料理も一通り出し終え、客の間にも程良く酒がまわり始めた頃。広間の最奥に設けられた舞台に、琵琶を持った市佳代と千賀鈴が並んでいた。これから市佳代の琵琶演奏に合わせ千賀鈴が歌うのだ。花街一の高級妓楼の人気者ふたりに、客の間から歓声が上がった。 新一は給仕に徹する他の芸妓に交じり客に酌をしながらも、何か異変がないかと常に気を張っていた。千賀鈴が舞台に上がったことで彼女との距離ができてしまったが、この程度の距離であれば何ら問題ない。自分と、そして天井裏に潜んでいる快斗のふたりを欺くことは、なかなか容易ではないだろう。 市佳代の右手に握られた撥がゆっくりと弦を弾く。しんと静まった空間に二度、三度と続けざまに音が響き、やがてひとつの曲を奏でだした。初めは音の響きを楽しむように、けれど徐々に早くなる撥の動きに合わせ、曲調も次第に早くなる。その音の上に、千賀鈴の鈴のような歌声が重なった。それは琵琶の音色を壊さぬほどの、絶妙な声量だった。 (…確かに、うまいな) 皇帝陛下付きの宮廷舞師である新一がいるように、宮廷にも楽師や歌師はいる。だが、その多くは都に住む良家の御息女や、武官にも文官にも付けずに楽師を志した御子息であり、技量よりも家柄で役職に就いているような者ばかりだった。技術だけで言うならば、正直華族の者の方がずっと巧いだろう。 だが、千賀鈴の歌にしても市佳代の楽にしても、新一が思うに華族の者にも勝るとも劣らない。おそらく当人が生まれ持った才能はもちろんのこと、日々多くの芸妓たちの間で競い合うことによって彼女たちはその技術を研磨していったのだろう。 思わず、新一の顔にも笑みが浮かぶ。 新一は宮廷舞師である自分の舞に自信と誇りを持っていた。なぜならそれは、華族の唯一の男児として生まれた新一が、天より与えられたただひとつの才能だったからだ。そしてその才を認められたからこそ、皇帝陛下より宮廷舞師のお役目を頂くことができたのだ。かつて宮廷に仕える音楽師であった母の代わりとしてではなく、舞師としての自分の才能を認められた、それが何より嬉しかった。それゆえ宮廷に上がってからも、新一は舞の技術を高めるための努力を怠らなかった。それほど舞に関して新一は貪欲だった。 そして今、久方ぶりに才能ある歌師と楽師に遇ったのだ。新一の中に流れる舞師としての血が騒ぐのも仕方のないことだった。 「…おい、おまえ」 ふと、空いた盃に酒を注いで回っていた新一の腕を守谷が掴んだ。内心で眉を寄せながらも、新一は完璧な微笑を浮かべて振り返る。守谷は口元に意地の悪い笑みを刻み、嘲るように言った。 「おまえも芸妓の端くれなら、口が利けなくても楽や舞の嗜みはあるんだろう?」 だったら何かやってみせろと、尊大に言い放つ。いちいち癇に障る男だと、新一は心中で舌打ちした。 市佳代が「先日上がったばかりの新米芸妓だ」とわざわざ説明したにも拘わらず、この言い草。普通芸妓は、働く中で先輩芸妓に楽や歌、舞を教わって一人前へとなっていく。芸妓が客の前で舞台に上がれるようになるまでには、少なくとも一年は必要だ。独演ともなれば三年は必要だろう。つまりこれは明らかに、唖者だと名乗った新一への嫌がらせだった。 「あ、あの、志保はまだ上がり立てで、楽も舞もできませんので…」 黙り込んでしまった新一に代わり、近くにいた芸妓のひとりがおろおろと狼狽えながらも必死にその場を繕おうとした。彼女たちは皆紅子から事情を説明されているため、新一が男であることを知っている。その新一に楽や舞ができるなどとは思ってもいない。 けれど。 (――上等だ) 新一はにっこりと花のように微笑むと、徐に立ち上がった。そのまま呆然と見遣る芸妓たちを無視し、躊躇いなく舞台へと上がる。驚いた市佳代と千賀鈴が思わず演奏と歌を止めてしまったのも気にせず、客席に向かって優雅に腰を折った。