宮庭佳人






 深夜、人のいない時間帯を見計らって宮廷に帰り着いた新一は、離宮に帰るなり陛下に呼び出され、難しい表情で寝所へと向かった。
 いつもなら大喜びで飛び出して行くところだが、今日ばかりはそういうわけにもいかない。一体どこから聞きつけてくるのか、今この時に呼び出されると言うことは、おそらく新一が怪我を負ったことも全てお見通しなのだろう。
 陛下は不思議な方だった。新一は今までにも何度かこうして陛下のために内密に行動することがあったが、その度に陛下はどこから手にされるのか、いつも新一の行動を詳細に把握されていた。そしてそれは今回だとて決して例外ではないだろう。
 陛下の寝所に向かいながらどうやって誤魔化したものかと考えてみるものの、けれど陛下を前に自分がどんな嘘偽りも吐けないだろうことを新一はよく分かっていた。
 新一にとって陛下の存在は神に等しい。神の名にさえ嘘偽りが吐けぬのに、神そのものである陛下を前にしてどうして嘘偽りが吐けると言うのか。
「…参りました、陛下」
 ギイ、と扉が唸る。深く垂れた頭の先に伸びる影を見るだけで、新一の胸には暖かいものが溢れてきた。
 半月近くも逢うことの叶わなかった方が、すぐ側に立っている。
 その気配を感じられるただそれだけで、新一の心はどうしようもなく高揚する。
 けれど次の瞬間――
 新一が顔を上げるより先に、新一は陛下に抱き締められていた。
「よく参った、我が舞師よ」
 驚きに声を上げる暇もなく、陛下の大きくて暖かい腕にしっかりと抱き上げられる。まだ子供とは言え男を支える腕は、とても病気に冒されている者のそれとは思えないほど力強い。
 扉を開けた兵士が驚くのにも構わず、陛下はさっさと部屋の中へと入ってしまった。
「陛下っ、何をなさいます!」
 突然のことに抵抗も忘れていた新一は慌てたように叫んだ。
 兵士がこちらを見ている。その目にはあからさまな嫌悪が浮かんでいる。こんな舞師風情に陛下も戯れが過ぎる、彼らがそういう目で見ていることは嫌と言うほど分かっている。
 新一は堪らず顔を背けた。
 自分が蔑まれるだけならまだいい。たとえ世界中の人間が自分を忌み子と罵ったとて構わない。陛下さえ、変わらず自分を見つめていてくれるのなら。
 けれど、自分の存在こそがその陛下を貶めると言うのなら、新一はもうこの世のどこからも消えてしまいたかった。
「お願いです、陛下…お身体に障ります…」
「構わぬ」
 病気である陛下の身を案じて掛けられた言葉も、そんな短い言葉であっさりと断ち切られる。
 暴れるわけにもいかず、けれどこのままでいるわけにもいかない新一が泣きそうな顔で見つめていると、顔を上げた陛下と目が合った。
 少し吊り上がった眉にどきりと胸が鳴る。
「怪我を負ったそうだな」
 低く問われ、新一はどうしようもなくこくりと頷いた。
「どこを怪我した?」
「…左の、腹、です」
「痛むか?」
「…いえ」
 ぴくりと動いた眉に、新一はすぐに「少しだけ」と言い直した。
 本当に、この方を前にするとほんの少しの嘘も付けなくなる。
 寄せられた眉も、しかめられた顔も、どちらも自分を心配してのことなのだと思うと、どうしようもなく胸がいっぱいになるのだ。それだけで全てが満たされてしまう。
 陛下は新一を寝台に座らせると、覗き込むように新一の目をじっと見据えた。
「おまえに任せると言ったが、無茶をしろとは言っておらぬぞ」
「…こんな傷はなんでもありません。陛下の御心を賜りし勲章と思えば、痛みもまた愛しく存じます」
 それに、陛下はしかめっ面を苦笑に変えた。
 他の者が口にしたところで「何を馬鹿げたことを」と思うような言葉でも、この舞師は本気で言っているのだ。そもそも彼の無茶は今に始まったことではない。そしてそれは何度注意しても直ることはなかった。
 全く、不器用なイキモノだ、と。
 やがて溜息とともにくしゃりと髪を撫でられ、その感触に新一は気持ちよさそうに目を瞑った。
「それで?賊に襲われ、泣き寝入りするわけではないのだろう?」
 問われ、新一は微笑いながら答える。
「…仰る意味が分かりかねますが」
 それに陛下はもう苦笑を深める他なかった。
 他の者がどう見ているかは知らないが、この子供はただ舞うだけの綺麗な舞師ではない。花のような微笑に鋭利な爪を隠す、狡猾な鷹なのだ。今もこの微笑の奥で賊を追いつめるための算段を着々と進めているに違いない。
 けれど陛下はそれ以上問うことをしなかった。自分が望みさえすれば、この舞師はどんな秘密も一片の偽りもなく晒してみせるだろう。けれどその秘密が自分を、ひいては国を脅かすことがないと確信しているから、陛下は敢えて口を出すことをしないのだ。
