宮庭佳人





 翌日、新一は見覚えのある部屋で目を覚ました。
 宮廷の離宮や神の庭の離れとは比べようもないほど質素で粗末な造り。ただ日光と海風を取り込むためだけに設けられた窓には装飾ひとつなく、寝られれば構わないといった寝台には柔らかさの欠片もない。だが、不思議と新一はここが気に入っていた。
 粗末な窓にも硬い寝台にも何ひとつ不自由を感じない。新一は常に無駄な飾りにまみれて生きてきたけれど、生きていく上でそれらが本当は必要ないことを知っていた。だからこそ、生きることを飾らないこの下町の雰囲気が気に入っているのかも知れない。
 ここは、服部家の屋敷だった。つい十日ほど前に訪れたばかりの場所だ。
 平蔵は船主組合の組合長として貿易や漁業の一切を取り仕切る傍ら、自身も一流の船匠として造船所を営み、息子の平次も親譲りの技術と気っ風のいい性格を生かして、昼間は造船所の手伝いや貿易船の船主頭を勤めている。そのため、咲浦の港に居を構える服部家の屋敷は、下町においては珍しく広い敷地面積を誇っていた。
 その屋敷になぜ新一が泊まっているのか。
 昨夜、白馬を都に返した新一はどこかに適当な宿を見繕おうとしたのだが、快斗に待ったを掛けられた。共同戦線を張ったとは言え、新一が都の人間であることに変わりはない。本当なら唯一事情を知る自分の側に置いておきたかったらしいが、現在は都で養父とともに暮らしている快斗が彼の一存で新一を家に招くわけにはいかないからと、新一は快斗の右腕とも言える平次の屋敷に泊まることになったのだ。
 おそらく、あまり好き勝手に動かれても困るからと、監視の意味合いも含めての提案だったのだろう。だがそれは新一にとっても有り難い提案だったため、新一は素直に世話になることにしたのだった。
 朝からぱたぱたと聞こえるのは、おそらく雇っている使用人が行き来する足音だろう。朝に弱い新一は余程のこと――陛下に関わることでもない限り、朝日が昇ったずっと後になって漸く起き出すのだが、海に生きる咲浦の人々は朝日とともに起きるのが習慣らしい。
 眠い目を擦りながら客室を出た新一は、丁度扉の前を通った使用人にはきはきと朝の挨拶をされ、まだ覚醒仕切らない頭を無理矢理叩き起こすと、にこりと愛想笑いを浮かべながら如才なく挨拶を返した。
「起こしてしまったようで、すみませんでした。昨夜は随分と遅くに眠りに就かれたと聞いております。朝餉まではまだ少し時間がありますし、まだお休みになられていた方が宜しいのではありませんか?」
「お気遣いありがとうございます。しかし、折角の気持ちのよい天気ですし、ご当主殿の許可を頂ければ朝の散策にでも出かけたいと思うのですが…」
「それでしたら、主は造船所の方にいらっしゃいますよ」
「ご親切にどうもありがとうございます」
 ぺこりとお辞儀を残し、使用人はいそいそと廊下を歩いていく。
 新一は教えられた通り、平蔵のいる造船所へと向かった。
 敷地面積が広いと言っても、その半分以上を造船所の船渠が占めている。中でも船の命と言われる竜骨から基本的な骨組みを造っていく施設が、平蔵のいる船渠だった。
 おそらく大型の船も造るのだろう、広さも高さも半端じゃない船渠で、朝も早くから汗水垂らして働いている平蔵は、他の船匠たちに渇を入れながらも手を止めない。彼の手によって鮮やかに組み立てられていく骨組みは、新一の目を楽しませた。
 暫くその様子を見物していると、やがて新一の存在に気付いた平蔵がほんの一瞬目を眇め、船匠たちに一旦休憩の号令を掛けた。袖口で汗を拭い木屑を払いながらこちらへとやって来る。
「工藤さん、どないかされました?」
 頭領から詮索無用の命令を出されている彼らが新一についてあれこれ尋ねてくることはなかったが、その目は未だにこちらを信用していない。とは言え別に平蔵や平次と手を組んだわけでもないのだからと、新一もわざわざ彼らの信頼を得ようとはしなかった。