それは、今はもう知る人のいない古の宮廷作法だ。その美しさは、簡略された現在の作法とは比ぶべくもない。客席から思わず洩れた溜息に、新一は満足そうに笑った。 別にどんな嘲りを受けようと、嫌がらせをされようと、新一は傷つかない。だが、それに怒りを覚えないわけではなかった。むしろ新一の性格としては、売られた喧嘩は三倍にして返す、と言うのが基本だ。その新一が宮廷や朝廷における噂の数々を甘んじて受けているのは、他ならぬ皇帝陛下の立場を慮ってのことなのだ。だが、今この場に陛下はいない。一介の芸妓が一近衛兵にどれ程恥をかかせたところで、陛下には何のお変わりもないだろう。それなら、何を遠慮する必要があろうか。 新一はちらりと千賀鈴を振り返ると、口の動きだけで曲名を告げた。どのような曲であっても即興で合わせられる自信はあるが、どうせなら完膚無きまでに打ちのめしてやりたいではないか。それなら踊り慣れた曲をと、新一が頼んだのは、神の庭で暮らしていた頃から何度となく耳にしてきた「花片舞曲」という曲だった。 未だ状況を理解しきれないながらも千賀鈴は何とか頷きを返し、市佳代に「花片舞曲をお願いします」と囁いた。 そうして、芸妓さえも観客にした、新一の演舞が始まった。 ふわりと、まるで風に遊ぶ花弁のように、舞衣の袖から伸びた薄布が舞う。淡い桃色のそれは、喩えるなら桜の花弁のようだった。風に吹かれた花弁が舞い上がり、弧を描きながら地へと沈んでいく。髪に揺れる黄金色の髪飾り、鈴蘭の花。まるで揺れる髪の流れまでもが計算されたような動き。 目を奪われるとはまさにこのことだ。快斗は、全てを忘れて新一の舞に魅入っていた。 部屋に入ってきた時から気に入らない男だとは思っていたが、守谷が新一の手を掴んだ時、快斗は思わず屋根裏から飛び出しそうになった。すんでのところで踏み止まったものの、柱の影に隠れているだけの今、いつ見つかってもおかしくない状況である。そんな状況にも拘わらず、快斗はそれらの全てを忘却していた。そしてそれは守谷や他の客、芸妓たちにしても同様だった。 振り上げた手に従い弧を描く薄布。腰に結わえられた紐が体を捻る度にふわりと絡み、ほどける。しなやかな足がくるりと天を仰いだかと思えば、その勢いのまま地に手をつき、体全体で円を描きながら音もなくまたふわりと着地する。静かで、華やかで、美しい舞。 (…工藤…) 彼はいったい何者なのか。快斗は未だに、新一が朝廷に務める人間であるということしか知らなかった。 二年前、徹の後を継いで快斗が白南風の頭領となった時、既に和葉は白南風の一員だった。しかし彼女が紅梅楼の舞姫≠ニ呼ばれるようになったのは、ここ一年ばかりのことだ。それまでにもひとりで舞台に立つことは何度もあったのだが、最近になって漸くその演技力を客に認められるようになったのだ。そこにどれ程の力を注いできたのか、快斗には見当も付かない。しかし舞を本業とする和葉が何年もかけて得たものを、即興でできるはずがないことは確かだ。そして、和葉以上の素晴らしい舞を、目の前で彼が舞っていることもまた確かだった。 息を呑んで新一を見つめている守谷。きっと彼は新一が唖者だと偽っていたことなど忘れているに違いない。他の客たちもこれが新人芸妓の見せる舞などとは信じられないだろうし、芸妓たちにしても、新一が男である事実さえ忘れてしまっているかも知れない。まさに風に舞う花弁の如き華麗な舞に、ただ食い入るように魅入っている。 曲は、終局へと向かっていた。 本来「花片舞曲」は大勢の舞手で同じ舞を躍るための舞曲だ。それぞれの舞師を花弁に模し、そのぴったりと息の合った演技で観客を魅せる。そのため逆にひとりで舞うと、見せ場となるような華々しい部分がなく、客の目を飽きさせてしまうことが多い。そして、舞に欠かせないのが道具だ。