なめらかな肌にうっすらと白粉をのせ、頬には控え目に朱を差す。流れるような長髪はもちろんつけ毛だが、真っ直ぐに伸びた黒髪は彼の揺るぎない漆黒の瞳に殊の外よく似合う。誰の手を借りることなく着付けの難しい舞衣を難なく着込み、最後に結った髪へ花飾りを差し込めば完成だ。その一部始終を見ていた快斗でも、目の前の芸妓が実は新一の変装であるとは俄に信じられなかった。 「…にしても、本気で芸妓に化けるとはな。女装なんて死んでも嫌がる方だと思ったのに」 「別に、必要とあれば方法は厭わない。それに最初から捜査方法のひとつに従業員になりすます場合もあると言っただろう」 見た目は花もほころぶような佳人でも、中身はあの工藤新一だ。その忌憚ない切り返しに快斗は諦めたような溜息で答えた。 新一が芸妓に化けて千賀鈴の護衛にあたるようになって既に五日。まだ賊は目立った動きを見せていないが、紅梅楼への客足は確実に増えていた。 さすがは花街最高峰の妓楼と言われるだけあり、紅梅楼での噂は瞬く間に下町中に広まってしまう。妓楼に上がりたての新米芸妓とは言え、これほど見栄えのする容貌であれば、老若男女の関わりなしに人目を引くのは当然のことだ。だが困ったことに当の本人にまるでその辺りの自覚がないらしいことを、この五日で嫌と言うほど快斗は思い知った。 紅梅楼のお洒落好きの芸妓たちは、飾れば飾るほど見栄えのする新一を取り囲んではああでもないこうでもないと楽しげに意匠を凝らし、そのくせ自分の容姿に興味のないらしい新一は彼女たちの好きにさせている。おかげで日増しに増えていく客に比例して快斗の眉間の皺も増していくばかりだった。 千賀鈴の傍を片時も離れない新一と、毎日のように紅梅楼に顔を見せる快斗。芸妓たちの間では二人が千賀鈴に恋慕しているのではないかだとか、二人が千賀鈴を取り合っているのではないかなどという噂まで立っている。しかし、実際はそうではなかった。快斗は、新一に会うためにこうして毎日紅梅楼へと顔を出しているのだ。さすがは兄と言うか、徹には一目で見抜かれてしまったが、快斗はこれ以上ない程に新一を気に入っていた。 「それより、何か進展はあったのか?」 「いや。十人ほどに見張らせてるけど、妓楼に近づく不審者は今のところまだ見つかってない。都からの使者も何人かいたが、どれも外れだな」 「…丸五日進展なしか」 そう言って悔しそうに唇を噛む新一に、快斗も面白くなさそうに口を曲げる。 「おまえさぁ、なんでそんなに必死なの?」 正直、自分でないものに強い執着を見せる新一が面白くなかった。毎日顔を突き合わせていると言うのに、彼の口から出る言葉と言えば捜査状況の確認ばかりで、たまに関係ない話をしてみれば「そんなことより」ときたものだ。正直、全然、面白くない。だが、快斗にとって何より面白くないのは、どれほど行動をともにしようと少しも心の内を見せようとしない新一の態度だった。 確かに出会い頭のいざこざの所為もあり、お互いの印象はお世辞にもいいとは言えないものだったろう。だが、それにしても新一のこの態度はあまりにも頑なだ。皇帝陛下に関することは勿論、彼は自身に関わることに対しても一切口を開こうとしない。現に今も、あからさまに声を低め表情を硬くしている。 「捜査には関係ないことだ。答える義務はない」 「そりゃ、捜査には関係ないけどさ。ずっと気を張ってて疲れないのか?」 「馬鹿にするな。この程度でへたばるものか」 「いや、そうじゃなくて…」 「それとも、おまえにとってはその方が何か都合がいいのか?」 「…だからそういうことを言ってるんじゃないだろ!」 そのあまりの言い様に、さすがの快斗も頭の血管を二、三本ぶち切った。手を組むなどと言いながら、新一はまるで快斗のことを信用していないのだ。むしろ、彼の口調は自分以外の何者も信用していないかのようにさえ聞こえる。まるで、彼にとっての全ての人間は、ただ彼を貶めるためだけに存在しているかのようだ。 