宮庭佳人





「せやから、スマンてゆうとるやんか〜」
 何度謝ろうと振り返りもしない新一の後を、平次が情けない顔でついて回る。だが、今の新一には平次の言葉など聞こえてもいなかった。
 もちろん新一は先の平次の言葉に怒っているわけではない。快斗の言った不用意な言葉に、これほどに怒っているのだ。…否。怒っていると言うよりは、図星を指されたことへの無様な八つ当たりか。
 ――陛下が必要とされているのは、新一ではない。そんな分かり切ったこと、今更他人の口から聞きたくなかった。それを分かっていながら陛下の傍を離れられない自分は、いったいどうしたらいいと言うのか。こうして陛下に尽くす他に、いったい何ができると言うのか。
「なあ、くどぉ〜」
 不意に立ち止まった新一に、ぶつかりそうになった平次はつんのめりながらも慌てて立ち止まる。漸くこの埒のない追いかけっこも終わりかと息を吐いたのも束の間。
「…服部。おまえ、何しに来たんだ?千賀鈴さんの護衛をしているはずの徹さんがなぜここにいる?」
 先ほどまでの空気を払拭し、一瞬にしてぴりぴりと張りつめた気配を纏った新一が、黒曜石の瞳でじっと平次を見据えた。こくりと、思わず喉が鳴る。まるで蛇に睨まれた蛙、いや、虎に睨まれた鼠だ。喉元に鋭い牙を宛てがわれているかのような緊張感。
「あ、ああ…千賀鈴さんもちゃんと連れて来てんで。居間の方で待っとるわ。なんや彼女がどーしても工藤に話したい話がある言うから、徹が連れて来たらしいわ」
 何でもお願いがあるのだとか。心当たりのない新一は訝りつつも、平次を連れて居間へ向かった。
 居間には、舞衣ではなく普段着を纏った千賀鈴が、出されたお茶に手を付けるでもなく所在なさげにぽつりと腰掛けていた。新一の姿を見つけ、破顔する。
「工藤さん!足の具合は如何どすか?」
「大丈夫ですよ。それより、何か僕に用があるとか」
 正直、安易に出歩いて欲しくない。仮にも賊に狙われていると言うのに、一見大人しそうに見えて、彼女もなかなかに気が強いらしい。やはり下町の女だからだろうかと思うものの、都にも佐藤のような女性がいることを思えば、所詮は個人の性格なのだろう。
 促すように視線を投げれば、いきなり核心を突かれた千賀鈴はぐっと押し黙る。そして躊躇うような仕草を見せたが、ここに来るまでに決心していたのだろう、思い切ったように顔を上げた。
「あの…昨日あれから、主人と徹さんに相談して決めたんどす。最初はふたりとも反対したんやけど、うちがどうしても言うたら分かってくれはったみたいで…」
「決めたって、何を?」
 見つめ返す千賀鈴の瞳が、思った以上に力強い。
「――うちに、囮をさせて下さい」
 予想もしていなかった話に、新一は驚きを隠せなかった。
「賊の狙いがうちなんやったら、うちが囮になって賊を誘き出します」
「ちょ、っと、待って下さい!そんな危ない真似をさせるわけには…」
「工藤さんは危ない目に遭ってるやないですか!」
 そう言った彼女の顔は、今にも泣き出しそうでありながら、心を決めた者の強さを秘めていた。新一は今になって、不用意に怪我などを負ってしまった自分の不甲斐なさを痛感した。
 誰かを庇って負う傷は、傷を負った当人以上に、庇われた者の心に深く傷をつける。千賀鈴を庇って傷を負った新一は、千賀鈴の心を深く傷付けてしまったのだ。彼女は、その傷の代償を払おうとしていた。
「うちは和葉ちゃんみたいに強くありません。せやけど、花街の芸妓として泣き寝入りはしません。それにこっちには白南風の頭領と大兄がふたり、その上工藤さんまでいてくれてはるねんから、なんも心配する必要ありませんやろ?」
 この最強の四人を前に、たかが賊ひとりが敵うはずもない。千賀鈴からしてみれば、賊などよりも手負いの新一の方がずっと上手なのだ。そしてその見解が決して間違っていないと言う自信がある。それは、何者にも脅かされない絶対の信頼だった。
 彼女にそこまで言わせておいて「できません」などと言えるはずもなかった。新一は諦めたように溜息を吐いた。
