和葉と千賀鈴の手を借り、新一は見事に千賀鈴へと化けた。生来の骨格の違いはあれど、同じ化粧に同じ舞衣、その上つけ毛を付けてしまえば、見分けるのはなかなかに難しい。しかも新一は昔から色んな姿に扮してはあちこちへこっそり潜り込むようなやんちゃ小僧だったため、誰かに化けるのはお手の物だ。芸妓姿の新一を見たことのある快斗はまだしも、初めて見た平次と徹はただただ感心するばかりだった。 「では、僕らのうちの誰かが迎えに来るまで、絶対にここから出ないで下さいね」 「はい…工藤さんもお気を付けて」 大丈夫ですよ、と笑う新一は、千賀鈴の背後にいる平次と和葉に視線を向けた。 「彼女を頼んだぞ、服部」 「おう、任しとき!」 「鈴ちゃんはうちらがばっちり守ったるわ!」 それにこくりと頷いて、新一は快斗と徹を引き連れて紅梅楼を出ていった。 なんだかんだと除け者扱いされてしまっている自分に、平次は情けない顔で溜息を吐く。そりゃあ妓楼に残った千賀鈴の護衛も大事だと思うが、おそらく賊はそうとも知らずに千賀鈴に扮した新一を襲うだろう。となれば、やはり危険なのは千賀鈴よりも新一である。そこで迷わず快斗を護衛に選んでしまうあたり、新一も快斗の実力はしっかり認めているのだろう。でなければ、自分を押し倒すような男をわざわざ傍に置くはずがない。 それにしても不思議なのは快斗だった。顔も頭も、その上白南風の頭領などという申し分ない肩書きまでをも持った快斗は、それはもう篦棒に女にもてる。だと言うのに、本命はもちろん遊びであっても、その手の噂を平次は今まで一度も耳にしたことがない。その理由は、本人も言っていることだが、とにかく人の選り好みが激しいからだと思っていた。 その男が、今ではこの体たらくだ。仮にも下町を預かる男が、幾百年という歳月を仲違いしてきた都の人間をあの手この手で落とそうと策を弄している。とは言え、やはりただ者でない彼の弄する策はどうにも常識を外れている感が否めないが。 「黒羽は工藤のどこがそんなに気に入ったんやろか…」 そう言う平次自身、決して新一のことを嫌っているわけではない。未だ信用の足る人物とも言い切れないが、彼が根本的に悪い人間でないことにはなんとなく気付いていた。彼は必要な嘘は吐くが――或いは沈黙で真実を隠すことはあるが――基本的には真実しか口にしない。老獪な策士の如き狡猾さも、時折見せる子供の如きあどけなさも、どちらも彼にとっては真実の姿なのだと思う。そのなんとも不安定な存在にうっかり惹かれてしまっている自分を、平次も自覚している。 だが、そこで押し倒すなどという奇行に走ってしまう快斗の思考回路は、やはり服部にはとても理解できそうになかった。 「何言うてんの、平次。あない魅力的な人やったら、そら頭領かて気に入るに決まってるやん」 「アホ。気に入るどころの話やないから言うてんねん」 あの衝撃的場面を見ていない女性陣には分からないだろうが、それはもう、金輪際忘れることなどできないぐらいに平次は衝撃を受けた。 新一を「仮にも男」などと称した平次だが、決して他意はない。男だろうが女だろうが、あの人懐こく笑いながらも決して懐深くには踏み込ませない男の奥底まで踏み込める人間が現れたことは、平次にとっても喜ばしいことだ。だがその相手と愛だの恋だのに発展するなら、当然相手は女だろうと言うのも至極真っ当な意見である。それがよりにもよって朝廷の、しかも男だなんて。 「…うちには、なんとなく分かる気がします」 控え目な千賀鈴の声に平次と和葉が振り返る。 「工藤さんは不思議な方です。都のお役人さんやのに、うちなんかのためにここまでしてくれて。そんな人に惹かれるなゆう方が無理な話や。妓楼のみんなも、下町の子供らも。平次さんかてそうやろ?」 