宮庭佳人






「あっ、見て見て平次!あの蒼い服着ためっちゃ綺麗な人、誰やろ?」
 どっかのお偉いさんやろか、と首を傾げながら、大量の布の山を抱えている自分の肩を遠慮なくばしばしと叩いてくれる少女を、平次は口元を引きつらせながら振り向いた。
 いったい誰の代わりにこんなくそ重たいものを運んでやっていると思っているのか、いつもながらこの女、遠山和葉はやりたい放題である。
「はあ?おまえ二十年もここに住んどって華族も知らんのか」
「華族?」
「皇帝さん以外のもんで、唯一蒼を纏うことを許されとる一族や」
 見れば、石造りの道の上をひとりの少女がゆっくりと馬車に引かれている。長い黒髪を背中に流し、目の覚めるような鮮やかな蒼い衣装を纏っている。その瞳には衣装と同じ深蒼の輝きが宿っていた。
 それは華族と呼ばれるこの国で最も高貴な一族であった。
 「蒼」はこの国で最も尊ばれる神の色である。天に御座す神はその身に蒼を纏い、地上の海はその色を受け神に平伏している。そのため、蒼は神のみが纏うことを許された神の色だと考えられているのだ。そして皇帝は神より選ばれた人の王であるがゆえ、ただひとり蒼を纏うことを許されている。
 しかし、ひとつだけ例外があった。生まれながらにその目に神の色を秘めた神の一族、華族。それは老婆から生まれたての赤子まで全てが女だけの一族で、神の庭と呼ばれる東里の庭園に隠れるように離れ住んでいた。
 だが、彼女たちが神の一族と呼ばれる所以は、何も瞳に神の色を宿すからではない。神の加護により守られ、神より不老長寿を与えられた神の一族。それ故、彼女たちは花処の長い歴史の中でも国を繁栄させる宝として重宝されてきたのだ。華族の長ともなれば、皇帝と同等の扱いを受けるほどである。
「たぶん今から対≠フとこにでも行くんやろ」
「対=H」
「華族の女は神さんの決めた対≠チちゅー男としか結婚できへんのや。なんでも華族にしかわからん縁があるんやと」
「へー…神さんの決めた運命の人かぁ。なんや羨ましいなぁ」
「アホ。んなもん自分で見つけてなんぼやんけ」
 神が定めし相手がいると言うことは、自分で相手を選べないということでもあるのだ。その相手を受け入れられるならまだしも、もし他に愛する者を見つけてしまった者にとっては辛い枷でしかない。
 誰より自由に生きるこの街で生まれ育った平次にしてみれば、とても考えられない世界だった。
「んなアホなこと言うとらんと、さっさとこの洗濯物の山片づけんぞ」
 いつまでもこんな布の山を担いでいるわけにはいかないと、平次は華族の少女に見とれている和葉を急かした。
 そもそも洗濯を頼まれたのは和葉であって、たまたま通りかかった平次は運悪く彼女に捕まってしまっただけなのだ。本当なら「白南風」予備軍のちびっ子どもに武術の稽古をしてやらなければならない時間である。約束事にうるさい彼らにはまた「尻に敷かれて」だのなんだのと文句を言われるのだろう。
 けれどどうやら平次は和葉の逆鱗に触れてしまったらしく、
「アホアホ言わんといて!あんたかてええ歳して未だに頭領に頭上がらんクセして!」
「な…っ、アホか!あいつは別格や!頭上がらんねやない、俺が従ってるだけや!」
「うそうそ、あんた白南風の大兄なって何年経ったと思てんねん」
「こんのボケ女…!」
 二人の遣り取りを見ていた周りからくすくすと笑い声が上がる。
 今にも殴り合いの喧嘩が始まるのではないかという険悪な雰囲気であろうとも、こうも毎朝同じことを繰り返されれば嫌でも慣れてしまうというものだ。
 結局、和葉にはどこまでも弱い平次が彼女に敵うはずもなく、今朝もいつもと同じ痴話喧嘩を繰り広げる二人を宥める者はひとりもいなかった。



 西里に広がる港町咲浦≠ニ、それに隣接する南里の花街朱峯=B
 この二つの街を総じて下町と呼ぶ。
 ここは日夜海に出てはへとへとになって帰ってくる男たちを、美味い料理と美味い酒、そして若い女による歌と舞で癒してくれる。皇帝の住まう北の都から遠く離れたこの地では、そうして生活を潤わせていた。
 けれど、礼儀も品位もお構いなしの海の男の中には、時に酒の勢いで暴れ出す無法者もいる。そう言った連中を諫めるのはこの国を守る兵士ではなく、「白南風」と呼ばれる破落戸崩れの猛者連中だった。
 白南風には人数制限などないが、誰でもなれるわけではない。噂では三百とも五百とも言われる白南風の猛者を束ねる頭領、そしてその両脇を固める二人の大兄から認められなければ白南風を名乗ることは許されない。
 言い換えれば、この三人に認められさえすれば女であっても白南風を名乗ることができるのだ。平次の幼馴染みで花街の芸妓である和葉も、実は白南風のひとりである。
 下町に住む者たちにとって白南風を名乗ることは、北の都で官職に就くよりもずっと名誉なことなのだった。

