そして迎えた五月三日。

 目暮は押し寄せる報道陣を警察の包囲網で黙らせ、至る所に警察官を配備した。
 五百人近い警官がずらりと立ち並ぶ様はいっそ壮観だ。
 上空には騒音をまき散らすヘリまで出動している。
 今回の件にキッドが絡んでいるかもしれないと知った中森警部も警備にあたることになり、おかげで警官の動員数が当初予定していた数の五倍となったのだった。

「……ったく、なんでお前らまでついて来るんだ。ここはガキの遊び場じゃねえんだぞ」

 今回もまたついてきてしまった蘭とコナンに、怒ると言うより呆れ声の小五郎だ。

「そんなこと分かってるわよ! でも、私やコナン君だって気になるのよ」
「とにかく、お前たちは危ないから下がってろ。おい高木、蘭とコナンを安全なところに連れてってやってくれ」
「あ、はい、わかりました。じゃあ蘭さんコナン君、こちらへ」

 無線を片手に指示を出し続ける警部二人を後目に、コナンと蘭は一台のパトカーの中へと押し込められた。

「ここにいれば安全ですから」
「ありがとうございます、高木刑事。……あの、こんな時に言うのもどうかと思うんですけど……」
「どうしました?」

 躊躇いながらも聞こうと決めていたらしい蘭は、ひとつ息を吸い込むと。

「もし新一から連絡が入ったら、私にも教えて下さい……!」

 スカートを握る両手にぎゅっと力が込められる。
 そんな蘭の様子には気づかず、いいですよ、と言って高木刑事は仕事に戻って行った。
 横に座り込んだコナンは、苦々しい表情を浮かべていた。

(――…蘭)

 なぜ蘭が現場まで来たのか。
 それは、コナンが不用意に新一の名前を使ったために、蘭に下手な期待を持たせてしまったからに他ならなかった。
 背の低い今のコナンには嫌でも見えてしまう、俯いて辛そうに顔を歪める蘭の表情が。
 けれどじっと見つめるコナンの視線に気付くと、蘭はそれでもにこりと微笑んだ。

「コナン君がそんな顔することないのよ」
「蘭ねーちゃん……」
「悪いのはぜーーーんぶ新一なんだから。私があいつを心配しちゃうのも、コナン君が私を心配してくれるのも。それに……」

 ふい、と外を向いてしまった顔から零れる雫。
 ぽつぽつと滴るそれがスカートに幾つも小さな染みを作る。

「私がこんなに辛いのも、泣いちゃうのも……全部、新一のせいなんだから……」

 涙を拭う蘭の姿がどうにも耐えられなくて、コナンは徐に立ち上がると必死に言い募った。

「大丈夫だよ! 新一にーちゃん、時々だけどちゃんと電話かけてくるんでしょ? 新一にーちゃんも蘭ねーちゃんのこと心配してるんだよ! ただ……事件で困ってる人や泣いてる人を放っておけないんだよ。……バカだよね。蘭ねーちゃんを泣かせてちゃ意味ないのに……」
「コナン君……」
「これで拭いて。新一にーちゃんが帰ってきたら、思いっきり怒ってやろうよ!」
「……ありがとう。コナン君は優しいね。そうだよね、あんなやつ……帰ってきたら、思いっきり殴ってやるんだから!」

 そう言って笑いながら拳を構えてみせる蘭に、コナンも笑い返した。
 空元気だとわかっているけれど、蘭が笑顔に戻ったことに安心する。

(……ごめんな、蘭)

 心中でそっと謝りながら、ふと表情を引き締める。
 もしかしたらもうすぐ工藤新一として会えるかも知れない。
 この事件が組織の連中と繋がっていたら、きっと元の姿に戻って蘭に会いに行くのだ。

 けれど、それまでは。
 鉄壁のポーカーフェイスで、子供を演じ続ける。





 刻々と時間ばかりが過ぎる。
 時刻は夜の十時を三十分ばかり過ぎたところだ。
 なんの変哲もない、普段と変わらない夜。

 犯行日時を予想することはできなかったコナンだが、決行するなら今日ではないかと睨んでいた。
 展示期間は一週間あるわけだから、一週間の猶予があることになるが、後に持ち越せば持ち越すほど警察の警備は強化され、盗み取るのは困難になる。
 もし自分が仕掛けるなら奇襲ともなる初日の今日だと考えていたコナンだが……

