こつこつと、室内を忙しなく歩き回る誰かの足音が聞こえる。
はっきりしない意識の中で、あれはなんの音だろうかと考える。
なにか硬質なものがぶつかり合う音だ。
その音に耳を澄ませていると、その中に別の音が混じっていることに気付いた。
ピッピッ、と定期的に鳴る機械音。
聞き覚えのある音だと思った。
そう、以前も同じように、こんな朦朧とした意識の中でこの音を聞いた気がする。
あれはいつだったか。
記憶を辿れば、瞼の裏にぽっかりと口を開けた暗い穴が浮かび上がった。
暗くて、静かで、ほんの少し肌寒い。
それがどこかの洞穴だと思い出した時、同時に響き渡る銃声と激痛も蘇った。
滲む血を抑えながら、子供たちとともに出口を求めて彷徨ったあの日のことが……
そうだ。
あの時も、自分は銃に撃たれたのだ。
――あの時も?
そこでコナンはようやく覚醒した。
思わず飛び起きれば、激痛が肩を襲う。
「コナン君、目が覚めたのねっ?」
泣き出しそうな声とともに蘭が駆け寄ってくる様子を、コナンは呆然と眺めていた。
どうやら霞掛かった意識の外から聞こえてきたあの音は、蘭が病室を行き来する靴音だったらしい。
「心配したのよ! コナン君、また銃で撃たれたりして……」
「蘭ねーちゃん……」
「ちょっと待っててね、すぐに看護婦さんたち呼んでくるから!」
急ぎ駆け足で病室を飛び出す蘭をぼうっと見送る。
左肩がずきずきと痛みを訴え、コナンは未だ朦朧とする意識の端で自分が撃たれたことを思い出した。
そうだ。
黒尽くめの男からキッドを庇った自分は、情けなくも左肩にその鉛玉を食らってしまったのだ。
次いで思い出す、怒ったような責めるような、そんな瞳で覗き込むキッドの顔。
彼はどうしたのだったかと悩んだのも一瞬で、彼が呼び出してくれた中森に運び込まれた警察病院で緊急手術を受け、ようやく今目を覚ましたところなのだと思い至った。
ふと見遣れば、カーテンの開けられた窓から気持ちのいい日差しが差し込んでいる。
運び込まれたのは昨日の夜だった。
それではいったい今は何時なのかと、テーブルの上に置いてあった自分の腕時計で文字盤を確かめると、針は十一時五十分を指していた。
つまり朝、もとい昼の十二時だ。
もしかしなくても蘭は、なかなか目を覚まさないコナンにずっとついていてくれたのだろう。
少し赤くなった蘭の目を思い出し、コナンは苦い表情を浮かべた。
しばらくすると、廊下からばたばたと騒々しい足音が聞こてきた。
忙しなく駆け込んできたのは蘭を筆頭に医者、看護婦、小五郎、そして目暮や中森などの警察関係者だ。
まだここが個室だからいいものの、もし他の入院患者がいれば苦情を言われそうな騒々しさである。
まずは若い男の医者が看護婦を伴ってコナンに問診を行った。
「目が覚めたようだね。気分はどうだい?」
「うん、もう平気だよ」
肩以外は、と心中に呟いて、まだずきずきと痛む肩を悟られないよう、コナンはなんでもないような笑顔を作った。
それから軽い検診が行われた。
正直、まだどことなく麻酔の影響が残っているらしく、身体を動かすのは億劫だったが、そうも言っていられない。
今夜になれば――約束はしていないがきっと今夜、キッドが迎えに来るはずなのだ。
敵を長い間野放しにしておくことで追跡が困難になることは、キッドも分かっているだろう。
そんな時に肩が痛いなどと弱音を吐いてはいられない。
増してキッド相手に弱音など吐きたくもない。
「術後の回復も順調のようですし、もう大丈夫でしょう。でも二、三日は絶対安静ですよ」
「よかった……有り難う御座います、先生」
軽く会釈して医者と看護婦が病室を出て行くと、待ってましたとばかりに小五郎が口を開いた。
「全く、お前はいつもいつも勝手に行動しやがって……昨日は蘭がつきっきりで看病してやってたんだ、ちゃんと蘭に礼を言えよ!」
「お父さん、コナン君はやっと目が覚めたところなのよ。そんなのもう少し後でいいじゃない」
「しかしだなあっ」
「毛利君、すまないが我々の用事を先に済ませても構わんだろうか?」
説教は後にして、と目暮に宥められ、小五郎は渋々頷いた。
流石に今すぐ小五郎の相手をする元気のなかったコナンは、内心で安堵した。
「では早速、疲れているところ悪いんだが……昨日のことを詳しく聞かせてくれんかね、コナン君」
