宮庭佳人





 新一は、酒が入っているとは思えぬ確かな足取りで回廊を進んでいた。
 時折すれ違う給仕たちに怪しまれないよう、いっそ堂々と歩く姿を見咎める者はいない。自在に姿を操れる志保がいれば難なく事が進められるのだろうが、生憎彼女は都で自分に扮して皇帝陛下をお守りしている最中であったし、長年培ってきた経験の賜とでも言うべきか、この程度の潜入捜査は最早新一にとって何の苦にもならなかった。
 犯罪とは、人数が増えれば増えるほどその成功率は低くなる。事件発覚から一月以上経った現在、新一は賊の人数は多くとも五人以下であると検討をつけていた。
 大広間を省き、個室だけを見て回る。流石に花街一と言われる大妓楼なだけあり、個室だけでもざっと二十部屋はあった。その全てに新一ひとりで目を光らせるなど、到底無理な話である。
(やっぱここは一旦俺が都に戻り、ここの監視を志保に頼むべきか…)
 だが、彼女は賊と直接接触していない。顔も分からない現状において相手を判断するための手がかりは、新一の記憶しかなかった。
 となると、やはりここは無理でも無茶でも自分がやるしかないだろう。よもや今日というこの日に都合良く賊がこの妓楼へ出入りしてくれるとは思わないが、徹頭徹尾、やるからには完璧な捜査をしなければ意味がない。
 新一は一旦縁側に出ると、人目を避けながら素早く妓楼の瓦屋根へと飛び乗り、音もなく屋根裏へと忍び込んだ。
 この宮廷舞師に在らざるやんちゃぶりは、実は今に始まったことではない。まだ新一が神の庭で暮らしていた頃からのものである。皇帝陛下に救い出されるまで離れに閉じこめられていた、それは確かな事実だが、しかしそれはあくまで彼が強いられた状態であり、実際は自由を求めてこっそり離れを抜け出しては、誰にも気付かれぬ内にまた離れへ戻ると言うことを繰り返していたのだ。
 ただ黙って自分の運命を享受できるほど、新一は素直な子供ではなかった。その時のことがこうして今役に立つのだから、当時のことを誇りこそすれ反省しようなどという殊勝な心がけは全く持ち合わせていない新一だった。
 衣擦れひとつ、軋みひとつ立てないよう、慎重に屋根裏を移動する。さすがの妓楼も舞台裏には大した装飾もないが、木材は最上級の檜が用いられているようで、香や料理の香りの届かない屋根裏だからこそ、檜の独特で上品な香りが充満していた。しかも吸音性に優れている檜は密偵するには好都合だ。新一はそっと階下の様子を窺って回った。
 一部屋、二部屋と進んでいくが、どこも似たり寄ったりの客が多い。貯めた金を仲間内で寄せ集め、たまの贅沢に興じる海の男たち。かと思えば、商い後に立ち寄った風の都の商人たち。現在の外交はほぼ白馬が請け負っているのだから当然と言えば当然だが、新一が望む朝廷の人間らしき人物はひとりもいない。
(…一度出直した方がよさそうだな)
 妓楼の造りは頭に入った。どこがどういう個室であったかも覚えた。妓楼で働く給仕たちの年齢、背格好、おおよその人数も把握した。これだけ分かればいくらでも潜入方法がある。
 だが今は白馬の部下として公務で来ているのだ。あまり長時間席を外すわけにもいかない。自分が席を外してからそろそろ半刻が過ぎようとしている。
 そろそろ戻るかと踵を返しかけた新一は、けれど。
 ――ぴたりと、背後から喉元に突きつけられた短刀に、動きを奪われた。



「工藤さんは、どういったお人なんですか?」
 唐突に振られた話題に、白馬は思わず硬直してしまった。
「…どういう、とは…?」
 平蔵に酌をしていたはずの千賀鈴はいつの間にか小五郎の相手に戻り、なかなか戻ってこないそれぞれの連れを気に掛けるでもなく、二人はのんびりと料理をつついていたのだが。よもや、まさか、本当は彼が自分の部下などではないことがばれたのだろうか。
 必死に平静を装う白馬を知ってか知らずか、平蔵は殊更何でもないことのように言った。
「いやいや、港を案内しとる間も一言も喋りはらへんし、てっきり社会勉強かなんかのためについて来はった見習いなんかと思ったんですわ」
 せやけど、と平蔵が続ける。その目が心なし鋭く感じるのは、何も白馬の気のせいではないだろう。