それは枝花や扇、剣であったりと曲に合わせて様々だが、舞をより美しく見せるためには必要不可欠なものである。けれど、真に優れた舞師が舞えば、たとえひとりであろうと、たとえ何の道具を用いずとも、決して客の目が逸らされることはないのだと思い知らされた。 この場にいる誰もが彼の舞に釘付けだった。だから――気付くのが遅れた。 がしゃんっ、という音と同時に、舞台のすぐ傍にあった窓の硝子が盛大に割れた。それも、格子状になった窓枠ごと破壊する勢いで。その窓のすぐ前に座っていたのは千賀鈴だ。芸妓の間から悲鳴と、客の間から驚愕の声が上がる。千賀鈴は驚きすぎて声も出ないのか、自分に降り注ぐ硝子片をただ茫然と見つめている。 しまった、そう思った快斗が駆けつけるよりも早く、千賀鈴に覆い被さるようにして彼女を庇ったのは新一だった。 一瞬にして腰に結んでいた紐をほどいて舞衣を脱ぐと、それを頭から被って自分ごと千賀鈴を覆う。折れた窓枠が彼の背中に弾かれ、床に落ちてがたがたと音を立てた。その背中へと容赦なく降り注いだ硝子は、けれど舞衣で覆われた二人に傷を付けることなく床へと落ちていく。 全ては一瞬だった。その一瞬の間に判断を下し、行動を起こし、そして千賀鈴を守ってみせた新一は見事としか言い様がなかった。 けれど。 「…っ、…」 声もなく、息を呑むような微かな呻きが漏れた。見れば、存外大きな硝子片が、深くはないが新一の左のふくらはぎに突き刺さっていた。 「く、どう…さん…」 「…お怪我はありませんね?」 固まっていた千賀鈴に茫然と名前を呼ばれた新一は、おそらく痛みからだろう、軽く眉を寄せながらも何でもないように微笑んでみせる。それを見た千賀鈴の顔が泣きそうに歪んだ。 快斗の中で何かが音を立てて切れた。 「頭領!」 快斗が広間へと上がれば、そこは一気に騒がしくなった。すぐにこちらに気付いた千賀鈴の呼びかけに、客の間からざわめきが起こる。どうせ突然の登場に驚いているのだろう。それとも白南風の頭領がこんな若造だとは思わなかったのか。何にせよ快斗にとってはそんなことはどうでもよかった。それよりも今は新一だ。この――馬鹿な男を、どうにかしなければならなかった。 「…なんで、出てきた。おまえの持ち場はここじゃないだろ」 新一は快斗を認めるなり、目に見えて不機嫌になった。 快斗は答えなかった。答えず、ただ睨むように見下ろしていた。 舞衣の下に着込んだ白い袴に血が滲んでいる。未だ硝子が刺さったままで傷口が塞がれているからこの程度の出血で済んでいるのだ。硝子を抜けばおそらく結構な量の出血だろう。もちろん、当然、この男はそれを分かっているから下手に傷口に触れないのだ。一歩間違えれば重傷を負いかねないこの状況で、この冷静さ。 ――全く以て、腹立たしい。 快斗は無言で新一を抱き上げた。 「なっ!にを…っ」 「五月蠅い」 快斗の突然の奇行に、驚いた新一が足の痛みも忘れて盛大に暴れる。こんな華奢な形をしていても、中身は誰よりも男らしい新一だ。今は女装しているとは言え、まるで女のように扱われるのは屈辱的なのだろう。彼の意地も分からなくはないが、それをいちいち気にしてやれるほど、今の快斗は寛容ではない。その無法な足を掴んで睨み付けてやれば、新一は悔しそうに唇を噛み締め顔を背けながらも、大人しく引き下がった。 「…紅子」 「はい」 気配を感じて呼びかければ、背後に控えていた紅子が返事をした。 「おまえ、分かってただろ」 「貴方こそ、随分な余所見をしていたんじゃなくて?」 「…もし取り返しのつかないことになってたら、その面殴ってたところだ」 「そうね。そうなったら、わたくしもただでは済まさなくてよ」 殺気を込めた脅しもあっさり流され、快斗は舌打ちを鳴らした。 占術か何か知らないが、紅子はいつも先を見通したようなことばかり言っている。それに、これほどの騒ぎが起きたというのにこの落ち着き様。