「思いの外早く目が覚めてしまいましたので、ご当主殿の許可を頂けるなら下町の散策に出かけたいのですが」
「散策、ですか」
 案の定いい顔をしない平蔵だが、新一は気にも留めない。一応世話になる身の建前として断りを入れに来たのだが、もしも許可が下りなかったとしても、こっそり抜け出してでも出かけるつもりだった。
 けれど、意外にも平蔵はすぐに許可を出した。
「平次を連れてくんやったら、散策でも詮索でも好きにしてもうて構いませんわ」
 ただし、条件付きではあったけれど。
 平蔵の条件を仕方なく呑んだ新一は、平次を連れ出すと早速下町散策に出かけた。
 黙って後ろからついてくる平次が何を考えているのか知らないが、新一は純粋に下町散策を満喫する。
 この時間ではまだ花街の店はどこも閉め切っているが、通りには子供たちがたむろし、それぞれに武術の稽古と勤しんでいる。年長らしい少年が幼い弟分たちの面倒を見ている姿はとても微笑ましい。
 通り過ぎざま、こちらに気付いたらしい子供たちが口々に挨拶するのへ、平次は面倒がることもなく「おう」と挨拶を返した。白南風の大兄を務める彼は受け持つ縄張りこそ違っても広く顔を知られているし、何より慕われている。
 川原付近では籠いっぱいに洗い物を持った女たちが洗濯をしていた。まだ夜にはほど遠いこの時分、化粧をしていない彼女たちは夜の艶やかさなどどこかに脱ぎ捨て、まるで世の汚れなど知らぬ少女のように朗らかに笑っている。
 子供たちと同じく、こちらに気付いた彼女たちは、自分たちの誇る白南風の大兄を見つけるなり声を掛けてきた。「今度うちにも遊びにいらしてよ」だの、「平次さんやったらお金もいらんえ」だの。それを「また今度寄らしてもらうわ」なんて言葉でかわしていくあたりから察するに、もう既に日常茶飯事なのだろう。なかなかに女にもてるらしい平次はあちこちで声を掛けられていた。
 窓から顔を出した女将が水差しで鉢に水をまき、眠たげな老爺が面で猫に餌をやる。
 頬を撫でる海風、それに乗って運ばれていく芳しい花の香り、楽しげな笑い声、通り過ぎていく人の群れ。
 活気と彩りに満ちた世界。太陽の光溢れる世界。
「綺麗だな…」
 ぽつりと零された呟きに、平次が眉を寄せる。
 こんな綺麗な世界があるなんて、新一は今まで知らなかった。
 神の庭に幽閉されていた時、新一の世界はとても狭くて四角かった。神の庭から抜け出した今も、新一の世界は皇帝陛下ただひとりの世界だった。それを厭ったことは一度もないけれど、初めて見る広大な世界に新一は眩暈を感じた。
 闇を照らす月をひたすらに見上げ続けてきた新一にとって、初めて見た太陽は眩しすぎて目を開けていられない。世界がこんなにも広大で目映いものだなんて思いもしなかったのだ。その中にひとり佇む己は、なんと卑しく小さいのだろう。
「…あんた、下町来たんは初めてか?」
「いや。外に出たのが初めてだ」
 平次が吃驚したように目を瞠る。「どこ」から外に出たことがないのかは分からずとも、それが異様なことは分かるのだろう。新一だとてよく分かっている。
「なんでなん?外に出るん、嫌いやったんか?」
 不思議そうに尋ねてくる平次に新一は苦笑を浮かべた。
「そうじゃない。出たくても出して貰えなかったんだ。でも今は、自分の意志で留まってる」
 陛下は一度として新一を束縛したことはない。離宮を与えて下さったことも、宮廷に新一を縛り付けるためではなく、宮廷の外に出れば新一が再び神の庭に幽閉されることを見越してのことなのだ。新一はいつでも自分の意志で外に出ていける。それなのにそうしないのは、他でもない新一の意志だった。
