宮庭佳人
紅梅楼を後に、快斗は微酔い気分を味わいながら自宅への道を歩いていた。 自宅と言ってもそこは快斗の生家ではなく、お世話になっている養父の家である。まだ幼い快斗を抱え行く宛もなく彷徨っていた母を、養父が引き取ってくれたのだ。以来、母が死んでからもずっと面倒を見て貰っている。そのため彼は快斗にとって実の父のような存在だった。 だが、彼は都で官職に就いているからだろうか、下町をあまりよく思っていないし、快斗の下町通いにもいい顔をしない。だから週末という限られた時間しか快斗は下町に行くことができないのだ。もし白南風の頭領であることがばれれば出入り禁止にされるだろう。 それでも快斗に下町通いを止める気はなかった。そこは母の生まれた地であったし、何より自由に生きる下町の人々が大好きだったから。 (なーにが、興味なかったかしら?だよ) 紅子の台詞を思い出し、快斗はふんっと鼻を鳴らした。 快斗が都の話を嫌うことは、紅子が一番よく分かっているはずだ。彼女は分かっていて言っているのだろうが、だからこそ腹立たしい。 彼女はもともと快斗の母親のもとについて歌や舞を学んでいたらしいが、息子である快斗にも昔から何かとちょっかいを出してくる人であった。要するに、快斗をからかって遊んでいるのだろう。全くもっていい迷惑である。 そうこうするうちに快斗は下町を外れ、都へ続く石道に入った。 灯りひとつない、薄暗い石道。轍の跡が深く残っているだけでとても閑散としている。 都の夜はとても静かだ。下町より朝が早い分、夜も早く就寝する。そのためだろう、まるで下町の賑わいを嫌うかのように、下町と都との間を繋ぐ道はこの長く味気ない石道ひとつしかない。 快斗はこの道が嫌いだった。 二つの街に挟まれたこの道は、まるで二つの街の間をふらふらと渡り歩く自分のようだ。結局どちらにもなれないまま、ただ虚しくそこにあるだけ。 都に住む者は下町に住む者をあまりよく思わない。同じように、下町に住む者も都に住む者をよく思っていない。下町の者から見れば都の連中は頭が堅くて家柄に煩いだけだし、都の者から見れば下町の人間など満足な仕事にも就けずに毎日遊び暮らしているように見えるのだろう。 本当はただ生活様式が違うだけで、そこに優劣などありはしないのに。 けれど平次は「仕方ないんや」と言って笑っていた。都との確執は、もう何百年も前からの話なのだ、と。 もともと花処國は現在の下町に朝廷を起き、そこを都と呼んでいた。国土面積も人口も決して多くない小国だが、地形に恵まれていたため、ひとつの国として長い歴史を刻んできた。 しかし、三千年の歴史を誇るこの国の皇帝が皆善政を敷いてきたわけではない。他国からの侵略を防ぐため、中にはひどく好戦的な独裁者もいた。いつからか、皇帝に尽くす貴族ばかりがのさばり、国民は戦の肥やしにされていったのだ。 当然、国民の中には不満が募る。やがて遂に不満が爆発し、国内で大きな暴動が起きた。その暴動は国中を巻き込み、多くの犠牲者を出し、危うく国が滅亡する寸前まで追い込まれた。そしてその暴動を鎮めるため、皇帝は都を山手に遷した。以来下町は花処國の一部でありながら、皇帝の支配を受けない独立地区となったのだった。 しかし山手に遷都してからと言うもの、確執は凝り固まる一方であった。歴代の皇帝たちにとって下町との付き合いは、何よりの悩みの種なのだ。再び取り込もうとする者、一切関与しない者、中には力に物を言わせる皇帝もいた。けれどそのどれもが、ことごとく失敗に終わった。 第四十一代目皇帝であらせられる現皇帝陛下も、歴代でも比較的善政を敷いた皇帝ではあるが、どちらかと言えば下町にはあまり関与していない。だからと言って彼らを無視することなく国民のひとりとして平等に接しているため、下町の中でも陛下を支持する声は上がっている。 それでもなお啀み合いは絶えないのだ。それほどに両者の確執は深く、根強い。 だが、快斗は花街で生まれ、都で育った。それぞれの良さも汚さも知っている。白南風の連中や下町のみんなが好きだし、自分を育ててくれた養父だって大好きだ。どちらの方がなんて、比べるものじゃない。 (まあ俺の下町通いが認められるようになるってんなら、次の皇帝サマってのにもちょっとは興味あるけどね) と、そんな無礼極まりないことを考えながら歩いていると、前方の茂みがガサガサと揺れ動いた。 野良犬や野良猫があんな風に草木を掻き分けるはずもなく。となれば、そこにいるのは人間でしかない。 こんな時間に人目を忍ぶような真似をしなければならない人間なんてろくなものではないと、軽く締め上げてやろうと身構えた快斗だったが。 「――え?」 現れたのは、黒い制服を着込んだ小柄な兵士だった。 都を警衛する兵士の中でも黒い制服を着ているのは宮廷内を警衛する兵士のはず。それが、なぜこんな都の外れにいるのか。 けれど思わず声を上げた快斗に気付いた兵士は、何を血迷ったのか、前触れもなく突然こちらに襲いかかってきた。 「うわっ、ちょっと…!?」 「黙れ、この賊が!」 「賊ぅ!?」 たんまたんまと叫ぶ快斗を無視して、兵士は怒濤の攻撃を仕掛けてきた。何を勘違いしているのか、彼は快斗を賊だと思っているようだ。しかもこれがなかなかに強い。 接近戦には自信のある快斗だが、状況が呑み込めずに狼狽えていることもあり、防戦一方の戦いを強いられていた。 それでも考え事ができるほどには余裕を持ってあしらっていた快斗だが、思いも寄らない素早さで繰り出された右足に、咄嗟に庇った左腕をじんっと痺れが走り抜けた。 人のことは言えないが、お世辞にも屈強とは呼べない体格で、よくもそんな力が出せるものだ。さすがは宮廷近衛兵と言ったところだろうか。 けれど快斗がそんな風に考えていられたのもそこまでで、あまりの腕の痛さにあっさり理性を手放した快斗は、兵士の首の付け根めがけて思い切り手刀を振り下ろした。 微かに呻いて兵士は気を失った。だらりと力の抜けきった身体が快斗の膝上にのし掛かる。 「…たく、何なんだよ」 ふう、と溜息を吐き、快斗はのし掛かっていた兵士を地面に転がした。 まさか下町から遠く離れたこんな場所で乱闘をさせられるとは思わなかった。いったいどういう了見だと、襲ってきた兵士の顔を覗き込んだ快斗は―― 目を瞠った。 倒れた勢いで脱げてしまった帽子の下は、これが男かと見紛うほど整った顔だった。 白磁の肌に漆黒の艶髪、月明かりに濃い影を落とす長い睫毛。黒い制服も手伝って、細身の身体はより華奢に見える。何より、彼はどう見ても大人と呼べる年齢ではなかった。 格式高く形式に煩い宮廷がこんな子供を雇うとは思えない。それとも、身内に甘い官僚連中の子息なのだろうか。 何とも嫌な拾いものをしたものだと顔をしかめた快斗だが、ふと、左手を伝うぬめぬめとした感触に眉を寄せた。見れば、暗闇でも見て取れるほどの血が伝っている。 まさか今の乱闘でどこか切ったのかと思った快斗は、しかしすぐにそれが自分の血でないことに気付いた。 黒い制服のせいで分かりにくいが、よくよく見れば、少年兵士の左脇腹あたりの布がぱっくり裂け、その下の皮膚までもが裂けている。誰が見ても刀傷にしか見えないそこからは未だに血が流れていた。 「おいおいっ、重症じゃねーか!」 よもやこんな大怪我であんな大立ち回りをしていたとは。 快斗は少年を抱き上げると、急ぎ下町へと下って行った。 ここからならまだ平次の家の方が近いし、人ひとり担いで山を登るより下った方が早い。それにお世話になっている養父にこんな怪しい男を近づけるわけにはいかないし、何より下町には昔馴染みの腕の良い医者がいるのだ。彼ならきっとどうにかしてくれるだろう。 気絶した少年を抱え坂を駆け下りる快斗は、仕方なく今夜の無断外泊を決心した。 「――なんや、それ!?」 突然自宅に押し掛けてきた頭領の手の中にあるモノを見て、平次は目を剥いて奇声を上げた。 「説明は後。それより急いで寺井ちゃん呼んで」 「寺井さんて、せやけどそいつ…」 黒い制服に圧倒される平次に、快斗はきつい口調で繰り返した。 「急げと、言ったんだ」 滅多なことでは表に出てこないもうひとつの顔で厳命する快斗に、余程のことなのかと平次は慌てて深夜の下町へと駆けて行った。 悪いと思いつつも、家主に無断で快斗は少年を寝台の上に横たえた。白い布がみるみる紅く染まっていく。 「頼むから死んでくれるなよ…」 抱えてみて気付いたのだが、少年の体温は随分と高かった。