「お前が寝込んでる間に大方のことは調べておいたぜ」
東都の郊外にあるマンションの一室を拝借して、二人はある屋敷の見取り図を広げていた。
今時珍しい平屋建ての日本家屋。
この東都のど真ん中にこれだけ広大な土地を所有していると言うことは、家主は相当な金持ちに違いない。
組織の関係者ともなれば、おそらく相当あくどいこともしてきたのだろう。
「ここが奴らのアジト?」
「おそらくな」
たった一日でここまで調べ上げるとは、流石はこのご時世に怪盗なんてものをやってのけるだけある男だ。
コナンはいっそ感心しながら見取り図を頭に書き込んでいった。
「それで、傷の具合はどうなんだ?」
問われ、大したことねーよ、とコナンは素っ気なく返す。
本当は傷口が熱を持ってしまっていたが、それは言っても仕方がないことだ。
絶対安静の人間がこれから巨大な犯罪組織とドンパチを始めようと言うのだ、発熱ぐらい可愛いものだろう。
コナンを抱えていたキッドもコナンの発熱には当然気付いていたが、やはり仕方ないと目を瞑ってくれるようだった。
「相手は普通に実弾を持ち出すような奴らだ。どうやって対抗するつもりだ?」
暗にこちらも実弾を持ち出すつもりかと窺えば、キッドはニッと口角を持ち上げた。
「馬鹿にするなよ。怪盗キッドは人を殺さない。たとえそれが、人の命を命とも思わないクズ以下の最低な連中でもな」
その、どこか実感のこもった口調。
まるでキッド自身がかつて彼らに近しい者の命を奪われたような言い方だ。
だとすれば、キッドの犯行動機はもしかしたら私怨によるものなのかも知れない。
「既にいくつかの仕掛けは施してある」
「なにっ? いくらなんでもこんな短時間でそこまで……」
「ここは以前からマークしてた場所なんだよ」
「!」
コナンが目を瞠る。
キッドはひょいと肩を竦めた。
「もうばれちまってることを今更隠しても仕方ねーからな」
「じゃあ、やっぱりお前と奴らは……」
「――ああ。あいつらとは因縁の仲だ」
キッドはそれ以上なにも言わなかったけれど、それだけで充分だった。
この怪盗と手を組むことなど二度とはない。
きっとこの一度きりのことだ。
たとえ追う者が同じだったとしても、自分たちはその目的も立場もまるで違うのだ。
キッドが犯罪者だから手を組みたくないと言うわけではなく、ただ彼には彼の、コナンにはコナンのやり方があり、お互いにそれが干渉すべきものではないことを理解しているだけなのだ。
だから、コナンも言いかけた言葉をぐっと呑み込み、それ以上はなにも問わなかった。
キッドもコナンも、全ての秘密を相手に明け渡し、無上の信頼を向けられるほど、それぞれの背に負う業は軽くなかった。
「……麻酔銃は新しい針を補充したが、一度しか使えない。後はどこまで通用するか分かんねーけど、このキック力増強シューズとボール射出ベルトでなんとかするしかねえ」
いざとなったら相手の銃を奪おう、とは流石に口に出さないコナンだが、悪戯に笑うこの男にどこまでばれているかは分からない。
実はコナンのそういうハチャメチャなところが気に入られているとは、コナンは気付きもしなかった。
そうして二人はマンションを離れ、彼らのアジトへと向かった。
その屋敷は東京の中心地に堂々と建てられていた。
広い庭には綺麗に整えられた砂が敷き詰められいて、その中にぽつぽつと浮かんだ石が道を作っている。
ところどころに相当な年輪を重ねていそうな曲がりくねった松の木が植えられた、見事な日本庭園だ。
家屋の方も年季が入っているわりには手入れが行き届いているらしく、傷んだところなどなにひとつない。
まさかこんな純日本風の家屋が彼らのアジトだとは。
キッドが言うにはここも組織の末端の連中のアジトに過ぎないらしいが、たとえ末端だとしても、それを見つけていたキッドにコナンは素直に感嘆した。
「別に、前にここで奴らとやり合ったことがあるだけさ」
それ以後、何度か確認に来ている内に異変に気付いたのだとキッドは言った。
なんにせよそのお陰で今こうしてここに辿り着くことができたのだから有り難いことだとコナンは思った。
