宮庭佳人





「白馬さま」
 書類に目を通しながら渡り廊下を歩いていると、名前も知らない侍女に呼び止められ、白馬探はゆっくりと振り返った。
 栗色の髪に薄茶色の瞳。別段目が悪いわけではないが、仕事中は古参の連中になめられないようにと縁なしの眼鏡を掛けている。すらりとした長身に纏う深緑の制服は文官であることを示しているが、武道も嗜む彼なら近衛兵の黒い制服を纏っても違和感なく馴染むだろう。
 彼は、弱冠二十歳で行政府に務める優秀な政務官だった。
 幼い頃から父より宮廷作法を叩き込まれ、最短記録で現在の地位まで上り詰めた白馬は、初めの頃こそ親の七光り≠ニ蔑まれたりもしたが、今ではその実力を誰もが認めている。
 普通なら声をかけることも許されない身分である侍女は、緊張しながらも自分の使命を全うせんと必死に声を紡いだ。
「白馬さまへ、宰相閣下より皇帝陛下の言伝をお預かりしております」
「陛下、ですか?」
 白馬は驚きながらも先を続けるよう侍女に促した。
「本日午後一時、皇帝陛下の執務室へいらっしゃいますようにとのことでございます」
 侍女はそれだけを伝えると、長居は無用とばかりにお辞儀をしてそそくさと退散した。
 腕に嵌めている時計に目を遣れば、時刻は十一時過ぎだ。随分と急な召集だと思うものの、皇帝陛下の命とあらば一も二もなく優先するしかないだろう。午後に予定していた仕事は残業するしかないかと、浅いため息を吐く。
 白馬は陛下を誰より尊敬しているが、昔から突拍子もないことをやらかす人であることも、よく知っていたのである。



「急な召集にも拘わらずよく集まってくれた」
 礼を言う、と威厳に満ちた声が届くよりも早く、白馬は深く頭を垂れた。
 白馬の隣には同じように呼び出されたらしい者が二人、やはり同じように頭を垂れている。だが、どうして自分たちが呼び出されたのか、この面子を見る限りでは予想することができなかった。
 隣で起立しているのは、確か名を佐藤美和子と言ったか。女だてらに近衛府の曹長を務める彼女は、黒い制服をきっちり着込んでいた。その胸元には四等官だけに与えられる徽章がつけられている。さっぱりとした短い髪と女性にしては長身である彼女は、一見すると男と見紛われることもあるが、その端整な顔立ちが厳つい男どもの中に埋もれることはなかった。
 その更に隣には、教育係の阿笠博士。彼は官職を志す学生を始め、皇帝陛下の御子息御息女の教育にも携わっていた。ふくよかな身体に大らかな人柄、そして親しみやすい柔和な笑顔は、子供はもちろん大人にも好かれている。彼には白馬も幼い頃から何度も世話になっていた。
 文官と武官と教育係。まるで接点のない三人を集めて陛下は何をされようと言うのか。
「実は、折り入っておまえたちに頼みたいことがあるのだ」
 執務机にどっかりと腰掛け、組んだ両手に顎を預けながら陛下は殊更低い声で告げた。それだけで、この場にいる者はその頼みごと≠ニやらが極秘事項であることを悟った。
 と、不意に陛下は顔を上げると、隣接している部屋の扉へ向かって「入りなさい」と声を掛けた。
 一時はとっくに過ぎているが、四人目の登場だろうか。白馬がじっと扉を見つめていると、佐藤と同じように黒い制服を着たひとりの宮廷近衛兵が「失礼致します」と声を掛けながら入ってきた。
 帽子を目深に被っているため人相は分からない。が、下手をすると佐藤よりも見劣りする華奢な体躯は、お世辞にも武官として優れているようには見えなかった。
 自分を含め、こんな子供のような者に任せるということは、それほど重要な頼みごと≠ナはないのだろうか。
 けれど、入室してきた兵士は自分たちの隣ではなく前に、陛下に背を向けるようにして立った。
