宮庭佳人





 集まっていた野次馬たちも徐々に散っていく。いつもの「天誅」が見られなかったのは残念だが、変わりに珍しいものが見られた、と言うのが彼らの胸中だった。権力を笠に着て無体を働こうと言う傲慢な権力者連中には、口にせずとも誰もが辟易しているのだ。普段なら神経を逆撫でするような慇懃な都の人間の物言いも、相手が相手だけに逆に胸がすっとしたと言うのが偽りない彼らの本音だった。
「助けてくれておおきに、お役人さん!」
 和葉は自分を庇ってくれた少年の手を取ると、ぎゅっと握り締めながら礼を言った。
「あのすけべ親父、いきなり人の足触ってきおってなぁ。ここはそーゆー店とちゃうって、なんべん言うても分からんねんもん。ほんまに助かったわ」
「ほんま、おまえの足なんぞ触ったかてなんもおもろないやろに、アホな親父やな」
「煩いで、平次!」
 隣からちゃちゃを入れる平次を一蹴し、改めて頭を下げる和葉に、新一は気まずそうに首を振った。
 アルバトロス子爵は、以前にも外交視察と称して都を訪れたことがある。その頃はまだ陛下も健在だったため、新一は今のように身分を偽ることもなく、宮廷舞師として彼を持て成したのだが…
 思えばあの頃から好色な男だった。何を勘違いしたのか、新一を女だと思いこんだらしい子爵は、あろうことか給仕の美女たちを差し置いて新一に色目を遣ってきたのだ。
 確かにその時の新一は女と見紛う艶やかな舞衣を着ていた。ここぞとばかりに髪には花やら簪やら差されたし、舞の雰囲気を壊さぬようにと薄化粧を施してもいた。宮廷お抱えの舞師である新一は後ろで舞う少女たちとは違う舞を独演していたのだから、彼女たちより目に留まりやすかったのだろうと言うことも分かる。
 だが、だからと言って、好色親父の慰めものにされるなど冗談ではなかった。そして、今にも蹴りを繰り出そうかと言うその瞬間、寸前で気付いた陛下がうまく新一を退室させてくれたのだった。
 よもやあの時の舞師がこの新一だとは思うまい。
 新一はあの時晴らせなかった憂さを今晴らしただけのことなのだ。
「私はただ、外交問題に発展しないようにと自分の都合で動いただけですので…」
 礼を言われるようなことはしていないと言う新一に、それでも、と和葉は首を振る。
「それでも、助けてくれたことに変わりはないやろ?」
 せやから、おおきに!
 そう言った和葉の真っ直ぐな笑みをわざわざ曇らせることもないだろうと、新一は困ったように笑いながらも有り難くその言葉を貰っておくことにした。
「――それで」
 と、予期していた声が背後から聞こえ、新一はゆっくりと振り返った。予想通りそこには快斗と平次、そして喧騒を聞きつけてやって来たのだろう平蔵の姿があった。
 もとより、平次にばれているなら平蔵にも怪しまれているだろうと思っていたため、それほど驚くこともない。時折こちらを窺うように向けられていた視線は、正直誤魔化せるとも思わなかった。
 小五郎の姿が見えないあたり、彼はまだあの給仕の女性と飲んでいるのだろう。
「そろそろさっきの答えを聞きたいんだけど?」
 新一が押しつけた包帯を律儀に手に持った快斗は、退路を塞ぐように入り口に寄りかかっている。その口元には相変わらず感情の読めない笑みが浮かんでいるが、それを裏切るように射抜いてくる鋭い双眸には笑いの欠片も含まれていなかった。
 一度目はあの石道で、二度目はこの屋根裏で。あっさり新一を封じて見せたこの男相手に、最早逃げ切れるとは思わない。
 自分の脇でどうすることもできずに佇んでいる白馬をちらと見遣り、新一はため息を吐く。
 自分ひとりならまだこの場を切り抜けることも可能だろうが、白馬も連れてとなると話は別だ。この男がそう易々と見逃してくれるはずもない。だからといって白馬をこの場に残していくわけにもいかない以上、この男との話し合いは避けられそうになかった。
「…いいだろう」
 漸く頷いてみせた新一に、快斗が満足そうに笑みを深める。
 けれど、
「ただし、ひとつ忠告しておく」
 そう言った新一のあまりに真剣な瞳に呑まれたのか。
 それとも、今は隠された神を宿す瞳に畏れを抱いたのか。
「この話をただのひとりとして漏らそうものなら、命はないものと覚悟してもらおう」
 その言葉に、快斗は珍しく笑みを引っ込めた。
 新一は白馬に向き直ると、最早取り繕うとはせずに言った。
「白馬殿。悪いが彼と二人きりで話がしたい。貴方は服部の方々と先の部屋へ戻っていて頂けますか」
「え…?しかし、工藤さま…」
「これは私の意思表示でもあるのです」