「どうして君はキッドと一緒にいたんだ?」
大柄な警部二人に囲まれるコナンを、心配顔の蘭が少し遠くから見守っている。
コナンは「心配しないで」と笑顔を向けた。
「昨日、僕、警部さんの知り合いのお兄さんと一緒にトイレに行ったでしょ?」
「お兄さん……? ああ、快斗君のことだね?」
「よく分からないけど、多分そうかな。それで、実はそのお兄さんはキッドの変装だったんだ」
「なにっ? キッドの奴め、また快斗君に化けたのか!」
「それで僕、警部さんたちに連絡しようかと思ったんだけど……宝石を盗んだ悪い人たちを見つけて、とりあえずキッドと一緒に後を追ったんだ」
「キッ、キッドと一緒にだとっ?」
中森が素っ頓狂な声を上げた。
他の者も一様に驚いている。
キッドキラーとして世間に知られ、いつもキッドから宝石を守ってくれるコナンのことを気に入っている中森だが、まさかキッドと一緒に悪党を追いかけていたとは思いもしなかった。
キッドもなにを思ってこんな子供を連れていったのか。
一方、コナンは既に開き直りの境地だった。
今の話は多少の誤魔化しを除けば全て真実である。
後はキッドがどうとでもしてくれるだろう。
「それで、悪い人たちが埠頭に泊めてあった船で逃げようとしてたから、キッドが捕まえようとしたんだ。なんだかキッドと喧嘩してたみたいだよ」
「喧嘩……つまり、君の見た六人の男たちとキッドは敵対していると言うことか」
「うん。だから僕は怖くて隠れてたんだけど、悪い人の一人がキッドに銃を向けてるのが見えたんだ。それで僕、キッドが撃たれちゃうと思って飛び出しちゃって……気付いたら自分が撃たれてたんだ」
「――君がキッドを庇ったのかっ?」
またも驚愕する警部たちにコナンは、うん、と頷く。
この辺りには妙な嘘は加えずにありのままを話した。
嘘と本当を織り交ぜて話した方がより真実味は増すものだし、実際、他にどんな理由で子供が銃で撃たれると言うのか。
そこにキッドを加えれば、更に話が滅茶苦茶になってしまう。
そんなコナンを、二人の警部は驚愕に満ちた表情で凝視していた。
目暮も中森も、コナンが普段からなにかと細かな点に気付く、非常に頭のいい少年だとは感じていた。
けれど、キッドを庇って銃に撃たれたと聞かされては、もう驚くしかなかった。
普通そういう場面では体は咄嗟に竦んでしまうものだ。
長年現場に携わっている刑事だって、足が竦んで動けなくなることもある。
それなのにこの子供は足が竦むどころか、自ら銃口の前に飛び出したのだ。
勇気があるのか、はたまた幼い子供の無知が故の無謀さなのか。
だが、コナンが以前にも子供たちを庇って撃たれたことがあることを、目暮は知っていた。
あの時は脇腹を撃ち抜かれ、今以上に危険な状態だった。
それだけじゃない、爆弾事件で病院に担ぎ込まれたときも、爆弾の存在に気付いた彼は逃げるどころか周りの人を守ろうと一人走っていた。
一度経験した恐怖はそうそう拭えるものではない。
つまり彼のそれは無知が故の無謀な行動ではなく、確かに誰かを助けるための行動なのだと思わざるを得なかった。
「僕を撃った後、その悪い人たちはどこかへ逃げちゃったんだけど……キッドがすぐに手当をしてくれたんだ。白い布が巻いてあったでしょ?」
「ああ、確かにあれはキッドの身につけていたマントだろう。血で赤くはなっていたが、もとは白い布だった」
「キッドは警部さんを呼んでからも、警部さんが着くまで側にいてくれたんだ。パトカーが着いたらどこかへ行っちゃったけど」
「じゃあやはり、キッドは今回の犯人ではないんだね?」
どことなく喜んでいる様子の中森にコナンは苦笑を噛み殺しながら大きく頷いた。
そして。
「犯人は――全身黒尽くめ、六人の男の人だよ」
警察に言うべきかどうか迷っていたコナンだが、彼らがこうして彼らの存在を表に悟られる罪を犯した以上、下手に隠すよりも適度な情報を与えておかなければならない。
下手をすればキッドにまで疑いが及ぶのだ。
そうならないように、と思って。
ふと疑問が浮かんだ。
――なぜ、疑われてはいけないのだろう。
確かに今回の殺人や強盗がキッドの犯行でないのは明らかだけれど、彼が犯罪者である事実は変わらない。
今まで窃盗を行ってきた事実は消えないし、彼が捕まえなければならない犯罪者であることにも変わりはない。