「それじゃ、予定通りに」
「分かった」
そう言って離れていくキッドを、コナンは複雑な表情で見送った。
傷を負ったコナンは、はっきり言ってしまえばただの足手纏いだ。
けれどキッドはそうではなく、切り札なのだと言って笑った。
流石に奴らも肩を撃たれた子供をキッドが連れ歩くとは考えないだろう、と。
コナンの存在はいざと言う時のための切り札になるはずだから、それまでは別々に行動しようと言われた。
足手纏いだと言われるよりはずっとマシだった。
けれど、結局はキッドのサポートしかできない自分がコナンはひどく悔しかった。
コナンは追跡眼鏡のスイッチを入れると、自分も身を隠しながら屋敷の中へと足を踏み入れた。
キッドには了解済みで盗聴器付きの追跡シールを身につけてもらっている。
それにしても、とコナンは顔をしかめた。
今回の事件には不可解な点が多すぎる。
まだ黒の組織と直接の関係があるとは決まっていないが、もし彼らが同じ組織の人間であるなら、こんなにも目立つ事件を引き起こすこと自体がまずおかしい。
あくまで闇の中にあって、それが人為的な事件だという証拠すら残さないのが常の彼らのやり方だ。
しかも、今回の事件は全てあるひとつの地区を囲むようにして起こっている。
お陰で四件目の犯行現場を予想できたのだが、まだその意図は明らかになっていない。
そして最後に、コナンにしろキッドにしろ、こんな短時間で彼らを追いつめられたことがなにより不可解なのだ。
まるでなにかに誘い込まれているような……
(……誘い込まれてる?)
そうだ。
そう考えれば全てのつじつまが合う。
わざわざ警察の目に付くような事件を引き起こし、誰かを誘き出すために特定の地域内で犯行を行い、まるで自力で突き止めたかのようにアジトを発見させる。
だが、そうなると、彼らが誘き出そうとしているのはコナンではなくキッドだ。
キッドは彼らとの因縁をはっきりと明言していたし、たとえば彼らが工藤新一である江戸川コナンを誘き出そうとするのならば、わざわざ宝石ばかりを狙い、しかもコナンとも新一とも関わりの薄い場所で犯行を繰り返すのはおかしい。
それにこのアジトはキッドが以前彼らと接触したことのある場所だ。
犯行現場についてはまだ確証がないが、宝石もアジトもキッドに関係あるものばかり。
(つまりこれは、キッドを嵌めるための――罠!)
コナンは心中で激しく舌打ちした。
こんな大事なことに今更気付くなんて。
迂闊だったと自分を罵ってみても、遠く離れてしまった彼に伝える手段はもうない。
盗聴器を持っているのはコナンだけだ。
どうすればいいのか。
焦ったコナンが必死で思考を巡らせていると、追跡眼鏡から不意に音声が届いた。
『よく来たな、怪盗キッド。いや――黒羽盗一と呼んだ方がいいかな?』
―― ド ク ン 。
体が震えるのが自分でも分かった。
それ以外にどう解釈しろと言うのだ。
クロバトウイチ。
それは、キッドの正体を指す言葉でしか有り得なかった。
(クロバ……黒羽、盗一……聞いたことがあるぞ)
そうだ。昔母に連れられてステージを見に行ったことがある世界的マジシャンが、確かそんな名前だった。
所詮はただの目眩ましだと、斜に構えていた当時の新一の度肝を抜いた天才奇術師だ。
だが、彼はステージ中の事故で死んだはずだった。
世話になった恩師だからと、彼の墓参りには新一も何度か付き合わされたことがある。
その男が、怪盗キッドの正体だと言うのだろうか。
(――いや、違う。俺が今考えなきゃなんねーのはそんなことじゃない)
自分が今やらなければいけないことは、キッドの正体を突き止めることではなく、彼らを捕まえることだ。
キッドの正体なんて後でいくらでも考えればいい。
それより今は、彼らを如何にして追いつめ、キッドを如何にしてサポートするか、それを考えなければならない。
コナンはひとつ頭を振ると、イヤリング型携帯電話を取り出した。
「よく来たな、怪盗キッド。いや――黒羽盗一と呼んだ方がいいかな?」
そう言った男の顔を、キッドは生涯忘れることはないだろうと思った。
