――だというのに。

「テメー、なんでこんなところにいやがんだ……」

 地を這うような、という表現がぴったりな声が、小学生の幼児に若返ってしまったはずの探偵の口から絞り出された。
 見た目だけなら大変愛らしいというのに、いったいどこからそんな声が出るのか。
 そんな詮無きことを考えている怪盗の内心も、探偵が言った台詞と寸分違わぬものだった。

 現在、二人がいるのは、先日進水式を済ませたばかりの豪華客船のホールである。
 とある有名財閥同士が資金を出し合って共同開発されたというこの豪華客船。
 本日のゲストはその関係者と、事前に大々的に公募して当選した一部の一般人のみであり、なんの偶然か、その中に怪盗キッドこと黒羽快斗もいた。
 それというのも幼馴染みでお祭り好きの中森青子がこの企画に応募したところ、見事当選してしまったのだ。
 昔からこういう運だけはやたらといいのだ、中森青子という少女は。
 そしていつものことながら当然のように快斗はそれに巻き込まれたのだった。

 そんなわけで、小さな探偵はまるで苦虫を噛み潰したような顔で睨みつけてくるけれど、快斗にはやましいところなどなにもない。
 資金提供をした有名財閥の中に因縁浅からぬ彼の鈴木財閥の名を見つけた時からなんとなく嫌な予感はしていたのだが、こうも見事に的中してしまうとは。
 ここにコナンがいる理由は、同じくこの場にいる毛利蘭と鈴木園子を見れば、探偵がいうところの『推理』などしなくても容易く想像がついた。
 しかし泣けど喚けど、船はつい十分ほど前に停泊していた港を離れてしまったため、今や逃げ場のない大海原のど真ん中である。
 どうしようもない。
 快斗は腹を括った。

「よう、探偵ボウズ。お前もこの船に乗ってたとは知らなかったぜ」
「なにを白々しい……。オメーこそ何しに来たんだよ? オメーが欲しがりそうなもんがこの船にあるとは思えねーけど」

 全くその通りだが、今はそんな話をしている場合ではない。
 快斗はおもむろにコナンを抱き上げた。

「ちょっ、オイ! いきなり何を、」
「あ――!」

 慌てて抗議の声を上げようとしたコナンの声を呑み込む絶叫が響き、コナンはびくりと肩を揺らして声を呑んだ。
 何ごとかと声のした方を振り返れば、そこには一人の少女が立っていた。
 中森青子である。

「快斗、快斗! この子でしょ、快斗の親戚の男の子!」
「し、しんせき……?」
「初めまして、キッドキラーの江戸川コナン君! 私、二課の中森警部の娘で、青子っていうの!」
「け、警部の……?」
「それにしても、まさか快斗の親戚の子がコナン君だったなんて! うちのお隣さんがキッドキラーの親戚なんて、もうこれは運命ね!」
「お、お隣……?」

 青子の怒濤のトークと飛び交う情報の数々に、流石のコナンも飽和状態だ。
 抱き上げられたことへの抵抗もすっかり忘れて呆然とするコナンに肩を震わせつつも、快斗はなんとか笑いを堪えて助け船を出した。

「青子、ほどほどにしとけよ。コイツはお前とは初対面なんだぞ」
「あっ、そっか! お父さんがよくコナン君の話してくれるから、つい」

 えへへー、とはにかむ青子に、コナンはようやく我に返った。
 抱き上げられて近くなった快斗の耳をぐいと引っ張る。

「テメー、誰が親戚の子だと?」
「いてて、しゃーねーだろ。いいじゃねーか、顔も似てるんだし」
「よかねーよ! つーかなんで中森警部の娘さんにそんな嘘ついてんだよ!」

 耳を引っ張りながら小声でガミガミ騒ぐコナンの頬を、快斗も負けじと引っ張った。

「そりゃオメーみてーな目立つガキが、学校の前で待ち伏せなんかするからだろ! 自分が何回新聞の一面に載ったか分かってんのか?」
「あんだとー!」

 耳と頬を引っ張り合いながらぎゃいぎゃい騒いでいると、青子が楽しそうに声を立てて笑った。

「あはは! 二人とも仲いいんだから!」

 邪気のないその言葉にショックを受けたのは、当然コナンだった。
 なにが悲しくて怪盗と探偵が仲良しだなどと言われなければならないのか、といった心情が手に取るように分かり、快斗も肩を揺らして笑った。
 仲がいいかは別として、お互いに人には話せない秘密を共有している気安さがあるのは確かだ。
 人のことを「お人好し」という、自身も相当なお人好しである探偵が、折角怪盗の正体は口外しないと言ってくれるのだから、この状況を楽しまない手はないと快斗は思っていた。

