を拒絶していない。

 …嫌われていないなら、望みは持っても良いだろうか。

「俺のこと、嫌いじゃないんだよね?」
「……ぁぁ。」
「ちょっとぐらいは、好かれてるんだよね?」
「…………ぁぁ。」
「期待しても、良い?」
「………………」

 今ではもうほとんどユデダコ状態になっているシンに、快斗はこれ以上ないほどの笑みを浮かべた。
 結局否定も肯定もされていないけど、この態度が何よりの証拠だ。
 照れて貰えるということは、そういう対象としても見て貰えるということに他ならない。

 だから快斗は、嬉しさのあまりに地雷を踏んでしまうのだ。

 その言葉が望みを壊すとも知らずに。



「俺、本当は快斗って言うんだ。シンには本当の名前で呼ばれたい。」



 シンの表情が凍り付く。
 まるで、あの男に見つかった時のように固い無表情。
 そんなシンの急激な変化に、快斗は訳もわからず動揺するが……

「……日が、暮れる。そろそろ帰れよ……カイ。」

 シンがにっこり笑う。
 まるで拒むようにはっきりと呼ばれた、偽りの名前。
 装いきれてない笑顔の端から、哀しみが滲み出ているようだ。
 そうしてシンはすっと立ち上がると、快斗が何を言うのも待たずに踵を返す。
 慌てて立ち上がり快斗は手を伸ばしたけれど、シンは逃げ出すように駆け出した。

「シン!?」

 快斗も追いかけるように走るけれど、まるで追いつくことが出来ない。
 名前を呼んでもシンは一度として振り返ることはなく。

 やがて、その姿は夕焼けの街の中へと消え去った。



 まるで
――――――黄昏が気ままに見せた、蜃気楼のように。












BACK * TOP * NEXT

--------------------------------------------------------------
あと1話…