 昼間は賑わいを見せる港町だが、夜の主役は花街である。特に今日のような週末の晩は、花街が最も華やぐ時間だった。
 まだ七時も廻っていない宵の口でも、一日の仕事を終えた男たちは手に手に酒瓶を持って楽しい宴に興じている。
 船匠の息子である平次も昼間は父の手伝いに港の仕事にと忙しくしているのだが、夜になれば白南風の大兄として下町を見回らなければならない。
 大抵は何事もなく一日が終わるのだが、週末の晩ともなれば、羽目を外しすぎる虚け者が必ずひとりは現れるもので。
「――離して!」
 ざわざわと喧騒に満ち溢れていた界隈を、甲高い女の悲鳴が駆け抜ける。
 なんだなんだと視線の集まる方へ、平次も急いで駆け寄った。すると、顔を真っ赤に染めてべろべろに酔った親父が、ひとりの芸妓に絡んでいるところだった。
 見たところ彼女は舞妓のようで、薄紅色の梅が描かれた舞衣の袖から伸びた細腕を、潮水と海風でがさがさに荒れた親父の手が無遠慮に掴んでいた。彼女は綺麗な顔をきつくしかめ、けれど怯えるどころか挑むように男を見据えている。下町の女は都の女と違って気が強い。
 このあたりは家が近いこともあって、五年も前からずっと平次が見回りを担当している界隈だ。自分の領域でみすみすか弱い女を殴らせるわけにはいかない。
 けれど平次が割り込むよりも先に、突然飛び込んできた乱入者によって彼女は男の腕から奪われてしまった。
「はい、ご退場!」
 ぱんっ、と小気味よい音を響かせながら男が椅子から転がり落ちる。額を押さえてのたうち回る男の額には、「天誅」という文字が浮かび上がっている。どうやら先ほどの音はこの文字を押印された音のようだった。
 これは花街で規則違反を犯した者が押される印で、この印を押された者は印が消えるまで花街に入れてもらえないのだ。ちなみにこれは白南風の現頭領が考案したものだが、その効果は意外にも覿面である。
「駄目じゃん、平次。大兄なんだからしっかり見張ってくんなきゃ」
「す、すまん…」
 そう言って大兄である平次を謝らせるその乱入者は、この白南風を束ねる男、黒羽快斗だった。
 方々に跳ねた黒い髪に漆黒の瞳。平次よりやや背の低い彼は、とても海の大男を転がすほど力強くは見えない。
 けれど彼の存在は花街では知れ渡っているらしく、見物していた客からは歓喜の声援が飛び出していた。
「いいぞ、頭領!」
「久々にあんたの天誅拝んじまったよ!」
「どーもどーもv」
 今ではすっかり名物となってしまったこの「天誅」を拝むため、この花街へやってくる客も多いと言う。美女救出の拍手喝采をあちこちから受ける快斗は笑顔で手を振っている始末だ。
 平次はほんの少し脱力しながら、漸く現れた頭領に愚痴交じりの文句を言った。
「遅かったやん」
「悪いな。出掛けに中森のおじさんに用事頼まれてさ」
「まあ、顔出してくれただけでもええけどな」
 何せこの頭領は週末しか下町に顔を出さないのだ。それには色々と込み入った事情があるのだが、ちびっ子から老人まで、下町の住人全てに好かれている彼が顔を出さないと、そのしわ寄せは平次に回ってくるのだから堪らない。
 とにもかくにも、無事現れた頭領のいきなりの大立ち回りを見てしまった界隈は大騒ぎとなった。
 これはこれで大変だと、平次は快斗と連れ立って早々に退散すると、何を相談することもなくいつもの行きつけの店へと向かった。