 もしかして読み間違えたのだろうかとコナンは顔をしかめた。
 ニュースで報道されるほどのビッグジュエル。
 そして現場はこれまでの四件から推測される地域と見事に符合している。
 これほど恰好の標的もないはずだ。
 確かに何事もなければそれに越したことはないのだけれど、犯人を野放しにしておくこともできない。
 できることなら今日のこの日になんとしても尻尾を捕まえたいところだが、もしかしたら警察のあまりの警備に犯行を諦めたのだろうか。

 コナンがそう思い始めた頃、けれどその考えは甘かったのだとすぐに思い知らされた。



 遠くで銃声が響き渡った。
 連続して三発。
 まさか誰かが発砲を受けて死傷したのだろうかと、現場には一気に緊張した空気が張りつめる。

 すぐさま中森の指示によって音のした方へと警官が送られた。
 そして、

『け、警部! 怪しい人物を数名発見しました!』
「犯人かっ?」
『わかりませんが、銃を持っています! 発砲したのはおそらく奴かと思われます!』
「よし、すぐに逮捕しろ! 銃刀法違反の現行犯だ! こちらからも応援を寄越す!」

 トランシーバー越しにも響く怒声のお陰で、数メートル離れた場所にいたコナンにも状況は正確に伝わった。
 コナンは蘭が静止するのも聞かずに素早くパトカーから飛び出すと、走り去ろうとする警官に紛れて現場に向かおうとして――ハッと踏みとどまった。
 美術館の警備にあたっていた警官たちまでが一斉に動いたため、美術館の警備が手薄になっている。
 警官の話では銃を持った男は数名。
 それが全てかもしれないが、もしかしたら他に仲間がいるかもしれない。
 正確な人数はまだわかっていないのだ。
 警備が手薄になるほどの警官を移動させるのは早合点すぎる。

 コナンは一旦走り出した足の向きをくるりと変えると、美術館へと駆け込んだ。
 子供が一人入り込んでも誰も止める者はいない。
 盗みを行うには絶好の状況だ。
 疑いは確信へと変わる。
 コナンは蒼光のダイアが保管されている場所へと急いだ。

 足音を殺して暗い回廊を走り抜けると、やがて保管室が見えてくる。
 内部の警備に当たっていた警官は警備の続行を命じられていたようで、未だ美術館の中に留まっていた――が。
 誰一人、意識のある者はいなかった。
 おそらく催眠作用のあるなにかを噴射されたのだろう、館内に霧散する靄を吸い込まないよう、コナンは口元を袖で覆いながら慎重に歩を進める。

 保管室のドアは開いていた。
 壁に背を貼り付けるようにしてそっと室内を覗き込めば、明かりのない暗闇の中、室内を蠢く人影が見えた。
 一人や二人どころではない。
 彼らが犯人に違いないと、こちらに気付いていないその人影のひとつにコナンが腕時計型麻酔銃を構えた、その時――

「その宝石を渡すわけにはいきませんね」

 凛とした声が、その場にいた者の動きを一瞬で奪った。
 もちろんコナンも例外ではない。
 いつの間にそこに現れたのか。
 白いマントにシルクハット。
 なにもかも夜には不釣り合いな純白のスーツを纏った怪盗は、窓に足をかけ月明かりを背に、冷涼な笑みを浮かべていた。
 肌を粟立たせるその声に、コナンは背筋に言い知れぬ痺れが走るのを感じた。
 びりびりと伝わる痛いほどの緊張が、キッドと彼らが相容れない存在であることを照明している。

 どうやらどちらもコナンの存在には気付いていないようだった。
 しかし麻酔針は一本。
 奴らに向けるべきか、キッドに向けるべきか。
 予告状もないのにキッドがこの場に現れたことによって、どちらが犯人であるか曖昧になってしまった。
 けれど。