「見習いにしてはえらい腰の据わったお人やないですか。仕事柄若いもんとは積極的に接しとるけど、最近の若者にしちゃ少しも浮ついたところがあらしまへんやろ」
 それとも、都の若者はみんなあないな風なんですかね。
 冗談じゃない、と白馬は心中で吐いた。都の若者が皆あの舞師のようだったら、国などとても治められたものじゃないだろう、と。
 あの舞師は特別な人種だ。それは彼が華族だからと言うわけではない。あそこまで頭の回転が速く、狡猾で、行動力があり、巧妙に立ち回る器用さとそうできる技量を兼ね揃えた者など、まず他にいないだろうと言うことだ。
 この一週間、白馬は何も馬鹿みたいに彼の指示に従っていたわけではない。自分なりに彼の行動の裏付けを取ってみたり、はたまた都や下町で動きがないかと調べてみたりと、実にいろいろなことをした。それでも彼は気付けば白馬の監視をすり抜けてしまうし、どんなに調べたところで何の動きも見られない。分かったのは、ただ、彼が周囲の目をかいくぐって事を運ぶことに非常に長けていると言う事実と、彼がただの舞師ではないと言う事実だけだった。
 こんな人間が十や二十、それどころかたとえもうひとりでも存在すれば、その気になれば国家の転覆など容易いのではないか。そんな風に思ってしまうほどには、白馬は舞師の存在に畏怖を抱いていた。
(はたして陛下はこの事実を知っておられるのだろうか)
 そう思い、首を振る。
 まさかあの陛下が彼の本質も見抜けずに側に置いているなど有り得ない。
 陛下はとても聡明な御方だ。たまに理解できない奇行に走られることもあったが、それすら後々結果として返ってくる意味ある行動であることを白馬は知っている。
 陛下はきっと何か考えがあって彼を側に置いているのだ。所詮神に選ばれし尊き御方の考えを自分如きが理解できるはずもないのだろうと、白馬はため息を吐いた。
 この、如何にも駆け引きに長けた老獪な男を欺けるとも思えない。白馬は諦めたように言った。
「彼は、確かに変わった男です。私などより余程できた男だと私も思います」
 けれど、と白馬は苦笑を漏らした。
「おそらく誰より公務に、…いえ、皇帝陛下に忠実な男です」



 全身に殺気を漲らせ、新一は短刀から身体の自由を取り戻す機会をじっと窺った。
 少しでも隙を見つければ遠慮なく鳩尾に肘を打ち込み、顎に蹴りを入れるつもりだ。これがただの家人であれば手加減のひとつも考えるが、不埒者を相手に短刀を突きつけるような者がただの家人であるはずがない。
 件の賊か、或いは店に雇われた用心棒か。どちらにしても伸してから確認すればいいことだと、新一は静かに相手の出方を待った。
 けれど、力尽くで引き離そうと思っていた短刀は、意外にも自分から新一の喉元を離れていった。
 慎重に背後を振り返る新一の鼻先に、聞き覚えのある声が掛かる。
「今度は盗人ごっこか、近衛兵」
 振り返った新一の喉元に再びぴたりと短刀を宛いながら、吐息もかかる至近距離でそう言った男は――白南風の、頭領。
「…黒羽、快斗」
「へえ?覚えててくれたとは嬉しいね」
 別に覚えていたわけではない。何となく気に掛かり、調査のついでに少し調べたのだ。
 名前は黒羽快斗。まだ十七才という若さにして、五百余名とも言われる白南風を束ねる頭領。出身は花街だが現在は都に住んでいるということもあり、下町には週末しか顔を出さないと言う。だからこそ、鉢合わせることはないだろうと油断していたのだが。
 咲浦で働いていると言う服部平次は偶然にしても、この男にまで偶然出会うと言うことはまず有り得ない。新一は悔しそうに顔をしかめた。
「いつ、ばれた?」
「あまり白南風を甘く見るなよ。平次はあれで大兄を務める男だ。たとえその顔に包帯を巻いていようと、つい先日家に転がり込んできたばかりの不審人物が側にいれば馬鹿でも気付くさ」
 では、気付いていながら気付いてないふりをしていたあの男にまんまと騙されたと言うことか。
 実際、万が一にも気付かれていたとは思わなかった新一だ。確かに一度も話しかけられなかったことをおかしいとは思ったが、白馬の部下と言う立場を考えればそれも有り得ないことではないかと思ったし、何より平次にはこちらに気付いた素振りが見られなかった。