 これには佐藤や阿笠も驚いた。皇帝陛下に背を向けて立つこと、それは陛下に背くことを意味するため、朝廷に携わる者はまず始めにこの規律を徹底的に叩き込まれる。それを知らぬはずもなかろうに、陛下の眼前で堂々と規律違反をするとはなんという無礼者だろう。
 焦った阿笠が窘めようと手を伸ばしかけるが、それを制するように陛下が言った。
「この者の言葉は私の言葉だ。おまえたちにはぜひ彼の力になって貰いたい」
 この男が陛下の代弁者?と白馬は目を瞠った。
 どう見ても一介の近衛兵にしか見えない、この男が。
「悪いが後を頼めるか――工藤」
「仰せのままに」
 今はもう見られない昔の宮廷作法で優雅に腰を折ってみせた兵士――新一に、陛下は満足そうに頷いた。そして徐に立ち上がると、長衣の裾を引きずりながら先ほど新一が出てきた部屋へと消えた。
 そこは仮眠部屋となっていた。陛下の身体は既に数時間おきにこうして休息を取らなければいけないほどに衰弱しているのだ。その間新一は陛下のために薬湯を用意し、陛下の変わりに決済書類を消化する。それが今の日課となっていた。
 新一は陛下の姿が見えなくなると、そこでようやく三人に向き直った。
 驚きに目を瞠る彼らを、けれど新一は全く興味のない冷めた双眸で一別しただけ。
「あなた方がお忙しいことは重々承知しておりますので、手短にお話し致します」
 そう切り出した新一を遮ったのは、佐藤だった。
「ちょ、ちょっと待って下さい。あなたは宮廷舞師の工藤さまでしょう?なぜ近衛服なんてものを着てこのようなところにいらっしゃるんです?」
 佐藤の疑問は尤もだった。
 宮廷内、それどころか朝廷内においても工藤新一の存在は有名だ。華族にして唯一の男児でありながら、皇帝陛下の寵愛を受けている宮廷舞師。その姿を直に知る者は少なく、白馬はもちろん、宮廷近衛兵である佐藤や教育係である阿笠でさえも今この時に初めて目にした。そのため、まるで陛下の稚児のような舞師の存在をよく思わない古参の者も多い。
 だが、かの舞師をひとたび目にしたなら、彼らも頷かずにはいられないだろう。かつて宮廷音楽師を務めていた、華族一の才と美貌を持って生まれた天才音楽師の母と、生き写しと言っても過言ではないその姿に目を奪われずにいられる者などいなかった。
 だが、そもそも、宮廷舞師である新一が朝廷にいること自体がおかしいのだ。彼は宮廷内においてもまるで隠れるように離宮に住んでいて、滅多なことでは表に出てこない。それはおそらく皇帝陛下と自分について囁かれる噂を耳にしたくないからだろうと思われている。それが、舞衣でも宮廷衣でもなく、近衛服を着て現れるとは…
「最初に言っておきたいことがひとつだけあります」
 新一は佐藤の質問には答えずに言った。
「今日この場で見聞きしたことは、一切口外しないで下さい」
 それはつまり、彼がこうして近衛服を着てこの場にいることも秘密にしろ、と言うことだろうか。
 白馬は確かに皇帝を尊敬しているが、いくら陛下の代弁者と言っても、陛下の名を貶めるような男の言葉を鵜呑みにすることには大いに抵抗があった。
 その思いが顔に出ていたのか、新一は白馬にぴたりと視線を据えると、怒るわけでも悲しむわけでもなく、ただ静かに言った。
「陛下がご病気であることは今や朝廷内において知らぬ者はいないでしょう。陛下にはどんな些細な心労も掛けたくない。その思いが同じであることを見越し、あなた方を選ばせてもらいました」
「え…?では、わしらを呼び出したのは舞師殿だと仰るんですか?」
「はい、そうです」
 白馬の裡に更にもやもやとしたものが広がる。