図星を指されて黙り込む平次に、せやけど、と千賀鈴は続けた。 「あない真剣な頭領は、見たことない…」 妓楼の席で新一が怪我を負った時、混乱していた千賀鈴は突然現れた快斗に縋る思いで助けを求めた。だが、いつもの快斗なら余裕の笑みで「もう大丈夫」ぐらい言いそうなところを、彼は恐いほど真剣な目に震え上がりそうなほどの怒りを湛えていた。 ――正直、恐かった。自分はとんでもない失敗をしたのだと、自分を見もしない彼の目を見ただけで千賀鈴は戦いた。だから、診療所で徹に責められる快斗が堪えられなかった。 「頭領はきっと、工藤さんを傷付けた賊を許しません」 それはなぜか絶対のように思えた。そして平次にもそれを否定できるだけの材料は何ひとつなかった。 ――掛かった。 そう新一が思うまで、半日も掛からなかった。 余程毎日彼女の後を付け狙っていたのか、手提げを持って紅梅楼から出てきた新一扮する千賀鈴に、賊は躊躇いもせず飛びついた。しかし随分と用心深いらしく、人通りの多い町中では一切手を出してこない。きっと虎視眈々と機会を狙っているのだろう。新一は素知らぬふりで悠々と歩いた。 果たして賊はこちらの二重尾行に気付いているのかいないのか。初めからつけられると分かって感覚を全開にしている新一が、自分を尾行する者を察知するのは簡単だった。こうもあっさり気取られる程度の気配に、快斗が気付かないはずはない。ならば望み通り襲いやすい状況に陥ってやれば話は早いだろうと、新一はあえて人通りの少ない路地へと入り込んだ。 賊の気配が一層近くなる。いっそ哀れなほどこちらの罠に容易く掛かってくれる賊に、哀れむどころか新一はしたり顔で口元に笑みを掃いた。 新一が千賀鈴の護衛についていた五日間、新一は彼女の外出の一切を禁じた。千賀鈴も自分の置かれている状況を理解していたから素直にそれに従った。おかげで賊は彼女を襲う機会を逃し続けてきたわけだ。そして昨夜、ついに痺れを切らした賊は宴席に上がった彼女へと手を出した。しかしそれも新一のおかげで彼女自身は無傷と相成り、次なる機会を狙っていたところにこの好機だ。少しばかり気が急いたとしても仕方ないだろう。むしろ、そうした賊の真理さえ手玉にとって罠を仕掛けるこの舞師こそが狡猾なのだ。 ひゅっ、と背後で風を切る音が聞こえる。刃物特有の鋭い風切音だ。けれど新一は慌てることなく、袖の下に忍ばせておいた小太刀に指を絡ませた。そして振り上げられた刀が振り下ろされる瞬間を空気の流れで読みとった新一は、ひらりと花弁の如く翻り、寸分違わず小太刀で刀を受け止めた。 「な…っ」 予想もしていなかった展開に、賊が驚いて声を上げる。その隙を見逃してやるほど新一は優しい男ではなかった。 甲高い音を響かせながら小太刀が刀を弾き飛ばす。そして続けざまに二度、三度と打ち込み、あっという間に賊を壁際へと追いつめてしまった。新一は乱れた呼吸を繰り返す相手の喉元に容赦なく小太刀を押し当てた。 「残念だったな。彼女ならずっと妓楼にいるぜ」 その女には有り得ない力と声に、賊は相手が偽物であることを悟った。そうして見事嵌めてくれた新一を怒りに満ちた目で睨み付けた。 「貴様…!」 唸るように声を上げ、唯一自由になる足で新一の腹を蹴り上げようとする。寸でで気付いた新一はそれを飛び退いて避けるが、怪我を負った左足ではその程度の衝撃も堪えられなかったらしく、危うく倒れ込みそうになるのを必死に堪える。そこへ賊の刀が振り下ろされた。 だが、新一は慌てなかった。慌てるどころか、笑ってさえいた。なぜなら、慌てる必要など万に一つもないからだ。なぜなら――自分を傷付けようと振り下ろされる刀を、あの男が許すはずがないと疑わないからだ。 