舞師の指示通り朝廷に戻った白馬は、暫く舞師が留守にする旨を陛下へ報告に上がるため、宮廷の中を歩いていた。 公務を行いやすいようにと整然と設えられた朝廷と違い、皇帝陛下や側室、御子息御息女が住まう宮廷は、宮も回廊も庭園も全てが華やかに造られている。一寸の狂いもなく等間隔に並び立てられた円柱。牡丹の彫刻が施された薄板を嵌め込んだ回廊。天井にはいくつもの迫持が重なり合い綺麗な弓形を象っている。建造物の全てが白大理石からなるこの純白の宮廷を、天の宮処――天宮≠ニ称す者もいた。 しかし何より美しいのが、色とりどりの牡丹が咲き誇るこの庭園だ。多くの庭師によって一輪一輪丁寧に育て上げられた牡丹には一抹の綻びもなく、どこを見ても零れんばかりの大輪の花を咲かせている。回廊のすぐ横に引かれた水路は全ての宮へと繋がっており、ところどころに小さな橋と噴水が設けられていた。陛下の御息女たちはよくここを憩いの場に母や姉妹たちと仲良く戯れているのだとか。朝廷の喧騒からも隔てられたこの空間では、風に揺れる牡丹の囁きと流水の奏でる旋律しか聞こえてこない。 その憩いの場から少し離れたところにある、目の醒めるような蒼い宮。赤や桃色、紫や黄色の牡丹が交じる庭園の中、そこにはただ白い牡丹だけがまるで宮を取り囲むようにして咲いている。純白の中に交じる唯ひとつの蒼、それが、華族にして宮廷舞師である工藤新一に与えられた離宮だった。 かつては皇帝陛下の別宅のようなものだったのだが、十年前にかの舞師が宮廷に召されて以来、そこが舞師の住処となっているのだ。本来なら神の色で彩られた蒼の宮には天子である皇帝陛下しか出入りできないのだが、華族の者だけは例外だ。そして彼は男児という異端児ではあるものの、紛う方なき神の色を湛える瞳は、彼が確かに華族であることを照明している。それ故に離宮に住まうことを許されているのだ。 一介の舞師でありながらそれほどの寵愛を受ける舞師を快く思わない者は多い。かく言う白馬も彼の存在を快く思っていなかった者のひとりである。しかしそれは彼が陛下の寵愛を受けているからなどという理由ではなく、己の尊敬する陛下を貶めるような噂の元凶となっているのが彼だからだ。だが、その認識も改めなければならないだろう。一週間という短い時間とは言え、直に彼と接してみて、彼が噂に聞くような「陛下の稚児」などではないことに白馬は気付いていた。 聡明な陛下のことだ、おそらくあの舞師の隠された才能に気付き、今回の騒ぎを収める命を彼に与えたに違いない。その辺りのこともぜひともお話し願いたいところだ、などと考えていた白馬は、ふと見遣った離宮の前に件の舞師が佇んでいるのを認め、目を瞠った。 自分は下町に留まるから、自分の代わりに陛下を補佐して差し上げて下さい。そう言っていたはずの舞師が、なぜもう宮廷に帰って来ているのか。 あまりに無遠慮に凝視する視線に気付いたのか、舞師は一度こちらに顔を向けると、無感動な双眸を軽く細め、離宮の中へと消えてしまった。思わず呼び止めようとした白馬は、けれどすぐに思い留まった。あの舞師のことだ。追いかけたところで自分に捕まえられるとはとても思えない。たとえ捕まえたところで、彼が素直に口を割るはずもない。白馬は短く息を吐き、皇帝陛下のもとへと急いだ。 普通なら執務室での謁見しか許されないところだが、事が事だけに、陛下はわざわざ私室での謁見を許可して下さった。しかしこうした宮廷は賊の侵入に備えひどく入り組んだ造りになっているため、陛下の私室どころか宮廷にすら上がったことのない白馬は、まるで迷路のような道を慣れない足取りながらも、教えられた通りに進んで行った。途中いくつもの門扉を潜り、その度に陛下からの詔書と身分確認を行った。そうして漸く私室に辿り着いた白馬は、緊張した面もちで、片膝をつき深く頭を垂れた。 「お休みのところ失礼致します。陛下の命により、白馬探、ご報告に参りました」 扉の両脇に控えていた兵士が重苦しい音を響かせながら扉を開く。部屋の奥では、すっかり政務姿を整えた陛下が、ゆったりと椅子に腰掛けていた。 「わざわざ私室まで呼び立ててすまなかった。悪いが早速聞かせてもらえるか?」 「畏まりました」 そう言って入室した白馬は、背後でしっかり扉が閉まるのを確かめた後、陛下に勧められた椅子に今一度頭を下げた後で腰掛けた。 陛下は竜紋の描かれた美しい蒼色の外衣を軽く捌き、露わになった足を高々と組むと、朝廷で拝見する時とは全く違った面もちで楽しそうに口元を持ち上げた。 「それで、我が舞師は今度はどんな無茶をしていると?」 「はい。