彼女が取り乱すとは思わないが、その場に居合わせたわけでもないのに何の事情も聞かないのは、既に事態を飲み込めているからに他ならなかった。 「とにかく、ここはわたくしに任せて貴方は早く診療所へ行きなさい」 ざわつき始めた広間を見渡し、快斗が頷く。その遣り取りを聞いていた新一が慌てながら言った。 「あのっ、ですが彼らを帰すわけには…」 まだ賊は近くにいるかも知れない。それどころか、彼らの中にいるかも知れないのだ。それを目の前にしてみすみす逃すわけにはいかないと、今にも飛び出していってしまいそうな新一へ、紅子はにこりと微笑んだ。 「ご心配には及びませんわ、我が君。賊は疾うにこの妓楼を離れてしまいました。畏れながら、その足で逃げる賊を負うのは困難でしょう」 快斗の眉がぴくりと動く。「賊が疾うに妓楼を離れた」ということは、やはり紅子はこの事態が賊によるものだと知っていたのだ。しかも、その賊が既に妓楼にいないことさえも知っている。だが、そこまで分かっているのならなぜ未然に防がなかったのか、それが腑に落ちない。そうすれば千賀鈴が危険な目に遭うことも、まして新一が怪我を負う事もなかったというのに。 「貴方さまはどうぞご心配なさらず、まずはぜひともそのお怪我の治療をなさって下さいませ」 「ですが…」 賊が既にいないと聞かされてもなかなか引こうとしない新一に、いい加減痺れを切らせた快斗が問答無用で連れて行こうかと思い出した時、紅子はふいに声を潜めて耳打ちするように囁いた。 「…失礼ながら、あの方≠ノ知れると後が面倒なのでは御座いませんか?」 「!」 その途端、新一は顔を強ばらせ黙り込んでしまった。何のことか快斗にはさっぱり分からないが、新一には分かったのだろう。若干青ざめてさえ見えるその表情に顔をしかめながらも、快斗は紅子に目配せをして広間を出た。自分の知らない新一の何かを共有している紅子が妬ましくも思うが、そんなものは後でいくらでも聞き出せる。 「千賀鈴姉さん、悪いけど一緒に来てくれる?」 「は、はい!」 広間を出たところで思い出したように声を掛ければ、所在もなく戸惑っていた千賀鈴が慌てて立ち上がった。歩いて五、六分の距離とは言え、千賀鈴から離れるのは拙い。いつ賊に襲われるとも限らないのだ。 快斗は新一を腕に抱き千賀鈴を連れ、寺井の診療所へと向かった。 ずきずきと足が痛む。間抜けにも怪我を負ってしまった自分が憎い。だが、何よりもこうして快斗に抱き上げられている事実が、新一にはどうしても許せなかった。 紅子が言うように、またも怪我を負ってしまったことが志保にばれれば、確かに後々面倒なことになるだろう。だが、正直そんなことよりもこの状態の方がずっと新一には耐え難かった。自分でも何がこれほど気に障るのか分からない。ただ、落ち着かないのだ。彼の傍にいると腹のあたりがじりじりと焼け付くのだ。それが心を掻き乱し、思考を掻き乱す。 ――この男は、新一にとってひどく危険な存在なのだ。 (早く着け…!) たかが五分の道のりが、十分にも一時間にも感じられる。新一はとにかく早く快斗の腕から解放されたくて、けれど暴れるわけにもいかず、まんじりともせずにただ身を委ねる他なかった。 そうこうする内に寺井の診療所が見えてきた。これで漸く解放される、と気を緩めかけた新一は、しかしすぐに顔つきを改めた。診療所の前に一台の馬車が止まっている。その車体に刻まれた紋には見覚えがあった。 (あれは…澤田の紋だ) 澤田は古くから宮廷と関わりを持つ旧家のひとつで、現在でも澤田家の令嬢がひとり皇帝陛下の側室に召されている。しかも先日襲われた皇子は彼女のひとり息子である。その澤田の紋をつけた馬車が、なぜこんなところにあるのか。 「…黒羽。なぜ寺井さんの診療所に都の馬車があるんだ?」 