「二度も命拾いした貴様の幸運もここまでだ」
チャキ、と拳銃を構えたその男は、かつてブルーバースデーというビッグジュエルを狙った時に初めて接触した、スネイクと言う名の男だった。
大柄の体にトレンチコートを着込み、頭には山高帽を、口元には似合いもしない口髭を生やしている。
目つきだけがいやにギラついているところは、確かにスネイクと名乗るに相応しいかも知れない。
キッドはあらゆる激情の全てを持ち上げた口角の奥に抑え込み、不敵な笑みを浮かべた。
「これはこれは。またお目にかかれるとは思いませんでしたよ、スネイク殿?」
「ふん……もう次はない」
言うが早いか、キッドを取り囲むように全身黒尽くめの男たちがぞろぞろと姿を現した。
彼らは皆手に手に拳銃を持っている。
だが、既に感情のどこかが灼け切れてしまっているらしいキッドは、その状況に焦りを感じることはなかった。
「貴様を誘き出すのには苦労したぞ。わざわざ犯行現場を貴様の家族が暮らす江古田付近に限定したのも、わざと痕跡を残しながら逃走したのも、全ては貴様をこの世から葬り去るためだ。まあ、途中いくつかのアクシデントはあったが、計画に事故はつきものだ。こうして貴様をここに連れ出すことができたのだ、ボスもお喜びになるだろう」
つらつらと聞いてもいないことを得意気に話す男に、キッドは内心で辟易した。
この男は以前に会った時もそうだった。
聞いてもいないのに、黒羽盗一を殺したのは自分たちの組織だとキッドに告げてしまうほど、口の軽い男だった。
そして今回も、さっさと殺せばいいものを、いい気になってわざわざ手の内を明かしてくれるとは。
有り難すぎて反吐が出る。
「なるほど? これは私を嵌めるための罠、と言うことですか」
「今更気付いてももう遅い。おまえは既に籠の中の鳥だ」
確かにこの人数を前に余裕でいられる人間はいないだろう。
だが、恐ろしいとは感じなかった。
おそらくこの会話をどこかで聞いているであろう探偵が、なにもせずにいるとは考えられない。
それはつまり『黒羽盗一』の名を聞かれてしまったということでもあるのだが、不思議と悔しくはなかった。
これが白馬や中森ならまた違うのだろうが、それが彼だと――工藤新一なのだと思えば、それも必然なのだと思えてしまう。
それほどにコナン、もとい新一を信頼している自分が可笑しくなって、キッドはふと笑った。
「……なにが可笑しい?」
その笑いが気に障ったのか、男は眉をひそめた。
けれど、キッドの笑いは止まらない。
「――本当に私が、気付いていなかったとお思いですか?」
ス……と徐に右手を差し出す。
中指と親指の腹を合わせ、合図を出す寸前のポーズを見せれば、相手があからさまに怯むのが分かった。
これでどうして嗤わずにいられると言うのか。
「It's show time――!」
ぱちんっ、と鳴った合図とともに、どこからともなく煙が噴射する。
男たちは慌てて口と鼻を押えるが、キッドの狙いは始めから彼らを昏倒させることではない。
一瞬の隙にひらりと姿を変えたキッドは彼らの一人に成りすますと、同じように口と鼻を押えながらいなくなったキッドを探すように辺りをきょろきょろと見渡した。
「くそっ! 絶対に奴を逃がすな!」
スネイクの号令で男たちは四方に散らばった。
その中に紛れ込みながら、キッドはしめたとばかりに屋敷の中に潜り込んだ。
始めから今度の事件が罠だなんて分かっていたことだ。
それでもこうして彼らの誘いに乗ったのは、このまま放っておけば母や友人にまで危害が及ぶ危険があったから。
今度の事件が罠だとしたら、あの宝石が本物のパンドラである可能性は低い。
だが、しっかりこの目で確認するまではあれを偽物と判断するのは早い。
キッドはなんとしても一度あの宝石を手に入れなければならなかった。
(今の会話を全て名探偵が盗聴してくれていれば、奴らがいなくなった俺を捜し回ってるってことも伝わったはずだ)
となれば、彼もうまく身を潜めてくれるに違いない。
キッドは既に目星をつけていた場所へと一目散に駆け抜けた。
(――あいつ、気付いてやがったのか!)
