そこへ、お盆にコップを二つ乗せたウエイトレスが寄ってきた。
「お待たせ致しました、お冷やをお持ちいたしました」
ウエイトレスはコナンの前に静かにコップを置き、空いたグラスを下げる。
賑やかなテーブルは明らかに他と雰囲気を異にしていたが、他ならぬ鈴木財閥のご令嬢がいるためか、静かにしろと怒られることもない。
園子と青子だけなら加減なくヒートアップしてしまいそうなところを、蘭がうまくセーブしてくれているお陰だろう。
コナンは早速ピルケースから薬を取りだし、コップを手に取った。
その時、ふと異臭を嗅ぎつけ、快斗は眉を寄せた。
仄かに漂うアルコール臭。
しかし、当然のことながら未成年しかいないこのテーブルにアルコールが並ぶはずもない。
まさかと、今まさに薬を飲まんとするコナンのコップを見遣った快斗の耳に、先ほどのウエイトレスの声が背後から届いた。
「お待たせ致しました、焼酎をお持ち致しました」
――焼酎。
当然、無色透明だ。
ウエイトレスがコップを間違えたのだ。
しかし、気づいた快斗が声を上げようとした時には既に遅かった。
薬を焼酎で呷ってしまったコナンは、次の瞬間には思いっきり噎せ返っていた。
「おいっ、大丈夫か、名探偵!」
「――ゲホッ、ゴホッ、……んだ、これ……っ」
「ちょっと、コナン君っ?」
蘭が慌てて駆け寄り、コナンの背中をさすってやる。
快斗はコップの中身がやはり酒であることを確認すると、吃驚してこちらを振り返っているウエイトレスの手からコップを奪った。
「おねーさん、中身間違ってるよ。そっちのオジさんには新しい焼酎出してあげてね」
ええっ、と慌てるウエイトレスは捨て置き、快斗は今度こそ水入りのコップをコナンの口元にあてがった。
風邪も相俟って止まらなくなってしまった咳の合間にコナンが水を流し込む。
五口ほど飲み下したところでようやく咳は治まってきたが、目に見えてコナンの顔色は赤身を増していた。
酒のせいで熱がいや増してしまったのだろう。
気のせいでなく、先ほどよりもぐったりしている。
「お酒と水を間違えるなんて、この子らしくないわね」
鷹揚に、それでも彼女なりに心配を滲ませながら、園子が焼酎いりのコップを覗き込む。
快斗も探偵らしからぬ失態だとは思ったが、きっと風邪で味覚も嗅覚も狂っていたのだろう。
すると、園子が素っ頓狂な声を上げた。
「ちょっと、これ白酒じゃない! こんなきっついお酒飲んじゃったの?」
「ぱいちゅう? って、なあに? 園子ちゃん」
「中国のお酒よ。よくおじ様が飲んでるし、間違いないわ」
ぎくり、とコナンの肩が大仰に揺れた。
両目を見開き、園子を――園子の持つコップを凝視している。
赤かった顔が今は青ざめてさえ見える。
「コナン君? どうしたの?」
間近で顔を覗き込んでいた蘭はその変化にすぐに気づいたが、コナンは無理に貼り付けた笑顔で「なんでもないよ」と返した。
快斗でなくとも嘘だと分かるほどの白々しさだ。
狡猾な探偵にしては珍しいミスを訝る間もなく、コナンは唐突に椅子から飛び降りた。
「蘭ねーちゃん、ボク、お部屋で休んでてもいい? 蘭ねーちゃんは園子ねーちゃんたちと遊んでてくれていいから」
「やっぱり具合が悪いのね? だったら私も一緒に……」
「ううん、ひとりで平気だよ」
「駄目よ! 具合が悪いのに、コナン君をひとりになんて」
困ったように眉尻をさげるコナンを見かねて、快斗は二人の間に割り込んだ。
「だったら俺がついてるよ。それでいいだろ?」
「黒羽君が? でも、それじゃ黒羽君に悪いわ」
「俺はアホ子に付き合わされただけだし、アホ子も俺といるより蘭ちゃんたちとお喋りしてる方が楽しいだろ。それにこいつは俺の身内なんだから、遠慮はいらねーよ」
「でも……」
「こいつだって、自分のせいで蘭ちゃんたちの予定を潰したくないんだって。分かってやってよ?」