おそらく不届き者は下町にいるとお考えなのでしょう、工藤さまはそのまま下町に留まられ、私には朝廷に戻るようにと仰いました。……しかし…」 困ったように先を濁す白馬に陛下は苦笑を零す。 「ああ、彼女から事情は聞いている。不在のはずの舞師が離宮にいて、さぞ困惑したことだろう」 え?、と首を傾げる白馬へひとつ頷き、陛下は寝台の奥へと声を掛けた。 「――志保殿」 途端、鼻孔を擽るふくよかな香りがふわりと辺りを包む。よく知る香りに、それが牡丹の花の香りであると気付いた白馬は、寝台の裏から現れた舞師の姿に再び目を瞠った。離宮にいたはずの彼が、なぜ自分より先に陛下の私室に来ているのか。 「彼女は君の考えている舞師とは別人だよ」 「べ、別人…?」 すると、余計に困惑する白馬を見かねたように舞師が口を開いた。 「そんな曖昧な説明で分かるはずがないでしょう。私たち天花の存在を知るのは一族の者と、皇帝である貴方だけなのだから」 「ああ、すまないね。ただ、彼の驚く様子があまりに愉快なものだから」 そう言って悪戯っ子のように笑う陛下に志保はただただ呆れるばかりだった。 白馬は皇帝陛下を相手にまるで気負わない様子で、しかもとても男のものとは思えない声で話す舞師に、いよいよ混乱する。それに気付いた志保が面倒くさそうに溜息を吐いた後、白馬にも分かるように説明してくれた。 「金輪際呼ばれることもないでしょうから、別に覚える必要もないけれど。一応名乗っておくわ。私の名前は志保。貴方が知る宮廷舞師、工藤新一の天花と呼ばれる存在よ」 牡丹の香りが一層強くなる。気付けば、陛下の横に立っていた舞師は、衣装はそのままに見たこともない女性の姿に変わっていた。亜麻色の髪に切れ長の蒼い瞳をした、冷たい印象の麗人。 「いいのかな、志保殿。仮にも天花である貴方が華族の秘密を安易に口にして」 「別に知れて困るような秘密でもないわ。それに、簡単に口を滑らせるほど浅薄には見えないもの」 彼、と言って白馬を見遣る志保に、陛下も満足そうに頷いた。 「と言うことだ、白馬君」 「え…?と言うこと、と仰るのは…?」 「つまり君は、彼女の目に適ったということだよ。それがどういうことか分かるかな?」 答えられるはずもなく白馬は押し黙る。 当然の反応だと、陛下は落胆するでもなく話を続けた。 「君は、華族がなぜ国の宝と呼ばれるか知っているかな」 「それは…彼女たちが神の加護と長寿を与えられた神の一族だから、でしょうか」 「そう。そしてその対≠ノ選ばれた者も、その恩恵を受けることができる。それが、人々の知る事実だ」 そして華族の女たちが人々に与えた情報も、それだけ。 では、彼女たちはそうまでしていったい何を隠しているのか。 「華族に加護と長寿を与える者、それが天花よ」 はっ、と顔を上げた白馬が志保を凝視した。 「天花とは宿主を災厄から守護し、神より与えられたる叡智を授け、その悠久なる時の流れをともに生きる、霊妙たる花の化身。それが――私」 すっと持ち上げられた指の先から葉が伸び、みるみる内に蕾をつけ、花を咲かせる。それはまるで生き物のように彼女の腕を伝って体へと巻き付き、次々に大輪の花を咲かせてゆく。…紛れもない、人ならざる超自然の力。 「分かるだろう?もしそんな存在があると知れれば、国内のみならず国外からも彼女たちを欲しがる者たちが押し寄せてくるだろう」 そして間違いなく争いの火種となるだろう、と。 「だから私たち歴代の皇帝はその秘密が絶対に知られないよう、華族とともに堅く口を閉ざしてきた」 陛下の言わんとしているところは白馬にもよく分かった。天花、その存在が知られれば、華族はもちろん、花処のような小国は確実に滅ぶだろう。 花処の三千年の歴史には常に華族が寄り添うように存在した。その繁栄を、よもや皇帝ただひとりの力と考えるほど白馬は愚かではない。おそらく、神の叡智を知ったる華族の占術師――かつて猊下と呼ばれた者たちの力が大きく関係しているのだろう。つまりこれは、花処國そのものを根底から覆すほどの重大な秘密なのだ。 しかし、だからこそ白馬には理解できなかった。 「そのような重要な秘密を、なぜ私に?」 自分はただ舞師の不在を報告に来ただけなのに、そこでまさかそんな重要な話をされようとは思いもしなかった。不在のはずの舞師を見かけたからと言っても、いくらでも弁明することはできたはずである。 すると、不意に陛下が目を瞑った。そして再び目を開いた時、そこには普段朝廷で見せるものよりもずっと重たく静かな威厳が満ちていた。幼い頃より彼を敬い慕ってきた白馬だが、陛下がこれほど真剣な目を見せることは滅多にない。 「それは今、かつてない事態が起きているからだよ」 その声は、どことなく哀しさを帯びて聞こえた。 