盗聴器から流れてくる会話を聞いていたコナンは、作業をしていた手を止めて彼らの会話に耳を澄ました。
それならそうと始めから言っておいてくれればいいのに。
余計な心配をしてしまったじゃないかとしかめっ面をしたコナンは、けれどすぐに(なんで俺が心配なんか……)と首を振った。
仮にも犯罪者相手に心配もなにもあるものか。
コナンは止めていた手を再び動かし、どこかにあるらしい秘密通路を見つけようと目を凝らした。
キッドが言うには、この屋敷のどこかに地下へ通じる秘密通路があるらしいのだが、これがなかなかに見つからない。
以前ここで彼らと接触した時もその通路を使って彼らに逃げられたらしく、今度もまた同じ道を使って逃げられては困るからと、先回りをしてその通路を見つけだしておきたかったのだが……
(……ん?)
ふと、床の間に飾られた置物のひとつである壺が目に留まった。
暗闇の中、腕時計のライトに照らし出されたそれに僅かに感じた違和感。
その正体は、壺に描かれた柄だった。
それはなんの変哲もない花の絵だったのだが、問題はその柄の向きだ。
普通、柄の入っている置物はその柄が最も美しく見える向きで置かれるはずである。
しかもこれほど豪勢な日本家屋だ、置物ひとつにも高い金を払っているに違いなく、それを柄の向きも考えずに無造作に並べていたとは考えがたい。
つまり、この壺は誰かの手によって動かされたと言うことだ。
(おそらく、動かした理由はひとつ――…)
その下に、なんらかの仕掛けがあるから。
指紋を残さないよう慎重に壺を動かしたコナンは、その下の床に微かに継ぎ目のようなものがあるのを見つけ、口角を吊り上げた。
昔からこういう仕掛けを見つけだすのは得意なのだ。
継ぎ目の周りを確かめるようにこつこつと数回叩けば、すぐに十センチ四方ほどの床板が持ち上がる。
そこには案の定、暗証コードを打ち込むためのパネルが設置されていた。
さて、とコナンはその場に座り込んだ。
ここからが問題だ。
キッドもコナンも秘密通路があることやそこへ行くために暗証コードが必要なことは予想していたが、そのコードがなにかまでは分からなかった。
コードに使われている可能性のある単語はいくつかキッドから教えられているが、間違ったコードを打ち込まれた時のためになんらかの仕掛けを施されていないとも限らない。
可能性のあるコードを片っ端から打ち込むのはあまりに無謀だ。
(考えろ……俺が組織の人間なら、キッドを嵌めるためにどんなコードを設定する?)
怪盗キッドは常識外れの頭脳を誇る、知能犯。
そう簡単に騙されてくれるとは思わない。
では、どうすれば彼を欺けるだろうか?
この自分を以てしても紙一重の勝負を強いられるあの怪盗を欺けるほどの頭脳を、怪盗の罠にあっさりと引っかかるような連中が果たして持ち合わせているだろうか?
――否。
(俺なら、いっそあからさまな罠で以て、奴が自ら飛び込むように仕向けるな)
あの不敵な怪盗が姑息な罠ごときを恐れるとも思えない。
それならいっそ初めから頭脳戦は放棄し、迎え入れた先に罠を仕掛けるだろう。
彼らが組織の一員であり、逐一上の連中に指示を仰がなければならない下っ端であるなら尚のこと。
となれば、答えはひとつだ。
P、A、N……と、順にアルファベットを打ち込むコナンは、その時背後に迫る人影に気付くことができなかった。
殺気を感じて振り返ろうとしたコナンの後頭部を衝撃が襲う。
コナンはそのまま、薄れていく意識に抵抗する間もなく昏倒した。
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