次に目が醒めた時、コナンは狭くて暗い物置部屋のようなところにいた。
重たい体を無理に起こそうとすると、ずきんと後頭部が悲鳴を上げた。
思わずさすった手の平にぬるりとした感触が伝わる。
それが自分の頭から流れる血であり、自分は誰かに殴られたのだとコナンが思い出すのに、そう時間はかからなかった。
――迂闊だった。
唇を噛みしめたコナンの息は荒い。
ただでさえ発熱していたところに怪我を負い、コナンは体力的にも更に追いつめられていた。
それでも鈍い思考をどうにか働かせて周囲に目を凝らす。
初めに感じた通りここはどこかの物置部屋のようで、どうやら部屋が狭いのではなく物がたくさん仕舞われているらしかった。
箪笥や年代物の葛籠に交じり、どう見ても純日本家屋には似つかわしくない絵画やアンティーク調度品、宝石などが所狭しと並べられている。
この全てが真っ当な手段で集められたとはとても思えなかった。
おそらく窃盗品も多く含まれているのだろう。
そんな場所になんの拘束もせず捕らえた侵入者を放り込んでいると言うことは、無事に帰す気はないと言うことだ。
これはいよいよのんびり寝転がっている場合ではないと、コナンはふらつく体を叱咤して立ち上がった。
室内は暗かったが、幸い腕時計は取られなかったらしい。
バッテリーの残量を気にしながらも、どこかに出口はないかとコナンは部屋の中を探し回った。
すると、残念ながら出口ではなかったが、面白い物を発見した。
それは蒼光のダイアだった。
今回組織が狙った宝石であり、キッドが標的とするビッグジュエルのひとつである。
無造作に転がされていたそれを、コナンは持っていたハンカチでくるむとポケットの中に突っ込んだ。
ここにある多くの物は窃盗品なのだろうが、それを証明するものは今はない。
だが、このダイアは確実に昨夜盗まれたものであり、見つけたからにはコナンはそれを泉澤氏へと返さなければならなかった。
その時、ギィ、と扉の開く音がして、誰か人が戻ってきたことを知ったコナンは、慌てて先ほど転がされていた場所に戻って再び横になった。
こつこつと床を歩く音と人の話す声が聞こえてくる。
「キッドかと思えば、ただのネズミだったとは……」
「いや、ただのネズミじゃねえ。スネイクの兄貴が言うには、ずっとキッドと行動してたらしいぞ」
「こんなガキが?」
冗談だろう、と笑い飛ばす男の声。
「お前、このガキを知らないのか? マスコミにキッドキラーだなんだと騒がれてるガキだぞ」
「所詮はガキだろ」
「ただのガキがキッドと一緒にこんなところまで乗り込んでくるかよ」
「それならさっさと消しちまえばいいじゃねーか」
「仕方ねーだろ。兄貴が見張ってろって言うんだから」
男はちっと舌打ちすると、もう一人の男に見張りを言いつけてどこかに行ってしまった。
コナンは逸る鼓動に耳を澄ませながらこくりと喉を鳴らした。
逃げ出すなら今がチャンスだ。
ダイアを入れた方とは別のポケットに手を突っ込む。
そこに蝶ネクタイ型変声器があるのを確認すると、音を立てないように慎重に起きあがった。
適当な場所にボタン型スピーカーを取り付け、自分は物陰に潜み、変声器のダイアルを合わせる。
彼らの口調から予測するに、スネイクという男が彼らをまとめるリーダー的存在らしい。
先ほどキッドと会話していた男こそがスネイクだろう。
コナンは盗聴器から聞こえてきた声と口調を懸命に思い出しながら、扉の外に立っている男に呼びかけた。
「――おい、ここを開けろ」
え? と驚いたように声を上げる男。
「兄貴? キッドを探しに行ったんじゃ……」
「聞こえなかったか? ここを開けろと言ったんだ。さっさとしねえか」
「へ、へいっ!」
慌てて鍵を開けた男が扉を開き、薄暗かった室内に明りが差し込む。
物陰に潜んでいたコナンは、扉の影からぬっと顔を出した男の額目掛けて麻酔針を打ち込んだ。
なにが起こったのか理解する間もなく男はその場に崩れ落ちる。
コナンは詰めていた息を緩く吐くと、倒れた男はそのままにして部屋を飛び出した。
これでもう麻酔銃は使えない。
あとは自分の身ひとつでどうにかするしかない。
コナンが気を失ってからまだ三十分と経っていないが、キッドは今どうしてるのかと、コナンは眼鏡で音を拾おうとしたが、キッドに仕掛けた盗聴器は沈黙したきりなんの音も届けてはくれない。
彼らの会話から察するにまだ捕まってはいないのだろうが、時間が経てば経つほどこちらが不利になるのは必然だ。
(急がねえと……!)