 そうこうする内に探偵の連れの一人、鈴木園子がこちらの騒ぎに気づいた。

「え? うそ! 新一君っ?」

 彼女の声に弾かれるように、隣にいた毛利蘭も振り返る。
 その目が驚愕に見開かれるのを、快斗は慣れた様子で見守った。
 自分の顔が工藤新一に似ていることはよくよく承知している。
 それを逆手にとって犯行に利用したこともしばしば。
 そのことを知るコナンは快斗の腕の中で静かに機嫌を降下させていたが、なんの変装もしていない今、見間違われることはあっても間違われることはないだろうと、快斗はさほど気にしなかった。

「新一……じゃ、ない?」
「あらほんと。よく見たら髪型が違うわね」

 まじまじと見つめる園子の横で、蘭の目に浮かんだ期待が落胆に変わるのを、快斗は目敏く見てしまった。
 ちらと視線を落とせば、コナンの顔にも一抹の苦さが滲んでいる。
 おそらく自分以外の誰も気づかないだろうとは思いつつ、快斗は雰囲気を変えるためにわざと明るい声で言った。

「どーもー♪ 毛利探偵とこの蘭ちゃんに、鈴木財閥ご令嬢の園子ちゃんだろ? 俺、黒羽快斗ってんだ。よろしくな!」

 ぽん、と軽妙な音とともに差し出された二輪の薔薇に、少女二人の目が見開かれる。

「マ、マジック……?」
「どうして私たちの名前を……」

 驚く二人に一本ずつ薔薇を手渡し、快斗は未だ抱えたままのコナンの脇を掴んで差し出した。
 首根っこを掴まれた猫のようにされるがままのコナンを見て、蘭が驚く。

「コナン君!」
「二人の話はよくこのボウズから聞いてるぜ! 俺、こいつの親戚でさ」
「え? じゃあ新一とも親戚ってことですか?」
「そうなるね」

 あっさり頷いてみせればコナンが絶句した。
 快斗はなんだか楽しくなり、今にも暴れ出しそうなコナンを抱きしめると、さり気なく口を塞いだ。

「実は俺の親父がマジシャンでさ。女優時代の有希子さんが親父に弟子入りしてたこともあって、新一とは生まれた時からの付き合いなんだ。ガキの頃はよく一緒に遊んだりもしたんだけど、あいつんとこも俺んとこもグローバルな両親のおかげであちこち飛び回ってたから、小学校に上がったくらいから音信不通になっちまってさ。ボウズの両親も外国暮らしだろ? こうなるともう血筋だよなー」

 つらつらと捲し立てる快斗をコナンが真っ赤な顔で睨みつけるが、快斗はどこ吹く風だ。
 コナンにしてみればとんでもない嘘に聞こえるだろうが、よく一緒に遊んだ、という部分を除けばほぼ事実だった。
 有希子が快斗の父に師事していたことも、彼女が渡米するまで父と交友関係が続いていたことも、探偵として怪盗キッドの前に立ち塞がった江戸川コナンの正体が工藤新一であることを知り、キッドの犯行に彼の姿を拝借するために彼について調べた時に判明した、歴とした事実である。
 もちろん架空の人物である江戸川コナンとの間に血縁関係があるはずはないが、人類皆兄弟、遠いか近いかの差こそあれ、いずこかでは繋がっているのだと思えば、工藤新一と黒羽快斗が親戚という話も強ち嘘ではないだろうと、快斗は開き直っていた。

 すると、それまで話についていけずに黙っていた青子が、拗ねたように唇を尖らせながら快斗の裾をくいと引いた。

「ちょっと快斗、知り合いなの? 青子を仲間はずれにしないでよ!」
「わりー、わりー。いっつもウルセー奴があんまり静かなんで、いるのをすっかり忘れてたぜ」
「ひどーい! 快斗のバカー!」