「宝石を盗むだけならまだ天の加護もあるでしょうが……人の命を奪ったあなた方に、その加護を受ける資格は最早ない」

 コナンが迷っている内に、冷ややかな罵倒がキッドの口から発せられた。
 つまり、キッドの言葉を鵜呑みにするのであれば、一連の事件の犯人はキッドではなく彼らだということだ。
 瞬時に悟り、コナンはこの月明かり一筋の薄暗い空間の中、麻酔針を正確に犯人たちへと向ける。
 けれどボタンを押そうとした瞬間、男の口から信じられない言葉が発せられ、コナンはまたも動きを止めざるを得なかった。

「怪盗キッド。わざわざ宝石は狙うなと忠告してやったのに、ここ最近の貴様の獲物ときたら宝石ばかりだ。流石に我らがボスもご立腹でな。貴様に盗られる前に盗らなければならなくなった」
「ふん……どうせ私が関わらずともいずれは盗むつもりだったんでしょう。陳腐な言い訳に私の名を持ち出さないで頂きたい」

 男の台詞は、キッドと彼らとの関連性を示すものだった。
 麻酔針を打ち込もうとした指は、固まったかのように動かなかった。

 もしも彼らが黒の組織のような犯罪組織の連中だとしたら、怪盗キッドもまた彼らと関係を持っていることになる。
 しかもその口振りから察するに、彼らとは意志を反する者として。
 つまりコナンが黒の組織を追うように、キッドもなんらかの組織を追っていたというのか。

 ぐるぐると逡巡するコナンは、けれどこれ以上躊躇ってもいられなくて。
 パシュッ、という音とともに針が飛び出し、暗闇で蠢く男の内の一人に見事命中した。

「……っ」

 呻く暇もないほど、男は一瞬にして深い眠りへと強制的に落ちていく。
 すると仲間のひとりが異変に気付き、声を上げた。

「誰かいるのか!」

 叫ぶ声はジンのものではない。
 ウォッカのものでもベルモットのものでも、コナンの知る誰の声でもない。
 ボスというからにはやはりなんらかの組織に関わる者たちなのだろうが、黒の組織の人間でないのなら、江戸川コナンと工藤新一が同一人物であると気づかれる可能性は低いだろう。
 となれば、正体を隠す必要もあるまい。
 コナンは音が響き渡るようにわざと時計の蓋をパチン、と音を立てて閉める。

「――数人の仲間を囮に警備を薄弱化させ、その隙に標的を盗む。……単純だが見事にやってくれるもんだぜ」

 誰だ、と再び喚き散らす男の声など無視して、コナンはただゆっくりと彼らに向かって歩を進めた。
 こつこつと響く靴音が男たちの緊張感を高めていく。

「だが、お前らの誤算はふたつあった。ひとつはここにキッドが現れたこと。そして――俺がいることだ」

 コナンは月光の中に姿を現した。
 両手をポケットに突っ込んだ尊大な態度で、油断ならない余裕の笑みを口元に浮かべた少年。
 おそらくひどく驚いたのだろう、男たちは誰ひとり声を出せなかった。
 キッドだけがさして驚いた様子もなく、相変わらずのポーカーフェイスでコナンを見つめていた。

「オトモダチはぐっすりおねんねしてるぜ? この麻酔銃はよく効くからな」
「な、に者だ、おまえは……っ!」

 狼狽える相手にコナンは口角を吊り上げると、鋭い瞳で相手を睨み上げながら言った。

「江戸川コナン……探偵さ」

 ざわりと空気が揺らいだのは、その名を男たちが知っていたからだ。
 ――キッドキラー。
 幾度にも渡るキッドとの対決は新聞やテレビでも放送され、そんな通称とともにその名を世間に知ろしめしている。
 けれど男たちが知っているのは彼の名ばかりで、所詮はただの子供、どうせキッドも珍しい玩具をからかって遊んでいるだけなのだろうと思っていたのだ。
 それがどうだ。
 聞き間違いでなければ、この子供は自分たちの仲間を麻酔銃で眠らせたというではないか。