こう言えば、優しい彼女のことだ、コナンの気持ちを汲んでくれるだろう。
案の定黙り込んでしまった蘭に、コナンが優しく言った。
「ボク、快斗にーちゃんと一緒にいるから。心配しないで?」
ね、と笑いかけ、快斗の手を握る。
慣れない感触にドキリとしながらも軽く握り返せば、心得た相手と視線だけで意を交わし、どちらからともなく手を引いてホールを後にした。
少し寂しそうに見送る蘭には悪いが、快斗はほんの少しだけ、この手を握ることを許されたのが自分であることに昂揚を感じていた。
「コナン君……」
賑やかだったテーブルが三人に減ってしまったからだろうか。
まるで取り残されたような寂しさを感じた蘭だったが、それを払拭するように青子の明るい声が降ってきた。
「大丈夫だよ、蘭ちゃん! あの二人、ほんとに仲良しなんだから!」
「青子ちゃん」
「あのね、この間コナン君が快斗に会いにうちの学校まで来たんだけどね、その後の快斗ったらもうすっごくご機嫌で、聞いてもいないのにクラス中にコナン君の自慢話ばっかりするんだよ!」
「コナン君の自慢話?」
「うん。快斗ってば、自分もマジシャンだからって普段はキッドの肩ばっかり持つの。だからキッドを追い回す青子のお父さんのことも他の探偵さんのことも、いーっつも馬鹿にしてばっかりいるんだけど、何度もキッドの犯行を阻止したことがあるコナン君のことだけは、すっごくすっごく嬉しそうに話すんだよ!」
キッドを追いつめられるのはコナン君だけとか、キッドのライバルはコナン君だけだとか。
それを聞かされた某倫敦帰りの探偵が密かに対抗心を燃やしていたことは、青子の与り知らないことである。
「お父さんを馬鹿にする快斗は大っ嫌いだけど、あの快斗があそこまで言うんだもん。ほんとにコナン君のことが大好きなんだよ!」
だから快斗に任せておけば大丈夫だよ、ととびきりの笑顔で言う青子に、蘭の表情も和らいだ。
同じく一緒に来た連れがいなくなってしまった青子がこうして元気づけてくれているのに、いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。
蘭は気を取り直し、折角の船旅を楽しむことにした。
病み上がりに無理をしてくれたコナンの好意を無駄にしたくもない。
「よーし、園子、青子ちゃん! 食後のデザートビュッフェ、行くわよ!」
「おーっ、待ってましたー!」
「デザート、デザート♪」
はしゃぐ少女たちを見て、周囲から微笑ましい笑みが零れる。
この和やかで楽しいひと時が一瞬にして恐ろしい記憶に塗り替えられるなどと――この時はまだ誰も知らなかった。
誰もいない廊下を客室へと歩く。
ホールを出た瞬間に手は離されたが、快斗は足下の覚束ないコナンをいつでもフォローできる距離を維持していた。
「白酒がどうかしたのか?」
何気ない風を装って問いかける。
コナンが態度を急変させたのは、園子が酒の名前を口にした瞬間だった。
白酒といえば中国の蒸留酒だ。
確かに焼酎とも呼ばれることがあるが、日本ではアルコール度数三六度以上のものはスピリッツに分類されるため、基本的にアルコール度数が三八度である白酒は、正確には焼酎に分類されない。
ものによっては更に高度のものもあり、確かに子供が口にするには危険な酒だが、コナンの態度はそんな理由とは思えないほど鬼気迫っていた。
「……オメー、俺がどうしてこんな体になったかは知ってるか?」
「いや、流石にそこまでは」
コナンの問いに快斗は首を振った。
快斗が知っているのは江戸川コナンの正体が工藤新一ということだけだ。
もとより不審な子供だとは思っていたが、たまたま彼とバッティングしたとある事件――インペリアル・イースターエッグの事件の折に、偶然そのヒントを得た。
しんいち、と、電話相手の老人は子供に呼びかけた。
