翌朝、新一は太陽が真上に昇った頃になって漸く目を覚ました。連日酷使された体が本能的に休息を求めていたのだろう、優に半日以上も眠っていた事実に新一は愕然とする。 慌てて寝台から起き出し、もう三度目になる服部家の廊下を家主を求めて彷徨っていると、丁度港から帰ってきたらしい平次と出くわした。 「よう、おはようさん!夕べはしっかり眠れたみたいやな」 まだ寝間着に上着を羽織っただけの格好の新一を見て、平次は満足そうに頷く。詳しい事情は相変わらず聞かされていない彼だが、新一が千賀鈴を守るためにずっと紅梅楼に泊まり込んでいたことや、そのせいで怪我を負ったことは聞いていた。新一が逃げ出さないよう見張ってろ、なんて無茶を言う頭領の命令に従って一晩中彼の部屋の前で張っていた平次だが、どうやら杞憂で済んだようだ。 「腹、減っとるか?」 「いや、平気だけど…」 「あかんで、飯はちゃんと食わな。そんなんやから工藤はそないちっこいんちゃうか」 「…うるさい。寝起きでまだ目が覚めてないだけだ」 新一はむっと顔をしかめた。彼の前でその手の話は禁句だ。普段なら問答無用で蹴倒してやるところだが、足を怪我していたおかげで命拾いしたことを、平次は知る由もなかった。 「ま、丁度ええわ。飯もまだなら居間で待っとき。工藤への客がぎょーさん来とんねん」 「俺の客?」 ええから、ええから、と平次に背中を押され、新一は左足を庇いながらも言われた通りに居間へ向かった。客と言われても思いつくのは、快斗か千賀鈴かせいぜい寺井ぐらいのものである。下町はもちろん都にも、わざわざ新一を訪ねてくるような変わり者などいなかった。 だが、使用人のひとりに「座っていて下さい」と進められた椅子に腰掛けていると、何やら騒がしい声とともに居間へと駆け込んできたちびっ子の大群に囲まれてしまい、新一は目を丸くした。 「小兄!怪我は大丈夫?」 「お見舞いに来たぞ、小兄!」 「千賀鈴ねーちゃんを賊から守ったんだって?かっくいー!」 あまりに突然のことに固まってしまった新一へ、くつくつと快斗の笑い声が届く。 「く、くろば…」 「凄い人気だな、工藤」 どうやら、新一の怪我を聞きつけた白南風予備軍の子供たちが見舞いに来たようだった。 新一の手の中は花やら飴やら、子供たちが持ってきた思い思いの見舞いの品で埋め尽くされてしまった。どうすることもできずに固まっていた新一は、けれど何かに気付いたようにはっと快斗を振り返った。 「黒羽、千賀鈴さんはどうした?」 「彼女なら紅梅楼にいるよ。徹が一緒にいるから心配ないぜ。なんか妙に張り切っててさ」 「そらしゃーない。あいつは昔っから千賀鈴さんに弱いからなぁ。ええ加減くっついてまえばええのに」 それを言うなら平次の方こそさっさと和葉とくっついてしまえばいいのにと、新一を除くその場にいた誰もが思ったものだが、自分の色恋沙汰にはとことん疎いらしい平次がそれに気付くことはなかった。 「ま、これで安心したやろ、おまえら」 「「「おうっ!」」」 用が済んだらさっさと帰り、と言う平次に促され、子供たちはつまらなさそうに唇を尖らせながらも、怪我人を疲れさせてはいけないからと素直に従った。 「じゃあね、小兄。早く元気になってね!」 「また柔術≠チての教えてくれよな!」 「明日もお見舞いにくるからなー!」 登場も賑やかなら退場も実に騒がしい。まるで台風一過だ。食卓の上いっぱいを埋め尽くす見舞い品の数々に、どうしたものかと新一は困惑した。 「こんなもの、なんで俺に…」 「せやから、見舞いやんか。あいつら随分おまえのこと気に入っとったからな。おまえが怪我したん聞いて、居ても立ってもおられへんかったんやろ」 だが、そう聞かされても新一は「なぜ」と思うばかりだった。なぜ、彼らが自分の見舞いに来るのか。なぜ、こんな花やら飴やらを置いていくのか。 けれど平次は当然のように言うのだ。 「そら、はよおまえに元気になって欲しいからに決まってるやん」 そんなこと、新一は知らなかった。この花や飴にそんな思いが込められているなど知らないし、そんな思いを自分に向けられる理由も分からない。当然だ。これまでそうした思いに触れたことなどなかったのだから。だからいきなりこんなものを渡されても、ただ戸惑うことしかできない。 