 動揺する男たちを余所に、ふわりと音もなく窓から床に着地したキッドもまた不適な笑みを浮かべながら言った。

「これはこれは、名探偵。来ているだろうとは思いましたが、いつの間にこの部屋に入り込んだのやら……」
「多分お前よりちょっと前だよ」
「……前、ですか」

 僅かに言葉に詰まるキッドは、やはりコナンがいたことに気付いていなかったらしい。
 おそらく先ほどの会話をコナンに聞かれてしまったことに気付いたのだろう。
 ポーカーフェイスの端に失態を悔いる色が浮かんでいる。
 けれどコナンは今ここでそのことについて言及するような真似はしなかった。

「今度の事件はお前じゃなかったんだな」

 内心安堵していたけれど、そんな様子は欠片も見せずにコナンは言った。

「標的が宝石だったから、もしかして……と思った。ま、同時にお前が殺しをするとも思わなかったけどな」
「……私を庇って下さったと?」
「バーロ、そんなんじゃねえよ。予告状も出さない、人も殺す、そうなったらお前と結びつける方がおかしいだろ。ただ、あくまで予防線として中森警部にもご出張願ったわけさ」
「おかしな人だ。それはつまり、少なからず私を信用していると言っているようなものですよ」

 この泥棒めをね、とキッドが口角を吊り上げる。
 コナンは少しむっとしながら、けれど確かにその通りだと思った。
 泥棒だから、いつも手口が同じだから。
 そんな理由で、犯罪者が今までと違った犯行を犯さないなどとは言い切れない。
 それなのに。
 なぜか信用してしまうのだ、この不思議な怪盗だけは。

「――お喋りはそのくらいで充分だ。悪いが、この宝石を渡すわけにいかないのは我々も同じなんでな」

 突然割り込んできた声に、ハッと二人同時に振り返る。
 寝入った男、それを担ぐ二人の男、そして銃を構える男がもう二人と、宝石を懐に持ったリーダーらしき男。
 全部で六人いたらしい男たちは、どうやら話している男に気を取られている隙に隠れていた男が宝石を盗み取っていたらしい。
 気を抜いたのはほんの一瞬だったが、その隙をついて男たちは一目散に駆けだした。

「しまった……!」

 すっかりキッドに気を取られていた自分に舌打ちする。
 弾かれたように走り出すものの、子供の足ではその速度は知れたものだ。
 コナンはみるみる男たちから引き離されていく。
 それでも尚走っていると、唐突に身体がふわりと宙に浮いた。
 吃驚して小さく叫べば、すぐ間近から怪盗の声がした。

「本当は俺一人の方が早いんだが、向こうも男一人抱えてることだし、お前一人くらいなら抱えて行ってやるよ」

 キッドに抱き上げられたコナンは、情けなくも脇に抱えられたような状態だった。
 一瞬抵抗しようかとも思ったけれど、今はそれよりも宝石が優先だ。

「……仕方ねえな。今度ばかりは見逃してやるよ」
「そりゃありがてえ」

 軽口を交わしながらも、二人の顔は真剣そのものだった。



 暗闇の中を駆け抜ける影が八つ。
 月明かりに照らし出された黒いスーツ姿の男たち、そして夜目にも眩しい純白の怪盗と、小さな子供。
 男たちは美術館を出てすぐのところで急に立ち止まったかと思うと、

「鬼ごっこはここまでだ。仲良く丸焦げになりやがれ!」

 手に持っていたらしいスイッチを押すのが見えた。
 罠か、と思った時にはもう遅い。
 すぐ側でドォン、と爆音が響いたかと思うと、火炎が激しく舞い上がった。
 凄まじい熱風が辺りを覆い、火の燃える臭いが充満する。
 コナンは両手で顔を庇いながら、なんとか男たちの後を追おうと必死に一歩を踏み出した。
 けれどその先を怪盗の手に阻まれて。

「バカか、お前は!」
「うるさいっ! 早く追わないと奴らが……!」
「この炎の中を闇雲に抜けようとしたって死ぬだけだぞ!」
「奴らを逃がすわけにはいかねえんだ、絶対に!」

