世界屈指の推理作家と呼ばれた彼の工藤優作は、かつては才気に満ち溢れていた端正な顔を、この三ヶ月ばかりの間で驚くほど窶れさせていた。
心労をそのまま映し出したような目の下の隈は濃くなる一方で、契約を結んでいた雑誌の連載小説も全てが滞っている。
どの雑誌社も同じ状態だったため、編集者たちは現状を「作者が入院中のため」と読者に説明していたが、実際今の優作を見れば、それも強ち間違いではないだろう、と志保は思った。
三ヶ月前の夜、新一は唐突に姿を消した。
死なずに生きていける保証がない限り外には出ない、そう豪語したその日の夜に、新一は消えた。
あまりに唐突なことに、優作はもちろん、志保も新一が何者かに攫われたのだと思った。
目の見えない彼が誰の手も借りず、誰にも気付かれず、この最先端のセキュリティが張り巡らされた屋敷から抜け出すことは不可能と言っていい。
となると残る可能性は、何者かによって連れ出された、と言うことになる。
だが、あれから三ヶ月も経った今尚、血眼になって息子を捜し続ける優作とは違い、志保は半ば新一を捜すことを諦めていた。
そして有希子もまた、決して口には出さないが、志保と同じ気持ちだった。
「新一は優作似ね」
「…確かに、諦めることを知らないと言う点では、二人が親子であることを疑う余地はありませんね」
新一もまた、「諦める」と言う言葉を知らない男だった。
普通の人であれば、毒薬を飲まされ小学生にされた時点で、そんな危険なものには金輪際関わらない方が身のためだと判断するだろう。
だがあの男ときたら、わざわざその相手を捕まえるために探偵をしていた幼馴染みの父親のもとへと転がり込み、着々と準備を整え、警察すら利用して、組織を壊滅にまで追い込んでみせた。
その徹底した初志貫徹ぶりは、今の優作を見るに、良くも悪くも彼からの遺伝であることは疑いようのない事実だった。
「志保ちゃんは、あの子は帰って来ると思う?」
何とも答えにくい質問だったが、僅かに逡巡した後、志保は思ったままを答えることにした。
「優作さんが見つけて連れ帰るならまだしも、彼が彼の意志で帰って来ることはまずないと思います」
「…そう。そうよね。私もそう思うわ」
悲しそうに微笑みながら、それでも有希子は現実を受け止めていた。
新一が姿を消してから一月が経ち、二月が経ち、三月を過ぎようとしている今、志保の中にはある仮定が生まれていた。
新一は何者かによって無理矢理連れ去られたのではなく、自らの意志でその誰かに付いていったのだろう、と。
最初の一ヶ月の間、志保は肝の冷える思いをしながらも毎日欠かさず国内で発見された「身元不明の遺体」をチェックしていた。
もしも組織の残党と称される者に連れ去られたのであれば、新一は間違いなく殺されるだろう。
そうなった時、組織の人間であれば遺体の身元が分からないように工作する場合が多い。
身元の分かる遺体であれば否が応にも連絡されるだろうが、身元が分からなければ連絡もないままその遺体は処理されてしまう。
それを避けるために関連施設のデータベースへ不正にアクセスしては、その中に彼がいないことに志保は日々胸を撫で下ろしていた。
しかし、そんな日々も一月にもなれば、組織の残党に連れ去られたと言う可能性は低くなる。
彼らが新一を生かしたまま一月も連れ回すメリットはない。
言い換えるなら、一月もの間、生きたままの新一を連れ回すメリットのある者が彼を連れ去ったと言うことだ。
では、いったいそれは誰なのか。
しかも、失明したとは言えあの工藤新一を連れ去り、その上血眼になって息子を捜す工藤優作の捜査網を潜り抜けるだけの力を持つ者とは――?
そこに思い至った時、志保はその仮定に辿り着いた。
新一は自らの意志でその誰かに付いていった。
なぜならその誰かは、「死なずに生きていける保証」を彼に与えることができるから。
だから、優作の必死の捜索にも関わらず、未だに新一は見つからないのだ。
そう考えれば全ての辻褄が合う。
「…別にね、心配じゃないわけじゃないのよ。親である私たちがあの子を守りたいと思うのは当然のことで、それがあの子にとって悪いことだとも思わない」
でもね、と笑う有希子は、その笑顔の下に優作にも負けない疲労を隠していた。
「あの子にとっての幸福がここにないなら、…仕方ないかな、とも思うの」
それでも有希子は優作の味方だから。
たとえ世界中の人間全て、息子である新一でさえ優作の敵に回ったとしても、彼女だけは彼の味方だから。
だから、「諦めろ」とだけは、絶対に言えないのだ。
そんな彼女をとても見ていられなくて、志保は堪らず俯いた。
「…ごめんなさい。私の所為で…」
自分があんな薬を生み出したばかりに、数え切れない不幸を数え切れない人々に招いてしまった。
その筆頭が今は亡き志保の家族であり、工藤新一、そして彼の家族である工藤夫妻だった。
謝っても謝っても、とても許されるようなことではない。
けれどそんな志保を宥めるように、有希子は志保の肩をそっと掴んだ。
「あのね、志保ちゃん。あの子があの日トロピカルランドへ行ったのは、蘭ちゃんのお祝いをするためよ。そこで事件が起きたのは、ひとりの女性の嫉妬が巻き起こした悲劇よ。そこにたまたま居合わせた不審な男に目を付けたのは新一で、取引現場を目撃したのも、油断したのも新一よ。その男があの子に飲ませたのは確かに貴方が作った薬だけど、そこに至った経緯全ての責任を貴方が負う必要はないの。全てはあらゆる事象が重なった偶然の結果に過ぎないわ。或いは、あの子が根っからの探偵だったが故の必然と言ってもいいでしょうね」
責任の在処を問うてみたところで、過ぎた過去がやり直せるわけでも、失ったものが戻ってくるわけでもない。
時を遡る術を持たない自分たちにできるのは、精々この先に新しい何かを作っていくことぐらいだろう。
「毒薬を作ったのは貴方だけど、その解毒剤を作ったのも貴方よ。新一が少なからぬ害を被ったのは事実だけど、あの子が心の底から貴方に感謝していることもまた確かな事実よ」
いったいどれだけの人が、確かに許し難い罪を犯した者を追いつめることなく責め立てることなく、その罪を説くことができるだろう。
聖母のように赦すのではなく、制裁のように罰するのでもなく。
有りの儘の真実を、ただ説き伝えることができるだろう。
類い希なる才能を持った夫と息子を支えてきたのは確かにこの女性なのだと、志保は胸を打たれる思いで静かに頷いた。
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