「誰だ!」

 目出し帽で顔を覆い、サブマシンガンを構えた男が駆け込んでくる。
 声と骨格から予想するに、年齢は三十代半ば。
 俊敏な動きはなにかスポーツで鍛えている印象を与えるが、銃を持つ腕にも警戒の仕草にも素人くささが目立つ。
 少なくとも軍事的な訓練は受けていないということだ。
 テロリストか、強盗か、犯罪組織か――なんにしても相手が素人なら、そこに付け入る隙がある。

 男がこちらの居場所に気づくギリギリまで情報を集め、快斗はコナンの時計型麻酔銃をクローゼットの中から男の首筋に撃ち込んだ。
 一瞬の内に深い眠りに落ちた男が床に転がる。
 相変わらず素晴らしい効き目だ。
 一度ならずこの麻酔銃で狙われた過去を思えばぞっとしない。

 そのままぴくりともしない男には見向きもせず、快斗はいつの間にやら重みを増した腕の中の人物を覗き込んだ。
 幼くなっても少しも損なわれることのなかった、鼻筋の通った理知的な顔。
 後頭部の癖毛が特徴的な、艶やかな射干玉の髪。
 なにより印象的な蒼い双眸は今は閉じられているけれど、そこには高校生に成長した江戸川コナン――もとい、工藤新一がいた。
 ぐったりと快斗の胸に頭を預け、未だ整わない息を落ち着けようと深呼吸を繰り返している。
 シーツの合間から伸びた素足やら仄白い肩がやたらと目に毒だ。

「生きてるか、名探偵?」
「死んでたまるか……」

 いつも通りの憎まれ口に内心でホッと息を吐く。
 子供から大人への急成長を初めて目の当たりにして、快斗は思った以上に動揺していたらしい。
 起き上がろうとする彼の手を引き、真っ直ぐ立てるように背中を支えてやれば、ようやく呼吸も落ち着いてきたらしい新一がゆっくりと目を開けた。
 綺麗な蒼色の瞳が快斗を映す。
 間違いなく、怪盗キッドを何度となく窮地に追い込み、さては手を取り合ってその窮地を乗り越えてきた、好敵手の目だ。
 快斗は今初めて、真実の姿である工藤新一と対面している。
 湧き起こる感情は紛れもない歓喜だった。

「おめでとう、と言うにはまだ早いかな?」
「早すぎだ。白乾児での変化は精々二、三時間しか保たない」
「たったそれだけ?」

 自然と快斗の眉が寄る。

「なにを残念がってんだよ。俺が工藤新一に戻ったら、もうお前に遅れをとったりしないぜ?」

 首を洗って待ってろよ、と笑う探偵は壮絶だ。
 けれど、たとえそれで更なる窮地に立たされたとしても、なんのハンデもなしにこの男と戦ってみたいと思う。
 子供の姿でさえキッドと渡り合ってきたのだ、もしかしたら標的に触れることもできずに敗走させられるかも知れない。
 それでも悔しさと同じくらいの楽しさを味わえるに違いない。

「それより、これからどうすっかな……」

 素っ裸にシーツを巻き付けた布オバケ探偵は、足下で寝転けている男を見下ろした。

「このままこいつを放置しとくわけにはいかねーよな。仲間が戻らなかったら不審に思われるだろうし」
「でもこいつに目を覚まされたら面倒だろ。ふん縛ってクローゼットの中に放り込んどこうぜ」

 言うが早いか、快斗は手際よく男の服を剥いてパンツ一丁にすると、両手両足を縛った上にガムテープで口を封じて、クローゼットに放り込んだ。
 更にもう一台のベッドからシーツを剥ぎ取り、くるりと包んで、まるで初めから備え付けられていた道具のようにカモフラージュする。
 あんまりな扱いだったが、キッドの犯行時に姿を借りた方々にもいつも同じようなことをしてきたため、今更悪党相手に罪悪感は欠片もない。
 鼻歌交じりに行われたそれらを、新一は呆れたように見ていた。
 見ていただけで口を出さなかった彼ももちろん同罪だと、快斗は悪びれもしない。