それなのに、なぜ疑われてはいけないなどと思うのか。
自分を助けてくれたからだろうかと考え、けれどそれは違うとコナンは首を振った。
そんなことを恩に着る相手でも、恩に着せる自分でもない。
では、いったいなぜ。
コナンがぐるぐると考えている間に、警部たちは早々に病院を引き上げていった。
警察は警察で犯人の追跡をしなければならなかった。
キッドが犯人でないと知った中森の張り切りようは凄まじいもので、ここが病院と言うことも忘れて既に声高に指示を出し始めている。
疲れたでしょう、少し休むといいわ、という蘭の言葉で、小五郎も蘭とともに病室を後にした。
そうして誰もいなくなったひどく静かな個室で、一人になったコナンの頭からその疑問は余計に離れなくなった。
なぜ。どうして。
そればかりが浮かんでは消えていく。
けれど、答えは見つかりそうになかった。
やがて日は沈み、月明かりも眩しい夜がやってきた。
昼間にたっぷり眠ったせいか、今は眠気が欠片もない。
隣には相変わらず蘭がいて、事件にかかりきりな小五郎は警部たちと出払っているためここにはいなかった。
リンゴの皮を剥きながら蘭がやんわりと話しかけてくる。
「ねえ、コナン君。あまり無茶しないでね……」
「……蘭ねーちゃん」
「私が心配性なの知ってるでしょ? コナン君まで、新一みたいにいなくなっちゃったらとか……変なこと考えちゃうから。あまり、無茶しないでね……」
「――…ごめんね」
ごめん、ともう一度心の中で謝る。
どうしても「わかった」とは言えなかった。
もうしばらくすればその無茶をする時がくる。
そんなコナンに気付いてか、蘭は優しく、けれどどこか寂しそうに微笑んだ。
「はい、リンゴの皮剥けたよ」
差し出されたリンゴを受け取る。
「ありがと、蘭ねーちゃん。……あのね、ちょっと暑いから、そこの窓開けてもらってもいい?」
「うん、分かった」
蘭は静かに立ち上がると、鍵を開けて窓を少しだけ開いた。
隙間風が軽く部屋に入ってきて、暑すぎるほどの室内の空気を押し出していく。
首元を通りすぎてゆく涼風のおかげでコナンの気持ちも少し軽くなった。
「そう言えば……」
ふと、何かを思い出したように蘭が月を見上げながら言った。
「事件、事件で忘れてたけど、そう言えば今日ってあいつの誕生日だね」
「あいつ?」
「新一よ。五月四日はあいつの誕生日。それに、コナン君も今日が誕生日だったでしょ?」
そんな日にこんな事件に巻き込まれるなんて、きっとあいつのせいね!
力一杯そう言った蘭に、コナンは「ほっとけ……」と内心で苦い笑みを浮かべた。
「それより、蘭ねーちゃんは帰らなくていいの? 僕一人でも平気だよ?」
「うん。でも家に帰っても一人だし、それにやっぱりコナン君のことが心配だからここにいようかと思うんだけど」
「あ、そっか……おじさんも忙しいんだよね」
「そうなの。昨日も家に帰らなかったし、病院にも長くはいられなかったわ。目暮警部と事件につきっきりみたい」
「そうなんだ」
まずいな、とコナンは顔をしかめる。
キッドはおそらく約束を違えることなく迎えに来てくれるだろう。
その時、できれば蘭には側にいてほしくなかった。
余計な心配をかけることになるし、キッドとしてもその方がやりやすいだろう。
約束通り鍵は開けたけれど、もしこのまま蘭が帰らなければどうやって自分をここから連れ出すつもりか。
「ほら、せっかく剥いたんだからリンゴ食べようよ」
蘭は爪楊枝を二本取り出すと、片方にリンゴを刺して渡してくれた。
ありがとう、と笑って受け取ると、蘭も嬉しそうに笑う。
その真っ直ぐな笑顔を、コナンは直視できなかった。
本当に、なるべく心配はかけたくないと思っているのだ。
こんな風にすぐに笑って、そしてすぐに泣く幼馴染みだから。
その時、風が一際強く吹き込んできた。
白いカーテンが踊るようにふわふわと靡いている。
風が強いし閉めようか、と言って立ち上がる蘭を、コナンは慌てて引き留めようとした――が。
「こんばんわ、お嬢さん」
窓の近くまで歩み寄っていた蘭の、目の前に佇むその白い影。
カーテンに紛れるように立っているその幻影は、怪盗キッドだった。
キッドは驚きすぎて声も出ないらしい蘭の前に静かに跪くと、その手を取って軽く口づけた。