 では、彼は、わざわざ陛下に自分たちを呼び出すよう頼んだと言うのか。まるで我が侭な花街の娼婦のように、陛下を顎で使ったとでも言うのか。
「…勘違いしないで頂きたい」
 無表情の裏で視線鋭く睨み付けていた白馬に、新一は苦い笑みを浮かべながら言った。
「朝廷において我が身がどう見られているか、よく存じております。…今日の目的とは関係ないのでそれに対する弁解はあえてしませんが、これがあくまで陛下の御意志であることは陛下の名誉に掛けて明言しておきましょう」
 でなければ、ご病気の陛下をこんなところまで引っ張り出すなんてとんでもないことだ。
 志保がついているとは言え、陛下の対≠ナない自分など所詮無能な子供でしかないのだからと、新一はうっすらと自嘲を浮かべた。
「今、宮廷内において賊が出没していることはご存じですか」
「…報告は聞いております。なんでも皇子ばかりを狙った賊だとか…」
「そうです。おそらく陛下のご病気を聞きつけた不届き者が、お世継ぎとなられるであろう皇子を狙っての犯行だと、私は考えております」
 佐藤のように近衛兵でなくとも、白馬も阿笠も噂は耳にしていたため、自然難しい表情になる。
「そこで、私は陛下より賊を捕らえるよう命を受けました」
「――は?」
 思わず聞き返してしまった白馬は慌てて姿勢を正した。声こそ上げなかったものの、佐藤も阿笠も同様に戸惑いを示している。
 陛下より、賊を捕らえるよう命を受けた。
 ――この、宮廷舞師が?
「…失礼ですが、なぜ陛下は貴公に命を下されたのですか?」
 暗に宮廷舞師であるのにと仄めかす白馬に、けれど新一は気分を害するどころか当然だとばかりに頷いた。
「そこに、あなた方をお呼びした理由があるのです」
 新一は懐から一枚の紙を取り出すと、彼らに見えるよう広げてみせた。
 それは宮廷内の見取り図だった。そこには紅筆で印をつけられた箇所が、六つ。
「今までに賊が現れたのは、分かっているだけでこの六ヶ所です。その内皇子のいらっしゃる室内まで侵入されたのは、この一カ所です」
「…?ここに侵入されたという報告は受けてませんが…」
 示された場所に佐藤がすかさず待ったをかけるが、新一はゆるく首を振った。
「ここにはほんの二日前の晩に侵入されました」
「二日前!?」
「はい。幸い皇子は事なきを得ましたが、まだ七つであらせられる皇子にとっては大きな心の傷となるでしょう」
 佐藤が悔しげに唇を噛んだ。いったいそこの警備に当たっていた者は何をしていたのか、と。
 けれどそこではっと気付いた。
「室内まで侵入された…?ということは、内部の事情に明るい者が犯人、ないし共犯者にいるということ?」
「そうです。ですから、私は自分が信用できると思った方だけを、こうして集めさせて頂いたのです」
 内部の人間が一枚噛んでいると疑いを抱いたのは、この騒動が起きてすぐだった。
 仮にも宮廷に侵入しようと言うのだから、宮廷内の造りや逃げ道などの下調べも念入りにしているとは思うのだが、それだけではどうにもならないことがあるのだ。それは、警備の兵士。こればかりはどうにもならない。それもそのはずで、宮廷内には賊の入る隙なく警備の態勢が組まれていた。それが突破されたとあっては、内部の人間に疑いを持つのは当然のことだろう。
 そのため、新一はまず自ら近衛兵に扮することで現状を把握することにした。その中で佐藤は信用のおける者として新一の眼鏡に適った。そして政務官である白馬や教育係である阿笠も同じ理由から今回の任務に抜擢されたのだ。
「なぜ、と仰られましたね」
 神を宿す蒼の瞳でじっと見据えられ、白馬は僅かに怯む。
「陛下がご病気を公表していらっしゃらない現状では、大がかりな捜査を行うことはできない。かと言って、誰が信用のおける者なのか分からなかった。ですから、陛下はまず私に命を下さったのです」
