深夜ということも関係しているのか、車の通りは少なかった。
 拝借したのが馬力のある大型二輪であるのをいいことに、キッドは借り物のバイクをまるで長年乗りこなしてきた愛車のように、フルスロットルで駆け抜ける。
 途中、何度かオービスの赤いフラッシュが光っていたけれど、気にしている余裕はなかった。
 二人とも一応ヘルメットは被っているけれど、たとえ後で警察にばれたとしても、全ての言い訳は後回しだ。
 今はなによりも彼らに追いつけなければ意味がない。

 火が消化されるまで時間を取られてしまったこともあり、身軽なバイクを最大限利用して、キッドはぐんぐん車を追い抜いていった。
 耳に煩いはずのエンジン音も、不思議なほど気にならない。
 確実に追い込まれているこの状況下で、コナンもキッドもなぜかこの時を楽しんでいた。
 それは、認めたくないけれど否定しようのない事実。

 年齢不詳、その上姿も声もなにひとつどれが本物なのか分からない怪盗と、見た目は小学生でありながら中身は大人顔負けの頭脳を持った探偵と。
 二人は対極の存在でありながら――だからこそと言うべきか――同時に強く引き合いもする、まるで磁石のような存在だった。
 それが、相容れないはずの存在同士が、こうしてひとつのものを追い、たとえ一時だとしても意志を同じくして肩を並べて走っている。
 その矛盾が、けれど少しも気にならなくて。
 コナンもキッドもまるでこの時を待ち望んでいたかのように、腹の底から沸き上がる楽しさを抑えることができずにいた。
 なにも言葉は交わさなかったけれど、その時間がまた不思議に愛しくて。

 やがて目的の埠頭が姿を現した時、少しだけ残念に思ったことは、お互いに胸の中へと隠した。

「ここからは走るぜ、ボウズ」
「ああ。奴らに気付かれたら後が面倒だ」

 コナンは素早く後部座席から飛び降りると、被っていたヘルメットをキッドに向かって放った。
 キッドもエンジンを切ってヘルメットを脱ぐと、足音もなく進みながら目的の人物の姿を探した。

「……船まであるとは、かなり用意周到じゃねえか」

 灯火のない暗闇の中、月明かりに照らし出された海上には、小型の船が一艘。
 言うまでもなく、彼らが逃走用に用意したものである。
 どうやら赤切符を何枚も切ったお陰で大幅な時間短縮には成功したらしく、四人の男たちが次々と身軽に船に乗り込んでいく様子が見えた。

 埠頭というキーワードからある程度予測していたコナンだが、思わず心中で舌打ちした。
 船で逃げられれば追跡が面倒だ。
 わざわざ身を隠してここまできたが、もう不意打ちを狙っている時間はない。
 ぐすぐすしていると彼らは海の彼方へと消えてしまう。

 けれど、今にも飛び出しかけたコナンを制すと、代わりにキッドが踏み出した。

「よお――俺との勝負もつかない内に、尻尾を巻いて逃げるつもりか?」

 潮風香る夜の埠頭に、冷涼な声が鳴り響く。
 月明かりの届く範囲に一歩踏み出せば、キッドは既にシルクハットとマントといういつもの姿に戻っていた。

「ふん、しぶとい奴だな……」
「言ったはずだ。その宝石は渡さないと」

 奪い返すまで追い続ける。
 この手で壊すまで、どこまでも。

「邪魔をするな。我々の邪魔をすれば命を落とすことになるぞ」

 拳銃を構える、チャキ、という金物的な音がした。
 右手にそれを握った男も、月明かりの中にその身をさらけ出す。

 体が凍った。

 帽子から靴まで、全身黒尽くめの男。
 目の前に現れたその人物を見て、コナンは心臓が早鐘のように脈打つのを感じた。
 息をするのも忘れ、ただ思考だけが目まぐるしく活動する。