 頬を膨らませて怒りだした青子が、持っていた鞄でばしばしと快斗の背中を殴りはじめる。
 その様子に呆気に取られる蘭と園子。
 そしてやはり快斗の腕の中に抱きしめられたままのコナンは、最早怒る気力もなかった。



「へー、青子ちゃんて、中森警部の娘さんだったんだ!」
「中森警部って、あの怪盗キッド専任のっ?」
「うん、そうだよー!」

 初対面だったにも拘わらず、なにかと共通点のあった女の子たちは、五分も経つ頃にはすっかりと意気投合していた。
 そのため一人仏頂面をさらしているコナンの相手は必然的に快斗がすることになり、レストランホールのテーブルを挟んだ向こうとこちらで温度差の激しい一角ができあがっていた。

「――で、なんなんだよ、さっきのアレは」

 テーブルに並んだ豪華な食事をなんの感慨もなく咀嚼する全く可愛げのない小学生が、向こうに聞こえないように低めた声を出す。

「ん? どれのことだ?」

 予想はついたが敢えて聞き返せば、案の定コナンの眉間の皺が深くなる。
 にやにや笑う快斗を、コナンは胡乱な目で睨みつけた。

「俺のガキの頃の話や、コナンの情報をなんでテメーが知ってるのかは、今更突っ込む気もねーけどよ。母さんの名前を出すなんてどういうつもりだ? ボロだすのはテメーの勝手だけど、こっちにまで飛び火したらどうしてくれんだよ」

 如何にも迷惑ぶった口調だが、コナンは別に快斗の嘘を咎めているわけではない。
 ただ、吐くならもっと完璧な嘘を吐けと言っているのだ。
 なにせ彼は必要があれば嘘を吐くことも、その嘘を貫き通すことも厭わない、完璧主義者なのだ。
 だからこれは、下手な嘘で大事な幼馴染みを悲しませることだけはするなとの忠告だった。
 しかしそれは快斗にとっても同じこと。
 全く嫌になるほど、コナンと快斗は似ていた。

「心配いらねーよ。有希子さんが俺の親父に弟子入りしてたのは事実なんだから」
「げ……まじで?」
「まじまじ。聞いたことねえ?」
「ああ、いや……確かに昔、有名な日本のマジシャンに弟子入りして変装術を教わったって……あれがお前の親父さん?」
「だろーな」

 肯定してやれば、コナンは納得したように頷いた。
 怪盗キッドはその容姿から声帯までを完璧に模写する変装の達人だ。
 その初代怪盗キッドである黒羽盗一に弟子入りしたのだから、有希子が変装術に長けているのも当然のことだと思ったのだろう。

「ってことは、もしかしなくてもうちのタヌキ親父はオメーのことも、オメーの親父さんのことも知ってるんじゃねーのか?」
「うーん。恐ろしくて確認してねーけど、多分な」
「それを承知の上で黙ってやがんのか、あの親父は……」

 オメーに人のことが言えんのかよ、とは快斗が口にしてはいけない言葉だ。
 万が一探偵の気が変わるようなことがあれば、折角の心地よいこの均衡が崩れてしまう。

 と、コホコホ、とコナンの口から咳が漏れた。
 気管支にでも詰まらせたかと如才なく水を差しだしてやれば、すぐに気づいた蘭が心配そうに声をかけてきた。

「コナン君、大丈夫? やっぱり家で寝てた方がよかったんじゃ……」
「大丈夫だよ、蘭ねーちゃん。ちょっと咳き込んだだけだから」

 コナンは安心させるようにニコリと微笑むが、蘭の表情は晴れない。

「どうかしたのか?」
「うん……実はコナン君、一週間前に高熱を出して寝込んじゃって、一昨日ようやく熱が下がったばかりなの」

 意気消沈した蘭の口振りにぴんとくる。
 以前に撃たれた時も免疫力が低下して風邪をひいたと言っていた。
 今度の風邪もおそらく原因は同じだろう。
 念のためにとコナンの額に掌をあてがってみれば、やはり少し熱っぽい。
 熱が下がったばかりで海風にあたれば熱がぶり返すのも当たり前だ。

「大人しく寝てりゃいいのに。毛利探偵はどうした?」
「浮気調査の依頼がきて、昨日から出張中なの。この子ひとりで留守番させるのも心配だったから、今日はでかけるのやめようって言ったんだけど……」
「大丈夫だって! 折角園子ねーちゃんが誘ってくれたんだし、こーんな豪華客船に乗れる機会なんか滅多にないんだから、楽しまないと!」