 あちらの手の者である彼らに白馬を預けるのは、逃げる気はないと言うこちらの意思表示。この男がそんなものを要求するとも思わないが、これは同時に服部の親子を遠ざけるための提案でもあるのだ。
 朝廷の内情、それも一部の人間しか把握していない機密なのだから、軽々しく口にできる話ではない。それを知ると言うことは、機密保持の義務を負うと同時にそれに伴う危険をも負うと言うことだ。新一は快斗が白南風の頭領だからこそ話すのであって、そうでない者にはたとえ大兄である平次にだろうと話すつもりはなかった。この表情を見る限り、快斗もそれを分かっているのだろう。
 快斗はひとつ頷くと、頭領らしくそれぞれに指示を出した。
「よし。平次はそこの役人を連れて待機しろ」
「おうっ」
「和葉ちゃんも、この件は絶対口外しないように」
「分かった!」
 状況を理解できずとも頭領への信頼は絶対なのか、和葉は何も聞かずにおうと頷く。
 快斗がこうして有無を言わさずに命じる時は、白南風の頭領として命じているのだと彼女はよく分かっていた。和葉も白南風のひとりである以上、そして快斗が白南風の頭領である以上、この命令には従わなければならないのだ。
「ほんまに大丈夫なんか、頭領」
 ひとり心配するのは、服部平蔵氏。心配と言うよりは、この工藤という人物を呑み込み切れていない彼の警戒の表れだろう。
 よもやこの修練された空気を、たかが見習いの少年が持てるはずもないとは思っていた。しかし、だからと言ってケスタドールの子爵を相手に引けを取らないほどの大物だとは思わなかったし、まさか四等官に値する人物だとも思わなかった。あの子爵の話を真に受けるつもりもないが、それにしたって怪しいことこの上ない。
 そんな人間とふたりにして大丈夫なのかと、年長者の顔で確認するように問えば、快斗はいつもの屈託のない笑みを浮かべて言うのだ。
「平気だよ、平蔵さん。それより、早く行って千賀鈴姉さん助けてあげてよ」
 毛利のおじさんに絡まれてて大変だからさ、と言う快斗に絆され、平蔵は苦笑しながらも頷いた。
 身内だからと忘れてしまいがちだが、この少年もまた明らかに普通≠逸脱した存在なのだ。腕っ節だけでは決して白南風の頭領は務まらないことを平蔵はよく知っていた。
 自分の心配が杞憂にすぎないのだと納得した平蔵は、残りのふたりを引き連れて部屋を後にした。
 残されたふたりは、散らかった部屋で無言で睨み合う。
 そこで新一ははたと気付いた。
 黒羽快斗は黒地に金糸で月桂樹が描かれた服を着ていた。それは下町よりも都で見られる仕立てだが、非常に珍しいものだった。
 花処國の国民は好んでさまざまな花を身につけるが、見目にも艶やかな梅や菊、椿などの花を好む下町に対し、都ではその花に与えられた意味を重視する。たとえば花処國の国花である牡丹には「王者」の意味が与えられている。それゆえ都に住む者の暗黙の決まり事として、牡丹の花を着飾ることができるのもまた皇族にのみ与えられた特権であると考えられている。織物屋も牡丹をあしらった生地だけは、買い手がいないと分かっているので注文がない限り作らないのだ。
 そして、黒羽快斗が纏う月桂樹に与えられた意味は、「栄光」。月桂樹は古より優れた才を持つ者に贈られた聖木なのだ。
 牡丹と同様、月桂樹もまた注文がなければ織物屋にとってなかなか手のつけにくい絵柄だ。と言うのも「栄光」は自ら掲げるものではなく、皇帝陛下より与えられるものだからだ。
 その「栄光」を身に纏えると言うことは、余程の恥知らずでない限り、この男が皇帝陛下より何かしらの「栄光」を与えられたと言うことになる。
 どういうことかと新一が口を開きかけた時、不意に背後から声を掛けられた。
「なにもこんな部屋で話すこともないのではなくて?」
 振り返れば、そこには見たこともない絶世の美女が艶然と佇んでいる。
 突然の乱入に、誰だ、と警戒する新一に対し、快斗は嫌そうに顔をしかめながら言った。
「…何の用だ、紅子」
 知り合いらしい快斗が美女に答えるが、その声には珍しく険が含まれている。
「おまえの気まぐれに付き合ってる暇はねーぞ」
「あら。うちの芸妓を助けて下さった方に、主が礼を言うのは当然のことでしょう?」
「そんなものは後にしろ」
「ふふ…この子ったら、いつから人に指図できるほど偉くなったのかしら」
 快斗の言葉に怯むどころかうっそりと微笑む美女。
 彼女こそがこの妓楼の女主人――小泉紅子だと気づき、新一は素早く居住まいを正す。
 けれど新一が何かを言うよりも先に、紅子はゆっくりとした動作で新一の前に嫋やかに跪いたのだった。
 新一が吃驚したように目を瞬く。