そうした新一の戸惑いを察し、快斗は苦い顔をした。人から向けられる好意や愛情がどういうものかを知らない新一は、いちいち説明してやらなければ理解することもできないのだ。 「あいつらみんな、工藤のことが好きなんだよ。だから早く元気になって欲しいと思うし、工藤に喜んでもらいたくて花や飴を贈るんだ」 だから、この道ばたのどこにでも生えていそうな花や、ひとつで幾らもしないような飴玉のそれぞれには、たくさんの好き≠ェ込められているのだと。 漸く理解したのか、それでもまだ戸惑いが抜けない新一だったが、微かにはにかみながら一本の蒲公英を拾い上げた。 「…そんなこと言われたの、初めてだ…」 食卓の上に広げられた蒲公英、白詰草、蓮華草、雛罌粟、鈴蘭。色とりどりの飴玉に、まるで星くずのような金平糖。真っ白の小石。鳩の羽根。この全てに、新一への好意が詰まっているのだという。それだけで、この取るに足りないものの全ては、新一にとって綺麗で眩しくて温かいものになった。 その様子を苦々しく見ていた平次が、いきなり新一の髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。 「ほんま、難儀なやっちゃなあ!」 平次は生来のお人好しだ。口では何と言おうと、新一がこうして時折垣間見せるどこかが不自然に欠けたような不安定さに同情を感じていることは確かだった。そうした感情を嫌う者もいるが、この憎めない性格がうまく補っている。今も、突然の奇行に驚いているものの、新一の表情に嫌悪の色は浮かんでいなかった。 「それで、足の具合はどうだ、工藤」 「問題ない」 やっとのことで平次の手から逃れた新一は素っ気なく言い返すが、もちろんそれを鵜呑みにする快斗ではない。どれ、とふくらはぎを掴まれ、未だに熱を持っていることを確かめられた新一は、問答無用で外出禁止を言い渡されてしまった。 「せめて熱が引くまでは我慢しな」 「馬鹿を言うな。…途中で放り出すわけにはいかないんだ」 それは千賀鈴の護衛に関して言っているのではなく、賊を捕らえるという任務そのものについて言っているのだ。千賀鈴には悪いが、言うなれば彼女の護衛は序でのようなものだ。賊に狙われている彼女の傍にいれば自ずと賊に辿り着く。もちろん一度口にした約束を反故にする気など新一にはないが、何より大事なのは賊を捕らえ陛下をお守りすることだ。 だが、それを承知の上で快斗は言うのだ。 「俺なら、怪我を負った仲間にそんな無茶はさせないけどな。おまえの大将は違うのか?」 おまえがそうまで必死になる相手は、おまえにそんな無茶をさせるのか、と。そんな風に言われたら、「そんなことはない」と答えるしかないではないか。 陛下は優しい御方だ。傷を負う度に新一を咎めるのも、陛下のために無茶をする新一を叱る一方で、そうさせてしまったご自身を責めておられるからだ。そんな優しい陛下の御心を痛めてまで新一が無茶をする時は、ただ陛下の身に危険が迫った時のみ。さもなくば、誰より陛下を敬愛してやまない自分が、どうしてあの御方を苦しめるような真似をするものか。 「…狡い言い方だ」 「いいから大人しく俺たちに任せときな。言っただろ?俺はおまえを裏切らない」 ふん、と新一は鼻を鳴らした。そんな言葉、誰が信用するものか。 (おまえは、その言葉の重みを知らないんだ) たとえ今は心からそう言っていたのだとしても、新一が華族の異端児であることを知れば、きっとこの男も掌を返すに決まっている。裏切りは日常茶飯事だ。だから、初めから信用しない。そもそもにして新一は、人と人との間に成り立つ信用≠ニいうものを根本的に信じていなかった。 「それで、千賀鈴さんをほったらかしておいて偉そうに、おまえはここに何しに来たんだ?」 「だって暇だろ?」 「それはおまえが彼女の護衛を徹さんに押しつけたからだろ」 「いや、そうじゃなくて。足怪我してどこも行けないんじゃ、おまえが暇だろ?」 「…は?」 素っ頓狂な声を上げる新一に、にっ、と快斗は笑った。 「暇を持て余してるだろう工藤に、都一≠ニ言われた楽でも聞かせてやろうと思ってな」 どこからともなく取り出した胡弓を一、二度鳴らして調弦を行う。仕事柄胡弓や琵琶、琴などの類はよく耳にする新一だが、快斗の手にした胡弓は、今まで聞いたことのあるどの名器よりも深い音色を奏でた。 