宮庭佳人
新一は室内に充満した噎せ返るほどの花の香りで目を覚ました。 白みがかった空はそろそろ夜が明けようとしている。 うまく頭が働かない理由は思い返すまでもない。昨夜負った左脇腹の刀傷のせいだ。 見れば、着ていたはずの宮廷近衛服はすっかり着替えさせられ、今は薄い襦袢に袖を通しているだけだった。腹に巻かれた包帯に血が滲んでいないところを見ると、どうやらこまめに替えられていたらしい。 『――どういうつもりかしら』 と、音もなく気配もなく、ただ脳裏に声が届いた。刺々しさの中にも確かに滲む心配げな気配に新一は苦笑を噛み殺す。 「…志保」 吐息とともにその名を呼べば、何もなかったはずの場所からぬっと人影が現れた。 緩く波打つ亜麻色の髪を揺らしながら、目が眩むほど見事な大輪の牡丹をそこかしこに纏った彼女は、大きな青い目を怒りで吊り上げていた。 「そんな傷を負って、どういうつもりなの?」 「悪かった。ちょっと油断したんだ」 新一は寝台から起きあがると、気怠そうに前髪を掻き上げた。 随分と血を流したのだろう、どうにも眩暈が酷かったが、志保が現れたことでそれもずっと良くなった。噎せ返る花の香りも新一にとっては万能薬だ。怒りながらも彼女は新一の傷を癒してくれているのだろう。 志保は「天花」と呼ばれる、霊妙たる花の化身だった。それは生まれた時から死ぬまでをともにする、華族のひとりひとりに与えられた守護精霊のようなものだ。彼女は常に新一の内にいて、あらゆるものから新一を守ってくれる。 そう――新一は華族のひとりだった。 華族は皆その瞳に神の色を宿し、その身に大輪の花を抱く。神の庭に隠れ住む彼女たちのその秘密を知る者は少ないが、知る人が見れば一目で分かってしまうだろう。だから新一は肌を晒すことをあれ程までに拒んだのだ。 新一は自分が華族であることを知られたくなかった。なぜなら――自分は「厄の子」だから。 女しか生まれないはずの華族に、ただひとり生まれた男の子供。新一は厄の子と忌み嫌われ、まるで隠すように神の庭の最奧に閉じ込められた。 寝台と食卓以外には何ひとつない空虚な部屋で、聞こえてくるのはただ歌声と琴の音色だけ。天井高く造られた窓からは花も見えず、ただ四角く切り取られた青い空が見えるばかり。やり場のない怒りと哀しみをその音色に合わせ舞うことで押し殺し、どうしようもない孤独と静寂を志保と話すことで慰める日々… そしてそんな新一を、あの神の庭と言う地獄から救い上げてくれたのが皇帝陛下だったのだ。 「陛下にお変わりはないか?」 「お世辞にも良好とは言えないけど、悪化もしていないわ」 「良かった…」 心の底から安堵の息を漏らし、新一は口元に笑みを掃いた。 賊を追っている最中も、怪我を負ったその瞬間も、そればかりが気掛かりだった。 陛下は新一の世界のすべてなのだ。神よりも尊く、生みの親よりも愛しい。誰より遠くて一番近くにいてくれた人。 あの方がいなくなるなんて新一にはとても考えられなかった。もしその瞬間が訪れると言うのなら、自分の命ごと連れ去ってくれればいいとさえ思った。けれどあの方は優しく笑いながら拒むのだ。彼の心はもうずっと昔からただひとりの女性のものなのだから。 「悪いが、俺は暫くここに残る。陛下に何かあればすぐに知らせてくれ」 「…いいけど、また傷を作ったりしたら承知しないわよ」 志保は新一の天花だ。本来なら常に新一の内にあり、彼を守ることが彼女の使命である。 その志保が新一からずっと離れた宮廷にいる理由は、新一がひとり賊を追う間、自分の変わりに陛下の側にいてくれと頼んだからだ。彼女の知らないところで二度もこんな傷を負うようなら、志保はもう二度と新一の側を離れようとしないだろう。 だが、新一はニッと口角を吊り上げながら笑うのだ。 「安心しろ。賊の尻尾は掴んだ」 皇位を狙ってか、それとも内乱を狙ってか。目的は未だ判然としないが、皇帝陛下の子供、それも皇子ばかりを狙う賊が現れたという噂を耳にして早半月。皇帝陛下直々に命を頂いた新一は、以来兵士やら給仕やらに化けては皇子たちの身辺を洗っていたのだが… 昨夜、まだ七つになったばかりの皇子が賊に襲われ、たまたま彼の御殿の兵士に化けていた新一が深追いしたのがいけなかったのか。