せっかく綺麗に着込んだ舞衣の襟元を掴み上げ、触れんばかりの距離で快斗は新一を睨み付けた。その滅多に見られるものではない頭領の激昂に、白南風の者であれば震え上がってしまうところだが、生憎と新一はそんな可愛げのある男ではなかった。快斗に負けじと、鋭い眼光で睨み返す。 「なら何が言いたいんだ?俺が何をしようとおまえには関係のないことだろう」 威嚇するように睨み付けてくる瞳には、協力者に対する信頼など欠片もない。これ以上はたとえ誰であろうと決して踏み込ませない領域だと、全身で拒絶している。 それに余計に苛立った快斗は勢いに任せて怒鳴った。 「ああそうだ、関係ねえよ!だったら俺がおまえの心配するのだって勝手だろ!」 新一は目を瞬いた。 「心、配…?」 「そうだよ!だっておまえ、一日中千賀鈴姉さんにつきっきりで、夜も宿舎の護衛なんて、いったいいつ休んでんだよ!それで体壊さねえはずがないだろうが!」 相手は宮廷にまで忍び込んだ賊だ。こんな妓楼の宿舎に忍び込むことなどわけないだろう。しかも一度外で襲うことに失敗したからには、次はきっと確実に仕留めるために手段を選ばない。だからこそ、新一は千賀鈴の護衛を申し出たのだ。 快斗も協力すると決めたからには徹底的に尽力するつもりで常に新一と行動をともにしている。この五日は家にも帰らず新一とともに宿舎に寝泊まりしてもいる。だが、この五日、快斗は新一が休んでいるところを見たことがなかった。 夜の見張りは交代で。そう話し合ったにも拘わらず、新一は交代の時が来ても、目を瞑りこそするものの、気配が眠りに就くことはなかった。どんな些細な異常もすぐに察知し対処できるようにと、常に感覚のどこかを研ぎ澄ませている。その手の感覚を鍛えてきた快斗だからこそ分かるのだ。新一はこの五日、まるで眠っていない、と。 「何のための共同戦線だ。ちょっとぐらい頼ってくれたっていいだろ」 これほど言ってもひと言も返さない新一を快斗は恨みがましく睨み付ける。けれど、相変わらずの仏頂面をするとばかり思った新一は、予想外にも困惑したように眉を寄せた。 「なんだよ?」 不機嫌そうに声を掛ければ、戸惑いながらも新一も口を開く。 「…なんで、心配するんだ?」 「はあ?」 「だって、俺とおまえはただの協力者だろ。それなのになんで心配するんだ?」 「なんでって…理由なんかねーよ。おまえだって誰かを心配するのにいちいち理由なんか気にしないだろ?」 「…そういうものなのか?」 心底分からない、と言った様子で尋ねてくる新一に、快斗はわけの分からない衝撃を覚えた。 平次は新一が「出たくても出してもらえなかった」と言っていた。それは彼がどこかの良家のお坊ちゃんで、だから下町なんて野蛮なところはもちろん、屋敷の外にも出してもらえなかったのだろうと快斗は思っていた。 快斗には生まれた時から父親がいないし、母親も既に他界しているが、それでも養父や義妹、寺井に徹に白南風に下町の人にと、多くの人に愛されて育ってきた。だから養父が快斗の下町通いを嫌がるのも自分のことを思ってのことだと知っているし、心配してくれているからだと分かっている。 だが、新一はそうではないのだ。どんな行いでもその裏に愛情があれば子供は聡くそれを理解する。つまりそれを理解できない新一は、今まで愛情のない行いによって行動を縛られていたということだ。そんなのは、頼る頼らない以前の問題ではないか。 「…なんか、あんたが人に頼らない理由が分かった気がする」 これでは平次も懐柔されてしまうわけだ。快斗は苦い溜息を吐いた。 「言っとくけど、俺がおまえに協力すると決めた時点で、おまえはもう俺の身内なんだよ。これでも人の選り好みには煩くてね。気に入らない人間とは同じ空気も吸いたくないくらいなんだ」 突然語り始めた快斗を新一が不思議そうに見ている。 「だから、安心していい。――俺はおまえを裏切らない。」 その目が、見開かれた。 