 ボクも乗りたかったし、と無邪気な子供を演じるコナンの言葉で、快斗は大凡の事情を察した。
 病み上がりのくせにこんなところまでついてきたのは、毛利蘭のために他ならなかった。
 もし毛利探偵が家にいたなら、或いは毛利探偵のところに持ち込まれた依頼が別の事件であったなら、喜々としてそちらについていったのだろうが、生憎浮気調査程度ではこの謎に肥えた探偵の頭脳を満足させられるはずもない。
 だからといって家にひとり残れば蘭が心配する。
 しかし、先日コナンが江古田まで押しかけてきた時に「蘭が神経質になっている」とぼやいていたように、立て続くコナンの不調で彼女にも心労が堪っていたのだろう。
 この傲岸不遜な探偵の彼女にするには勿体ないほどよくできた少女だ、それはもう献身的に看病してくれたに違いない。
 それを見かねた探偵が彼女のためにと多少の無理をしたところで、不思議はなかった。

(にしても、ぶり返してちゃ意味ねーだろーに)

 快斗は呆れるというより心配になった。
 高校生の姿ではなんでもなかったことも、七歳児の肉体ではオーバーロードになって当然だ。
 彼がひと度事件ともなれば解決するまで脇目もふらずに全力疾走してしまう探偵であることは知っているけれど、なにも事件がない時にまで無理をする必要はないのに、と思う。
 快斗にしてみれば自分のせいで負わせてしまった傷でもあるのだ。

「ほらよ」

 快斗は手首をスナップさせ、どこからともなく取り出したピルケースをコナンに差し出した。
 いつも持ち歩いている快斗特製救急キットのひとつだ。
 裏家業を始めてから必要に迫られて用意したもので、市販のものよりは効き目が早い。

「熱はないっつっても、一応飲んでおいた方がいいだろ? 風邪薬」

 蘭には不調を悟られたくないだろうと、発熱していることを隠せば、コナンはぎゅっと眉を寄せ、サンキュ、と呟いた。
 素直じゃない探偵の仏頂面は単なる照れ隠しである。
 珍しいものが見られたと、快斗の口元が緩む。
 水は先ほど飲み干してしまったので、ウエイトレスに新しいものを頼んでやった。

「快斗、風邪薬なんていつも持ち歩いてたっけ?」
「用意いいわねー、黒羽君」

 青子の鋭い突っ込みにドキリとする。
 普段はてんで鈍感で天然でお子ちゃまな青子だが、たまに鋭い発言をするので驚かされる。
 しかし、青子よりも数倍鋭い突っ込みが蘭の口から発せられた。

「なんか黒羽君て、いつかのオフ会で会った土井塔さんみたいね」

 ドキリどころかバッコンバッコン言い出した心臓を、快斗は顔中の全筋肉を総動員してポーカーフェイスを貼り付け、なんとか誤魔化した。
 が、その隣でコナンが吹き出した。
 どうやらポーカーフェイスに関しては探偵より怪盗の方が長けているらしい。
 「くしゃみか大変だなボウズ」とやや棒読み気味でティッシュを差し出してやれば、女性陣はあっさりと誤魔化されてくれたが、蘭の話に園子が乗ってしまったため、未だ危機は去らない。

「確かに! あの時もこのガキんちょったら風邪で寝込んでて、その時風邪薬をくれたのが土井塔さんだったもんね!」
「そうそう。医大生ってことだったけど、実は土井塔さんは怪盗キッドだったのよね」
「そうよ! ああ、愛しのキッド様!」
「黒羽君もマジシャンだし、なんとなくイメージが被っちゃうのかな」

 快斗はもう笑うしかなかった。
 引きつりこそしなかったが、乾ききった笑みだ。
 キッドの名前に反応した青子がぎゃんぎゃん騒ぎ立てているが、もう知ったことではない。
 イメージが被るどころか見事真実を言い当てた蘭は、流石は毛利探偵の娘というべきか。

「オメー……俺がばらさなくても、その内正体ばれんじゃねーの?」

 トドメにコナンの呟きを食らい、快斗の口元はとうとう引きつった。





B // T // N