正直、俺の状態は凄まじかった。 今でこそ失明程度で済んでいるが、一時は生死の境を彷徨ったほどの重傷だったのだ。ベッドから起き上がれるようになるまでに半年かかったし、目の見えない生活に慣れるまでにはもっとかかった。 それでもしぶとく生き残った俺に父さんも母さんも喜んでくれた。 ただ――その喜び方が普通じゃなかった。
今までの放任主義が嘘のように、父さんは俺を閉じ込めた。 絶対に出られないように――誰も入ってこれないように――鍵を掛け、格子を嵌め、文字通り俺を閉じ込めた。 それは協力者であった宮野や服部や阿笠博士とも連絡を取らせない徹底ぶりだった。 困ったように笑いながらも、母さんもそれを止めようとはしなかった。 そして俺も、逃げだそうとはしなかった。 …いや、できなかったんだ。
呼吸も脈拍も止まった血まみれの息子が病院に運ばれた時の父親の心境は俺には理解できない。 ただ、深い深い傷を負わせた事実だけは理解できた。
俺の身勝手の代償として、俺はこの状況を受け入れるべきだと思った。 そしてその日以来、俺は一度として外に出たことがなかった。
「…本当にあれでよかったの?」
俺の部屋に置かれたソファでコーヒーを飲みながら話していた宮野が、不意に黙り込んだかと思うとそんなことを言い出した。
「あれでって、FBIの件か?」 「そうよ。貴方なら、途中で手を引くなんて絶対できないと思っていたけど」
それももう三日前の話だ。今更持ち出す話でもないだろうと思うが、彼女はいつでも俺を気遣ってくれているのだ。
宮野が俺の前に現れたのは一月前だ。 外部との接触を一切嫌がる父さんを押し切り、自分は医師免許を持っているからと、俺の体を誰より熟知しているからと、何とも強引に俺の主治医という地位を獲得した。 以来、俺のただひとりの話し相手としてこの家で暮らしている。 父さんのいない間に勝手に客を家に上げても追い出されない程度には、宮野は強かった。 …いや、それすらも、俺のために気丈にいてくれるだけなのだろうが。
「いつまで優作さんの言いなりでいるつもり? 貴方、このままで本当にいいと思ってるの?」
あまりにストレートすぎる言葉に、俺は思わず苦笑いだ。 それに怒ったのか、彼女にしては珍しく音を立てながらカップを置く。 敏感な耳にその音が不快になると知っての行為だろう。
「笑いごとじゃないのよ。こんな状態、貴方にとっても優作さんにとってもいいはずないわ。そんなこと分かってるでしょう?」
どうやら宮野は、FBIの件を俺が受けると思っていたらしい。 だからこそ彼らを家に招き入れたのだ。 彼らの要請を飲めば、俺は嫌でもここから出なくてはならない。 そうすればこの状況から抜け出せると思ったのだろう。
だが、予想を裏切って俺は要請を断った。 それがどうしても納得いかなかったのだろう。
「なあ、宮野。俺はたとえ父さんが許してくれたとしても、彼らの要請は受けなかったよ」
息を呑む気配があった。 その答えは彼女にとって予想外も予想外、それどころか絶対有り得ないものとして考えられていたに違いない。 でも俺の考えは違った。
「俺は自分が無力だとは思わない。むしろ、人より戦う力を持ってると思う。でもそれはあくまで普通の範囲内で、その枠を越える連中を相手に一切引けを取らないと言い切れるほど、俺は馬鹿じゃない」
組織の残党と呼ばれる者は、普通の枠を越える者たちだ。 人を殺す術と言うものを教え込まれている者たちを相手に、目の見える者と変わらない対応ができるはずがないのだ。
「俺はもう、俺の命を危険にさらしちゃいけないんだ。絶対に、何が起こっても死なない。そう言い切れるだけの確かなものがないまま父さんの傍を離れれば、俺はまた父さんを傷付けることになる」
父さんが俺をこうして閉じ込めるのは、俺の身を案じているからであり、傷付いた息子の姿を見て自分が傷付かないためだ。 己の心の平穏を図ることは何も悪いことではない。 これは俺の自業自得というやつなのだ。
「それで…本当にいいの?」
宮野の声が震えている。おそらく今の状況の原因となった薬を作り出したことへの罪悪感で、彼女の胸はいっぱいなのだろう。 それでも、俺は首を縦に振る。たとえばそれでまた宮野が自分を責めたとしても、俺はこの答えを覆すつもりはなかった。
「ああ。目の見えない俺が、死なずに生きていられるようになるまではな」
そう言いながらも、俺は諦めていた。 そんな日がくるはずはないと知っていた。 警察も、軍も、政府も、頼りにならない。そのどこにでも奴らは身を潜め、牙を剥く機会を窺っている。そんな中に俺を放り込む気があれば、父さんがこんな風に俺を監禁することはなかったはずだ。 今のこの世に、俺を守れるような者は存在しない。 だから俺が外に出られる日もこない。