 決して甘く見ていたつもりはないが、おかしいと感じた時点で何か手を打つべきだったのだ。新一は己の迂闊さを悔やんだ。
「まあ、後悔は後でゆっくりすればいい」
 宛われた刃が冷たい。睫の数さえ数えられそうな距離で見つめてくる瞳が冷たい。
「それより俺は、何であんたがそんな格好でこんなところにいるのか聞きたいんだけど?」
 先日会った時は宮廷近衛兵である黒い制服を着ていたくせに、今日は文官である緑の制服を着ている。
 あの時はあくまで可能性のひとつとして「宮廷近衛兵であることも嘘ではないのか」と問うた快斗だが、まさかその数日後に今度は文官の姿で現れるとは思いもしなかったのだろう。
「何のためにここへ来た。理由如何によっては無事に帰れると思うなよ」
 背にあたる柱に痛いほど身体を押さえつけられながら、新一はただ目の前の男を睨み付けた。
 自分に全く悟られることなく背後を取ってみせた男。やはり油断ならないと感じた印象は間違ってなかったのだ。
 新一は自分が人一倍人の気配に敏感であることを自覚していた。
 ――禁忌の子供。その言葉の凶悪性は、時に人の心までを狂気に駆り立てる。
 気味が悪いと蔑むだけならまだ可愛いものだ。厄介なのは生きているだけで災いを呼ぶからと、存在そのものを許さない連中なのだ。まだ神の庭で暮らしていた頃、新一は一度や二度ばかりでなく命を狙われたことがあった。それでも今こうして生きていられるのは、偏に志保のおかげなのだ。彼女はまだ幼かった新一を全てのものから守り、あらゆる知恵を与えてくれた。それが、現在のこういった行動にまで影響しているのも困った事実ではあるが。
 そうして逞しくも幼少時代を切り抜けてきた新一は、たとえどんな窮地に陥っても乗り越えていける自信があった。けれどこの男はそんな新一の自信を見事に突き崩してくれたのだ。
 悔しい。こんな奴に負けるなんて。
 睨み付けるばかりで口を開かない新一に、痺れを切らした快斗が短刀を握る手にぐっと力を込めた。
「目的を言えと言ってるんだ。刀は脅しの道具じゃねえんだぞ」
 言わないのなら刀を引く、と。暗に示す快斗に、新一の口角が上がる。
「俺は――」
 ――俺は。
 陛下の、妨げになるくらいなら。
「死んだ方が増しだ」
 そう言った昏い双眸に快斗が柳眉を寄せた、その時。
 階下から硝子の割れるような騒音と、女の悲鳴が聞こえてきた。いや、悲鳴と言うよりは、怒声と言った方がいいかも知れない。
 張りつめていた空気は一気に霧散し、殺す殺さないのやりとりをしていたはずの二人はうっかり視線を合わせながらきょとんと首を傾げると、続く喧騒に慌てて階下へと向かった。

「なにすんねん!」
 息も荒く顔を真っ赤に染めた女は、綺麗な舞衣が台無しになるのも構わず、床にぶちまけられた料理の上をずかずかと歩き回る。
 彼女――遠山和葉は、店主が止めるのも無視して今にも客に殴りかからん勢いだった。
 店内はすっかり大騒ぎになっており、宴会をしていた客から個室で談笑していた客まで野次馬に来ている。その面子の大半が下町の人間であるのは、騒ぎがあるところに必ず白南風が現れ、いつもの「天誅」がみれるからだと言うことは言うまでもない。
 けれど、今回ばかりは勝手が違った。
 「天誅」の権限は頭領と大兄の三人のみが与えられているもので、悪質な客が現れれば平次は自らの判断で「天誅」を見舞うことができる。しかし、幼馴染みの悲鳴もとい怒声を聞いていち早く駆けつけた平次は、けれど「天誅」を見舞っていいものかどうかの判断がつけられなかった。
 なぜなら、相手は、ケスタドールからの賓客だったからである。
 そう言えばと、千賀鈴が「和葉はケスタドールからの賓客の席に出ている」と言っていたことを思い出す。たかが妓楼でのいざこざとは言え、何が外交問題に発展するか分からないため、平次は下手に手が出せないのだ。
 全く、面倒なことをしでかしてくれる女だ。
 しかしそれ以上に、
(和葉を怒らすなんて、なんちゅーメンドイことしてくれてんねん、このアホ親父が!)