「おまえが今までどういう境遇で育ってきたのかなんて聞く気はない。聞いたってどうせ腹立つだけだしな。でも、過去の秤で俺を量るな。俺は絶対におまえを裏切らない」 未だ胸ぐらを掴んだままの状態で、吐息の触れんばかりの近さで言葉を交わす。新一が芸妓に扮しているためもあり、それはまるで睦言を語り合う恋人同士のようにも見える。 動揺したのは新一だった。 「な、ぜ…そんなことが言い切れるっ」 ぎり、と睨み付ける眼差しが初めて揺らいでいる。快斗の言葉の何かが、頑なだった彼の心の一部を崩したのかも知れない。快斗は掴んだ襟を更に引き寄せると、新一の瞳を真っ直ぐ射抜き、口元には笑みさえ浮かべながら言った。 「俺がおまえを気に入ったからだ」 その目が一層見開かれるのを、快斗は面白そうに見ていた。 快斗は昔から、自分の気に入ったものにはとことん執着する質だった。今まで快斗が曲がり形にも気に入ったものは決して手元から手放さず、文字通りぼろぼろに擦り切れた今でも快斗の部屋に大切に保管されていた。しかし、それほどまでの強い執着も、快斗にとってはむしろ全くの無関心を埋めるための身代わり≠ナしかなかったのだ。 何をしてもつまらない。何にも、誰にも執着できない。ほんの一瞬前には楽しかったことも、次の瞬間にはひどくどうでもいいことのように思えてくる。どこにいても、どれ程の人に囲まれようとも、いつも心は別のところにある。いつも心が飢えている。 だから、この飢えを満たしてくれる存在を快斗はいつも捜していた。誰の身代わり≠ナもない、自分だけの誰か≠。 そしてきっと、目の前のこの男こそがそれなのだ。 「俺は、気に入ったやつを絶対に裏切らない」 不安など感じる暇もないほど傍に居て、絶対独りにしない。…絶対に、寂しい思いなんてさせない。それは幼い頃からずっと誓い続けてきたことだ。 だから。 「ひとりで抱え込まずに、少しは俺を頼りにしろ」 戸惑う新一には構わず、ただ笑みを残して快斗は部屋を出た。そろそろ六時を回る。芸妓たちが支度のできた新一を呼びに来るだろうし、快斗も持ち場につかなければならない。 だが、これはあくまで一時的な別離だ。快斗にはもう、新一を手放すつもりなどなかった。 「…工藤さん?どないかしはったん?」 遠慮がちな小さな声で千賀鈴に呼びかけられ、新一ははっと目を瞬いた。そんな場合ではないのに何を呆けているのかと、軽く頭を振って雑念を払う。 新一は今、宴席用の大広間にいた。軽く二十人は足を伸ばしてくつろげるだろうこの大広間は、部屋代だけでも結構な値段なのであまり使われることもないのだが、珍しく今日は客が入ることになったのだ。そのため、新一と千賀鈴を含む十二人の芸妓たちが慌ただしく準備を行っている。 「すみません、何でもありませんので」 「せやけど…」 「それより、今はその名は禁句ですよ」 そう言ってにこりと笑えば、千賀鈴も困ったように笑みを返した。 新一は今、妓楼に上がったばかりの見習い芸妓として志保≠ニ名乗っている。下町には新一を知る者はまずいないが、都の者であれば、顔は知らずとも工藤≠フ名で舞を躍る者が宮廷舞師であると結びつけて考える者がいないとも限らないので、これはそのための予防策だった。その上新一は生まれながらの唖者だと偽っているため、歌を歌えとせがまれることもないし、見習い芸妓に楽や舞をと請われることもない。ろくに話すこともできない芸妓が客の話し相手を務められるはずもなく、おかげで新一はただ客に酌をすることに徹していられるのだ。 「今日のお客は、朝廷から来られる方でしたね」 「ええ、確か、近衛府の方やと聞いてます」 客の数は八人と、大広間を使うにしてはやや少な目だが、客のひとりに大臣の息子がいる。都のある種の人々は贅沢をすることが権力の誇示になると信じているらしく、彼もその類だった。今日はその男の昇格祝いなのだ。 新一はちらと、誰にも気付かれぬ微かな動きで天井へと視線を投げた。