 新一はこれ以上ないほどに陛下に恩義を感じている。そしてそれ以上に、陛下を敬愛している。陛下のために尽力できるのなら、広い世界など生涯見れなくてもいいと思えるほどに陛下をお慕いしている。
 だが、知ってしまった世界に、新一はひどく心揺さぶられていた。
 書物はただ脳裏に想像を創り上げるだけだ。だが実際に目で見ることは、身体の五感全てでその事象を感じ取ることだ。風を感じ、香りを知り、声を聞き、目に焼き付ける。なんと不思議に満ちた世界だろう。もっと知りたいと、腹の底から抑えきれない衝動が沸き上がる。
 だがそれは叶わぬ夢だった。叶えられぬのではなく、それを叶える道を選ぶという選択肢が新一の中に存在しないのだ。誰に強制されたわけでもないけれど、全身全霊で叫んでいる。陛下を差し置いてまで望むべき願望は、己の中に存在しないのだと。
「俺は、こんな綺麗な世界で生きていたんだな」
 その呟きに、平次は憤然と唸った。
「あんた、ほんま気に食わんわ」
 怒ったような顔で睨み付けてくる平次に新一は首を傾げる。何か彼の気に障るようなことを言っただろうか。
 すると平次はおもむろに新一の手を掴むと、有無を言わさぬ強引さで走り出した。
「ちょっ…、服部!」
「ガキのくせに、世の中の酸いも甘いも噛み分けとるみたいな面しおって!ガキはガキらしく遊びや喧嘩にうつつ抜かしとったらええねん!」
 新一は思わず目を瞠った。
「何もかんも悟るんは五十すぎのジジイになってからや。若い内はしっかり嵌め外して苦い思いするくらいが丁度ええ。世の中の汚い部分ばっか見てきたっちゅーなら、それをひっくり返すくらいキレーなもんぎょーさん見なアカン!」
 彼はどうしてこんなにも熱くなっているのだろう。彼には関わり合いのないことなのに、それどころか彼からしてみれば新一は厭うべき都の人間なのに。そう思いながらも、不思議と新一は抵抗する気にもなれず、平次に引かれるまま山林にひっそりと隠すように作られた小道を駆けてゆく。
 やがてやって来たのは、古びて廃れた小さな廟だった。廟の前では通りにいたような年齢の少年たちが、やはり同じように武術の稽古を付けている。おそらく白南風志望の子供たちだろう、彼らは平次を見つけるなりわあっと集まってきた。
「大兄、来るのおせーよ!」
「どうせまた和葉姉ちゃんといちゃついてたんだろ!」
「アホ、あんなんといちゃついたかて何もおもろないわ!」
 そう言って子供たちに拳骨を食らわす平次を、新一は怪訝そうに見遣った。どこに行くのかと思えば、彼はこんなところに自分を連れ出していったい何がしたいのか。
 すると、一通り子供たちとじゃれ終わった平次は子供たちに向かって新一を紹介した。
「おう、おまえら。こいつは工藤っちゅーて、咲浦の小兄や。新入りやけど腕はかなり立つから、おまえらの稽古に丁度ええと思って連れてきたってん」
「えー!この細っこい兄ちゃんが小兄?」
「アホ。人を見かけで判断するんは未熟モンの証拠や。頭領かて似たような体格やんか」
「だって頭領は特別だもん!」
「そうそう、大兄だって全然敵わなかったもん!」
 ぎゃあぎゃあ叫ぶ子供たちに平次は口元を引きつらせる。
 おそらく好かれてはいるのだろうが、父親と言うよりは年の近い兄弟のように慕われているのだろう。遠慮のない戯れ言も親しみの現れなのだと思えば可愛いものだと、新一は思わず微笑を漏らす。
 けれど、このままでは大兄の威厳が台無しだと危機を感じたらしい平次が新一にひとつ提案した。
「しゃーない、工藤。実際見ればこいつらも納得するやろ。俺と手合わせせぇ」
 なんでそんなことをしなければならないのかとむっとした新一だが、ふと気付けば子供たちは興味津々でこちらを見つめている。散々文句を言いながら、それでも大兄に認められる実力と言うものに興味があるのだろう。さすがの新一も、夢いっぱい期待いっぱいの子供たちの視線を無視することはできそうになかった。