「ああ、寺井ちゃんは昔都で診療所を開いてたから、下町に移った今でもわざわざ都から寺井ちゃんに診てもらいに来る患者が結構いるんだ。この人もそのひとり。俺もガキの頃から何度も会ったことあるよ。ま、皇帝陛下の主治医だったくらいだから腕は確かだからな」 「寺井さんが陛下の主治医っ?」 「俺が生まれる前の話だし、工藤が知らないのも無理ねーよ」 思いも寄らぬ事実に新一は素直に驚いた。よもやあの老人が、かつて陛下の主治医を務めていたとは。しかし驚き半分、納得もしてしまう。あの老人の穏やかさと優しさ、そして新一が華族であることを目を見ただけで見抜いてみせた抜け目のなさは、どことなく陛下を思い起こさせた。 「…おい。まさか寺井ちゃんを疑ってんのか?」 微かに険を含んだ声で低く訊ねる快斗に、いや、と新一は首を振った。 「あらゆる可能性を考えているだけだ。現時点で彼を賊と断定する証拠はない。…それに…」 推理に感情を挟むなんて一番の禁忌だと分かっているが、それでも新一は彼が皇子を狙う賊などとは思いたくなかった。それは華族でありながら男である新一を敬遠しなかったからそう言うのではなく、人を見る目を養ってきた新一だからこそ言えることだ。寺井は人を傷付け人を貶めてまで、自分や誰かがのし上がろうとするような強欲な人ではない、と。 押し黙ってしまったしまった新一を深く追求することもなく、快斗はさっさと診療所の門を潜った。 「く、工藤さん!どうされたんですか、その足はっ?」 いつものように穏やかに挨拶をしようと笑顔で出迎えた寺井は、快斗の腕に抱えられた新一とその足の傷を見て血相を変えた。やはりと言うかさすがと言うか、女装した新一の正体を一目で見破るとは、あの陛下の主治医をしていただけのことはある。任務とは言えこんな格好でいることがなんとなく居たたまれなくなって、新一は頭に付けていたつけ毛を取った。 「急で悪ぃんだけど、こいつの足診てやってくれる?」 「もちろんですとも!」 快斗は寝台に新一を座らせると、棚から消毒液やらあて布やらを取り出している寺井を手伝いに行った。これで漸く息が吐けるとばかりに新一は緩く息を吐いた。 寺井は寝台の前にしゃがみ込み、膝の上に新一の左足を載せると、消毒した鑷子と針で慎重に硝子を抜き取る。途端に流れ出した血を用意していた布で快斗が素早く拭い、傷口を圧迫して血を止める。深くはないと言ってもぱっくりと割けてしまった肉は縫合しなければならないからと、局部麻酔を打たれた新一は、寺井の持つ針が自分の足を縫っていくのをじっと見ていた。女性にはやや刺激が強すぎるのだろう、千賀鈴は顔を強ばらせながら硬く目を瞑っている。 それから再び血を拭って包帯を巻くまで、十五分も掛からなかった。医者の世話になることなど滅多にない新一だが、ここまで的確で迅速な処置を行える寺井が名医であることは確かだった。 「それにしても、よく怪我をされる方ですね」 「…お手間を取らせて申し訳ありません」 「あ、いや、そういうつもりで言ったのでは…」 そうして口籠もってしまった寺井を見て、ああ、と新一は納得する。 華族の人間は神の加護によって守られている神の一族だ。どんな危険からも神が守ってくれる。なのに新一ときたら会う度に怪我を負っているので寺井も不思議に感じたのだろう。だが彼は、新一が自分が華族であることを知られたがっていないことを知っているため、快斗や千賀鈴の前では敢えて口を濁してくれたのだ。 ふ、と笑みが漏れる。 「…ありがとうございます」 静かに礼を述べる新一に、寺井も安心したように「いいえ」と笑い返した。 「――あれ、新一君?」 と、戸口の隙間からひょっこり顔を覗かせた徹が、見慣れない人物の姿に目を丸くしながら声を上げた。今の新一はつけ毛を外してしまった上に着ているものも舞衣の下に着る白い袴だけという格好なので、普通に判別がつく。