診療所からの帰り道、ずっと無言のままでいる新一に快斗は何も切り出せずにいた。 何やら小一時間近く寺井と話し込んでいたかと思えば、賊を確保したという知らせは徹から話して置いてくれなどと言いだした新一に、戸惑いつつも快斗は頷いた。しかし、寺井と徹が強く勧めたにも関わらず、新一は服部の屋敷まで歩いて帰ると言って聞かなかった。おかげで怪我人をひとりふらふらと歩かせるわけにもいかず、こうして快斗が服部家まで送ることになったのだが… 診療所に寄ってからと言うもの、新一の様子は明らかにおかしかった。いや、寄る前から既におかしかったかも知れない。快斗も徹もそのことには気付いていたけれど、彼が素直に理由を明かすとも思えず、あえてそのことには触れなかったのだ。 考えられる理由としては、やはり捕まえた賊についてだろう。賊は下町の人間ではなかった。白南風の猛者五百余名はもちろん、下町に暮らす人々の顔と名前全てを網羅している快斗の馬鹿げた記憶の中に該当者がいないということは、賊は都の人間か、或いは他国の人間ということになる。仮に賊が都の人間だったとするなら、同じく都に暮らす彼の顔見知りだったのかも知れない。さもなければ、賊を手引きする内通者に思い至ったのか。 どちらにしろ、賊が下町の人間でなかった時点で快斗の役目は終わったも同然だ。そうなれば、この先快斗が彼に関わる口実がなくなってしまう。 堪えきれず、快斗はこの重い沈黙を破った。 「なあ…賊は捕まえたけど、これからどうするんだ?」 暗に都に戻るのかと尋ねても新一は一向に答えない。それどころか、彼の耳には快斗の声など届いてさえいない。どこかぼんやりとした目は何かを見ているようで何も見ておらず、下手をしたら今隣にいるのが誰かも分かっていないかも知れない。 快斗は新一の肩をぐいと掴むと、石壁へと押しつけた。ごつ、と鈍い音が響き、新一が低く呻く。そうして睨み上げてくる目に己が映っていることを認め、快斗は漸く安堵した。 「帰さないぞ、工藤」 「!」 新一が目を見開く。快斗は構わず続けた。 「賊を捕まえて、はいさようなら、なんて甘いこと考えてねえだろうな?そんなの、俺が許すと思ってんのか?そんな簡単に…おまえを手放すと思ってんのか?」 冗談じゃない、と快斗は吐き捨てる。快斗が新一と手を組んだのは、賊を捕まえるためなどではない。白南風の頭領として下町での犯罪を見過ごすわけにいかなかったことも確かだが、何よりも、ただ彼の傍にいたかったのだ。 最初はただの興味だった。皇帝陛下のためならば命さえも惜しくはないと、快斗の前にいとも容易くその身を投げ出して見せた彼に興味が湧いた。その瞳の奥底に拭いようのない闇を見つけ、彼が自分と同類であることを知った。その目に自分を映して欲しいと思った。他ではなく、自分のためにその身を捧げて欲しい、と。 気付けば、どうしようもなくのめり込んでいるのは快斗の方だった。こんなはずではなかった、こんなにも依存するつもりではなかったと思ってみたところで、動き始めた心を止めることなどできなくて。 それなのに、こんなにも快斗を惹き付けてやまないくせに、彼は快斗ではない誰かを追い続けているのだ。彼に見向きもしない相手のために、その人以外には見向きもせずに。そんなのは――とても我慢ならない。 「帰さない…帰るなよ、工藤…」 掴んだ肩に指が食い込む。爪痕が残るかも知れない。それでも、この手は離せない。 ここに居て欲しい。傍にいて欲しい。…独りに、なりたくない。 零れ落ちてしまいそうな言葉をぐっと噛み締め、快斗は新一の首元に頭を埋めた。 「…俺は、ここにはいられないんだ」 ずっと黙っていた新一が漸く口を開いた。たったそれだけのことでひどく安堵して、けれど言われた言葉に納得できなくて、快斗は体を起こそうとしたが、意外にもそれは新一の手によって阻まれた。埋めていた頭に回された手が顔を上げることを許さず、彼の顔を見ることを許さない。それでも、耳に掛かる彼の吐息の熱さに震えそうになった。 「俺は…俺といれば…おまえは必ず不幸になる。俺と関わらなければ巻き込まれずに済んだはずの厄に、巻き込まれることになる。そうと分かっていながらここにいることはできない」 彼が何を言っているのか、快斗にはまるで分からなかった。ともにいるだけで降りかかる厄とは何なのか。彼にそこまで言わせる彼の闇とは、いったい何なのか。 それでも、そんなことを言われても、快斗の心は揺るがなかった。 「厄がなんだ。それでおまえといられるなら、いくらでも降りかかればいい」 新一が震えたのが分かった。息を呑み、体を強ばらせ、肩が――心が――震えていた。 外に出ることを許されなかった彼。向けられる好意にひどく不慣れな彼。もしかしたら、こんな風に抱き締められたことなどなかったのかも知れない。それどころか、快斗の知らない過去、許し難い罵倒を浴びせられてきたのかも知れない。だとすれば。過去に彼を傷付けてきただろう者に激しい憎悪を感じた。傷ついただろう彼の傍にいられなかった自分がひどく悔しかった。こんなにも優しい人を、どうして傷付けることができるだろう。 「…なんでそんな…優しくするんだ…」 吐息に乗せた声にはあからさまな自己嫌悪が滲んでいる。まるで初めて優しさに触れた子供のように戸惑う、頼りない声。いや――優しさというものに触れることなどないと疾うに諦めきった大人の声は、それよりも遥かに哀しく聞こえる。 いつの間にか伏せられた顔は快斗と同じように快斗の首元に埋められていた。 「ここにいろよ、工藤…」 「…駄目、だ…」 「なんで…?」 どうして、そこまで頑なに拒むのか。きつく唇を噛み締める気配に気付いたのか、新一は緩く頭を振った。 「俺はたぶん、おまえのことが嫌いじゃない」 「…!だったらここに、」 「だから、駄目なんだ」 新一は埋めていた顔を上げると、快斗の体を引き剥がした。快斗は嫌われていなかったことに喜べばいいのか、それとも引き剥がされたことに悲しめばいいのか分からず、戸惑いながら新一を見つめた。 「おまえにまで裏切られたら、きっともう立ち上がれない」 どきりと、鼓動が鳴った。恐いほど真剣な目がこちらを見つめている。その目に宿る光が深く烈しく煌めいている。 快斗は何も言うことができなかった。 「俺はこれから都へ戻り、宮廷内の内通者を洗い出す。おまえはここで、白南風の頭領として下町の人々を守る。…それが、きっと一番いいんだ」 納得できるはずがなかった。けれど、それを否定できるだけの確実な言葉を快斗は持たなかった。何も言えない快斗に頷き、新一が歩き出す。 ――これが、最後だ。この背中を見失えば、彼はもう快斗の前に姿を現さないだろう。 分かっていても、快斗の足は動かなかった。まるで地面に縫い止められたかのように動くことができない。彼を追うことが、できない。 そしてそのまま、彼は快斗の前から姿を消した。 |
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