その現実に打ちのめされた心は、もう随分と前から痛みも感じないほどに麻痺していた。
* * *
ふと空気の流れを感じ、俺は顔を上げた。 手元には相変わらず本がある。もちろん目で読むことはできないが、俺が盲目になった途端、読書好きの息子のために点字の本を大量に買い漁り、挙げ句点字で販売されていない本を点字で作り直させた父さんのおかげで、盲人には有り得ないほど大量の本を、俺は指先から読みとることができる。 その本を脇に除け、唐突に空気が流れた原因を突き止めようと、俺は感覚を全開にした。 だが突き止めるまでもなく、その原因自ら俺に答えを告げたのだった。
「――名探偵」
極限まで抑えられていた気配が、そう口にした僅か一瞬だけ漏れ出た。冷涼で凛とした、まるで夜の冷たさと静けさを凝縮したような気配。 その独特な気配を持つ者を、俺はこの世でひとりしか知らない。
「キッド?」
俺の答えは間違っていなかったらしく、相手から肯定するような穏やかな気配が伝わってきた。 キッドは敢えて距離を教えようとしているのか、こつこつと靴音を立てながら俺の傍まで歩み寄る。
俺は――動かなかった。
この男は不法侵入者であり、そうでなくても国際的な大犯罪者だ。 それでも俺は逃げるどころか、警戒さえしなかった。 盲目だから動けなかったのではない。この男を警戒する必要など、まして逃げ出す必要などまるでないと分かっていたからだ。
「随分、探したよ」
俺は何も言えずに俯いた。 目の奥が熱くなり、鼻にじんとくるものがある。 知っている。これは、涙が流れる前の前兆だ。 俺は意地でも泣くものかと、見えもしない目をきつく閉じた。
「名探偵?」
答えない俺に奴が不審げに声を掛ける。 それでも無視してやれば、奴が困ったように、悲しそうに吐息を吐くのが分かった。
「しんいち…」
名前を呼ばれ、俺はとうとう我慢できずに口を開いた。
「嘘だ」
その言葉があまりに非難めいていて、俺は今度はきつく口を閉じた。 まずい。もう一度口を開けば、今度は情けない泣き言を漏らすに違いない。 俺はもう二度と何も言うまいと、閉じた口を更にも噛み締めた。
「嘘じゃないよ、新一。ずっとずっと、探してた。ずっと、ずっとだ」
キッドの両手が俺の頬を包む。 俺はそれを拒むように首を振るが、思った以上に力のない抵抗はあまり意味を成さなかった。
「…本当だよ。ずっとずっと、夢の中でも、ベッドの中でも、車椅子の上でも、歩けるようになってからも、つい一分前まで。ずっとおまえを探してた」
やばい。 そう思った時には、きつく閉じた瞼の隙間から、俺の許しもなく勝手に滴がこぼれ落ちた。その滴を追いかけるように、後から後から零れていく涙。 その全てはキッドの指に掬い取られていた。 その温かい指先が噛み締められた俺の唇に優しく触れ、凍った心を溶かすように凝り固まった思いも解してゆく。
「俺は半年、おまえを探した」 「俺も半年、夢の中でおまえを探してたよ」 「キッドは死んだって、FBIから聞かされた」 「その方がいいだろうって、寺井ちゃんが仕向けたんだ」 「おばさんにも、連絡が取れなかった」 「危ないから、親父の昔なじみがいるフランスに行ってもらったんだ」
今まで散々俺を絶望に陥れてきた事実の真相が明らかにされていく。 だが、どんな答えを聞かされても、俺の心にでかでかと穴を開けている空洞は埋まらない。 最後に見たあの光景が忘れられない。 赤く燃え上がった空。血色に染まった世界。 その炎に飲み込まれ、やがて暗闇の中に消えてしまったただひとつの、光。
「俺は、…諦めた。キッドは死んだ。 あの時――俺を突き飛ばした時――爆発に呑まれて死んだんだって!」
絶叫は、覆い被さったキッドの唇の中へと消えていった。 口の中に錆びた鉄の味が広がる。 勢い余ってぶつかった歯がキッドの下唇を切った。 それでも、今更止まらなかった。
一年だ。まるで十年とも百年とも思えるほど、気が遠くなるほど長い月日だった。その月日を、毎日毎日、一日のうちに何度も絶望と期待を繰り返し、次第に心は壊れていった。 それは喩えようのない苦しみだった。 大事なものを失う苦しみというものを生まれて初めて味わった。 だから、この監禁生活も甘んじて受け入れた。 同じ苦しみを父さんに味わわせられるほど、俺は残酷にはなれなかった。
「かいと、かいと、かいと、」
馬鹿のひとつ覚えのように、俺の口から出るのは奴の名前だけだった。
「逢いたかった…しんいち…」
ぽつりと、灯が灯る。 小さかった灯が、キッドに名を呼ばれる度に勢いを増していく。
光が闇を凌駕する。
「おまえを攫っていい…?」
俺は静かに、頷いていた。
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