既に打てるだけの手は打ってある。
後は如何にして時間を稼ぐかだ。
――けれど。
(あ、れ……?)
かくんっ、と膝から力が抜け、コナンは前屈みに倒れ込んだ。
すぐに起きようとするが、なぜか力が入らない。
ふと見遣れば、いつの間にか開いていたらしい左肩の傷口から血が流れ、服が真っ赤になっていた。
それに加えて後頭部の怪我。
血を流しすぎたのだ。
コナンは貧血を起こしていた。
くそっ、と悪態を吐いてみたところで、体は言うことを聞いてくれない。
すると間の悪いことに、コナンが今走ってきた方からばたばたと駆けてくる人の足音が聞こえてきた。
まさかもう脱走したことがばれたのかと焦る。
なんにしてもこのままここに転がっていてはまたあの部屋に逆戻りか、殺されてしまうだろうと、コナンは渾身の力を込めて立ち上がった。
決して早くはない速度で、それでも壁に手をつきながら足を引きずるように進む。
と、なんの気配もなく突然背後からぬっと伸びてきた腕に攫われるようにして、コナンはどことも知れない部屋に引きずり込まれた。
全身の動きを奪うように、その腕はコナンの体をきつく抱きしめる。
突然のことになんの抵抗もできなかったコナンは我に返ると、口を塞がれながらも小さく呻き声を上げるが、耳元で小さく「しっ」と囁いた声に目を瞠り、抵抗をやめた。
男たちが何事か叫びながらばたばたと部屋の前を通り過ぎていく。
そしてそのままなにも聞こえなくなる。
どうやら気付かれずに済んだらしい。
それも全てこの男のお陰かと思うと少しばかりでなく悔しかったけれど、コナンはようやく解放された口で背後の男に呼びかけた。
「……キッド。お前も生きてやがったか」
台詞にそぐわず思った以上に優しくなってしまった口調にコナンは自分で焦った。
けれどキッドはコナンの呼びかけに応えず、ただぎゅっと抱き締める腕に力を込めた。
ずきん、と肩が痛む。
それを歯を食いしばることでやり過ごし、コナンは訝しげにキッドを振り返った。
コナンの右肩に頭を預けるように凭れかかったキッドの髪がちくちくと頬にあたる。
「キッド? どうした?」
どこか怪我でもしたのかと問うコナンにようやく顔を上げたかと思うと。
「……それはお前の方だろ」
「え?」
「なんだよ、この傷は」
言うが早いか、キッドはコナンの右耳後ろあたりをべろっと舐めた。
「へっ? おまっ、なにっ、」
「うるせえ、生憎消毒薬なんざ持ち歩いちゃいねーんだよ。血ぃ止めるだけだからじっとしてろ」
どうやらコナンは右耳の後ろ辺りから項にかけてを殴られたらしく、ぱっくり三センチほど切れていた。
時間が経っていることもあって出血量はおさまってきているが、確かにこのままではガーゼだの包帯だのを巻いたところで意味がない。
それは分かるのだが……
なにも舐めなくてもいいと思うのだ。
コナンの顔は今にも火が出そうなくらい赤くなった。
「よしっ」
そう言ってキッドがようやく拘束を解いた頃には、コナンはもうへとへとに疲れていた。
「それで通路は見つかったのか?」
「いや、通路を開けるためのコードを打ち込むパネルまでは見つけたけど、そこで奴らの一人に捕まっちまったんだ」
「ふーん……?」
「おそらく解除コードはお前が言ってたやつだと思う」
「同感だな」
ふっ、と向き合って笑みを浮かべる。
それからはもうなにを言う必要もなく、次にどう動くべきかなど分かり切った二人は、無言で行動を開始した。
その際、当然のようにコナンを抱えたキッドにむっとしながらも、確かに自分の足で走っていては遅くなるかと、コナンはまたもや荷物のようにキッドの小脇に抱えられながら先ほどの部屋へ向かった。
「キッドは見つかったのか!」
顔面蒼白で首を振る役立たずどもに、スネイクは顔をしかめながら罵声を浴びせた。
怪盗キッドを仕留めるために立てられた今回の計画。
その大役を任せられた時、以前キッドを取り逃がした汚名を返上するチャンスだと、彼は喜んだ。