 捕まえて離すまいとするキッドの腕を払いのけようと、コナンは必死に抵抗する。
 けれど子供の力で対抗できるわけもない。
 それでも諦め悪く押し問答をしていると、不意に炎の向こうから男の声が聞こえた。

「おお、これは……!」

 明らかに歓喜の色が混じった声。

「ま、さか……」

 キッドの気配が一瞬にして変わるのがわかった。
 炎に包まれて尚、ひやりと駆け抜けていく何か。
 続いて車のドアが閉まる音がしたかと思うと、激しいスキール音を撒き散らしながら、やがてその車は遠ざかって行った。

 今やコナンの頭の中は真っ白だった。
 彼らが黒の組織と関わりのある連中なら、絶対に逃がしてはいけないのだ。
 なんとしてでも捕まえて、あの薬を手に入れなければ、大事な人の涙を止めることができないのだ。

「離せ、キッド! 早くやつらを追わないと……!」

 ――パンッ

 小気味よい音とともに左頬に痛みが走り、コナンは束の間呆けた。
 コナンを叩いたのは、他でもないキッドだった。
 キッドは怒りを湛えた眼差しを真っ直ぐコナンに注いでいた。

「目を覚ませ、名探偵。今お前が火の中に飛び込むことが、本当に最善策なのか?」

 熱が一気に冷めたような気がした。
 コナンは痛みの残る頬を片手で押さえ、突き刺さるほどの眼差しを真っ向から見つめ返した。

「……悪ぃ」
「いや……。叩いて悪かった」
「いいさ。俺の方がどうかしてた。……どうしても、逃がすわけにはいかなかったから……っ」

 噛み締めた唇は今にも切れて血が流れ出しそうだった。
 どうにも少し自虐的なところがあるらしいなと、キッドが緩く息を吐いたことにもコナンは気づかない。
 噛み切ってしまわないようコナンの顎を掴みながら、キッドが言った。

「とにかく、すぐに警官がここに来る。それまでは動きようがないし、動かない方が賢明だ」
「……ああ。奴らの向かった場所なら見当がついてるしな」
「へえ、流石は名探偵。それでその場所は?」
「埠頭だよ。微かにだが潮の香りがした。潮の残り香がついてるなら、なるべく近隣の港。そんな場所、この辺りにはひとつしかないからな」
「なるほど。じゃあ、早速向かうとするか? どうやら警部殿も来られたようだし」

 そう言って白いマントを翻したかと思うと、そこに現れたのは学ランを着込んだごく普通の学生のようなキッドだった。
 手にしていたはずのマントもいつの間にか姿を消している。
 その顔に浮かんだ笑みは、紛れもなくキッドのものだったけれど。

「キッドの格好じゃあ追跡ができなくなるんでね。あの宝石を奴らに渡したくないのは俺も一緒だ。しばらく休戦と行こうじゃないか、名探偵?」
「……いいだろう。ガキの俺が夜中動き回るには足も必要だしな」

 世紀の大怪盗に向かって足呼ばわりができる者など、この探偵をおいて他にはいないだろう。
 キッドは呆れたように嘆息した。
 コナンも既に落ち着きを取り戻している。
 そうこうする内に「大丈夫ですか?」という警官の声がかけられ、消火活動が始まった。
 やがてそう時間もたたない内に火は消され、コナンとキッドは無事、炎の中から脱出することができた。

「ん? 毛利さんのところのコナン君じゃないか。それに、君は……!」
「お久し振りです、中森警部♪」
「快斗君……こんなところで、何を?」
「いやー、なんか野次馬に混じって野次ってたらこっちの方から声が聞こえたもんで、ちょっと来てみれば……て感じで巻き込まれちゃって」

 あはは、と頭をかきながら中森と話している様子からして、この『快斗』と呼ばれた少年は中森の知り合いのようだ。
 つくづく変装のうまい奴だな、とコナンは思った。
 まさかこれこそがキッドの正体だとは知る由もない。

「それで何があったんだね、コナン君?」
「――警部さんごめんなさい! 僕今すぐトイレ行きたいんだ! 後でちゃんと話すから、このお兄さんと一緒にトイレ行って来るねっ!」