どうにか皇子は無傷で守れたものの、新一は腹を思い切り切られてしまったのだ。 だが、とにもかくにも賊の尻尾を捕らえることはできた。陛下を脅かす賊を捕らえることができるなら、こんな傷などなんでもなかった。 「奴は下町に逃げ込んだ。腕が立つところを見ると、白南風ってやつのひとりかも知れない」 都に住む新一はあまり下町の事情に明るくないが、白南風の噂は宮廷にまで届く。彼らは下町の治安を守る自警団のようなもので、安易に下町へ下ることのできない陛下は彼らの存在に感謝していると言っていた。 たが、だからと言って、相手に必ずしも陛下の御心が通じているとは限らない。白南風は破落戸崩ればかりだと聞くし、陛下の御心を無下にする虚け者がいたとしてもおかしくないのだ。 いきなりこんなところに運び込まれたのは新一にとっても計算外だったが、これを利用しない手はない。このまま傷が癒えるのを待ちながら、じっくり犯人を追いつめていけばいいのだ。陛下の側にいられないのは辛いけれど、陛下のためを思えばそんな己の辛さなどいくらでも耐えられる。 「陛下を、頼んだぞ」 「――仰せのままに、花君」 言うと同時にぱっと花が散り、志保の姿は掻き消えてしまった。後には芳香な香りばかりが残る。 新一は嫌そうに顔をしかめた。 ――花君=B そう呼ばれることを新一が嫌うと知っていて呼ぶのだから、彼女も全くもっていい性格をしている。 それは、天地すなわち神と人とをとりもつ者の尊称だった。皇帝が神に選ばれた天子であるように、花君は神に愛された神の子である。そして花君と呼ばれるのはただひとり、牡丹の天花を持つ者だけだった。 なぜ牡丹でなければならないのか。それは、この花処國の国花であると同時に、牡丹が「王者」の意味を与えられた花だからだ。 確かにそう言う意味では、新一には花君と呼ばれる資格がある。他でもない、志保は牡丹の天花だからだ。けれど、新一を花君と呼ぶ者は志保の他に存在しない。花君とは即ち華族でも最も高貴な者の尊称なのだ。誰も厄の子を自分たちの長とは認めたくないのだろう。 だがそんなことはどうでもいいと、新一は鼻で嗤うのだ。彼にとってはそんな称号などただの飾りでしかないのだから。 「…おや」 起きていらっしゃいましたかと、替えの包帯を手にした寺井は、寝台に腰掛けていた新一を見て部屋に入るなり顔を綻ばせた。 「昨夜は熱が四十度近くまで上がって随分と魘されておられたようですが…その分だともう大丈夫そうですね」 「…お世話をかけました」 頭を下げる新一に、寺井は緩く首を振った。 「とんでもない。医者が仕事をした、それだけのことですから」 横になるよう言われ、新一は素直に従った。既に一度見られているものを今更隠す意味はない。 ガーゼには未だ血が滲んでいたけれど、志保のおかげで随分と良くなっていた。たった一晩で起き上がれるほどに回復した新一に寺井は驚いていたが、華族が皆回復力に長けていることは周知の事実であるため、すぐに納得した。 「起き上がれるようでしたら朝食を用意しますが、宜しいかな?」 気付けば、昨日の晩から何も食べていない。 こんな形をしているとは言え、新一は育ち盛りの健康優良児である。大食いとは言わないが、未だこの身体は成長途中だと新一は信じていた。 「…すみません、頂きます」 品の良い笑みを浮かべながら、分かりましたと言って部屋を出ていく寺井。 新一はこの穏やかな老人がどうにも憎めなかった。 本来、新一はもっとずっと人との距離を取る質だ。七歳までは神の庭から出たことがなかったし、宮廷に上がってからも新一の住む離宮に近付こうとする者などいなかった。宮廷において新一が華族であることは広く知られていたし、即ち厄の子であることも広く知られていたからだ。 けれど寺井は新一が男でありながら華族であると知っても、敬遠するどころかとても良くしてくれる。そんな人は後にも先にも陛下しかいないだろうと思っていた新一にとって、彼はとても不思議な存在だった。 やがて三十分ほど経った頃、食事の用意ができたと呼びに来た寺井に支えられながら新一は階下へと降りた。さすがに襦袢のままでいるのも心許なかったため、家主のものらしい服を借りた。新一には随分大きかったが、着て着れないこともない。 