「…仕方ないな」
 諦めたようにため息を吐くと、平次が如何にも愉しげに笑った。なんだかんだで彼も新一の実力に興味があるのだろう。彼の前で立ち回ったことはないが、頭領から話を聞いているのかも知れない。
 けれど、新一は涼しげな表情を浮かべるとさらりと宣告した。
「言っておくが、俺は負けるのは大嫌いだ。やるからには勝つ気でいくぞ」
 負けても恨むなよと、新一はうっそりと微笑む。下手に顔の造作が整っているだけに、平次は何とも言い難い迫力を感じた。どことなく頭領と似た顔立ちでありながら、似ても似つかない冷ややかな空気を纏う。
「…上等や。白南風の大兄の実力、思い知らせたるわ」
 負けじと口角を吊り上げる平次は、掌に滲むものに今は気付かないふりをした。
 子供たちのごくりと唾を飲み込む音が聞こえる。にわかに緊張の張りつめるその場の空気を払拭するように、新一は羽織から袖を抜くと近くにいた少年に預けた。
「借り物なんだ。預かっていてもらえるか?」
 にこりと笑えば、少年は一瞬で顔を真っ赤に染め、ぶんぶんと首を縦に振る。
 新一は今、淡い緑に深緑の枝垂柳が描かれた羽織の下に、真っ白の着物と濃紺の帯といった出で立ちだった。破落戸崩れの猛者と言うよりは、まるでどこぞの貴族のようだ。
 けれど、少年のそんな思いなど知るよしもない新一は、何の衒いもなく平次に向き直った。いつの間にやらやる気満々の平次は、どう見ても子供たちのために手合わせしようとしているようには見えない。
(ま、いーけど)
「それじゃあ、始めようか」
 言うなり、新一は軽く地面を蹴って後方に飛び退いた。今し方立っていた場所には拳を空振った平次が立っている。けれど、一発目をかわされることは予想済みだったのか、驚くことなく平次は次の攻撃へと移った。
 鍛えられた腕が風を切って新一の頬を掠める。ちっ、と髪に触れた手を受け止めることなく、新一はその横をするりと抜けると、振り返り様に右の肘を容赦なく打ち込んだ。背中を強か打ち付けた平次は低く唸るが、第二陣を警戒してすぐさま間合いを取る。獣のように目を煌めかせ身構える平次に対し、新一は構えるどころか仕掛ける様子もなくひっそりと佇んでいた。
 一瞬の間に展開される攻防は、瞬きをする暇さえ与えない。
 驚いたのは子供たちだった。如何にも蝶だの花だのが似合いそうな雅な出で立ちでありながら、思いも寄らない俊敏な動きで平次の攻撃を次々とかわしていく男。足に絡みつく着物の裾もものともせず、それどころかそれすら計算されているのではないかという動きで平次を翻弄している。
 たとえるなら、木の葉。見えない風に揺らめくように、予想もつかない方向へと流れ舞う。
 たとえるなら、花弁。ひらひらと舞い散るそれは、掴もうとしてもするりと指先をすり抜けてしまう。
 次第に子供たちはこの勝負に白熱していった。
(さすがにいい動きをするな…)
 平次からの猛攻撃をひたすら避け続ける合間、時折ついでのように蹴りや拳をお見舞いしながら、新一は暢気にそんなことを考えていた。
 さすがに大兄を任されているだけあり、平次の動きには無駄がない。けれど、新一に言わせればそれだけだ。所詮一対一の勝負や大人数相手の喧嘩しか知らない男など、新一の敵ではない。
 このまま一気に畳んでしまおうかと考え、けれど新一は思い留まった。
 おそらく後先考えなしの思いつきだろうが、先ほど彼は新一のことを「咲浦の小兄」と偽った。小兄とは白南風において頭領、大兄に次ぐ兄貴分の呼称である。彼らは各界隈毎に縄張りを分担し、小兄と呼ばれる者がその界隈の白南風を統括し、治安を維持する。それを更に統括するのが大兄であり、その全てを率いるのが頭領だ。