 と思ってしまうあたり、所詮外国の賓客だろうが、平次にとってはただのすけべ親父に過ぎなかった。
「平次、何があった?」
 と、漸く現れた頭領に、平次はぱあっと顔を輝かせた。けれどすぐに、快斗の隣で同じように難しい顔をして佇む新一に気付き、眉を寄せた。
 片はついたのかと視線で問えば、一旦保留だと肩を竦められ。とにかくこちらの問題を先に解決させるべきだろうと思い直した平次は早口で告げた。
「あのオッサンが和葉のアホになんかやらかしたらしいわ」
「なるほど、ケスタドールからの賓客か…こりゃあ下手に突けねーな」
 何も言っていないのに服装だけでケスタドールの要人だと見抜いたらしい快斗は、どうしたものかと素早く思考を巡らせるが。
「…黒羽」
 呼ばれ、振り仰いだ相手はいつの間にか顔を覆っていた包帯を解き、それを快斗に差し出していた。
「これを持ってじっとしてろ。服部、おまえは白馬を呼んで来てくれ」
 答える間もなく押しつけられたそれをうっかり受け取ってしまった快斗は、けれど彼が何をする気かと楽しげに見守った。平次は「なんで俺が」と思いつつも、快斗が見守ると言うなら仕方がないと白馬を呼びに走る。
 新一はどこからか取り出した徽章を素早く胸につけると、おもむろに男へと声を掛けた。
「これはこれは、ケスタドールのアルバトロス子爵ではありませんか」
「誰だ、おまえは」
 突然間に割り込んできた人物に不満を吐いた直後、深緑の制服を目にしたアルバトロス子爵はそこで漸く相手が朝廷の人間であることに気付き、あからさまに動揺した。
 お世辞にも「大人」と呼ぶには幼すぎる顔に未成熟な身体。けれど、その胸に四等官だけが与えられるという徽章を見つけ、この少年が朝廷の中でもかなりの高位に就く者であることを知った。
「申し遅れました。私は行政府の工藤と申します」
 そう言って優雅に腰を折る姿に、普段は「都の連中なんて」と悪態ばかり吐く荒くれ者たちの間から感嘆の声が挙がる。この華奢な体躯が、彼らの目にはいっそ少女のように映ったのかも知れない。
 その様子を興味深げに見ていた快斗の口元にも思わず笑みが浮かぶ。
 そこへ、白馬を連れた平次が戻ってきた。
「この者がどうかしましたか?」
 自分の登場に呆気に取られていたらしい和葉の手を取り、新一はさりげなく和葉を背後へと庇う。
「もし何か不都合がございますれば、僭越ながら私どもでお力添え致しますが…」
 平次に連れてこられた白馬をちらりと視界の端に捉え、新一はにこりと邪気のない笑みを浮かべた。
 もちろんこれは、芸妓に手を出したなどと言う下らない騒ぎで名誉を汚したくなければさっさと立ち去れ、と言う言葉を、外交上の社交辞令でくるりと包んだ遠回しな皮肉である。だが、この完璧に人を欺く笑顔を前にそうと気づける者はなかなかいないと分かった上であることもまた、当然のことだった。
「な、なに、その娘が粗相を働いたから、少し注意しただけのことです」
「それはそれは、子爵さまのお手を煩わせてしまい、申し訳ありませんでした。私からもご無礼をお詫び致しましょう」
 貴方もお詫びして、と言う新一に「なんであたしが!」と思わず怒鳴りそうになった和葉は、けれど寸でで声を飲み込んだ。じっとこちらを見つめる双眸が、怒りや屈辱を含め、あらゆる感情をまるで波のように流してしまったのだ。貴方に非がないことはちゃんと分かっているからと、無言で理解を示してくれている。
 和葉が素直に謝罪を口にしたことで一応満足したらしい子爵がそそくさと退散しようとするその背中へ、新一は穏やかに声を掛けた。
「アルバトロス子爵。お詫びと申し上げては何ですが、よろしければ朝廷にいらっしゃいませんか?」
 驚く子爵には構わず、新一は部屋の隅に佇んでいる白馬を呼んだ。
「白馬、確か今夜予定していた陛下との会食は中止になったはずだったな?」
「――はい。その件でしたら、来週に延期になりました」
 違わず新一の意図を理解した白馬が、間を置きつつも自然に受け答える。新一は満足げに頷くが、たまらないのは子爵の方であった。
 よもや相手が皇帝陛下と食事の席すらともにすることを許された存在だなんて、たかが子爵にすぎないアルバトロスにとっては有り難いを通り越してとんでもない話だった。
「いえ、せっかくのご招待は有り難いのですが、仕事がありますので…」
「そうですか…それは残念ですね」
 新一が特に引き留めるでもなくあっさりと頷くと、今度こそ子爵は慌ただしく妓楼を後にした。





B / N