 ただひとつ、それでも言っておきたいことは。
「また傷をつけようものなら、その翼を千切ってしまうぞ」
「陛下…」
 陛下は新一の身体を緩く寝台に押し付けると、額にかかった髪をさらりと掻き上げ、顕わになった額に口付けた。
「せめて今夜はゆっくりおやすみ」
 そしてまた明日、飛び立てばいい。
 それでも、飽きもせずに随分と長い間、何か眩しいものでも見つめるように目を細めながら陛下を見つめていた新一は、やがて安心したように細く長い吐息を吐くと、静かに深い眠りへと落ちていった。
 その髪を、陛下は優しく優しく撫で続ける。
 余程疲れていたのだろう、普段ならそんな仕草ひとつにでも敏感に目を覚ます子供は、今は瞼を震わせることもなく眠っていた。
 甘えていると思う。この子供が自分を慕ってくれるのをいいことに、随分と我侭を言っている、と。
 陛下には正妻がいなかった。正妻がいれば、そしてその子供が男児であったなら。こうして自分が病に伏したとしても、次期皇帝が誰かなどと揉めることはなかっただろう。
 だが、それでも陛下は頑として正妻を迎えなかった。
 なぜなら――
 生涯で最も愛した人は、既にこの世を旅立ってしまったから。
 彼女を誰よりも愛していた。そして彼女も自分を愛してくれた。身分の差も関係ないと、長年自分を支え続けてくれた宰相の反対も押し切って、彼女を正妻に迎えようとした。けれど彼女は陛下の求婚を断わった。
 ――わたくしの心は、いつも貴方さまの御心の側に在りますわ。
 遠く離れた地でも、声さえ届かない場所にいようとも、心だけはずっと側近くにいるから、と。
 その想いを受け、自分もまた生涯正妻は迎えないことを誓った。たとえこの想いを証明するものが何ひとつなかったとしても、この心が彼女のものであることを伝えたくて。
 それは陛下と宰相以外は誰も知らない秘密だ。陛下が我が子のように寵愛する新一にも話したことはない。けれど、話題にすら上ったことのないそれに新一が気付いているだろうことに、陛下もまた気付いていた。
 新一のことだ、気付いたところで尋ねることも、それどころか自分で調べることすらしないだろう。それをいいことに自分は沈黙を守り、その好意に甘えている。
「いい大人が情けない…」
「あら、今頃気付いたの?」
 呟きに返った容赦ない皮肉に、陛下は苦笑を浮かべた。
 室内に牡丹の芳香が充満する。
「いや、単なる確認だ。己の不甲斐なさを痛感したものでね」
「ならいいけど」
 何よりこの子供を愛してやまない志保は、大輪の牡丹を揺らしながらそっと新一の傍らに跪いた。
「私が何を言ったところで、この子はちっとも聞きやしない。大事な大事な貴方のためなら、平気で危険に飛び込むのだから…」
 全く気が気じゃないわ、と呟く志保に、陛下はすまなさそうに目を伏せた。
「申し訳ない。本来ならこの子は人を守るのではなく、守られる立場だと言うのに」
「…それは貴方が謝るべきことではないわ。一族の者どころか、この子自身でさえ自分が花君であると自覚していないのだから」
 花君とはすなわち華族の長であり、皇帝陛下と並ぶ尊い存在であるはずだ。けれど新一が男であるばかりにその権利を剥奪され、あまつさえ忌み子だなどと罵られ迫害された。そんな彼を救い上げたのがこの皇帝だと言うのだから、新一がこれほどまでに心を傾けてしまうのも仕方がないことだった。
「安心なさい。いざとなったら、貴方の命など放り出して、私は迷わずこの子を守るわ」
「ぜひ、そうして頂きたい」
 この子は宝だ。
 それは孤独だった皇帝の心を潤してくれたことはもちろん、新一の存在そのものがこの国を潤すものだからだ。
 かつて華族の対となった宮廷官僚は何人かいたが、この五百年の間、花処國の皇帝が華族の対に選ばれた記録はなかった。そして花処の三千年にも及ぶ長い歴史において、皇帝が花君の対に選ばれた記録はただの一度もなかった。
 それもそのはずだ。花君と呼ばれる存在自体、千年以上この国に生まれてこなかった。つまり新一は、およそ千年ぶりにこの世に生を受けた花君なのだ。それは必ず次代へと受け継がれていく皇帝よりも、遙かに尊い存在だと言っていいだろう。
 花君にして、花王。
「もう暫くは、我が王の我侭に付き合ってあげましょうか…」
 くすくすと、二人は似たような笑みを浮かべた。





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