 その場凌ぎの嘘だとしても、「咲浦の小兄」であれば動きやすくなる。新一は有り難くその肩書きを利用させてもらうことにした。
 そうなると、仮にも大兄であるこの男に勝つわけにもいかない。負けるのは大嫌いだが、策略のために演じる失態であれば仕方がないと、新一は適当なところで一発食らってさっさと負けることにした。
 そんなことは露知らず、平次は二度、三度と拳を繰り出す。新一は巧みな足運びで巧妙に平次を誘導しながら、廟の前へと追いつめられていく。やがて背中に廟の冷たい壁がぶつかった時、ハッと一瞬背後に気を取られた素振りを見せた新一に、平次は己の勝利を確信して決めの一発を繰り出した。
 風切り音を唸らせながら顔面目掛けて飛んでくる拳を前に、新一は衝撃に備えて歯を食いしばる。
 けれど寸でのところで拳は届かず、変わりにいるはずのない男が立っていた。
「何をおもしれぇことやってんだよ、おまえら」
 唐突に割り込んだ第三者の間抜けな声に、張りつめていた空気が一気に霧散する。
 見れば、いつの間にか二人の間に割り込んだ快斗が、今にも届きそうだった平次の拳をがっちりと掴んでいた。
「…くろ、」
「――コイツに手を出していいと、言ったか?」
 呼びかける声を遮って、快斗は笑みの欠片もない目で平次を見遣る。平次は忘れていたはずの冷や汗がどっと噴き出し背中を伝っていくのを感じた。
「…すまんかった。でも、喧嘩やないで。ただの手合わせや」
「殴り合ってるうちに夢中になっちまう喧嘩好きがなに言ってんだ」
 う、と言葉に詰まる平次を一瞥し、快斗は新一に向き直る。
「あんたもあんただ。なに考えてんだか知らねーが、平次にやられるようなタマじゃねーだろ」
 きっぱりと言い切られた平次が口をへの字に結んだ。仮にも大兄を捕まえて失礼な話だが、彼が言うなら間違いないだろうと言う絶対的な信頼を平次は快斗に持っている。そして何より、実際に手合わせしてみて、平次の本能は自分がこの少年に敵わないだろう事実を苦くも感じていた。
 そしてそれは、新一の方も分かっていたらしく。
「小兄≠ェ大兄≠ノ勝っていいのなら、遠慮無く倒してやるが?」
 そんな小憎たらしい口を利いてみせる新一に、平次は憮然とした視線を投げた。
「小兄?何の話だ?」
「…スマン、黒羽。咄嗟の言い訳で、あいつらに工藤は咲浦の小兄やて言うてもうたんや」
 小声で耳打ちする平次に促され、ちらりと視線だけを子供たちの方へと向ければ、新米小兄の腕前にすっかり惚れ込んでしまったらしい子供たちの憧憬に満ちた顔。一日でも早く白南風として認められるため日々鍛錬中の彼らにとって、頭領はもちろん、大兄や小兄は憧れの存在だ。しかも、新一は頭領の右腕と言われる平次と互角に渡り合ったのだ。
 仕方ねえな、と頭を掻いた快斗が大仰に溜息を吐く。目を輝かせながら頬を紅潮させて興奮する子供たちを見る限り、今更なかったことにはできそうになかった。
「言っちまったもんは仕方ねーし、そういうことにしといた方が工藤にとっても動きやすいだろう。あんたも、どうせそういうつもりで服部に負ける気だったんだろ?」
 快斗の皮肉もどこ吹く風で、新一は無言で肯定する。なんとも不貞不貞しいが、ここまで一貫されるといっそ心地よい。
 快斗は横目で軽く睨み付けながら口角を吊り上げると。
「よぅし、おまえら!今から工藤がおまえらに稽古つけてくれるってよ!」
「――はっ?」
 頭領たちのやりとりを静かに見守っていた子供たちから、わあっ、と歓声が上がる。逆に、隣に佇んでいた新一からは素っ頓狂な声が上がった。
「ほらほら、小兄。有言実行、男に二言はなしだぜ」
 わらわらと群がってくる子供たちに三人仲良くもみくちゃにされながら、それでも楽しそうに快斗が言う。
「白南風は別に自警団なんかじゃねえ。俺たちは家族なんだ。だから、兄貴は弟の面倒を見なきゃならねえんだよ」