「俺のもんに触んじゃねえよ」 ふと、腰を抱く腕に引き寄せられる。ふらついていた体はしっかりと抱き寄せられ、今や賊の刀を受け止める男に支えられるようにして立っている状態だ。思わず不満を訴えようと開けた口は、続く快斗の言葉に再び閉じられた。 「こいつを傷付けた落とし前、しっかりつけてもらおうか…?」 ぞくりと、肌が粟だった。密着した快斗の体から迸る凍るように冷たい、それでいて灼けるように熱い、何か。その目が今にも獲物に喰らいつかんとする獅子のようで、新一は思わず身を竦めさせた。それは賊も同様で、見えない鎖に絡め取られたかのように身動きひとつできずにいる。 咄嗟に、新一は気付いた。――この男は賊を殺しかねない。 今や完全に戦意を失った賊が後じさる。それを追おうとする快斗の袖を、新一は慌てて掴んだ。 「くろ、」 それでも止まらない快斗を止めようと名前を呼びかけた新一の声を遮り、ごつっ、と鈍い音が響く。そうして揺らいだ賊の体が呆気なく地に沈み、新一と快斗は思わず目を丸くした。 「馬鹿だな、快斗。殺しちゃったら元も子もないだろう?」 賊の影から姿を現したのは徹だ。その手には刀が握られている。鞘に入ったままなところを見ると、おそらくその柄で殴ったのだろう。それも…昏倒するほどの強さで。 「新一君を傷付けられて、腑が煮えくりかえってる気持ちもわかるけど。…生憎俺も、千賀鈴さんを狙った外道を許す気はないんでね」 そう言って賊を見下ろす徹の目は驚くほど冷徹だ。千賀鈴が襲われたことに誰より憤っていたのが徹であることに、新一はここにきて漸く気付いた。だから徹は、怪我をした新一の代わりに彼女を守ると言ったのだ。そんな徹の目はどことなく快斗と似ていて、なんだかんだ言いつつも徹の影響を受けている快斗は、血の繋がりなどなくともやはり彼の弟なのだと改めて思った。 「工藤、怪我はない?」 あまりにも近くから声を掛けられ、新一はふと自分の状況を思い出す。未だ快斗の腕の中にいた新一は慌てて抜け出すと、軽く快斗を睨み付けた。 「…誰がおまえのものだって?」 「そんなこと言ったっけ?」 快斗は笑みさえ浮かべながらしれっと吐かす。その口調は先の言葉が嘘であることを隠そうともしていなかったが、いちいち突っかかるのも馬鹿らしくて、新一は溜息ひとつで無視を決め込むことにした。 足下で伸びている賊は、下町ではごく有り触れた、意匠よりも通気性や運動性などの実用性を重んじた衣服を身につけている。麻の上着を腰に巻いた布で止め、頭には額からすっぽり覆い隠すように布を巻いているため顔つきは定かではないが、体格から推定して三十代半ばの男と言ったところか。どちらにしろ、この男は皇子の寝所で自分を斬りつけた男ではないだろうと新一は思った。 あの時の賊はこの程度の強さではなかった。子供ひとりを庇わなければならなかったとは言え、咄嗟に急所を避ける余裕しか与えてくれなかった男だ。少なくとも、片足を負傷した相手に簡単に追いつめられるような男ではない。 けれど、ふと。賊の顔に見覚えがあることに気付く。 (こいつは…確か、澤田の宮の警備についてた近衛兵だ) 皇帝陛下より賊の確保の命を受け、まず宮廷内の警備を強化するため、新一は宮廷近衛府の曹長たる佐藤に兵士の異動を頼んだ。特に最年少である澤田の宮を守る兵士の異動を要請した。なぜなら、澤田の宮の警備に当たる兵士のひとりであったこの男こそが、新一の信用を得るに足る人物でなかったからだ。 その男が千賀鈴を襲った。そこに隠された意図とは、何か。 澤田家。千賀鈴。宮廷。紅梅楼。まるでばらばらな欠片が、ひとつの真実を示している。必要な情報は全て手に入れたと、自分の直感が告げている。あとはただ、これを如何に正しく組み上げるか。新一は目まぐるしく思考を働かせた。 