これだけ深い傷を負っていれば発熱するのも当然だろう。先ほどから呼吸も浅く早くなっている。それだけでもかなり危険な状態と言えるだろう。 下町の人間にとって都の、それも朝廷に携わる人間など絶対に関わりたくない相手であると快斗だとて分かっている。けれど、目の前で死にかけている人間を放っておくほど無情ではない。 それでも彼が朝廷の人間であることは伏せておいた方がいいだろうと、快斗は制服の留め金に手を掛けた。 ――けれど。 「…触れ、るな…っ」 いつのまに覚醒したのか、うっすらと目を開けた少年がこちらを睨みながら苦しげに言った。 「…ここは下町だ。このままじゃ追い出されるぞ」 「構うものか…こんな傷…」 無理矢理起きあがろうとする少年を、快斗は慌てて抑え付けた。 「馬鹿野郎、じっとしてろ!」 「離せ…っ」 熱い息を吐きながら、どこにそんな力が残っていたのかと言う強さで暴れる少年。動く度に血が流れ出ることに気付かないのか、白い布に紅い花が更に広がっていく。 そうこうしているうちに寺井を連れた平次が戻ってきた。 寝起きを叩き起こされたらしく、寺井は寝間着のまま医療具を持って立っていた。 「頭領、その方は…っ!」 案の定固まっている寺井を急かすように快斗は寺井の名前を呼んだ。 すぐにはっとしたように頷き、寺井は寝間着の袖を捲ると、持ってきた医療具をその場に広げた。 けれどいざ少年の服へと手を掛けると、 「やめ、ろ…誰も俺に、触れるな…っ」 悲鳴のように叫ばれ、寺井は僅かに逡巡した後、二人に退室するよう告げた。 「せやけど、そいつは都の兵士やろ?寺井さんにもしものことがあったら…」 「たとえ兵士であっても、今は私の患者です。彼が患者である以上、医者である私は患者の身を一番に考えるのが努めです」 「そない言うたかて…」 食い下がる平次を宥めたのは、意外にも快斗だった。 「寺井ちゃんなら平気だよ。いくら都の兵士でも、自分を助けようって医者に手を掛けるほど馬鹿じゃないだろ」 それに、こう見えて寺井は若い頃は白南風の大兄を務めていた男だ。年を取ったとは言え、そう簡単にやられたりはしないだろう。 快斗は平次の背を押しながら部屋を後にした。 「…さて」 と、寺井は改めて少年に向き直ると、再び服へ手を伸ばした。 既に意識が朦朧としている少年は、それでも嫌がるように首を振る。 力のない手がこちらの手を掴むのへ、寺井は難しい顔をしながら言った。 「安心して下さい。患者の秘密は絶対に口外しませんよ。たとえ――」 留め金を外し、上着の前を肌蹴させる。下に着込んでいた襯衣の前も広げれば、うっすらと上気した肌が顕わになる。 「たとえ貴方が華族であったとしても」 そこには、見事なまでに咲き誇る牡丹の花が浮かび上がっていた。 少年――新一は、あまりの屈辱に唇を噛みしめると、両手で顔を覆ってしまった。 「…昔、華族の知人がいたんですよ。でも彼女は自分が華族であると知られたくなかったようで、蒼い目を隠すためにいつも色を変える硝子を目に嵌めていました」 丁度、今貴方が嵌めていらっしゃるものと同じものですと言って、寺井は傷口を縫うために麻酔と消毒を施した。 「普通の人の目を誤魔化すならそれで充分なのでしょうが、生憎こんな仕事をしていると分かってしまうものでして。ですから、どうかお気を悪くしないで下さい。貴方が人に知られたくないと仰るのなら、私は墓に入るまでこの口を閉ざしましょう」 寺井の落ち着き払った口調と丁寧な治療に絆されたのか、強張っていた身体から次第に緊張が解けていった。 肌の上を玉となって流れ落ちていく汗が、熱の高さを思い知らせる。よくもこんな状態で意識を保っていられるものだと、寺井は逆に感心していた。 「…なぜと、聞かないんですか?」 聞こえるかどうかの微妙な囁きで尋ねる新一に、寺井はあくまで穏やかに答えた。 「人に知られたくない秘密ぐらい誰にでもあるものです。それを暴こうと思うほど、私も若くありませんので」 ふ、と新一の口元が緩む。 笑っているような、…泣いているような。 寺井にはどちらとも判じかねたけれど、やがて聞こえてきた静かな寝息にこっそり苦笑を零したことは、秘密にしておくことにした。 |
B / N |