宮庭佳人
深蒼の衣を颯爽と翻しながら、新一は長い回廊を悠然と歩いていた。 皇帝陛下付の宮廷舞師である新一が宮廷に上がったのはまだ七歳の時のことだ。以来十年間、ずっと宮廷に住み続けている。 立ち並ぶ円柱の向こうには一流の庭師によって整えられた美しい庭園が広がり、紅や白、紫の牡丹が我先に咲き誇っている。花の王の異名を誇るだけあり、その光景は見る者を圧倒する。 けれど、それらが彼の興味を引くことはなかった。擦れ違う人々が立ち止まって頭を下げるのもさらりと流し、ただひたすらに回廊を進んでいく。 やがて行き着いた扉の前で立ち止まると、新一は片膝をついて頭を垂れた。 「参りました、陛下」 両脇を守るように立っていた二人の兵士が扉を引く。ギシギシと音を立てながら重い扉が開かれると、彼らは直立不動で最敬礼をした。 深く垂れた顔の先に大きくしなやかな手が伸ばされ、新一はゆっくりと顔を上げる。 前皇帝の後を継ぎ十九の歳よりこの花処國を治める現皇帝陛下。その人柄は大らかで心寛く、それでいて威厳と厳しさを兼ね揃えた皇帝は、遥か三千年の歴史を誇るこの国の歴代の皇帝の中でも最も偉大な皇帝と謳われていた。 顔に刻まれた皺は重ねてきた歳月の長さを感じさせるが、その芯の強さは未だに衰えていない。 普段は威厳に満ちた顔が、笑うと途端に愛嬌に溢れるこの人が、新一は大好きだった。 「急に呼び立ててすまなかった」 「とんでも御座いません。陛下の命とあらば、喜んで」 にこりと花が綻ぶような笑みを浮かべると、新一はその手を取って立ち上がった。 ここは宮廷の最奧に建てられた皇帝陛下の寝所だ。まだ日も昇りきらないこの時刻、本来なら謁見など到底許されない時間だが、皇帝陛下自らの呼び出しとあっては従わざるをえない。もとより、陛下の命令であればどれほど朝に弱かろうと喜んで従う新一である。 すっかり覚醒し冴え渡るその双眸には、神のみが纏うことを許されるという「蒼」を湛えていた。 「…それで、此度はどういった御用命で?」 扉を閉め、陛下と二人きりになると、新一は囁くように微かな声で尋ねた。 この皇帝が何の用もなく悪戯に人を呼び立てたりしないことを新一はよく知っている。それが周囲の人々の目にどう映っているか知らないわけではないが、自分さえ陛下の御意向を理解していればそれで充分だと思っていた。 と、少し疲れたような表情を浮かべながら陛下も囁くように言った。 「おまえから見て、我が子らはどうだ?」 そのひと言で新一は全て理解した。 皇帝陛下には多くの子供がいる。男子は十八人、女子は二十二人。中でも男の子供は次期皇帝候補であるため、幼い頃よりあらゆる知識と礼儀を叩き込まれる。 極秘事項であるが、皇帝陛下は現在大病を患っているため、唐突に世継ぎを決めなければならなくなったのだ。 それを、なぜ陛下が新一に相談するのか。 陛下は現在あまり公の場に出てこない。諸外国との外交や視察など、身体に支障を来す仕事は全て外務大臣たちに代行してもらっている。 しかし、全ての官僚に皇帝陛下の代行ができる実力があるわけではない。そのため最終的な決裁の判断は今まで通り陛下が執り行っている。…と、誰もが思っている。 実際に陛下自ら印を押している書類もあることにはあるのだが、現在その殆どを代行しているのは、実はこの宮廷舞師である工藤新一であった。 頭の回転が速く、宮廷の書庫に並べられた書物を全て読破した知識の深さは底知れない。そんな新一の隠れた才能に気付いたのは、彼を我が子のように大事にしていた皇帝陛下ただひとりだった。 以来、決して出しゃばることはせず、新一は影ながら陛下を支えてきた。陛下が病に伏してからは、少しでも陛下の負担を減らせられればと、現在では自ら進んで国政の一端を請け負っていた。 新一は少しだけ逡巡して言った。 「恐れながら、陛下のお世継ぎ方は皆素晴らしき才に恵まれし御方であらせられますれば、私如きには如何とも申し上げられませぬ…」 「そう遠慮せずともよい。私の跡を継げるだけの器のある者があの中におらぬことは、私が一番分かっていることだ」 それに、と陛下は続けた。 「何やら良からぬ噂を耳にしたものでな」 「…存じ上げております」 皇位が継承される時には、ひとつやふたつ、必ず問題が起こるものだ。 新一は心得たように頭を垂れた。 「陛下がお望みとあれば、私が何とかしましょう」 「済まないが、頼めるか」 浮かぶ笑みもどこか憔悴している陛下の表情を見て、新一もまた辛そうに目を伏せた。 忘れてはいけない。こうして自らの足で立ち自らの声で話していても、この人は今その身を患っているのだ。今の医学ではおそらく処方の仕様がないことも分かっている。明日かも知れないいつか、この人は永い眠りについてしまうのだ。それが新一には何よりも、辛い。 「そう悲しい顔をするな」 陛下の暖かい手が優しく頭を撫でる。 この手がいつか硬く冷え切ってしまうのかと思うと、どうしようもなく胸が締め付けられた。 「陛下…どうか私を置いて行かないで下さい…」 けれど陛下はただ穏やかに笑うだけで、否とも応とも答えてくれない。 困らせたいわけではないからそれ以上何も言うことはせず、新一は静かに寝所を後にした。 自室に戻るなり、新一は床にはつかずにいきなり服を脱ぎ出した。 箪笥の中から黒い服を取り出し、素早く袖を通す。袖口までしっかり釦を止めれば、そこには舞師ではなく、宮廷近衛兵となった新一が立っていた。 瞳の色を隠すために色彩を変化させる薄い硝子を目に嵌めて、容貌を誤魔化すために帽子を深く被る。 普段、下手をすれば女と見紛うようなひらひらとした格好をしているだけに、今の彼を見ても宮廷舞師だと気付く者はまずいないだろう。 「…こんな時間に珍しいわね」 誰もいないと思っていた室内から声が聞こえてきても、新一は驚かなかった。 「陛下のご命令だ。暫く出掛けるから、後を頼む」 「御意」 音も気配もなく姿を現した人影に、新一は悪戯な笑みを向ける。それは舞衣を着た新一と瓜二つの少年だった。 「いつも悪いな」 「いいわよ。たとえあの皇帝が神の定めし対でなくとも、貴方がそうしたいと願うなら守ってあげるわ」 「…ありがとう」 新一は自分の姿をした少年の手を握ると、窓を飛び越え、まだ薄暗い闇の中へと消えていった。 |
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