昼食を終え仕事に戻った平次を見送ったふたりは、新一にと宛てがわれた客間に戻り、快斗は胡弓を手に床へと座り込み、新一は寝台へと腰掛けていた。 「胡弓…黒羽が弾くのか?」 「ああ。工藤は聞いたことない?天宮≠チて」 天宮と言えば、陛下の住まう宮廷の別称だ。純白の宮を神の住まう天の宮処に喩えてそう呼んでいる。だが、快斗が言う天宮≠ヘそれとは別物のようだ。新一は素直に首を振った。 「天宮≠ヘ、俺がやってる茶房の名前だよ」 「え?黒羽が経営者?」 「そう。もともとは俺の母親がやってたんだけど、おふくろが死んでからは俺がやってんの」 それは、楽とお茶を楽しむための茶房だった。 楽と言っても花街のように艶めかしいものではなく、天宮≠フ名を戴くように、宮廷に流れるような品のよい高貴なものだ。そして厳選された薫り高いお茶は、そこでしか味わえないものとの評判を得ている。花街の低俗な雰囲気を嫌う都の人々は、この物静かで幽玄な雰囲気を醸し出す茶房を殊の外気に入っていた。 そもそもは、今はなき快斗の母が気まぐれに始めたものだったが、現在では息子である快斗が母の後を継いで茶房を営み、時には自ら胡弓を奏でることもある。その音色のなんとも言い難い味わい深さともともとの愛想の良さ、そしてその端麗なる容姿も加わって、今ではかつての倍以上の繁盛を見せていた。 快斗が養父とともに住んでいることは知っていた新一だが、まさかそこで店を開いていたとは思いも寄らなかった。花処の国民は十八の年を迎えて初めて仕事に就く。だから新一は、快斗が連日家にも帰らずこうして新一とともに賊捜しに没頭できるのは、彼がまだ十七歳の未成年だからだと思っていた。それがまさか、営んでいた茶房を閉めての協力だったとは。 だが、そう言われてみれば思い当たる節がある。 「じゃあ、前に黒羽が着てた月桂樹は…」 「そ。胡弓の演奏で皇帝陛下から栄光≠貰ったんだ」 あの時は仕事中に突然平次から呼び出されたため、あんな格好のまま出てきてしまったのだと言う。でなければ誰があんな目立つ格好で出歩くものか、と。 快斗は至極さらりと言うが、それは大変名誉なことだった。皇帝陛下より「栄光」を与えられるということは、その腕が国で一番だと認められたということなのだから。それだけで将来は約束されたようなものだし、一生食に困らずに暮らしていくことができる。職人なら誰もが欲しがる称号だ。それを、よもやこの男が与えられていようとは。 新一は快斗の指先が奏でる音にじっと耳を澄ました。 紅梅楼きっての楽師である市佳代の演奏とはまた違う。彼女のそれを歌や舞に色を添える花だとすれば、快斗の演奏は、それ自体が花となりうる命を持った音色だった。 脈々と鼓動を刻み、滾々と呼吸を繰り返す。時に喜びに弾み、時に哀しみに沈む。吹き抜ける風に遊ばれ、降り注ぐ陽光に微笑み、降りしきる雨に堪え、悪戯な手におののく。まるで花のように。 演奏が緩やかになるにつれ新一の心も穏やかになり、演奏が早まるにつれ新一の鼓動も早鐘を刻む。いつしか音に同調し始めた自分に、新一は微かな戸惑いを覚えた。これは快斗の腕がそうさせるのか、それとも、この深くも透明感溢れる、どこか懐かしいような胡弓の音色がそうさせるのか。ただひとつ確かなことは、花処一≠フ演奏と呼ぶには充分すぎる演奏である、ということだった。 ぴくり、と自然に反応してしまう手足に苦笑が浮かぶ。あまりに音に馴染みすぎた体にとって、快斗の演奏はまるで最高級の餌だ。それも、舌の肥えた猫なら思わず飛びつかずにはいられないほど、とびきりの。 この音色に合わせて舞ってみたい。それは、純粋に舞師たる者としての性だった。 「黒羽にこんな特技があるなんてな…」 「そりゃお互い様だ。俺も工藤に舞ができるなんて思いもしなかった」 それでもお互いに「どこで覚えてきたんだ」なんて問いつめたりはしない。新一にしても快斗にしても、必要があったからそれを覚え、自ら選んで身につけたのだ。それを今更ああだこうだと他人に掘り下げられるなど、真っ平御免だ。 「で、俺の演奏は舞姫のお気に召しましたか?」 「…誰が舞姫だ」 「何言ってんだよ。すっかり噂になってるぜ?」 花処きっての舞姫――志保の名が。 口をきけないはずの彼女が喋ったとか、その声が何だか低かったとか。