「さてと。これで敵さんの衣装が手に入った。差し当たって着る服がない探偵君にこれを進呈するとなると、お前には一度奴らの仲間の振りしてホールに戻ってもらうことになるが、任せても平気か?」
「目出し帽の下に変声機仕込めば問題ない。オメーの方こそ、爆弾の解体なんてできんのかよ」
「この怪盗キッド様に不可能はねーよ」

 ニッ、と口角を持ち上げれば、新一の口元も悪戯に歪む。
 知ってはいたけれど、己の背中を預けるのにこれほど頼りになる男はこの相手をおいて他にはいないと、快斗は再確認させられた。

「じゃあ、後は連絡手段だな。この眼鏡を渡しておく。左のレンズは発信器、右のレンズは望遠機能で、盗聴器の声を拾うのは左の蔓だ。流石に眼鏡をかけるわけにはいかねーから、ホールの様子はお前が中継してくれ」
「了解。お前への連絡方法は?」
「探偵バッチ……は俺の分しかねーしな」
「なら、俺のインカムを使え。目出し帽を被っちまえば分かんねーし、お互いに集音機を持てば声が拾える」

 ごそごそと懐を漁り、取り出したインカムを相手の耳に勝手に嵌め込む。
 これでお互いに連絡を取り合いたい時はそれぞれの集音機へ囁けば、リアルタイムで情報を交換できる。
 されるがままの新一は、なぜか変な顔をしていた。

「……お前、いつもそんなの持ち歩いてんのか? 風邪薬と言い、助かるけど、相当変だぜ」
「ほっとけ。変なメカだらけの奴に人のこと言えんのかよ」

 ぐっ、と口を噤んだ新一に衣装一式を渡し、快斗はさっさと扉に向かった。
 まずは爆弾を見つけなければならないのだ。
 その上で解体しなければならない。
 それも、三つも。
 時間は一秒でも惜しい。
 扉に手をかけたところで快斗は振り返った。

「一応、他に客がいねーか客室は見ておけよ。もしいたらどこかに避難させねーと」
「分かってるよ。いいからお前はさっさと行け」

 しっ、しっ、と追い払うように手を振られ、そんな場合でもないのに快斗は笑ってしまった。
 はっきり言ってかなり危険な状況だと思うのだが――実際、快斗一人ならこうも冷静でいられなかっただろうが――この探偵の太々しい態度を見ていると、まるでなにひとつ慌てる必要などないように思えてしまうから不思議だ。
 全ては探偵の掌の上、はるか未来をも見晴るかす慧眼の前に、ただの予定調和だとでも言うように。
 これほどの信頼を寄せてしまう自分が自分で不思議だった。
 快斗は笑みを浮かべたまま、それでもこれ以上ない本気の眼差しで、勇敢な探偵に忠告を送った。

「無茶するなよ、名探偵。もしそれ以上その体に風穴開けやがったら、二度と血生臭い事件なんかにゃ関われねえ夢の国へ連れ去っちまうぜ?」

 ついでとばかりにパチリと片目を瞑ってやれば、束の間絶句した新一が、すぐに「バーロー!」と悪態を吐いた。
 その顔が少しどころでなく赤く染まっていたことに溜飲を下げ、快斗は今度こそ部屋を飛び出した。
 今ならなにもかもがうまくいくような気がしていた。



 恐ろしく気障ったらしい捨て台詞を吐いて消え去った怪盗のもう見えない背中を尚も睨みつけながら、新一は小さくない舌打ちをした。
 なぜ自分が赤面しなければならないのか。
 あんな台詞を臆面もなく口にできる快斗は、やはりこのご時世に怪盗などと名乗るだけあって、かなりの変態だ。
 そうでもなければ探偵相手にあんな台詞――こちらの身を案じるような台詞は吐けないだろうと、新一は苦々しく思った。
 うっかり動揺してしまった自分に腹が立つ。

