禁じられた















 アメリカの首都、ワシントンD.C.近郊に住む二十九才のルシアン・ウォーレンは、二ヶ月前、FBIからあるプロジェクトのエージェントとしてスカウトを受けた、才気溢れる優秀な青年だ。
 かつてアメリカ陸軍の第一特殊作戦部隊D――通称デルタフォース≠ノ所属していた対テロ作戦のスペシャリストにして、現在はフリーの傭兵。
 それが、FBIの対組織チームに潜入した快斗の肩書きだった。

 チームのブレインとして俺の参戦を切望していたFBIは、俺をチームに引き入れられなかった痛手を少しでも軽減するため、優秀な人材を外部から取り入れることにした。
 それは、下手をすれば組織の息が掛かった者を内部に招き入れてしまう諸刃の剣だったが、それ以外に選択の余地がなかったのだから仕方ない。
 身中の虫は俺と快斗で早々に発見、撃退し、しかもその腕を買われた快斗は、今やチームの責任者であるジェームズから分厚い信頼を寄せられていた。

『ラス! 暗号解読班の方が行き詰まってるそうなの。悪いんだけど、ちょっと見てやってくれない?』
『ああ、すぐ行くよ』

 インカムから聞こえてくる声は、ジョディ・スターリング捜査官のものだ。
 快斗は今、快斗が自分で作った超小型の高性能マイクを付けている。
 見つかれば問題になりそうなものだが、実に抜かりのない頼れる相棒は、むしろそのマイクをチームの連絡手段として彼らに普及してしまったため、仲間内で使っているマイクが仲間の体に付いていたからと言って問題になることもなかった。
 そのお陰で、俺は難なくリアルタイムでチームの動きを把握できる。
 そうして、かつて毛利小五郎を傀儡に事件を解いていた頃のように、今度は快斗を傀儡にして組織の残党を狩るのだ。
 しかも、今度はただの人形じゃない。
 俺の思考の裏の裏まで読んで、或いは、俺の考えなど及びもしない奇想天外な発想と手段を持って、確実に奴らを追いつめることのできる相棒だ。
 頼もしすぎて笑ってしまう。

「快斗、こっちに送ってくれ。暗号なら専門家に任せろ」

 こつ、とマイクを弾く音が一回。
 イエスならノック一回、ノーならノック二回。
 快斗も暗号の専門家だが、あっちは作成のプロでこっちは解読のプロだ。
 組織の連中が連絡手段として使っている暗号を手に入れてから既に一週間が過ぎている。
 そろそろ快斗に縋ってくる頃だろうと見当を付けていた。

 暫くして、今度はインカムではなくパソコンのスピーカーから音声が流れ出した。
 抑揚のない女性の声だ。
 目の見えない俺はモニターに映る文字を読み取れないため、音声補助システムを使っている。
 それも普通の補助システムではない。
 日本語、英語はもちろん、世界中で現在までに確認されているありとあらゆる言語が詰め込まれている。
 これもまた、頭の良すぎる相棒が俺のために用意してくれたものだ。
 つまりこの抑揚のない女性の声は、快斗が得意の声色を使って自ら吹き込んだのだ。
 そのため、正直俺の知らない言語もかなり入っている。
 悔しいが、IQ400と張り合っても馬鹿らしいので、そこは文明の利器に存分に頼ることにしている俺だ。

 一通り音読された、文章とは呼べない記号の羅列を、失明して以来桁外れによくなった記憶力で脳裏に刻み、頭の中で吟味する。
 まずは有りの儘の記号だけに意識を向ける。
 その記号が持つ意味、そこから連想されるもの。そこに関連性はあるかどうか。
 次いで、それに新たな情報を絡めて更に吟味する。
 暗号に見られる法則を片っ端から当て込み、組み替え、それでも駄目なら、ここからがいよいよ勝負だ。
 人の頭で作られた暗号なら、人の頭で解けない道理はない。
 複雑であればあるほど、高度であればあるほど、俺の脳は活性化される。
 それが楽しくて堪らない。