四件にも渡る宝石強盗なんてまどろっこしい方法を取ったのも、なんとしてもキッドを誘き出すために念入りに立てた計画のためだ。
だが、実際はどうだ。
誘き出して罠に嵌めるどころか、その計画はキッドに筒抜けだった上に、こちらが罠に嵌められているような状態だ。
こんな失態、とてもボスに報告できたものではない。
まして、あの御方の耳にも入るかと思うと生きた心地がしなかった。
ここはなんとしてでも怪盗キッドを仕留めなければならない。
「あ、兄貴……!」
と、部屋に駆け込んできた部下の一人がひどく焦りながら報告した。
「蔵に閉じ込めておいたガキが逃げちまったようで……!」
「……なんだと?」
「み、見張りが何故か眠らされていまして」
しどろもどろに告げる男は、先ほどスネイクに子供の見張りを命じられ、もう一人の男に任せて出ていった男だった。
本当は彼ら二人に対する命令だったのだが、たかが子供一人に二人も見張りはいらないだろうと、この男が勝手に命令を無視したのだ。
命令通りに二人で見張りをしていれば、或いは子供の脱走を防げたかも知れないというのに。
スネイクは苛立たしげに溜息を吐き、そして――
銃を構えた。
「ひ……っ」
男の情けない悲鳴が上がる。
「なぜ言う通りにしなかった」
「も、申し訳ありませんでした……!」
その言葉にどれほどの意味があるのかと、スネイクの眉が不快げに寄せられる。
この世界で通用するのは言葉ではなく、ただ結果のみなのだ。
スネイクは引き金に掛けた指をなんの躊躇いもなく引いた。
けれど、その弾が男の体に届くことはなかった。
代わりにカラカラと音を立てながら、スネイクが手にしていたはずの銃が床に転がった。
そして、ひらひらと舞うトランプが音もなく床に落ちる。
「――おやおや、私との鬼ごっこはもう終わりですか?」
一瞬にして室内が暗闇に沈む。
誰の仕業かなど考えるまでもない。
「キッドだなっ? 出てこい!」
スネイクが叫ぶと、部屋の一カ所がぱっと明るくなった。
天井の隅の一角に白い影が映し出される。
男たちはそこに向かって一斉に銃を撃ちだした。
けれどそれはただの幻影に過ぎず、すぐにダミーだと気付いたスネイクが発砲を止めろと声高に命じるが、既にキッドは混乱に乗じて姿を眩ましていた。
「ちっ、奴はこの部屋のどこかにいるはずだ! 探し出せ!」
暗闇の中、あちこちで衝突を起こしながらも男たちは懸命に駆け回る。
けれどその努力も虚しく、室内の灯りはすぐに回復した。
急に明るくなったため、男たちの目が眩む。
「私ならここにいますよ、スネイク殿?」
すぐ傍で声がかけられ、スネイクはぎくりと体を強張らせた。
目の前に立っていた、先ほど自分が殺そうとした男が、口角を吊り上げて笑っている。
その手には見覚えのある奇怪な形をした銃。
パシュッ、と言う音とともに飛び出したトランプが山高帽を奪い、そうかと思えば、後頭部に突然衝撃を覚えた。
鉛で殴られるよりもずっと重く、鉄で穿たれるよりずっと強い。
その衝撃をやり過ごしてなお意識を保っていられるほど、彼の体は頑強ではなかった。
目の前でスネイクが倒れる様子を見ていた男たちは、その光景に目を瞠った。
仲間だとばかり思っていた男が突然リーダーに向かって銃を構えたかと思えば、どこからか飛んできたサッカーボールがもの凄い威力で彼の後頭部を襲ったのだ。
言うまでもなく、それは変装したキッドとコナンの仕業である。
コナンはキック力増強シューズのレベルを全開にしてボールを蹴ったのだ。
博士が発明したこのシューズの威力は凄まじいため、普段全開で使うことはまずないのだが、どうしても不意打ちのこの一撃でスネイクだけは気絶させたかった。
お陰で見事彼は昏倒してくれたのだが、その分反動も凄まじい。
男たちの背後、部屋の最奧で肩を掴みながら膝をついてしまったコナンに、けれどキッドは遠く離れた場所から不敵な笑みを向けた。
――後は任せろ。
そう言いたげな顔にコナンも笑みを浮かべる。
「さて」