 「紅梅楼」は、花街の中でも少し異なった雰囲気を持つ妓楼だった。
 全体的に薄暗い照明に高級木材の質感がうまく引き出され、夢見心地を誘う幽玄の空間を作りだしている。それほど装飾に凝っているわけでもないのだが、必要なところに必要なだけ施された飾りが、逆に行き過ぎない高貴さを醸し出していた。
 ここは花街一と言われる高級妓楼だ。ここで働く者は皆「一流」と名の付く、主人の眼鏡に敵った者ばかりである。都の官僚連中や国外からの賓客ももてなすこの妓楼では、料理も歌舞も他とは一味違った。値段は張るがそれだけのものをきっちり出す。そのため、ここには金を借りてまで来たがる客が多い。
 平次たちがいるのは、大勢の客を振る舞うような大広間ではなく、五人掛けの円卓があるだけの個室だった。とは言え、壁に描かれた梅花や天井から吊るされた装飾電灯は、とても他の店で見られるものではない。
 ここの主人が顔なじみと言うこともあるが、落ち着いた雰囲気で美味い酒と美味い飯が楽しめるこの店を、平次たちは贔屓にしていた。
「それにしても、おまえは相変わらず人気もんやなぁ」
 盃になみなみと注がれた酒をぐいと煽りながら平次がぼやけば、快斗は少しも謙遜することなく「まあね」と返した。
「平次だって好かれてんじゃん」
「ちび連中にはやたら懐かれとるけど、おまえほどやあれへん」
「そお?」
「せや!あいつらときたら俺が言うてもさっぱり聞けへんクセに、おまえが言うたらコロッと従いおって…」
 その光景を思い出し、快斗はクツクツと喉を鳴らした。
 卓上には早くも空になった瓶が二本。別段濃度の低い酒というわけでもないのだが、顔色ひとつ変えないこの二人が滅法酒に強いのだ。
 皿を下げに来た給仕が心得たように新しい酒を取りに行く。
「なに?また和葉ちゃんに怒られたのか?」
 この男が愚痴をこぼす時は幼馴染みの彼女に何か言われた時だろうと、快斗は察しを付けた。でかい図体の割りに平次は意外と繊細なのである。
「怒られたわけやないけど…」
 はあ、と平次は溜息を吐いた。
「あいつはおまえのこと好きやないんかな」
「へ?俺、嫌われてんの?」
「ちゃう、ちゃう。俺がおまえの下についとることが気にくわんらしい」
 確かに、二十五の男が自分より八つも年下の男に従っている姿は、あまり胸を張れることではない。平次だとて相手が快斗でなければ逆らいもしただろう。
 けれど、この男だけは特別なのだ。この黒羽快斗という少年に対してだけは、どうしても逆らおうなどと思えないのだ。
 和葉だとて、快斗の持つ不思議な魅力に気付いているだろうに、なぜ今更あんなことを言うのか。
「――可哀想ね」
 と、唐突に割り込んできた含み笑いに、二人は些か吃驚したように振り返った。すると、酒瓶を片手に持った妖艶な美女が、艶笑を浮かべながら立っていた。
 切れ長の大きな瞳と朱の引かれた豊かな唇。ざっくりと開かれた胸元から覗く白磁の肌と、細身を強調するように腰の位置できつく絞られた深紅の衣装は、彼女の女らしい魅力を極限まで引き出しているかのようだ。
「…紅子」
「お久しぶりね、お二人さん」
 灯の光でさえ反射させるような漆黒の絹髪を垂らしながら、小泉紅子はゆっくりと優雅に腰を折ってみせた。見慣れたはずの平次でさえ思わず怯んでしまう美貌は、まさに花街一の美姫。
 彼女はこの紅梅楼をたったひとりで支えている女主人だった。
「可哀想って、どういう意味や?」
「そのままよ。あまりうちの芸妓を虐めないで貰いたいわ」
「はあ?俺がいつあいつを虐めてん。虐められとるんはこっちやで」
「…これだから、鈍い男は頂けないわ」
「俺のどこが鈍いねん!」
 がなる平次をまあまあと落ち着けながら、快斗には紅子が言いたいことが分かってしまった。
 要するに和葉は、いつまでたっても大兄のままでいる平次を心配しているのだ。
 下町生まれの下町育ちである生粋の下町人間にしてみれば、白南風は憧れであり、その頭領ともなれば何よりの名誉なのだ。それが、二十三にして漸く大兄にまでなった平次が、突然現れた快斗に頭領の座を奪われたのだ。和葉でなくても気を遣うだろう。
 だがこの鈍感男はそんな健気な女心に気付くどころか、全く見当違いなことを言い出すのだから、紅子が「可哀想」と言ってしまうのも無理はない。
 しかしそれは言わぬが花だ。端から見ればあからさまな恋心でも、それは彼女が口にして初めて意味を持つのだから。
「…で、わざわざそんなことを言うために来たわけじゃないんだろ?」
 くい、と口端を持ち上げれば、当たり前よと紅子も笑う。
「実は、お客のひとりが興味深いことを仰ってらしてね」
「へえ?」
 快斗の瞳がきらりと光る。
 それはまるで、悪戯を企む子供が見せるそれのようで。
「何でも皇帝陛下がご病気らしくて、近々お世継ぎを決められるそうよ」
 そうなれば国民である自分たちにとっても一大事だと言う紅子に、けれど途端に快斗は白けた顔になってしまった。
「あら、興味なかったかしら?」
「都のことになんか興味ねえよ」
「アカン、アカン。こいつ都に住んどるクセに、その手の話にはさっぱり食いつけへんねん」
 ははっ、と笑いながら手を振る平次。
 ぶすくれる快斗を余所に、紅子は「そう?」と小首を傾げた。
「誰が次の皇帝になられるのか、わたくしは興味あるけれどね」





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