 ふと、インカムから苦笑が聞こえ、思考の渦に飲まれていた俺は、居もしない相手に向かって思わずばつの悪い顔を浮かべた。

「…んだよ」
『ほんと、暗号好きだよなあ』

 誰に聞かれるとも分からない場所での応答は危険な行為だが、快斗に限ってそんなミスを犯すはずがない。
 今は部屋に一人きりなのだろう。

「仕方ねーだろ。一年以上眠ってた脳みそをようやく動かせるんだから」
『ああ…その楽しそうな顔を見られないのが残念だ』

 快斗は、推理をする時に見せる俺のガキみたいに喜んだ顔が好きらしい。
 まだ俺がコナンだった頃、キッドだった快斗を船底だビルの屋上だと追い掛けて、そこに居る怪盗の姿を見つけた時の俺は、まるで宝物を見つけた子供のような顔をしていたのだとか。
 それに惚れ込んでしまった怪盗もどうかと思うが、その怪盗が仕掛けた悪戯が上手くいった時に見せる無邪気な笑みに骨抜きにされてしまった探偵も、人のことは言えないだろう。

『早く逢いたい』

 数時間後には間違いなく俺の隣に居るだろう男が、まるで一月先まで会えないかのような切ない声で囁く。
 馬鹿だなと、それを笑うことはできない。
 なぜなら、俺もまた、数時間前まで確かに隣に居たはずの男の存在に飢えていたから。

「早く帰って来いよ…」

 両手でマイクをそっと包み込み、音が鳴るように軽く口付ける。
 はあ、とインカムから熱い吐息が聞こえてきた。

『やべーよ、その声…我慢できなくなるじゃん』
「おまえが我慢したことなんてあったか?」

 現に昨日の夜だって…と思わず思い出し掛けて、俺は慌てて首を振った。
 こんな時に思い出すことではない。
 この三ヶ月で散々慣らされた行為は、思い出すまでもなくまざまざと俺の体に記憶されている。
 機械越しとは言え、耳元で囁かれる快斗の声を聞くだけで体が火照って来てしまうほどには。
 だが、それに気を取られて暗号が解読できない、なんて情けなさ過ぎる。
 自戒するように暗号へ意識を戻そうとした俺の耳に、不意に、パソコンをシャットダウンする音が届いた。
 快斗?、と問いかける声には答えず部屋を出た快斗に、ジョディ捜査官の驚いたような声が掛けられた。

『嘘! もう解読できたの?』
『…いや。少し調べたい資料があるから、続きは家でやるよ』

 とんでもないことを言い出した男の名を思わず叫んだ俺を余所に、ジョディ捜査官は「じゃあ頼むわね」とあっさり納得して、快斗に帰宅の許可を与えてしまった。
 確かに、暗号解読を行うのは自宅にいる俺なのだから、嘘ではないけれど。
 言葉もない俺の耳に、快斗が囁く。

『一時間で帰る』

 もう誤魔化しようもなく、体が熱くなった。

「バーロ…任務はどーすんだよ…」
『一日やそこらじゃ何の進展もないだろ。当面はこの暗号を解かなきゃ、奴らの尻尾は掴めないし』

 それに、と続けた快斗の声も、熱っぽく掠れていた。

『早く帰って来いなんて言うおまえが悪い』

 ――ああ、本当に、なんて不遜な男だろう。
 それでもその豪気さがいいと言うのだから、俺も大概イカレてる。
 まるで底なしの沼に嵌り込んでしまったような心地だ。
 沈めば沈むほど身動きが取れなくなると分かっていながら、自分ではどうすることもできずにただ更なる深みへと落ちていく。
 それでも、快斗とともに落ちていけるのならそれも構わないと思っているのだから、手の施しようがない。
 暗号なんかとっくに手に着かなくなってしまった俺は、このどうしようもない状況をどうにかしなければと思いながらも、快斗と二人どこまでも堕ちていけると言うこの甘美な誘惑を断ち切る術を見つけられずにいる。
 俺はパソコンの電源を落とすと、静かにシャワールームへと向かった。





 そもそも、どうして俺と快斗がこんな関係になったのか、その辺りの詳しい経緯は正直覚えていない。
 「一緒に居ると楽しい相手」がいつの間にか「一緒に居たい相手」になり、気付けば「一緒に居なければならない相手」になっていた。
 お互いを求めたのは極自然な成り行きだ。
 抱き締め合うことにも、キスをすることにも、最も深い場所で体を繋げることにも、何の疑問も湧かなかった。
 恋だの愛だの、そんな次元の話ではない。
 快斗は、言うなれば、俺という命の生死に関わる重大な要素なのだ。
 快斗を失うと言うことは俺の半身を失うと言うことなのだ。
 あの爆発で快斗を失ったと思った俺は、胴も四肢も、それどころか心臓や脳さえ真っ二つに裂かれ、ただ死ぬ時を待っていた。
 だから――これは奇跡なんだ。