その向こうには快斗がいる。朝廷からの客の監視は、今やすっかり快斗に任せきりになっていた。 外には十人ばかりの子供たちが妓楼の見張りについていて、妓楼の周りをうろつく不審者を見つけたら報告しろと、頭領より命じられている。彼らは、新一たちがここにいる本当の理由を知らない。ただ千賀鈴を付け狙う不届き者から彼女を守るためにここにいるのだと思っている。同じく、妓楼で働く芸妓たちにも知らせていない。だが新一は、そして千賀鈴本人もそれでいいと思っていた。なにもわざわざ怖がらせるようなことは言わなくていい、と。 「ほな、そろそろお客さんのお迎えに行きましょか」 藤の花が描かれた薄紫色の舞衣を着込んだ、芸妓の中でも年長の女性が声を掛けた。彼女は芸妓たちを仕切る大姉で、名を市佳代といい、紅梅楼の中では紅子に次ぐ権力者であった。芸妓たちからはすぐに「はい」と返事が返り、千賀鈴もすぐに立ち上がる。その後に新一も続いた。 「いらっしゃいませ」 市佳代の声に応じるように、大広間の左右に立ち並んだ芸妓は一斉に頭を下げる。左の列の最後尾に並んだ新一も、既に慣れた仕草で頭を下げた。 迎えられたのは、濃紺の制服を着た近衛兵ばかりが八人。その先頭を歩く二十代半ばの青年が、おそらく件の大臣の息子である守谷秀彦であろう。権力主義者の父親に似てどこか尊大な態度をしている。 守谷は芸妓たちを一通り眺めた後、気落ちしたように溜息を吐いた。 「市佳代さん。今日は和葉さんはいないのか?」 「すみませんなぁ。和葉は別のお客さんからご指名受けてるよって」 「それは残念だ…」 どうやら彼の目当ては紅梅楼一を誇る舞姫、遠山和葉だったらしく、市佳代の返答に守谷はあからさまに機嫌を降下させた。慌てた市佳代が、新一の隣に立っていた千賀鈴の手を引き守谷の前へと引っ張り出す。 「そやけど、ほら、千賀鈴の歌もうちじゃかなりの人気やさかい」 「へえ?」 興味を引かれたらしい守谷が、まるで品定めでもするかのように千賀鈴を見遣る。容姿も器量も申し分ない千賀鈴は紅梅楼でも和葉と一、二を争う人気の芸妓だ。とは言え、舞手の和葉と歌い手の千賀鈴、そして楽師の市佳代を一度に指名するほどの贅沢ができるのは、おそらく皇帝陛下おひとりくらいのものだろう。 「それに、ほら!」 少し気をよくした守谷の更なる気を引こうと、市佳代はあろうことか、最後尾に並んでいた新一の手を引いた。 「この子、先日上がったばかりの新米芸妓なんやけど、もうかなりの人気なんよお」 もちろん市佳代には何の悪気もなく、むしろ大姉としては当然のことをしたに過ぎないのだが、新一としては堪ったものではなかった。離宮に引きこもりがちな舞師とは言え、宮廷に勤める舞師である自分を知らないとも限らない者の前へ、女装姿と言えどいきなり引っ張りだされたのだ。市佳代は新一が男であり、今は事情があって芸妓に扮していると知っているにも拘わらず、である。 しかし、新一はにこりと微笑を浮かべると、雅やかに腰を折り頭を下げた。色々と納得いかないことはたくさんあるが、こうなったからには仕方ない。むしろ下手に動揺した方が状況は不利になるだろうと、すぐさま思考を切り替えた。 「へ…ぇ、これはまたかなりの上玉だな」 「ふふ、皆さんそう仰いますわ」 「それで、君の名前は?」 守谷は気取ったように腰に手を当て少し屈みながら新一の手を取った。にこやかな笑顔が何だか薄ら寒い。思わず手を引っ込めたくなる衝動を必死で堪え、新一は困ったような笑みを浮かべた。すると、気付いた千賀鈴が慌てて答えた。 「あの、この子、口が利けないんです」 「え、そうなの?」 途端に興味の失せたらしい守谷は、まるで手に付いた埃を払うように新一の手を振り払った。まるでそれまでの遣り取りなど何もなかったかのように。そのあからさまな態度は、千賀鈴を含む芸妓たちの心を冷めさせるには充分なものだった。 彼ら都の人間にとって、弱者は虐げられて当然の存在なのだ。