その辺りのことには一切触れず、ただその場に居合わせた客と芸妓の度肝を抜いた見事な舞は、尾ひれに背びれについでに胸びれまでつけて、下町の噂となっていた。 どこからともなく唐突に現れ、花街一と名高い紅梅楼の宴席に上がり、そして舞姫の名を浚っていった謎めいた麗人。姫≠フ名を冠することは芸妓にとってその妓楼の一番になったことを意味し、しかも紅梅楼において姫≠ニ呼ばれることは、即ち花処で一番の才と美貌を認められたことを意味する。つまり新一は、今や名実ともに花処一の舞手となったのだ。 よもやそんなことになろうとは夢にも思っていなかった新一は最早開いた口がふさがらない。確かに自分の舞には自信と誇りを持っている新一だが、たった一度の舞が、それも一晩でそのような噂となって広まるなどと誰が想像できようか。 新一には敢えて言わなかったが、実際はその見事な舞と秀麗な容姿、そして見る者の心を掴んで離さない魂の輝きのようなものに惹かれ、彼らはその姿を強く心に焼き付けたのだ。同じように心奪われ、魅入っていた快斗だからこそ分かる。だが、自分の魅力に無頓着な彼に言ったところで理解できないだろう。 「工藤はもう妓楼には上がるなよ」 「…なんで?」 「これだけ噂になっちまったらもうこっそり護衛なんてできないだろ」 本当は、たとえ偽りの姿だろうとこれ以上新一を衆目に曝したくないという、実に子供じみた理由だったのだけれど。客の酌しかできない新米芸妓だと思われていた時でさえ、その容姿だけで下町の男どもを骨抜きにしてしまった新一だ。この上更に舞姫の名を冠するなど、冗談ではない。 新一であれば、たとえ夢と現実を混同させた馬鹿が現れようと難なく返り討ちにしてしまうのだろうが、問題はそんなことではなく、勘違いだろうが妄想だろうが、たとえ一瞬でも新一を「自分のものだ」などと勘違いする輩がいるなど、快斗にはとても堪えられないのだ。 けれどそうした快斗の真意には気付くことなく、確かにその通りだと新一は顔をしかめた。守谷を見返してやるだけのつもりが、まさかこんな展開になるとは思いもしなかった。少々複雑な環境に生まれた新一は自分の価値を理解するどころか、むしろ誤った認識を持っているため、この手の件に関してはどうしても感働きが鈍るのである。 「…それに」 と、不意に声を低めた快斗が、笑みの欠片もない目で新一を射抜いた。 「俺以外の奴にあんたが笑いかけるのも、そろそろ我慢ならねえしな」 その目は、あの牡丹の間で垣間見せた、獰猛な獅子の如き苛烈な眼差しだった。 「何をふざけたことを…」 「ふざけてなんかいないさ。正直、五日もよく保ったもんだろ。俺としては、賊も国もどうでもいいんだからな」 ゆらりと立ち上がった快斗が寝台に腰掛ける新一の前に立ち、悠然と見下ろす。それを受ける新一は微動だにしないが、煌々と敵意の漲る双眸できつく睨み上げた。 賊も国もどうでもいいとは、随分な台詞だ。少なくともその「国」の中には彼の大事な白南風の仲間や都の義父たちが含まれていると言うのに、この言い草。ではいったい、彼は何のためにここに居ると言うのか。 「――おまえが居たから。」 しなやかな手が伸びてきたかと思えば、気付けば新一は寝台に転がされていた。何が起きたかなど考えるまでもない。仰いだ先に、獅子の瞳を持った男の真剣な顔があった。 「皇帝なんかやめて、俺のものになれよ」 どくりと、心臓から血とともに押し出される黒いもの。 「…退け、黒羽」 自分に覆い被さる男をきつく睨み付ける。新一は今まさに押し倒されているのだが、そんなことは思考の中から掻き消えていた。ただ、怒りとも憎しみともつかない黒い感情が体中に満ちていく。 この男が、自分の何を知っていると言うのだ。皇帝陛下の何を知っていると言うのだ。この心の奥底に巣くう虚無がどういうものかも、それを埋めて下さる陛下の存在がどれほど尊いものかも知らずに。何を、言おうというのか。 「別に、おまえに陛下への忠誠を求めたわけではない。だが、目的が同じだからこそ手を組んだのだ。その目的すらも違うというなら、もうおまえと手を組む意義はない」 しかし、のし掛かる体をぐいと押し返す手を取られ、新一は逆に動きを封じられてしまった。 「分かってないのはおまえだよ。皇帝に尽くして何になる?