「夜分遅くに失礼しますよ、お嬢さん。少しばかりその小さな名探偵に用がありまして」
その言葉に蘭はハッと我に返った。
「あなた、怪盗キッドでしょ? コナン君に用って……」
「……ある約束を果たしに参りました」
「約束?」
「彼を、迎えに来たのです」
「迎えにって……そんなの駄目よ! コナン君は怪我人なのよ?」
慌ててこちらに駆け寄ろうとする蘭に、コナンは声に出さずに「ごめん」と呟く。
キッドがパチンと指を鳴らせば、気付けばコナンは既に彼の腕の中だった。
「申し訳ありませんが、名探偵をお借りしますよ」
「コナン君……っ」
「ご心配なく。無茶はさせませんから――死んでも」
そう言ったキッドの予想外の口調の強さに、コナンも蘭も驚いた。
死んでも、なんて、そうそう口にできる言葉ではない。
増してこの怪盗の口から出たものであれば、なぜかその重さは何倍にも感じられるから不思議だ。
キッドはその一瞬の隙を利用して、するりと窓からダイブした。
手に持っていた毛布でコナンの体をくるりと覆い、風が当たらないよう、腕の中にしっかりと抱き締める。
治療したと言っても絶対安静を言い渡されているコナンにとって、夜風に身を晒すのはあまりよくないからだ。
そしてそのまま数メートルほど落下した後、キッドの背中にハンググライダーが開かれ、五月の涼風の中、キッドとコナンは月光に照らされながら悠々と空を舞った。
「少し強引だったか?」
「……いや、仕方ないだろう」
「そうか」
コナンは難しい表情のまま緩く首を振った。
心配はかけたくないと思っているのに、結局また蘭にあんな顔をさせてしまった。
だが、それは誰でもない自分の所為なのだからと、コナンはぐっと拳を握った。
今は後悔するよりも前に進むことを考えなければならない。
すると。
「――さっきの言葉は嘘じゃないからな」
下手をすれば風の音に掻き消されてしまうほど小さく、キッドが呟いた。
「え?」と短く問い返せば、抱き締める腕に一層力が込められたような気がした。
「死んでも、お前に無茶はさせない」
「……なに? このケガのこと気にしてんのか?」
「……」
「バーロ、気にすんなよ。俺がしたくてやったんだから」
黙ってしまった怪盗に、図星か、とコナンは口元を綻ばせたのだが。
「たとえその怪我がなかったとしても、俺はお前に無茶をさせる気はねえよ」
と、強い口調で返された。
「なんで……?」
「……お前を――」
その時、ごうっと風が吹き抜けた。
言いかけた言葉の先を風が奪い去る。
コナンは自分の鼓動が少し速まるのが分かった。
聞こえなかった言葉が、ひどく、気になった。
「わり、なんだって? 聞こえなかった」
「――いや、なんでもない」
なんだよそれ、と問い返しても、キッドはもう答えてくれなかった。
その先が気になるのに。
さっきまで頭から離れなかったあの疑問と同じように、気になって仕方ないのに。
けれど、その答えもまた見つかりそうになかった。
風に攫われた言葉が、行き場もなく夜空を彷徨う。
――お前を失うのが怖いから――と。
蘭はしばらくの間、コナンの病室の床に座り込んだまま、力が抜けてしまったかのように動けずにいた。
あまりに唐突で一瞬のできごとだったため、頭では理解できているのに体がついていかない。
コナンが、怪盗キッドに攫われた。
(お借りしますって……、用事っていったいなんなの?)
けれど、無茶はさせないと言った彼の目はとても真剣だった。
思わず信じたくなるような目をしていた。
それでも心配でたまらない。
蘭はやっとの思いで立ち上がると、夜の病院をできる限りの早さで走って電話に飛びついた。
呼び出し音を焦れったく思いながら、ようやく出た父親に簡潔に事の次第を説明する。
同じように驚いた父親と、隣にいて話を聞いていた目暮が「すぐにこちらに向かう」と言って、通話は切れた。
蘭はコナンの病室に戻ると、ただ静かに二人の到着を待った。
ふと見遣れば、食べかけのリンゴが布団の上に転がっている。
さっきまでコナンが食べていたものだ。
どうしようもない不安が蘭の胸を過ぎった。
――ねえ、新一。
いったいなにが起きてるの……?
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