それにしても珍しい組み合わせであることには違いなかった。 「徹。澤田様はもうお帰りになられたのかな?」 「ああ、いつもの薬を一週間分渡しておいたよ。それよりどうしたの、新一君のその足。まさか怪我でもしたの?」 まさかも何も、この包帯を見れば分かりそうなものだが。そんなどこかずれたことを考えている新一の隣で、仏頂面をしていた快斗は、徹の言葉に更に顔をしかめた。 「らしくないな、快斗」 「…悪かったな」 どうやら不機嫌の原因は徹らしく、快斗はふいと顔を背けている。と言うのも、「まさか怪我でもしたのか?」と言った言葉が、「まさかおまえがついていながら怪我をさせるなんて失態を曝したのか」と言う快斗に対しての嫌みのようなものだったからだ。しかし、この工藤新一を相手にそんなことを言うのは少々酷というものだろう。徹は知らないからそう言うのだろうが、新一は誰かに大人しく守られているような男ではなく、どんな危険にも真っ先に飛び込んでいってしまうような男なのだから。 「あのっ、工藤さんはうちを庇って怪我しはったんどす!」 と、ふたりの険悪な雰囲気を察した千賀鈴が、弁明しようと徹に詰め寄った。 「ほんまは、硝子の下敷きになっとったんはうちなんどす。それを工藤さんが助けてくれはったんどす。せやから、どうか、責めるんやったらうちを責めて下さい…!」 頭領も工藤さんも、なんも悪うないんどす…! そうして泣き出してしまった千賀鈴を前にこれ以上快斗を苛めるわけにもいかず、徹は困ったように千賀鈴の肩を抱き寄せた。多分、この場にいた誰よりも新一の怪我に責任を感じていたのは彼女だ。その彼女を前にこんな遣り取りをするべきではなかったなと、知らなかったとは言え結果的に彼女を泣かせてしまったことを徹は悔やんだ。 「ごめんね。別に君を責めたわけじゃないんだ。それに新一君だって、君を泣かせるために君を助けたはずじゃないだろ?」 ね?と宥められた千賀鈴はこくりと頷き掛け、はたと、自分が今どういう状況にあるかを唐突に理解した。知らぬ仲ではないとは言え、女である彼女が男である徹の腕の中にいる。そのことにぱっと顔を赤らめると、千賀鈴は慌てて「お、お茶でも用意さしてもらいます!」と部屋を飛び出してしまった。 「…やらしー」 「煩いぞ、快斗」 快斗のからかいを両断し、徹は不意に表情を改めた。 「それより、どういうことか説明してもらおうか。なんで彼女が襲われたんだ?」 ぴくり、と新一は僅かに眉を動かした。千賀鈴は「新一に庇われた」ことと「硝子の下敷きになるところだった」ということしか言っていない。「事故に遭った」ならまだしも、それを「襲われた」と解釈するのはやや強引だ。 それは快斗も疑問に思ったらしく、 「…誰も襲われたなんて言ってねーよ」 と訝るように返せば、徹は真剣な顔つきで快斗を睨み付けた。 「馬鹿にするなよ、青二才。彼女が舞衣を着てるってことは、妓楼に上がってたってことだ。妓楼で客の相手をしているはずの彼女をなんで新一君が庇えるんだ?おまえらふたりが彼女の客だったのか?違うな。新一君が着てるそれ、舞衣の下に着る袴だろう。そんなもん着てる客はまずいない。 …おまえら、彼女が狙われてるのを知ってたな」 そのあまりに完璧な推理に、新一も快斗も何ひとつ反論できなかった。彼はたったそれだけの手掛かりで、千賀鈴が狙われていたことだけでなく、新一と快斗が彼女の護衛についていたことまで見抜いてしまったのだ。言い逃れはできそうになかった。 「…分かったよ。黙ってて悪かった」 諦めたように溜息を吐く快斗に、何を言うつもりなのかと新一は視線を投げる。聡いこの男が気付かないはずもないだろうに、快斗は素知らぬ顔で続けた。 「実は、近頃変な男につきまとわれてて困ってるって千賀鈴姉さんから聞いて、工藤とふたりで護衛につくことにしたんだ」 「なんで大兄の俺に何の相談もなく、新一君となんだ?」 