 本当は自分ひとりで解決させるつもりでいた新一だが、賊の攻撃が本格的となってきた今となってはそう悠長なことも言っていられない。そのため、今回の急な召集と相成ったのだ。
「佐藤曹長。貴方には、今一度宮廷近衛兵の選別を行ってもらいたい。特に力の弱い年若い皇子の御所は信用できる者だけで固めて下さい」
「警備に当たる人員全てですか?」
「そうです」
 途方もない申し出に佐藤は頭を抱えそうになった。
 確かにそうすることが最も望ましい状態だろう。だが、実際にそれができるかと言われれば、佐藤でなくとも無理だと答える。近衛府の事情も知らない宮廷舞師が無茶なことを言ってくれるものだ。
 だが、新一はもちろん本気だった。
「無理難題は承知の上です。それだけ状況が切羽詰まっているのです」
「…もちろん尽力致しますが、どれだけ時間がかかるか…」
「長くて三日、それで整えて頂きます」
「そんな無茶な…!」
 佐藤でなくてもそれが明らかに不可能であることは明白だ。
 反論しかけた彼女を、けれど新一は有無を言わさず黙らせた。
「それができなければ、これと同じものが皇子の身体につくことになります」
 そう言っておもむろに肌蹴られた懐から覗く、白い肌に咲いた大輪の牡丹と、不釣り合いな刀傷。
 見るだけでぞっと背筋を通り抜ける寒気。
 息を呑んだのは、どちらにだったか。
 内臓にまで達する深い傷、いっそ無造作に見える縫い後、そして引きつった皮膚。それが皇子を庇って負った傷であることは確認するまでもなかった。それがどれほど危険な傷か、たとえ医学に精通した者でなくとも分かるだろう。
 そして、そんな傷跡でさえも美しく見せる、白い肌に咲き誇った大輪の蒼い牡丹。
 この少年が華族であることを頭では理解していた彼らだが、真にそれを理解したのはおそらくこの瞬間だった。
 華族は神の加護を受けし神の一族である。彼女たちはその瞳に神を宿し、その身に蒼を纏うことを許されている。だが、実際は、まるで隠れるように神の庭に離れ住んでいる彼女たちを目にすることなど殆どなく、彼女たちがなぜ神の一族と呼ばれるのか、その真実を知る者はいなかった。
 それが今、目の前に突きつけられている。
 名のある絵師の作品に魂が宿るなら、この花には命が宿っていた。神によって与えられた命。まさしく、神の一族。
「…分かり、ました。三日…いえ、二日でどうにかしましょう」
「お願いします。阿笠先生は学生に気を配って下さい。中には下町出身の者もいるでしょうし、謀反を企てないとは言い切れません」
「…生徒たちを疑うような真似はしたくないが、仕方ないのう」
 あのような傷を見せつけられた後では反論しようもないと思ったのだろう、阿笠はため息を吐きながらも頷いた。
「――僕は、何をすればいいんです?」
 残された白馬がひとり、複雑な表情で尋ねる。
 この宮廷舞師を信用したわけではない。だが、状況が切羽詰まっていることも確かだ。幼い皇子が命を狙われ、それを庇って負った傷のものものしさには息を呑まずにはいられなかった。
 いくら神の加護を受けし華族とは言え、身体が資本である舞師が致命傷とも言える傷を負い、尚陛下のために動いている。ここで彼に背けば陛下に誓った忠誠に背くも同じことだ。
 そうして半ば強引に自分を納得させた白馬だったが。
「貴方には、用心棒として私を雇って頂きます」
 ニッ、となんとも凶悪に微笑みながらそんなことを言い出した舞師に、早くも後悔した。





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