その呼びかけを訂正も否定もせず、子供は受け入れた。
そこからはもう、調べるまでもなかった。
自らを探偵と名乗る、「しんいち」という名前の人物。
該当者は一人。
――工藤新一。
しかもお誂え向きに、彼は現在行方不明中ときている。
子供の正体が判明した時点で、快斗はそれ以上の詮索を止めた。
この探偵を相手に下手な調査をしようものなら、それに気づいた相手に逆に追い詰められる可能性が高い。
多少の好奇心が疼いた事実は否めないが、好奇心は猫をも殺す、というくらいだ。
相手は偽名を名乗っているだけで、犯罪者でもないのだから別に害もなく、秘密を暴いたところで快斗にはなんのメリットもないと思ったのだ。
しかし、ひとつだけ思い当たることはあった。
――黒尽くめの男たち。
先月の事件の折りにコナンが口走っていた言葉だ。
あの時の彼の様子は尋常じゃなかった。
肩を撃ち抜かれ、血を大量に失い、それでもそのまま追跡しようとした。
そんなことをすれば最悪失血死してもおかしくなというのに、あの時の彼はそれすら分からずに、いや、分かっていても構わないとばかりに男たちを追いかけようとした。
きっと彼がこんな姿になってしまった理由とあの男たちはなにか関係があるのだろう。
けれどそれを口にするのは躊躇われた。
これ以上踏み込めば、怪盗と探偵としての立ち位置を失いかねない。
コナンも戸惑う素振りを見せたが、結局は口を開いた。
「俺がこんなナリになっちまったのは、ある薬が原因だ。そいつは毒薬でな。死ぬはずが、奇跡的に助かった」
快斗は息を飲んだ。
薬ひとつで体が伸び縮みすることに驚いたわけではない。
死ぬはずだったと、さらりと吐かれたその言葉に驚いたのだ。
「何度か元の姿に戻ったことがあるんだが、その時の条件が、風邪かなんかで免疫力が低下していることと、白乾児という白酒、或いはその成分を含むものを摂取すること、なんだ」
「じゃあ、まさか……!」
「ああ。偶然かなにか知らないが、見事に条件が整っちまったってわけだ」
その途端、ゲホゲホと咳き込んで倒れそうになったコナンを支えてやる。
服越しにも分かるほどコナンの体温は急激に上がっていた。
額や頬、襟から覗く項にまでうっすらと汗が滲んでいる。
けれどそれが風邪のせいなのか、それとも変化の前兆なのか、快斗には分からない。
「元に戻る時ってのはいつもこんな高熱が出るのか?」
「いや……確かに発熱するが、今はまだ風邪によるものか変化によるものなのか分からない。それに、変化の前兆があればすぐ分かる」
「じゃあ絶対に今戻るとは限らないのか?」
「ああ。でももし戻っちまったら、船が帰港するまで姿を現すわけにはいかねーから、なんとか蘭を誤魔化してくれねーか?」
「……わかった。そっちは任せろ」
「わりぃな」
苦く笑うコナンに肩を竦めることで応える。
とてもじゃないが一介の女子高生に打ち明けられる秘密ではない。
そうとは知らずに過去に探偵の秘密がばれかけた危機に手助けしたことのある快斗だが、やはりあの時の判断は間違っていなかった。
「んじゃまーひとまず、探偵君には俺の部屋にでも避難してもらって……」
重たい雰囲気を払拭しようと、殊更軽い声で快斗がそう言いかけた時。
ある意味耳慣れた爆音とともに船が大きく揺れ、快斗とコナンはすぐさま臨戦態勢をとった。
「爆弾っ?」
「操舵室の方だ!」
瞬時に船の構造を脳内に広げ、二人して操舵室へと駆け出そうとした。
けれど、ホールから上がったけたたましい悲鳴によって、二人の足はすかさず方向転換した。
ホールには青子も蘭も園子もいる。
ディナータイムであることをふまえれば、それ以外の客もそこにいるはずだ。
何が起きたのかは分からないが、このタイミングでホールを出た二人は運がいいのか悪いのか……。
ホールまで駆け戻ってきた二人は、なにも言わずに耳を扉に張り付けた。