「分かりました。確かに、いつまでも守りの姿勢でいられるほど僕も穏和な人間ではありませんしね」
 その囮作戦とやらを使ってみるのも悪くない。
 ――ただし。
「囮役は、僕がします」
 そんな、と千賀鈴が抗議の声を上げた時、快斗と徹が居間へ入ってきた。快斗を視界の端に捉えた新一は僅かに顔をしかめたが、この場の空気を察して黙り込んだふたりに、言葉を続けた。
「僕が怪我をしたのは誰の所為でもありません。僕の不注意です。ですから貴方が気に病む必要はありません。でも、怪我を負った僕に貴方を守りきれる保証はない。だから、僕が囮をするんです」
 正直、この顔ぶれならわざわざ新一が出陣せずとも充分賊を捕らえられるだろう。成り行きでこの場にいる平次とは実際に手合わせをしたため、その実力のほどはよく理解している。実戦における徹の実力はまだ見たことがないが、先代の頭領と言うなら確実に平次の上を行くだろう。そして、黒羽快斗。この男の実力のほどは、もう何度も、嫌と言うほど思い知らされてきた。
 それでも、これほどの顔ぶれだからと言って、陛下から頂いたお役目をそのまま彼らに譲る気など新一には毛頭なかった。守り役で後れを取るなら、囮役を買って出るまで。
「せやけど、その足で大丈夫なんですか…?」
 千賀鈴の心配も尤もだった。賊に襲われても千賀鈴なら走って逃げることもできるが、足に傷のある新一ではそれさえ満足にできるか分からない。襲われるのと、襲われている者を助けるのとでは状況が違うのだ。
 けれどその心配を新一は笑顔で一蹴した。
「こう見えて、僕は近衛府の将官にだって引けを取りませんよ」
 近衛府の将官と言えば、都を守る近衛兵に与えられた四等官の階級の中でも最も高位の階級だ。その将官に引けを取らないと言うことは、つまり花処で最も実力のある宮廷、朝廷、都内の三つの近衛府の頂点に立つ三人と肩を並べると同意である。たとえ自分の能力を過大評価するにしても、確固たる実力がなければこれほど大それた発言のできる者はまずいない。
 だが、新一には朝廷近衛府の将官たる男と幾度となく剣を交えてきた経験がある。それは陛下を守る力を欲した新一に、陛下が彼のもとで剣を学ぶことを許して下さったからだ。将官はとても実直な男で、指導者としてその指導には全く容赦がなかったが、華族でありながら男児たる新一に傾いた態度を取るような真似はしなかった。そして彼個人の思いは別としても、指導者としての彼は新一の実力を認めてくれた。
 彼の指導を離れた今も時折手合わせをしているが、勝ちを取ったことも一度や二度ばかりではない。その経験が、こうして現在の自信となっているのだ。
「それでも心配だと言うなら、小太刀のひとつでも持てばいい。それに…」
 ふと、戸口に佇む快斗へと視線を投げる。その口元に笑みが浮かんでいることに気付いているのかいないのか、新一は艶然と言った。
「俺を裏切らないんだろう?――黒羽」
 それなら、そうまで言うのであれば、しっかり期待に応えてもらおうではないか、と。
 その強気な瞳に感化されたように快斗の口元にも笑みが浮かぶ。まるで先ほど見せた険悪な雰囲気などなかったかのように、不敵に笑い合う。
 きっと彼には温い関係など必要ないのだろうと、快斗は思った。有り触れた優しさよりも、甘ったるい睦言よりも、息が詰まるほどの激しい想いと狡猾なまでの危うい駆け引き。一歩踏み外せば二度と這い上がれないような崖っぷちを、それでも求めるもののために一心に歩き続ける。
 それは快斗にも覚えのある感覚だった。きっと自分たちはひどく似ているのだと思う。だからこれほどまでに彼に惹かれるのだろう。自分と同じこの狂気にも似た想いで誰かを想う彼に、他の誰かではなく自分を見て欲しい、と。
 気付けば、もう引き返せない場所に立っていた。けれど引き返す気など毛頭なかった。
「当然だ。二度と、誰にも傷付けさせねえよ」
 その迷いのない強い言葉に、新一は満足そうに微笑んだ。





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