 組織。黒。犯罪。殺人。
 これほど符合するものを、無関係だと考える方が無理だろう。

 硬直していたコナンの体は、ふいに右手前方から聞こえてきた微かな音によって引き戻された。
 本当に微かな、風の音にも掻き消されてしまうほどの微かな音。
 それに気づくことができたのは、単純にコナンの方が音の発生源と距離が近かったからだ。
 丁度キッドの死角となるその場所に、一人の男の影が微かに動いている。
 一人がキッドを引きつけている間に、もう一人が確実に狙うつもりなのだろう。
 その手には夜の闇の中でも尚不気味に黒く光る拳銃が見える。

 暗闇に潜んでいたコナンは、無意識の内に駆け出していた。
 正しい判断というものがあるなら、この時のコナンは間違っていたかも知れない。
 ただ冷静に考える余裕もなく、必死だった。

 警告を声にする力すらも惜しんで走る、――キッドのもとへ。



 ガ――――ン……



 妙に耳に残る音だった。
 キッドに思い切り体当たりしたコナンは、その勢いのままその場に転がった。
 小さな体は衝撃に耐えきれず、一度バウンドして漸く止まる。

 最初、痛みは感じなかった。
 あまりにたくさんの情報を脳がうまく処理できなかったのかも知れない。
 けれど、助けようとしたその相手の無事を確認しようと、倒れた体を支えるために左手をついた瞬間。
 言いようのない激痛がコナンの身体を走り抜けた。

「――…ああああああっ!」

 自分の体重さえ支えられずに再びその場に倒れ込む。
 左肩が激しく脈打っているのがわかった。
 まるでそこに心臓があるかのようだ。
 抑えた手の平に鮮血がどくどくと溢れ出す。

「名探偵!」
「……くっ、ぅ……!」
「俺を庇ったのかっ?」
「バ、ロォ……いいから奴らを……っ」
「馬鹿言ってんじゃねえ、お前の傷の方が先だ!」

 キッドは自らのマントを引きちぎると、コナンの肩の上をきつく縛り上げた。
 その表情はいつになく険しかった。

「ガキも来ていたとはな……。怪盗キッド、ガキに免じてひとまず貴様の命は預けてやろう。だが、また宝石を狙えば同じことだ」

 男はそれだけを言い残し、やがて船のまき散らす騒音は遠ざかっていった。

「逃げ、ちまっただろうが……!」
「うるさい。勝手な真似しやがって……俺は礼なんか言わねえぞ」
「感謝して欲しくて庇ったわけじゃねえよ!」
「じゃあなぜだ、どうしてこんな!」

 怪我人相手に、キッドは容赦なく怒鳴り散らす。
 下手をすれば意識も飛んでしまいそうな激痛の中、それでもコナンは言葉を探した。

「そんなの、……わかんねえ」
「……名探偵?」
「わかんねーよ、そんなの。ただ気付いたら身体が動いてたんだ」

 肩に銃弾を食らったというのに、意地っ張りなコナンは気丈にも笑って見せた。
 それだけでもう、この怪盗が探偵に敵わない理由には充分だ。

 キッドはコナンを抱き締めた。

「なっ、」
「――お前が死ぬところなんて、見たくない」

 抱いた腕に一層力がこもる。
 コナンはなぜか息苦しくなって、肩の痛みに顔を歪めた。
 腕の中で小さく抗うと、キッドはすぐにその力を緩めてくれる。
 優しく包み込むかのように。

「バーロォ……俺だって見たかねーんだよ、お前が死ぬところなんて……」

 ……ああそうか。だから走ったのだ、自分は。

 彼が血を流して倒れる姿を見せられるくらいなら、自分が撃たれた方がずっと楽だった。
 今まで何度となく手を差し伸べてくれたこの怪盗は、自分でも気付かない内にコナンの中でこんなにも大きな存在となっていたのだ。
 だが理解はできても、とてもそれを本人に教える気にはなれない。
 そうと伝えてしまうのはなんだか癪で、なによりそんなことを言えばこの人の好い怪盗はまた怒るだろうから。
 優しく支えるこの腕とは裏腹に、きっと自分を叱りつけるだろうから。