 浮ついた気持ちごと拭い去るように熱くなった頬を一度だけぐいと拭い、新一はさっさと服を着込んだ。
 幸い大した体格差もなかったため、腹周りにタオルを数枚突っ込む程度で体型を誤魔化せた。
 そうでなければそもそも変装においては自分より上手であるはずの快斗が新一にこちらを任せるはずがない。
 なんだかんだと抜け目がないのだ、あの小憎たらしい怪盗は。
 もしかせずとも、あちこち駆けずり回らなければならない爆弾探しを自ら引き受けたのも、風邪と急成長で体力を削られてしまった新一に気を遣ってのことだろう。
 呆れるほどの人の好さである。
 あれではいつかその人の好さにつけ込まれるのではないかと思わず心配になる新一は、かつて自分こそがそうした奸計で彼を捕らえようとした過去を思い出し、複雑な顔をした。
 いつだったか、高層ビルの屋上で対峙した時に、足を滑らせたフリでビルから転がり落ちたことがあった。
 もちろん背中にパラシュートを背負ってのダイブだ。
 まさかこの自分がそんなミスをするはずがない。
 しかしお人好しの怪盗はコロッと騙されて、狡猾な探偵を助けるために迷わず追ってきたのだ。
 自分のことだから棚に上げられるが、あれを他の誰かがやって、万が一にも怪盗が捕まってしまうようなことがあれば、とてもじゃないが新一は黙ってなどいられないだろう。

「ったく……。テメーの方こそ、ヘマやらかして怪我なんかすんなよ。マジシャンなんだから」

 思わず零した呟きはしっかり怪盗の耳に拾われたらしく、忍び笑いとともに「了解」と鼓膜に囁かれてしまった。
 またもや頬を紅潮させるはめになった新一はもう二度と余計なことを口にすまいと決心し、客室を後にした。





 ディナーと遊覧を楽しむためのクルーズは、たった五時間の行程でありながら客室まで用意された、とても贅沢なものだった。
 そもそも長期の船旅をサービスの基本として造られた豪華客船なのだが、初の航海である今回は試運転も兼ねているため、関係者を招いてのディナーをメインとした短い航海を予定していた。
 美味しい食事に楽しいお喋り。
 その後は甲板に出て夜景ならぬ星空でも眺めるか、或いはバーかラウンジで酒でも飲もうかと、それぞれに計画を立てていただろうに。
 まさか、突然扉を蹴立ててホールに雪崩れ込んできた覆面姿の男たちに船をジャックされるなど、誰も思いもしなかった。

 シージャック犯の指示で一カ所に身を寄せ合うようにして集められた乗客の中、蘭は毅然と周囲を見渡した。
 銃を引っ提げた男たちは確かに恐ろしい。
 けれど、真っ青な顔で肩を震わせている青子と、宥めるように青子を抱きしめながらも強張った顔をした園子を見ていると、怖がってばかりもいられなかった。
 ここには蘭しかいないのだ。
 コナンにも、ましてやここにいるはずのない新一にも頼ることはできない。
 姿の見えないコナンと快斗がどうなったのかは分からないが、いざという時には自分で動けるようにと、辺りを注意深く窺う。

 男たちの数は全部で七人。
 先ほど客室を確認しに行った男も含めれば、八人。
 ホール以外の場所にもいるとしたらそれ以上だが、リーダーらしき男が先ほどから一度もトランシーバーに手を伸ばしていないところを見ると、ここにいる者たちで全てなのかも知れない。
 けれど、探偵ではない蘭には自分の考えに確信が持てなかった。

 そこへ、先ほど出ていった男が戻ってきた。

「客室には誰もいませんでした」

 リーダーに報告するその声を聞いて、蘭はホッと安堵する。
 コナンと快斗は見つからずに済んだらしい。
 となれば、きっとコナンはなにがなんでも犯人を捕まえて人質を助けようとするだろう。
 彼はいつだってあの小さな体でたくさんのものを守ってきた。

 蘭は安堵する反面、不安になった。
 誰かを守ろうとしてコナンが怪我を負ったのはついこの間のことだ。
 それも肩を銃で撃ち抜かれるという、普通の子供には有り得ない怪我だ。
 しかもコナンがその身に銃弾を受けたのはそれが初めてのことではない。
 過去にもやはり友人たちを庇ってお腹を撃たれている。
 あの時はこの間よりももっと危険な状態だった。
 輸血が間に合わなければ、悪くすれば死んでいたかも知れないのだ。