おまえはそれで何かを得るのか?それで皇帝が何かを得たのか?」 「――黙れっ!」 くっと唇を噛み締め、新一は烈火の如く叫んだ。 何も知らないくせに。新一の思いも陛下の思いも、何ひとつ知らないくせに。どうしてこの男がそんなことを言うのか。どうして――言い当ててしまうのか。 陛下には、本当の意味では、自分が必要でないことを新一は知っていた。新一がどれほど陛下に尽くそうと、陛下が本当に望まれるものを叶えて差し上げることはできないのだと、新一は知っていた。それでも、何もせずにはいられなかったのだ。 陛下は夜に彷徨いひとり物陰で怯えていた自分の月となり、進むべき道を示してくれた方だから。それと同じだけの何かを返したかった。 「俺のところに来いよ。このままここにいればいい」 「黙れ。私は私の意志で陛下のお傍にいるのだ。たとえ陛下が私を必要とされなくても、私がお傍にいることを陛下が許して下さる限り、私はあの方の傍にいる」 「なぜだ?ここにはおまえを必要としてる奴がいるじゃないか」 「しつこいぞ。殺されたいのか」 互いに引くつもりのないふたりは、睨み合う視線を逸らさないまま時間ばかりが過ぎる。 その沈黙を破ったのは、快斗でも新一でもなく、平次だった。 「工藤、邪魔すんでー」 果たして声を掛ける意味があるのかないのか、どこか間の抜けた声で断りを入れた平次はこちらの返事も待たずに扉を開け、視界に映った光景に思わず固まった。それもそのはずだ。そこには寝台に押し倒された新一と、新一を押し倒す快斗の姿があったのだから。 「な、なな、な…っ」 「おいおい、昼間っから何やってんだよ、おまえら」 あまりのことに驚いて声も出ない平次とは逆に、平次の後ろから顔を覗かせた徹は大して驚いた様子もなくのんびりとそんな事を言う。我に返った平次は「そういう問題とちゃうやろ!」と徹を一喝し、慌てて寝台の上のふたりを引っぺがした。 「何考えとんねん、黒羽!仮にも工藤は男やぞ!」 「…仮にも、だと?」 「え?あ、いや、」 すんません…と固まる平次に氷点下の眼差しを向け、さっさと寝台から起き上がった新一は部屋を出てしまった。その後を慌てて平次が追いかける。新一の不機嫌の理由を、自分の余計なひと言のせいだと思ったのだろう。 残された徹が、寝台を睨み付けたまま佇んでいる快斗に静かに言った。 「…焦りすぎじゃないのか?」 快斗は新一のことを気に入っている。滅多なことではその感情を見せない快斗が、どれほどの強さで彼を想っているのか、徹にはよく分かる。だから今更男だ何だと窘めるつもりはない。だが、いくらなんでも相手をいきなり押し倒したのでは、うまくいくものもいかないのではないか、と思ったのだが。 「焦りもするさ。放っとけば、あいつはすぐにどこかへ飛んでっちまうからな」 新一は皇帝陛下のために、賊を捕まえるために、下町へ来たのだ。無事賊を捕まえることができれば、快斗などあっさり捨てて皇帝のもとへ帰ってしまう。そうなれば、快斗と新一に接点はない。そうなってからでは遅いのだ。そうなる前に、快斗は何としても新一を捕らえてしまいたかった。たとえ――その翼を折ってでも。 「…快斗。分かってると思うけど、新一君はものじゃない」 「そんなの当たり前だろ」 あれがものであったならこんなに苦労することはない。そうでないから、焦っているのだ。 「だったら、そんな遣り方じゃ駄目だ」 不意に真剣な顔を見せた徹へ、快斗も真剣な顔で向き直る。普段、どこか抜けたように見える徹だが、確かに快斗の兄貴分として快斗を支えてきてくれた男だ。彼がこうして表情を改める時は、快斗も素直に耳を傾けることにしている。 「大切ってことは、守るってことだ。守るってことは、対等にあることだ。おまえの気持ちはおまえのもので、新一君の気持ちは新一君のものだ。 押しつけるんじゃなく、贈れ。奪うんじゃなく、望め」 それができない奴に、人を好きになる資格はない。 快斗は悔しそうに唇を噛んだ。 もどかしい。苛々する。なにより、苦しい。こんな思いを抱えてまで何かを求めるなんて、全く馬鹿げていると思う。なのに――止められない、なんて。 「まあ、まずはとにかく謝ってこい」 そうして背中を押されるままに部屋を出た快斗は、新一のもとへと走っていった。 |
B / N |