「……ちょっと待ってろ」

 と、徐にコナンの体を放すと、キッドはごそごそと胸元に手を突っ込んだ。
 いったいなにをする気だとコナンは首を傾げる。
 するとキッドは携帯電話を取り出し、そらで覚えているらしい番号を打ち込んだかと思うと、

「中森警部、晴海埠頭に今すぐおいで願えますか? ……そこでお待ちしております」

 それだけ言ってすぐに通話を切ってしまった。

「おまっ、その携帯!」
「ああ、これなら心配いらないぜ? ちゃんと非通知でかけたし、もともと借り物だからな」

 ニッと笑って、キッドは残りの『借り物』を見せた。
 携帯電話に警察手帳、運転免許証に手錠だのなんだの。
 ばらばらと出てきたそれらは明らかに警官の持ち物だった。
 おそらくどこかの不運な警官から変装用に借りたのだろう。
 顔も知らない警官を、コナンはほんの少し気の毒に思った。

「これで警部が来るから、すぐにちゃんとした治療をしてもらえ。わざわざ俺の声で電話したんだ、警部なら飛んで来るだろう」
「な……っ!」

 コナンは愕然とした。
 キッドはコナンをこの事件から退場させるつもりなのだ。
 そしてコナンが安全な場所で治療を受けている間に、キッドは自分一人でこの危険な組織を相手に追跡を続けるつもりなのだ。

 冗談じゃない、とコナンはキッドに掴みかかった。
 肩の痛みも意識の外に放り出す。

「駄目だ! 今現場を離れるわけにはいかない!」
「なに言ってんだ。傷の治療が最優先だろ」
「お前一人で奴らを追うつもりなんだろう? そんなの、駄目だ!」
「……これはもともと俺の問題だ。それに奴らは俺の敵だ。お前が首を挟むことじゃない」
「駄目だ、俺は……っ、俺が奴らを追わなくちゃいけないんだ! 奴らが……奴らが黒尽くめなら、絶対に……!」

 コナンは頑として引かなかった。
 ここで引くわけにはいかなかった。
 黒尽くめの男たちを、他ならぬコナンが追わなくてどうするというのか。
 たとえ傷が痛もうと、ようやく目の前に捉えた彼らを絶対に見逃すわけにはいかないのだ。
 元の姿を取り戻すためには危険のひとつやふたつ、怪我の十や二十なんていちいち構っていられない。
 もとより危険は承知の上だ。

「黒尽くめ……?」

 コナンがそこまで彼らに執着する理由が分からないキッドは、訝るように問いかけた。
 けれど悔しそうに唇を噛みしめて俯くコナンからはただ焦りと真剣さ、そして絶対に譲らないという決意が伝わるだけで。
 問うてみても言葉が返ることはなかった。

「……話したくないことも、話せないこともあるだろう。それは俺も同じだ。だからあえて聞かない。でも、この状態のまま追うことはどっちにしたって不可能だぜ?」
「……危険なのはわかってるさ」
「そういうことじゃない。このままじゃお前は犬死にだって言ってんだ」

 それでも構わない。
 そう言いたげな眼差しを向けられ、キッドは恐ろしく頑固な探偵に思わず溜息を吐いた。

「……なら、こうしようか? 俺はお前を連れて行くと約束する」
「それじゃあ、」
「その代わり、お前も一度病院に行くんだ。応急処置でもいい、ちゃんとした治療を受けろ。奴らの追跡はそれからだ」

 これ以上は譲れない、と無言の眼差しがきつくコナンを見据える。
 コナンに選択権はなかった。
 否とも応とも言う間もなく、すぐにけたたましいサイレンとともに中森警部率いる数名の警官が現れた。

「それじゃ、名探偵。治療が終わった頃にお前の病室を訪ねるから……」

 キッドはずっと傷口を圧迫してくれていた手を離し、コナンの血で紅く染まってしまった指を優雅に口元へと宛うと。

「窓を開けておいてくれ、ウエンディ」

 くすりとひとつ笑みを残して、キッドはその場から忽然と姿を消した。
 相変わらずふざけた退場の仕方だと、コナンは苦い笑みを浮かべる。
 やがてばたばたと地面を揺らしながら中森警部が近づいてきた。