 叫ぶだけ叫んで、中森の返事を聞く間もなくキッドの手を掴むと走り出す。
 堪えきれなかったように、キッドがくつくつと声を殺して笑った。

「なに笑ってんだよ」
「さすが、子供の真似がうまいな」
「なに言ってんだ、どっからどう見たって子供だろうが」

 そういうところが子供らしくねーんだけど、と宣うキッドを一瞥するだけで無視し、コナンは前方に並んでいるバイクに視線を移した。

「お前、アレ運転できるか?」
「俺に不可能はねえよ」

 言うが早いかキッドはひょいとコナンの体を持ち上げ、近くに止めてあったバイクをひとつ拝借し、キーもないのに配線を少し弄るだけで当然のようにエンジンをかけると、夜の道路を猛スピードで駆け出した。
 コナンだとて工藤新一の姿であれば運転もできたし、それこそ完全犯罪も成せるほどの知識を持っているので配線弄りぐらいお手の物だが、生憎と今は手足が届かない。
 なので今は大人しくキッドの後ろに捕まって、埠頭への道を急ぐ。

(まさか、コイツとひとつのものを追うことになるとは思わなかったな……)

 組織絡みかもしれない男たちを追いながら、コナンは妙に静かな気持ちになっていた。

 最初に感じたとおり、今回の事件にはやはり組織が絡んでいた。
 それがコナンの追っている組織なのかは分からない。
 けれど、彼らとキッドの間に何か因縁を臭わせる会話を聞いた。
 愉快犯と言われるこの怪盗にはずっと疑問を持ち続けていたコナンだけれど、意外なところでその犯行の動機に繋がるかもしれない証拠を得てしまった。

 コナンはキッドの目的についてひとつの仮説を立てていた。
 標的がいつも宝石であること、犯行後に必ず返却されること。
 それらの材料をうまく組み合わせれば、自然とひとつの結論に辿り着く。

 ――怪盗キッドはある特定の標的を探している。そしてそれがどんな宝石なのか、おそらくキッド自身も知らない。

 この怪盗が欲して止まない宝石とはなんなのか、興味がないと言えば嘘になる。
 けれどそれをキッドに問い詰める気はなかった。
 コナンにとって盗みが管轄外だということもあるけれど、なによりこの怪盗の秘密は自分の手で暴きたかった。

 だから。
 キッドと彼らの間にどういう繋がりがあるのか、気になって仕方がなかったけれど。
 それよりも今は目の前に迫りつつある組織の尻尾を掴むことだと、コナンは頭を振って余計な雑念を振り払った。



 同じように、深夜の東都にバイクを転がしながら、キッドも一人思考に沈んでいた。
 キッドの腹に腕を回して黙り込んでいる探偵は、おそらく先ほどの会話について考え込んでいるに違いない。
 組織との繋がりはもちろん、もしかしたら自分が宝石を狙う理由さえばれてしまったのではないか。
 迂闊だったと、悔やんでみてももう遅い。
 実際、父親の命を奪った因縁の男たちに気を取られ、コナンの存在に気付かなかったのはキッドのミスだ。
 あれから随分と時間が経つけれど、何も訊いてこないことが逆に気になる。

 そして何より、奴らのあの言葉だ。
 歓喜の色がありありと滲んだ、あの声。

 もしかして。
 まさか。

 今夜の標的だったあの蒼光のダイアが、自分が今まで探し求めてきた宝石だったのだろうか。
 月に翳した石の中になにかを見つけたとでも言うのか。
 そうだとしたら、キッドはなんとしてもあの宝石を奪い返さなければならなかった。
 奴らのボスの手に渡る前に、なんとしても破壊する。
 大事な人の命を奪ってくれた憎くてたまらないだけのあの宝石を、見る影もなくこの手で粉々に。



 月の冴え渡る夜、濃紺の夜空に浮かんだ三日月は、まるで闇に惑う自分を嘲笑うようで。
 胸の奧で燻る炎を抑えるように、キッドは純白の月を睨み付けた。





B // T // N