それは金銭的な弱者であったり、社会的地位における弱者であったり、単純に力の弱い者であったり。そして、体や心に障害を持った者もまた、虐げられて当然だと思っているのだ。その傲慢な思い上がりが、数千年もの時を経た今も、下町と都の人々とを隔たる大きな溝となっていると言うのに。 だがそれも、神の庭で育ち宮廷で暮らしてきた新一には慣れたものだった。それによって傷付けられるどころか、むしろ手を離してくれて有り難い、くらいにしか思わなかった。 「まあいい。せっかくの昇格祝いだ、さっさと部屋に案内してもらおうか」 そんな態度を取られても、年長の市佳代は嫌な顔ひとつせず、こちらです、と笑顔で彼らを部屋へ案内した。残りの芸妓たちは料理を運ぶために厨房へと向かう。その後ろについて歩いていた新一に、声を落とした千賀鈴が小さく「すみません」と囁いた。 「嫌な思いさせて、すみませんでした」 「千賀鈴さんが謝ることではありませんよ」 「せやけど、うちがこんなややこしいお願いせんかったら、工藤さんがこんな目に遭うこともなかったはずやから…」 そう言った千賀鈴の沈んだ表情を見る限り、言われた新一よりもむしろ彼女の方が余程辛そうに見えた。彼女はもうずっとここで働いてきたのだとういう。それではさぞ嫌な思いもたくさんしてきたことだろう。 だが、「嫌な思い」と言われても新一にはあまりぴんとこなかった。確かにされて気分のいいことではないし、されずに済むならその方がいいに決まっているのだが、だからと言ってそれによって傷付けられたかと言われれば、全くそんなことはなかった。 なぜなら、 「大丈夫ですよ。彼のような人の言葉は、何ひとつ僕の心には届きませんから」 そう。この心に届くのは、ただひとりの方の言葉だけ。その方以外の者の言葉など、何ひとつ心に届きはしない。だからこの心を傷付けられるのはひとりだけであり、この心を癒せるのもひとりだけなのだ。皇帝陛下、ただその方だけが。 そう思い、ふと過ぎった言葉にどきりとした。 ――俺はおまえを裏切らない。 魂を、揺さぶられた気がした。 そんなことは言われたことがなかった。そして、あんなにも真っ直ぐな目を向けられたことがなかった。新一は確かにその言葉に瞬きを忘れ、呼吸を忘れた。思考が溶け、何も考えられなかった。ただ、届いた。そして……なぜか泣きたくなったのだ。 あの時のことを思い返すと、それだけで今も胸が騒いだ。 「…工藤さんには、もう心に決めた方がいてはるんですね」 何かに気付いたらしい千賀鈴がふふ、と笑みをこぼす。え?と首を傾げる新一に、何だか嬉しそうに言った。 「気ぃ悪ぅしたらすみません。せやけど、女はこうゆうことには聡いらしいから、堪忍して下さい。何考えてはったんか分からんけど、今の工藤さんの顔、誰かを想ってはる顔やったから」 そうして笑う千賀鈴の顔も、誰かを恋い慕う女の顔をしている。だが、新一にはそのことに気付く余裕もなかった。 心に決めた方。それはもちろん、生涯かけて尽くすと決めた皇帝陛下こそが、新一にとってのその人だろう。他ならぬあの方のために生き、新一は今もこうして芸妓などに化けているのだから。 だが彼女は陛下ではなく、あの男の言葉を思い出していた新一を見てそう言ったのだ。あの男の言葉に揺れ動く新一を見て、誰かを想っているのだろう、と。その事実に、新一は焦りとも恐れとも言えない感情を覚えた。 「千賀鈴!志保さん!はよ来てこっち手伝ってやー!」 厨房から呼びかけられた声に、二人は慌てて厨房へと向かった。 今はそんなことに気を取られている場合ではないのだ。やらなければならないことはたくさんある。だから今は忘れてしまおうと、これから行く部屋に彼がいることを頭のどこかで考えながらも、新一は無理矢理きつく目を瞑った。 |
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