しかし残念ながら中の声は聞き取れなかった。
先ほどの悲鳴が嘘のようにシンとしている。
爆音後のパニックをこうも静められるのは、武器による脅迫でしかありえない。
コナンはポケットを探ると、なにやらシールのようなものを取り出して丸め、ドアの隙間からホールの中へと放り込んだ。
身振りで眼鏡を示され、快斗は頬をくっつけるようにコナンの眼鏡に耳を寄せる。
どうやら先ほど放り込んだシールは盗聴器で、この眼鏡で声を拾えるらしい。
全く便利な探偵道具だ。
『……室は破壊した。他にも三カ所、爆弾を設置した。妙な真似をすればすぐに爆破する。死にたくなければ大人しくしていろ』
――シージャック。
快斗はコナンと視線を交わすと頷き合った。
現在この船に乗っているのは、一部の一般人を除けば財閥や資産家の関係者ばかりだ。
犯人の目的がなんであるにせよ、これほど人質として使い甲斐のある者はいない。
盗聴器は仕掛けた。
となれば、当面の優先事項は設置されたという三つの爆弾を解体すること。
二人が静かに扉を離れようとした時、犯罪グループのリーダーらしき男の口から新たな指示が飛んだ。
『客室に客がいないか、確認してこい』
その瞬間、快斗とコナンは壁から飛び退き、脱兎の如く駆け出した。
しかし、足音を殺して駆ける快斗の横で、コナンが唐突に倒れた。
四肢から力が抜け、膝から前のめりに倒れ込む。
「名探偵!」
咄嗟に伸ばした腕は間に合わず、床にバウンドした体を慌てて抱き起こした。
コナンの体は信じられないほど熱かった。
「ぐ……う……っ」
荒い息の合間に呻き声を漏らし、握り潰すように胸を抑えている。
まるで体全体が脈打っているような拍動が支えた手の先から伝わり、快斗は唇を噛んだ。
こんな時に。
そうは思うが、とても見捨てていくことはできない。
いつも不遜に笑う口元は噛み締められ、苛烈な眼差しは瞼の向こうに固く閉ざされ、端整な柳眉は苦痛に歪んでいる。
これがただの風邪であるはずがない。
快斗はコナンの体を抱きかかえると、客室のひとつに飛び込んだ。
室内をぐるりと見渡し、ベッドからシーツを剥ぎ取ってクローゼットの中に身を潜ませる。
「バ、ロ……俺、置いてけ……足でまとい、だろ、が……っ」
「うるさい、黙れ」
そうは言うが、口を閉ざしたところでこの荒い呼吸は誤魔化せそうにない。
それを分かっているのだろう、尚も力の入らない手で抵抗しようとするコナンを無視し、快斗は剥ぎ取ったシーツでコナンの体をくるりと覆う。
「工藤新一に戻るのか……?」
「ああ……そう、みてえ……」
腕の中でもぞつくコナンが服を脱ごうとしていることに気づき、快斗はマジックの早着替えの要領でコナンの服を一瞬で脱がせると、シーツでくるみ直してやった。
遠くで扉を開ける音が聞こえた。
別の部屋を確認しているのだろう。
足音はひとつ。
一人なら不意打ちでなんとかできる。
それよりも、最早限界まで体温の上がったコナンの方が気掛かりだった。
先ほどから呼吸は浅く早くなる一方で、鼓動は今や早鐘のように打ち付けている。
どれほどの痛みに耐えているのか、噛み締めた唇は今にも切れてしまいそうだ。
知らず、快斗の鼓動も速まった。
知らなかった。
彼がこんな苦しみに耐えながら生きているなんて。
大人から子供へ――そんな漫画のような現象が、漫画のように楽々と起きるはずがなかった。
現実は、痛みと苦しみにまみれた死と隣り合わせの生々しさでこの小さな体を蝕んでいる。
彼は何度、この苦しみを味わってきたのだろう。
これから先、何度味わっていくのだろう。
コナンを抱く腕に力が込められたのと、この部屋の扉が開かれたのと。
身を引き裂くような咆哮がコナンの口から飛び出たのは、ほぼ同時だった。
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