仮にこうだとするとどうか。――違う。それではここの辻褄が合わない。では、これでどうか。それも違う。それではここの意味がなくなってしまう。ここがこうだとすればあれが成り立たないし、あれがこうだとすればこれが成り立たない。 いくら組み替えてもあと一歩というところで崩れてしまう。そしてまた振り出しに戻る。 自分はまだ何かを手にし損ねているのだろうか。それとも、何かを見落としているのだろうか。もしそうだとしたら、いったい何を…? 「――工藤!」 思考に沈みきっていた新一の意識を引っ張り上げたのは快斗だった。どこか怒ったような呆れたような顔で快斗がこちらを覗き込んでいる。気付けば、耳の奥がじんじんと痛い。何度呼びかけても答えない自分に痺れを切らした快斗が耳元で怒鳴ったのだと気付くのに、新一は数秒を要した。 ひとつのことに集中すると周りのことが見えなくなる。それは志保にも陛下にも散々注意されてきたことなので自覚はあるが、だからといってすぐに改善できるのかと言えばそんなはずもなく。新一はばつの悪い顔で軽く頬を掻いた。 「…悪い。何か言ったか?」 「だーから、こいつどうするかって聞いてんだよ!」 こいつ、と言って差し出されたのは、いつの間にか後ろ手に縛り上げられている賊だった。未だ意識を取り戻す様子はなく、ぐったりと項垂れている。もう二、三発殴るなり水をぶっ掛けるなりすれば目を覚ますだろうが、何をしでかすか分からない男ふたりにそんなことを言えば二度と目を覚まさない可能性もある。現に今も、快斗の差し出し方ときたら、男の首根っこを掴んでぶら下げている状態だ。下手をすれば喉が塞がれて窒息しかねない。 新一は頬にあった手で顔を覆うと、深く深く溜息を吐いた。 「…とりあえず俺が預かろう」 それから白馬あたりに連絡を通して連行しようと思ったのだが、新一は快斗と徹から猛反対を受けてしまった。 「反対反対、絶対反対!工藤を襲った賊と一緒になんかいさせられるか!」 「俺も同感だな。ここは大兄である俺が預かるべきだろう」 快斗が持って帰るわけにもいかないからな、と言う徹に快斗も頷く。 「徹のとこなら安心だ。それに患者の中には近衛府の人もいるだろうし、そいつに引き渡せば丁度いいだろ」 「ああ、高木さんあたりにお願いするか」 勝手にさくさくと話を進めていくふたりに抗議しようとした口が固まる。思い至った事実に、新一は愕然とした。 そんな馬鹿な。そう思う心と別に、冷静な思考がばらばらだった欠片を再び組み立てていく。その全てがかちりと嵌り込むのを、血が凍る思いで見届ける。新一は見落としていた欠片を拾い上げてしまったのだ。そうして導き出された真実に、らしくもなく動揺していた。 (どうする…俺はどう動けばいい…?) いや、何を迷うことがあるのか。これは皇帝陛下のご命令なのだ。自分はただ、賊を捕らえればいいだけではないか。 けれど、同時に思う。賊を捕らえれば、彼らは――自分は――どうなってしまうのか。そうなれば、自分はどうすればいいのか。 こんな感情は知らなかった。陛下のご命令を前に、立ち止まってしまいそうになる自分が信じられなかった。けれど今、確かに迷っている。初めて、迷っている。 大地が崩れそうだった。 「じゃあ賊は徹に任せて、俺と工藤は千賀鈴さんに報告に行こうか?」 笑い掛けてくる快斗の顔がまともに見れない。それでも絶対に悟られまいと、新一はひたと快斗を見据えた。 「…すまない。さっきの立ち回りで足の傷が開いてしまったみたいだ。悪いが、寺井さんのところに寄ってもいいか…?」 その顔は、自分でも泣き笑いのようだと思った。 |
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