「千賀鈴姉さんが主人やみんなに迷惑かけたくない≠チて言ったからだよ。工藤はたまたま姉さんが襲われたところに居合わせたから、成り行きだ。それにこいつ、なんでか紅子に気に入られてるから」 そう言って膨れる顔は作り物にはとても見えない。実際、自分の知らない新一を知っているらしい紅子が、快斗は気に入らなかった。だがそんなことなど露知らぬ新一は、よくもこんなにもすらすらと嘘を並べ立てられるものだと感心していた。かく言う新一も、このぐらいの芸当は朝飯前ではあったが。 「…なるほど?」 どこか腑に落ちないながらも一応納得したらしい徹は、疑わしそうに目を細めながらも頷いてみせた。 「でもその足じゃしばらく使いものにならないね」 それ、と指さされた自分の左足を見て、新一は顔をしかめた。確かにその通りだ。志保を呼べばこんな傷すぐにでも治ってしまうが、怪我を負ったことを知られれば、彼女は新一の傍を離れようとしないだろう。そうなると、今度は陛下の守りが弱くなる。それだけは絶対に避けなければならない。 どうするべきかと考え込む新一に、徹がひとつ提案した。 「君の代わりに、俺が彼女を守ろうか」 「え…?」 「ふたりじゃ難しくても、三人なら何とかなるだろ?」 それに、と続けた徹の口元は笑っていたが、その目は笑いの欠片も浮かべていなかった。 「そういう下衆野郎には、白南風を敵に回すおそろしさってのを充分思い知らせてやらなくちゃね」 その後、新一は寺井の呼んだ馬車に乗って服部家に一旦帰ることになった。「その足じゃ使いものにならない」と、快斗と徹、その上寺井にまで散々説教をかまされた新一は、それでも頑なに妓楼へ戻ろうとしたのだが、その場で快斗に軽く組み伏せられてしまったため反論の余地もなかったのだ。腹に傷を負いつつも賊を負った新一だが、さすがに怪我をした軸足で快斗の攻撃を防ぐことはできなかった。 「ったく、ほんっとに頑固な奴」 いてて、と散々蹴られた腹をさすりながら快斗は走っていく馬車を見送る。その隣で同じく見送っていた寺井は「自業自得ですな」と首を振った。 いくら彼を納得させるためとは言え、怪我人を相手に喧嘩を仕掛けるなんて。おかげで開いてしまった傷口をもう一度縫い合わせるはめになったのだ。医者として文句のひとつぐらい言いたくもなると言うものである。 「だってああでもしなきゃ、あいつ絶対言うこと聞かないんだもん」 「おや。白南風の頭領ともあろう方が、よもや少年ひとりに手を焼かされるとは情けない」 「寺井ちゃんはあいつのこと知らないからそんなこと言えるんだよ!」 寺井は苦笑を漏らした。 「…あの人を、随分と気に入られたようですね」 快斗は昔から好き嫌いの激しい子供だった。大人になるにつれその感情を隠す術を覚えたが、本質は変わらない。嫌いなものは視界に入るだけでも堪えられない。快斗はそういう子供だった。 それが、散々腹を蹴られた上に言うことも一切聞かないような相手を、それでも傍においている。つまり快斗はそれほどに新一のことを気に入っているのだ。それは寺井にとっても徹にとっても、寂しくありながら同時にとても喜ばしいことだった。 「…親子揃って同じこと言ってんじゃねーよ」 照れ隠しなのか、仏頂面を浮かべる快斗は少し幼く見えた。 ――ああ、けれど、彼はまだ知らないのだ。あの少年が抱える苦しみと哀しみを。 華族に生まれたたったひとりの男児。忌み子と嫌われ続けてきた哀れな子供。その辛さが如何ばかりのものか、寺井には想像も付かない。そしてそれは寺井だけでなく、この世の誰にも理解できないだろう。 「…坊ちゃま」 滅多なことでは呼ばない名で呼ばれ、快斗は寺井を振り返った。 「どうかあの人を…大事にしてあげて下さい」 それは寺井の望みであり――今は亡き人の望みでもあったはずだから。 |
B / N |