「――コナン君! 姿が見えないと思ったらこんなところにいたのか! ……ん? どうしたんだその傷は!」

 矢継ぎ早に質問を浴びせかける中森は、コナンの肩の傷に気付くなり顔色を変えた。
 衣服を真っ赤に染め上げたその姿は、誰がどう見ても重症だ。
 まさかその傷はキッドが……と呟く中森の顔には驚愕が貼り付いている。

 キッドが捜査線上に浮かんだ以上、中森も捜査に加わらなければならなかったのだが、彼は今回の件はキッドの犯行ではないと信じて疑わなかった。
 長年キッドを追い続けてきた彼もまたコナンと同じように、なぜかこの犯罪者は人殺しを、それどころか擦り傷ひとつ負わせることはないと信じていた。
 そんな矢先にキッド本人から呼び出され、しかも目の前には負傷した子供がいて。
 そんな光景を見せられては流石に自信もなくなるというものだ。

 心なしか蒼白な顔をした中森にコナンは苦笑を零した。

「違うよ、中森警部。僕を撃ったのは別の人。キッドはほら……止血してくれたんだ」

 コナンはこれが証拠と言わんばかりに、すっかり紅く染まってしまった、元は純白だったはずの傷口を縛るキッドのマントを差し出して見せる。
 それを聞いてようやく安心したのか、「とにかく事情は移動しながら聞こう」と、中森はコナンを車に運んでくれた。

「コナン君、君はいったい誰に撃たれたんだ?」
「美術館で宝石を盗んだ悪い人たちだよ。男の人――全身黒尽くめの、男の人が六人」
「そうか。やはり今回の事件はキッドの仕業ではなかったんだな! しかも犯人は六人、いやそれ以上か。そんなに多くの人間が関わっているとは……」

 中森の呟きを聞きながら、多いなんてものじゃないと、コナンは目を眇めた。
 まだ確証はないが、もし彼らが黒の組織と関わりのある人間なら、それこそ国家レベルの大犯罪組織ということになる。
 そうなれば中森や目暮の手に負える相手ではない。
 FBIやCIAまでもが追っている連中を、如何に優秀な日本警察と言えども、果たしてどこまで追いつめられるものか。
 しきりに脈打つ傷口が絶えず思考を妨げるけれど、それでもコナンは一連の事件を繋ぎ合わせようと思考に沈んだ。

 宝石を狙う怪盗キッド。それに敵対する組織。そして黒尽くめの男たち。
 ただの宝石強盗から始まった事件が、気付けば求めて止まなかった組織との対決になっている。

 だが、正直まだ早い。まだなんの準備もできていない。
 APTX4869の解毒剤はまだ試作段階から抜け出さないし、彼らを法的に追いつめられるだけの証拠など殆どない。
 FBIとCIAという強力なコネを掴んだコナンだが、未だ組織に手も足も出せずにいる彼らの力がどこまで通用するか、怪しいところである。

 そしてなにより――この体だ。
 七歳の子供ではなにをするにもハンデになる。
 ただ走るだけで呼吸が上がってしまう幼い体。
 その上こんな傷まで負ってしまって。

 もどかしくて堪らなかった。
 こんな体でなければ、もっと俊敏に動けただろう。
 こんな体でなければ、あの時、もっとうまく立ち回れただろう。

 けれど、マイナスにばかり傾くそんな思考を立ち直らせたのは、不本意にもあの男の言葉だった。



 ――お前が死ぬところなんて、見たくない。



 思い出すだけで胸が熱くなる気がした。

 こんな体でなければ、黒の組織に気付くこともなく安穏と暮らし。
 こんな体でなければ、キッドが追う組織に気付くこともなく。
 こんな体でなければ、キッドとこうして関わることもなかったのだ。

 弱気でばかりいられない。
 悔やんだって今あるものが全てなのだ。
 今の自分が全てなのだ。



 ――窓を開けておいてくれ、ウエンディ。



 ああ、開けておくよ、怪盗キッド。

 だからきっと迎えに来い。





B // T // N