けれど、寺井に連れられて入った部屋には色黒の青年と並び、昨夜自分を襲った賊が堂々と食卓に着いていた。 「――貴様!」 新一は血相を変え、腹の傷も忘れて賊――もとい快斗に襲いかかった。 けれど快斗は予想していたかのようにその攻撃をひらりとかわすと、逆に新一の逆手を取ってねじ伏せてしまった。 「残念でした。何を勘違いしてるのか知らないけど、俺はあんたが思ってる賊じゃないよ」 「抜かせ!あの場にいてよくもそんなでまかせを…!」 新一は忌々しげに唇を噛みしめる。 「と、頭領っ、彼は怪我人ですから…」 突然のことに狼狽える寺井は、けれど襲われた快斗を心配するどころか襲った新一の身を心配していた。薄情な、とも思えるが、それだけ快斗が信頼されていると言うことだ。 すると、この騒ぎにも動じず座っていた色黒の青年が言った。 「そいつの言っとることはホンマやで。あんたが昨日賊に襲われた言うんやったら、ずっと俺と酒飲んどった黒羽は全くの白や」 「なに…?」 「疑うんやったらその店連れてったんで?」 まだ開いてへんけど。 そう言った青年の瞳には偽りを吐く者特有の嫌らしさは欠片も浮かんでいない。流石の新一も自分が人違いをしていたと考えざるを得なくなった。 確かに新一は賊の顔を見ていない。そして逃がした賊を追っているうちに現れた快斗を賊と思い攻撃したら反撃された。そのため彼が賊だと思いこんだのだ。 普通、突然襲われれば反撃したとしても無理のない話であるが、都合のいい新一の頭にはそんなことなど過ぎりもしなかった。今思えば、新一の腹を切った刀剣も持っていなかったような… 「…賊ではないと、神に誓えるか?」 射抜くように見つめる新一に、快斗は「当たり前だ」と憮然と言い返した。 言葉は呪縛だ。神の名を前に嘘偽りを吐く者には、必ず天罰が下る。何より神を尊ぶこの国の人々は、たとえ罪人だろうと神の名の前には決して嘘を吐かない。 だが即答したにも関わらず未だ快斗を睨む視線を緩めなかった新一は、 「彼の潔白は私も保証致しますよ」 と言う寺井の言葉で漸く納得したようだった。 今まで色んな人間を陛下の隣で見てきた新一は、人を見る目が非常に長けている。それは陛下も認めるところだ。新一の見る限り、寺井は嘘偽りを吐くような人間ではないだろう。 込めていた力をふと緩めれば、快斗も新一から手を引いた。 そのままくるりと向き直り、新一は三人に向かって深く頭を下げた。 「どうやら俺の思い違いだったようだ。非礼を詫びよう」 都の兵士がするように片膝をつき、立てた右膝に右手を置いて左手を床につく。その、腹に負った傷を気にもしない新一の様子に寺井は慌てて起きあがるよう諭した。 「腹の傷が開いては大変です。謝罪など構いませんから、どうか安静にしていて下さい」 「…寺井ちゃん?襲われたのは俺なんだけど?」 「何を仰いますか。手負い人に向かって容赦ない手刀を食らわせておきながら謝罪まで求めるなんて、白南風の頭領ともあろう方が名折れですぞ」 「そりゃ、不可抗力じゃん!」 俺は悪くないもん、とむくれる男を、けれど新一は信じられないものでも見るように凝視した。 今、彼はなんと言ったか。 この自分とそう歳の変わらない子供が――白南風の頭領? 「失礼だが…歳を尋ねてもいいだろうか」 「ん?俺は十七だよ」 何の衒いもなく告げられた言葉に更に驚かされる。 変わらないどころか、同い年だ。 まだ十七歳の、それも体格だって自分と大差ない小柄なこの少年が、目の前のこの見るからに腕の立ちそうな青年を差し置いて頭領だなんて。 とても信じられないとでも言うように目を瞠る新一に、快斗は慣れた様子で笑いながら言った。 「みんな最初は信じられないって言うんだよな。でも正真正銘、この俺が白南風をまとめる頭領だよ。で、こっちが大兄の服部平次」 「ちなみに黒羽とはこいつが頭領なった頃からの付き合いや」 確か二年前やったかなぁ、と言う平次に、二年前なんてまだたったの十五歳ではないかと、そんな頃から白南風の猛者連中を束ねているなんてと新一は目を瞠るばかりだ。 昨夜新一が手も足も出せずに昏倒させられたのは、なにも手負いばかりが理由ではないらしい。 「――ま、俺のことはどうでもいいんだよね」 ふと、表情を改めた快斗にじっと見据えられ、どうしたものかと新一は思考を巡らした。 