 そんな台詞を背後に聞きながら、子供たちの小さな手を振り払うこともできず、新一は広場の方へと連れ出されてしまった。
 彼らは新一の手を引きながら、口々に先ほどの手合わせの感想を述べている。凄いだの、強いだの、かっこいいだの、どれも飾り気がないだけに直球な言葉の数々に、新一は狼狽えるばかりだった。
(な、なんでこんなことに…)
 本当なら今頃、見物と称して下町のあちらこちらを歩き回り、地理を完璧に頭に叩き込んだ上で今後の捜査にあたるつもりだった。それが初っ端から出端を挫かれたばかりか、厄介事を抱え込まされてしまった。やはりと言うか絶対、あの男と手を組むことにしたのは間違いだったのだろう。
 けれど、そうは思っても。
「ねえ、小兄!さっきの木の葉みたいにひらひら避けるやつ、あれなんて言う武術?俺たちが使う拳法とは全然違うよね?」
 教えて、教えて!と詰め寄ってくる無邪気な子供たち。その顔に嘘はなく、その言葉にも嘘はない。好奇や羨望、嫉妬、軽蔑――そんな感情の中で生きてきた新一にとって、彼らが向ける感情は珍しくはあっても、決して気分の悪いものではなかった。
「…あれは、古流柔術のひとつで…」
 そう語り始めた新一は困ったように吐息を漏らしながら、けれどその顔には微かな笑みが浮かんでいた。

 その様子を少し離れたところから眺めていた快斗に、平次がぽつりと呟いた。
「なあ…あいつ、どういう奴なん?」
「どうって、何が?」
「正直、信用ならん奴やと思うし、せんでええと思う。あいつ自身、信用されたいなんて欠片も思ってへんやろしな。…せやけど…」
 平次は、何か哀しいものでも見るような目で彼を見ている。快斗も同じように向き直るが、そこにはただしどろもどろに子供たちに教えを説いている少年の姿しか映らなかった。彼の何を見て平次はそんな表情をするのか。
 すると、
「あいつ、外に出たん初めてやねんて。出とおても出して貰われへんかったらしいわ」
 その言葉に、快斗はすっと目を細めた。
「妓楼や娼館の並ぶ歓楽街見て、あいつ、なんて言ったと思う?綺麗や、言いよったんや。都の役人が毛嫌いする水商売の街とそこで働く奴ら見て、綺麗な世界やぬかしよってん」
 都の人間にとって花街の華やかさが好奇の対象となることはあっても、決して「綺麗」などと評されることはなかった。彼らはその人間的な欲求を満たすために花街を利用しながら、その存在を決して認めようとしないのだ。だと言うのに、仮にも皇帝陛下に仕える役人であるはずの男が、それを認めた。驚きや喜びを感じるよりも、不思議に思った。
「ほんま、変わった男やで…」
 溜息混じりにそんなことを言われ、快斗は思わず笑ってしまった。
「なんだよ平次、もう懐柔されちまったのかよ」
「はあ?信用してへんっちゅーとるやろが」
「はいはい、平次君は優しいからな。可哀想な工藤を苛めたりできねーよな」
 だからそんなん言うてへんやろ!と食いついてくる平次をはいはいと軽くあしらい、けれど快斗は不意に声を低めると。
「でも、あいつは自分が可哀想だなんて欠片も思っちゃいねえよ」
 そんな卑屈な感情を抱える人間に、あんな真っ直ぐな瞳は絶対に持てない。あれは、後ろを振り返ることを知らない者の目だ。脇目もふらず、ただ何かを一心に見つめている者の目。
 ――その目を、自分に向けさせることができればどれ程愉しいことか。
「…なんかよからぬこと考えとるやろ」
「別に、愉しいことしか考えてないぜ?」
 にっこりと邪気のない笑みを浮かべる快斗を見て、平次は嫌そうに顔を歪めた。彼があの男を見て「面白い」と言った時点で諦めてはいたことだが、いざこうなると逆に気の毒になってくる。
 彼、黒羽快斗に気に入られるということがどれ程大変か、工藤新一は身を以て知ることになるだろう。





B / N