「あの子は華族の中でも特別な存在だ。その尊さをあえて言葉で表すなら、この世の誰ひとりとしてあの子に勝る者はいないだろう」 「そ、そんな…っ?」 信じられない、と驚愕する白馬を責められる者はいないだろう。この世の誰ひとり、と言うことは、目の前に仰いでいる己の尊敬する皇帝陛下さえも凌ぐと言うことなのだ。よもやあの舞師がそれほどの秘密を抱えているなどとは思いもしなかったし、白馬でなくとも信じられないだろう。 そんな白馬を、陛下は哀しみの滲んだ目で見つめた。 「牡丹とは神が創り賜うた花の王。だからこそ花処の国花は牡丹なのだ。そしてその花を天花に持つあの子は、およそ千年ぶりにこの世に生を得た花の王の化身…」 ――花君=B それは、この世で最も神に愛された者の尊称。 「あの子の尊さが分かったかい?」 「…は、い…」 半ば夢見心地で答える白馬に陛下は苦笑を零す。おそらく彼は今の話の半分も本当の意味での理解はできていないだろう。しかし、今はそれで充分だ。頭で理解できずとも心で理解していれば、いずれ頭も心に追いつくだろう。確かにかなり性急すぎたとは思うが、生憎こちらにも時間がないのだ。…思っていたよりも、ずっと。 「あの子は花君でありながら、男児であるばかりにそれを否定されてきた。だが、誰が認めずともあの子は神に愛された神の子だ。私は彼女とともに十年間ずっとあの子を守ってきたが、今の私にはもうあの子を守るだけの力がない。だから、君に頼みたいんだ」 そう言って陛下は深く深く頭を下げた。 あの子は強い。とても、とても強い。己を蔑む眼差しに埋もれながら、それでもその瞳が澱んだことはなかった。傷だらけになりながら、それでも立ち続けてきた。きっと蝶や小鳥のように籠の中に閉じ込めておく必要がないことは分かっている。 けれど、では、どうすればあの崇高な魂を傷付けずに済むのだろうか。どうすれば、あの子を傷付ける者たちから守ることができるのだろうか。今まで充分すぎる程の傷を負ったあの子供には、できることならもう二度と傷ついて欲しくないのだ。 「どうか…可哀相なあの子を、あの子を苦しめる全てのものから守ってやってくれないか」 白馬は慌てた。一介の文官などのために陛下に頭を下げさせるわけにはいかない。 けれど、志保がそれを遮った。伸ばされた白馬の腕を、人ではありえないひやりとした彼女の手が掴んだ。 「貴方が今すべきことは、否か応かを答えることよ」 「志保さん…」 「私は今、彼の代わりにここにいる。それは彼が何よりも皇帝の身を重んじているからよ。私がいる限り皇帝の安全は保証される。でも、彼は違うわ。私の加護がなければ彼は普通の人と何ら変わらないの。それなのに、賊を捕まえるために私を置いて行ってしまった」 貴方もあの傷を見たでしょう?と問われ、白馬は先日舞師自ら曝してみせたあのものものしい傷跡を思い出した。一歩間違えれば命を落としていたかもしれないほどの大怪我だった。神の加護を受けた華族だからこそ、あのような傷でも平気で立っていられたのだろうと思った。 だが、そうではなかったのだ。彼はただ陛下を守るために、あれほどの傷を受けて尚立ち続けていたのだ。 ――なんて、無茶苦茶な男なんだ。 「…なぜ、僕なんですか?」 「だから、簡単に口を滑らせるような人には見えなかったからよ」 志保は素っ気なく言い放ち、それからふと目を伏せて。 「…それに、貴方なら有りの儘の彼を見てくれると思ったからよ」 「!」 有りの儘の、彼。 謎めいていて、恐ろしく優秀で。どんな無茶無謀も敢行し、しかも彼はそれをやり遂げてしまうのだ。皇帝陛下のためであれば。 そう、全ては陛下のため。彼の行動の全ては、いっそ意地らしいほどに陛下のためでしかなかった。それほどまでに誰かを一途に想うことのできる人を、白馬は他に見たことがない。 だが、彼はいつも孤独だった。宮廷にいる時も、そして賊の捕獲という同じ任務に就いた白馬にも、彼はその心の真実の一片でさえ垣間見せることはなかった。それほど、彼は周囲を隔絶していた――彼を隔絶した周囲を。 そんな男の唯一の協力者に、自分がなるのだと言う。それも面白いかも知れないなと、白馬は笑った。 「…悪くありませんね」 「ふふ。君ならそう言ってくれると思ったよ」 漸く頭を上げた陛下は、またあの悪戯っぽい笑みを浮かべていた。つい一瞬前に見せていた真剣な表情など見る影もない。この方はいったいどこまでが真剣なのか、白馬にはまだまだ掴めそうになかった。 |
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