てっきり快斗が賊だと思い、志保には暫くこちらに残ると言ったのだが、人違いとあってはここに留まる理由はない。後々関わることもないのだから、適当にはぐらかしてとんずらしてしまえばいいのだろうが… じっと見つめるこの双眸。 ――油断できない。 自他ともに認める慧眼を持つ新一が感じるのだから間違いない。この黒羽と呼ばれる少年は危険だ。新一の慧眼を持ってしても、彼がどういう人なのか判断がつかない。一見人好きのする笑顔の奥に、何かとんでもない牙を隠している。下手に偽れば容赦なく追いつめられてしまいそうだ。 しかし、だからと言って宮廷内における不祥事を安易に外部に漏洩させるなど以ての外だ。 新一はやや逡巡した後、静かに言った。 「非礼は詫びる。親切にも感謝する。だがこちらの事情は一切明かせない」 「そりゃあちょっと都合が良すぎるんじゃない?」 「生憎、無関係の人間に興味本位で話せる話は持ち合わせていない」 「へえ…人を襲っといて無関係呼ばわりか」 突っかかってくる快斗を新一は沈黙することで拒絶する。 けれど。 「賊、って言ってたな。黒い制服を着てたってことは、あんたは宮廷近衛兵だろ。つまり、宮廷内に賊が侵入したってことか」 考え込むように顎に指をかけ話し始めた快斗に、新一はぴくりと眉を動かした。 「しかも、今朝都の様子を見に行ったんだが、何も変わったところはなかった。宮廷に賊が侵入していながら、あんたや賊を探す兵士がひとりもいないなんて妙な話だよな。そこから考えられることは二つ。ひとつはあんたが嘘を吐いている場合。賊を追ってるなんて、或いはあんたが宮廷近衛兵だってのも嘘だった場合だ」 そして、もうひとつ。 「賊が侵入したことを公にできない理由がある場合だ。 ――病気の皇帝さんの命でも狙われたか?」 その言葉が先だったか。 それとも、 食卓に並べられた小刀が喉元に宛われたのが先だったか。 「それ以上の詮索は無用だ。どこから手にした情報か知らないが、根拠のない噂は己の身を滅ぼすだけだと覚えておけ」 「…それは脅しのつもりか?」 「好きなように取ればいい。ただ…」 喉元を浅く傷付けられながら、それでも余裕の笑みを浮かべる相手を新一はきつく睨み付ける。 「陛下に仇成す者は、それがたとえ言葉による中傷だろうと、この俺が許さない」 それだけ言うと、新一は小刀を下ろした。 張りつめていた空気が緩む。 今にも飛び掛かりそうだった平次の鋭い視線を受け、新一はくるりと踵を返した。 「寺井さん。お世話になりました」 「あ、いえ…」 「せっかくのお持て成しを無下にしてしまい申し訳ありませんが、お暇させて頂きます」 「えっ、まだ安静にしていなければ…っ」 慌てて止めようとする寺井に新一は苦笑を零しながら「大丈夫ですよ」と返した。 志保の治癒を受けた今、傷口が痛むことはあっても死ぬことはない。 それにいつまでも寝込んでいるわけにはいかないのだ。いつまでも賊を野放しにしてはおけない。 「悪いが、この服は借りていく。さすがに近衛服では目立つからな。また後日届けさせよう」 「んなもんいらんわ!」 吠えるようにがなる平次に、そうか、と新一は不敵に笑む。 そうして結局食事には手をつけぬまま、ゆっくりと家を後にした。 「いいんか?あいつ、放っといて」 新一が出ていった直後、未だ険しい顔をしたままの平次が言った。 「あんな子供のくせに宮廷近衛兵でしかも腕が立つなんて、めっちゃ怪しいやん。もしかしてあいつが皇帝さんの命狙っとる賊とちゃうんか?」 快斗が抱いた疑いをそのまま口にする平次に、けれど快斗は緩く首を振った。 その口元には相変わらず笑みが浮かんでいる。 「いや、あいつは賊じゃない。それは確かだ」 喉元に指先で触れれば、ぬるりとした血の感触が伝わる。 あの時感じた殺気は本物だった。皇帝陛下を侮辱するような真似をすれば、おそらくあの場で容赦なく喉を掻き切られただろう。 彼が本当に宮廷近衛兵かどうかは分からないが、皇帝陛下に対する忠誠心は疑いようのない本物だった。 「…面白ぇ」 ぽつりと呟かれた言葉に、平次と寺井は揃って複雑そうな顔になった。 |
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