 包み込むように背後から抱き締める快斗に、こいつが確かにここにいることを感じ、安心する。
 濃厚すぎる情交の痕は数時間程度では到底払拭できるものではないが、俺たちが求めているものは、快楽よりも安心にベクトルが向いている。
 だから離れていた間の不安さえ取り除いてしまえば、こうしてただ引っ付いているだけで安心できるのだ。

「何か分かった?」
「ん…規則性は大体理解できた。要するに、アルファベットや仮名のような表音文字の一種だな」
「流石。で、解読表は作れそう?」
「いや…表音文字と言っても、キリル文字やアラビア文字、ギリシャ文字と言った音素文字でも、平仮名のような音節文字でもない。ただ単純にどこかの文字体系に別の記号を置き換えただけではなさそうだ」

 そんな単純ではないだろうと思いながらも、一応一通り置き換えてみたが、まるで意味を成さない。
 同じ配列の記号がちらほら見えることからおそらく文章だとは思うのだが、それ以上がさっぱりだ。
 こうなると、ここから先は閃きが肝心だ。

「予め解読表を与えられているか、或いは解読機能の付いたパソコンでのみ受信される暗号なのか…」
「いや、パソコンってのは結構厄介だからな。どんなに破壊しても何かしら証拠が残る。俺ならそこから足が着くようなものは残さない。ばれちゃまずいものは全部ココの中だ」

 そう言って自らのこめかみを指し示す男に、それはおまえの桁外れの記憶能力があって初めて成り立つことじゃないかと、呆れた溜息が漏れる。
 だが、快斗の意見も一理ある。

「じゃあこの全く関連性のない記号の羅列を、解読表やパソコンの解析なしで、どうやって読み取るんだ?」

 まさか、この記号の意味を覚えるよう、真っ先に訓練されるとでも言うのか。
 奴らなら有り得ないとも言えないが、失礼ながら、過去に捕らえてきた奴らの全てがそれを記憶できる頭脳の持ち主だったとは思えない。
 或いは、一部の者にのみこの暗号を用い、そいつがまた別の方法で仲間に連絡を付けると言うことも考えられるが、それではいざと言う時に迅速な対応ができないだろう。
 そうなると、この暗号は何とも使い勝手が悪いように思うのだが…

「――読まなくていいとしたら?」

 はっ、と俺は息を呑んだ。

「この中の殆どは出鱈目な記号の羅列で、真のメッセージは一部、それも文章ではなく単語だったとしたら、どうだ?」

 快斗の言葉に導かれ思い浮かぶのは、一カ所だけ同じ配列をした部分。
 他にも同じ並びの部分はちらほらあったが、どれも並んでいるのは二つ目か三つ目の記号までだ。
 それを除けば、残るのはその一カ所だけ。

「なるほど…出鱈目の中にも若干の規則性を持たせれば、一見何らかの規則があるように錯覚させられる。木を隠すなら森の中、か」
「暗号を作る側としての思いつきだけどね。でも、可能性は高いと思う」

 確かに、こんな長ったらしい暗号を作るのは、俺なら嫌だ。面倒くさすぎる。
 でも、相手の目を誤魔化すには何とも憎い思い付きだ。

「残念ながら俺が思い付いたのはそこまでで、この記号の羅列にどんな意味があるのかは分からねーけど」
「いや、充分だ。サンキュ、快斗」

 流石はこのご時世に怪盗なんてものをやっていただけあり、快斗の発想はひと味違う。
 それに今までどれだけ救われたか知れない。
 だが、ここから先は探偵の領域だ。
 快斗が無から有を生み出す天性の芸術家なら、俺は有から真実を見極める優れた批評家だ。
 俺が快斗のような閃きを持たないように、理路整然と筋道を立てて真実を推理することは俺にしかできない。
 対極に立つ者同士だからこそ、俺たちは二人揃えば完璧になる。
 そんな相手に出会えたことも、――一度は失ったはずの彼を取り戻せたことも、奇跡としか言い様がない。

「…新一」

 どんな微小な変化も見逃さない快斗が、俺を安心させるように回した腕に力を込めてくる。
 …分かってる。こんなのはただの感傷だ。
 快斗は確かにここに居て、俺の隣で同じ時を生きている。
 だと言うのに、胸深く傷を負った俺の心は、未だその傷を癒せずにいるのだ。
 その傷を癒すため、必要以上に快斗が傍に居てくれることも分かってる。
 それでも。
 快斗の存在を近くに感じられないと、俺は不安で不安で堪らなくなる。

「快斗…快斗…」
「大丈夫…ずっと傍にいるから…」

 その言葉を素直に信じられた、無知と言う名の純粋な自分は、もういない。





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