 新一は確かに朝廷衣を着ているが、朝廷の官僚だからと言って下々の人間が跪かなければならない謂われはない。朝廷内の規律として部下に敬礼やお辞儀の義務を課していても、一般の人々に対してそれを強要することは、たとえ四等官以上の位につく者だとて許されないのだ。
 それが許されるのは、朝廷の人間を含む全ての者が跪かなければならない相手は、ただひとり。
 この国の頂点に立ち人々を統べる御方――皇帝陛下だけである。
 それをこの聡明な女性が知らぬはずもないだろうに。慌てて起きあがらせようとする新一に、紅子は不思議に響く鈴のような声で歌うように言った。
「お初にお目に掛かります。我が名は紅子。紅の花弁美しき梅の花をその名に冠する者。
 お会いできて光栄の至りに御座います、我らが花君」
 その言葉に、新一は驚愕のあまり言葉を失った。
 なぜ、その名を知っているのか。いや、なぜ、その言葉を知っているのか。
 謎の多い華族、その中でも最も機密視されているのが花君≠セ。その名は華族と、そして皇帝陛下しか知る者はいない。なぜなら花君は華族の中でも最も高貴で最も尊い者の尊称であるからこそ、その存在を決して外部に漏らさないよう、厳重に隠されているのだ。
 華族の長を外部との外交を行う公的な長とするなら、花君は花の王と崇められる真の長。
 本来なら花君として正当な扱いを受けるはずの新一は、けれど男児であると言う理由から誰にも花君と認められていないため、そう呼ぶ者は志保の他にいない。
 それを、なぜこの女性が呼ぶのか。
 或いは彼女も華族であったならその秘密を知っていたとしても不思議はないが、見たところ彼女の瞳は蒼くない。つまり、新一のように誤魔化しているのでなければ、彼女は華族では有り得ないのだが…
「あやのきみ…?」
 と、訝しげに繰り返した快斗の声に、新一ははっと快斗を凝視した。
 そうだ、今この場には彼もいたのだ。
 なんのつもりだと視線鋭く睨み付ける新一に、けれど紅子は悪びれもせず、深紅の瞳をゆるく細めながら艶やかに微笑んだ。
「ご心配には及びませんわ。回り始めた歯車は、もう誰にも止められないのですから」
「歯車?」
 わけの分からない謎掛けのように繰り返される言葉に新一が困惑していると、さっさと立ち上がった紅子は新一に対するものとは真逆ほどにも違った態度で快斗に言った。
「とにかく、この部屋は大事な話し合いをするのに相応しくないわ。この散らかった部屋で話し合いたいのでないなら、ついていらっしゃい」
 納得いかない表情を浮かべながらも、確かにあえてこの散らかった部屋で話すことでもないだろうと、新一も快斗も大人しく紅子の後に続いた。
 連れてこられたのは牡丹の間≠ニ書かれた部屋。
 扉の装飾からして他の部屋とは別格の意匠が凝らしてあることが見てとれた。漆塗りされた艶やかな扉には今にも風に揺られ動き出しそうな牡丹の花が咲き乱れている。扉を開ければまたも豪奢な装飾電灯が吊り下がり、真下に置かれた濃い赤茶色の卓と椅子に淡い光を投げかけている。卓の上に既に用意された茶器からは湯気が立っており、軽い、それでいて彩りも鮮やかな飲茶が並んでいた。
 壁にはやはり牡丹の花と、その花に守られるように囲まれた、凛とした存在感を隠すことなく堂々とこちらを見据えながら佇む一頭の獅子の絵。鋭く尖った爪と剥き出された牙は今にも喉笛を噛み砕かんと威嚇しているようで、金色に輝く鬣と揺るぎない眼差しは何者にも屈しない王者の風格を思わせる。
 円卓と椅子がたったのふたつ。それ以外何もない部屋に敷き詰められた毛足の長い絨毯は落ち着いた赤銅色で、歩む度に深く柔らかくふたりの足を受け止めた。
 この、華美な装飾よりは高貴な雰囲気を楽しませる妓楼にしては珍しい、施し。
 広さは宴席ほどではないが、それにしてもたったふたりの人間を持て成すための個室にしては規格外な広さである。ここは明らかに国王級の賓客を迎えるための部屋だった。
「へえ…一番いい部屋じゃねえか。いいのか、こんな場所使わせて」
「ええ、構わないわ」
 これ以上相応しい部屋はなくってよ。
 そう言った彼女はいったいどこまで知っているんだと、新一は紅子に厳しい視線を向けた。
 この自分をこの部屋へと通したのが偶然とは思えない。新一が牡丹の天花を持つ華族の長、花君であると彼女が知っていることは明白だった。
 それでも紅子はただ笑みを浮かべるばかりで何も答えない。
「それではお二方、どうぞごゆるりと御歓談下さいまし…」
 そう言ってひとつ頭を下げると、紅子は静かに部屋を退室した。





B / N