ぱちん、と指を鳴らせば、ずずず…と遠くから地鳴りのような音が響いた。
それは、ここに来る前にコナンとともに仕掛けた爆薬が通路を崩した音だった。
「前回逃げられた秘密通路は塞がせて頂きましたよ。ご丁寧に大量の爆薬が仕込まれておりましたので、有り難く使わせて頂きました。直に警察の方々も来られるでしょう」
これであなた方は逃げ道を失ったも同然ですね。
その言葉に、男たちは顔色を無くした。
リーダーを失い、キッドの脅しに屈した彼らは一斉に屋敷の外へと駆け出す。
それさえもキッドの偽りであり、周囲が既に囲まれていると彼らが気付く頃には、もう全てが後の祭だった。
「これで終わりだな」
いつの間にか黒尽くめの扮装を解いたキッドが、いつもの真っ白いスーツ姿で立っていた。
人並みに巻き込まれないよう、部屋の隅の方で壁にもたれ掛かっていたコナンは、誰もいなくなった部屋でキッドと二人きりで対峙する。
と言っても、もう自力では立ち上がることすらできない情けない姿ではあったけれど。
「後はFBIがうまくやってくれるだろう」
「……なんだ、知ってたのか?」
今回の事件がキッドを嵌めるための罠だと気付いた時点で、コナンはすっかり顔なじみになってしまったFBI捜査官に連絡を入れた。
組織が相手なら目暮や中森より彼女たちの方がずっと手慣れている。
だが、コナンはそれをキッドに伝えていなかった。
にも関わらず、いったいどこから情報を仕入れてくるのか。
すると、
「情報収集は怪盗の基本、ってな」
と言って、コナンの靴の裏から盗聴器らしきものを取り外した。
「……テメー、いつから盗み聞きしてやがった」
「ん? お前が病院に運ばれる前に付けさせてもらったよ」
声も低く問うたコナンに、けれどキッドは少しも怯むことなくニヤリと笑いながらそう宣った。
「誕生日だってな、探偵君?」
「うるせー。どーせ俺は疫病神だよ」
と言うより、歩く事件吸引機だ。
本人はもちろん、周りにいる者まで多大な迷惑を被る。
今回巻き込まれたのはどちらかと言うとコナンのような気もするが、結局は自分から巻き込まれていったようなものである。
拗ねたようにそっぽを向くコナンだったが、キッドが口にしたのは予想外な台詞だった。
「いや、お前は勝利の女神だよ」
「――は?」
「俺を真実に導いてくれる、勝利の女神だ。お前が生まれてきてくれてよかった」
この男は、唐突になにを言い出すのか。
思わず変な顔をしたコナンに、けれどキッドはただ微笑みを向けるだけ。
けれど、やがて外が騒々しくなり出すと、キッドはコナンを残して部屋の外に出た。
襖の向こう側に立ち、こちらに背中を向けたまま暫し沈黙が降りる。
コナンはキッドを呼び止めなかった。
そしてキッドもコナンに手を差し伸べることはなかった。
もともと二人は対極の存在なのだ。
たとえ一時であろうと、手を組んだことの方が有り得ないことだった。
だから、わざわざ呼び止めたりしない。
だから。
ありがとうなんて、絶対に口にしないと思っていた、のに。
「ハッピーバースデイ――新一!」
ばっ、と鳩の群れが飛び出す。
どこから現れたのか、いや、これだけの鳩をどこに隠していたのか。
ばさばさと羽ばたく白い翼に覆われ、キッドの姿はすぐに見えなくなった。
そして鳩が夜空へと飛び立った後、そこにはもう誰もいなかった。
コナンは呆然と空を見上げた。
もうなにに驚けばいいのやら。
掟破りのマジックか、はたまた突拍子もないその行動か、それとも――新一、なんて名前を呼ばれたことか。
次に込み上げてきたのは笑いだった。
わけも分からず楽しくなって、コナンは声を上げて笑った。
なんだか腹の辺りがむずむずする。
それが「嬉しい」という感情だなんて、絶対に認めてやらないけれど。
黒尽くめの男たちを一網打尽にしたジョディたちが駆け込んできても、コナンは暫く笑いを止めることができなかった。
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