 そして今、三度、銃を持った犯罪者が目の前にいる。
 蘭を含めた大勢の人質も。
 自分たちを守ろうとしたコナンがまたしても銃で撃たれ、今度こそ取り返しのつかないことになるかも知れない――その可能性を、誰が否定できるだろうか。
 コナンが蘭を庇おうと蘭の前に立ち塞がるなら、一体誰がコナンを守ってくれるのか。
 最早溢れんばかりの不安で胸が押し潰されそうになっていた蘭の耳元で、ありえるはずのない声が囁いた。

「心配すんな、蘭。オメーらは俺が絶対に守ってやっからよ」

 驚きのあまり目を見開き、慌てて声がした方へ振り向く。
 しかしそこには期待した人物ではなく、目出し帽を被った男が立っていた。
 もちろんシージャック犯の仲間の一人で、体型を見るに、客室の確認に行かされた男であることが分かる。
 それでも蘭には一目で分かった。
 顔も分からないこの相手が、今この時蘭が誰よりも傍にいて欲しいと願った相手――工藤新一なのだと。

「新一……!」

 感極まった蘭の声を、シッ、と吐息とともに指を立てた覆面姿の新一が遮った。
 蘭は慌てて口を噤む。
 すぐ傍にいた園子と青子だけは蘭の声が聞こえたようで、目を丸くしている。
 なぜこんな格好でこんなところにいるのかは分からないけれど、この覆面男の正体が工藤新一であるとばれてはならないと、蘭は極力声を潜め、新一にだけ聞こえるように話した。

「なんで新一がここにいるの? コナン君と黒羽君がどうしたか知ってる?」
「質問は後だ。コナンも黒羽も無事だから安心しろよ。それより状況を知りたい。奴らが現れた時のことを教えてくれ」

 蘭はこくりと頷いた。
 新一がいつまでも蘭の傍に留まっていたのでは犯人たちに怪しまれてしまう。

「ここでご飯を食べてたら、突然爆発音が聞こえて、それと同時にあの人たちが乗り込んできたの」
「どこから?」
「あの、スタッフ専用のドアからよ」
「奴らの目的は?」
「それは分からないけど……」
「どこかに連絡するような素振りはあったか?」
「ううん、してないと思う。少なくともここにいる人はね。ここから離れたのは一人だけだし、それは新一だったんでしょ?」

 新一はなにも答えなかった。
 ただ聞くべきことは全て聞いたのか、なにかを考えるように黙り込んでいる。
 蘭はいろいろと問い詰めたい衝動を必死に堪えた。
 そしてなにかに思い至ったらしい新一は、覆面越しにも分かるほど真剣な眼差しで蘭をじっと見据えた。

「蘭。俺は一度ここを離れるが、必ず戻ってくる。それまで園子と中森さんを頼む」
「新一……」
「なにかあったらこれに向かって小声で喋れ。小型の盗聴器だ」

 男たちに気づかれないよう、蘭の手の中に盗聴器らしき小さなものが握らされる。
 無茶はしないで、と、言いたいのに言えない自分と状況に蘭は歯がみした。
 そんな蘭の様子に気づき、新一はふと眼差しを和らげた。

「大丈夫だよ。今回は、頼れる相棒がいるからな」
「相棒?」

 ふと思いついたのはあの眼鏡の子供だった。
 幼いながらも驚くほどの知識と行動力を持ったコナンなら、新一の相棒として確かに相応しいように思える。
 けれどやはり新一はなにも言わず、すっと離れていった。
 謀ったようなタイミングでどこからか物音が響き、リーダーの指示で数人の男たちがホールを飛び出していく。
 その中には新一の扮する男もいた。
 いつだってその背中をただ見送ることしかできない自分がもどかしくて蘭は唇を噛み締めた、けれど。

「今の、新一君よね?」
「快斗、無事なんだよね?」

 よかったあ、と涙ぐむ青子と園子を見て、思う。
 ともに行くことはできなかった。あの背中を追いかけることはできなかった。
 けれど、この場を任されたのは自分だ。
 二人を頼むと言われた。
 自分になら任せられると言われたその言葉が、なによりも嬉しい。
 怖くないわけじゃない。
 でも、自分でも新一の力になれるのだと、蘭はひそかに微笑んだ。





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