宮庭佳人





「…快斗」
 診療所の居間に置かれた長椅子にだらしなく寝そべり、眠っているわけでもないのに目を閉じたきり一向に動こうとしない快斗に堪りかね、徹は盛大な溜息を吐いた。こちらの呼びかけにも応えず、快斗は不貞寝を決め込んでいる。こうなると手が付けられなくなるのは昔からだが、この年になっても成長が見られないのはどうかと思う。
 徹は仕方なく、この一週間なるべく触れないようにしてきた話題に触れることにした。
「そんなに新一君を手放したくなかったんなら、なんで引き留めなかったんだ」
「……引き留めたよ」
「じゃあなんで新一君はここにいないんだ」
「だから、国に帰っちまったって言っただろ」
 ぶっきらぼうな返事にはあからさまな苛立ちが滲んでいて、徹は再び溜息を吐いた。
 一週間前。漸く賊を捕らえたその翌日、賊は朝廷の使者に無事引き渡され、そしてそれを見届けることなく新一はケスタドールへ帰っていった。何でもその日の朝一番の船で出航したらしく、見送りにも行けなかった白南風予備軍のちびっ子たちはひどく寂しがっていた。そしてその日以来、快斗は世話になっている養父の家にも帰らず、こうして寺井の診療所で日がな一日不貞寝を決め込んでいた。
「あいつは…ここにはいられないんだってさ」
 漸く自分から口を開いたかと思えばそんな台詞で、徹は何のことか分からずただ首を捻るばかりだ。
 そもそも、工藤新一という存在そのものが謎めいている。突然現れたかと思えばいきなり小兄だと紹介され、またも突然国に帰ったなどと言われても、常にともにいた快斗や平次ならともかく、仕事に忙しくしていた徹にはあまりに唐突すぎて正直ついていけなかった、と言うのが本音だった。そんな相手の「ここにいられない理由」など、思い浮かぶはずもない。
「…なあ。傍にいるだけで降りかかる不幸って、何だと思う?」
 不意に体を起こした快斗が、思いがけず真剣な声で問う。徹も真剣に考え込んだ。
「――自分がどうしようもない重罪人だった時、かな」
 導き出された徹の答えに快斗が驚いて目を瞠った。
「考えてもみろよ。たとえば自分が人殺しだったとして、そんな自分に命より大事な人ができたとしても、何も考えずそいつに好きだと言えるか?自分が人殺しであることをそいつが知らなくても?自分が人殺しであるがためにそいつまで謂われのない中傷を受けるとしても?」
 自分だけが非難されるならまだいい。そう言われるだけの罪を犯したのであれば、どんな誹謗中傷も甘んじて受け入れることもできるだろう。けれど、何の謂われもない人が、ただ自分の傍にいるからと言う理由だけで同じように非難されるなんて、絶対に許されることではない。万が一にもそんなことになると言うのであれば、己の心を捻り潰してでも、独りでいた方がずっと増しというものだ。
「…重罪人…」
「まあ、あくまで喩えの話だけどな。新一君が人殺しなわけないし、誰かに憎まれてるわけでもないだろ?」
 けれど何か今の話で思い当たる節があったのか、自分の思考に沈み始めた快斗は徹の問いかけに答えなかった。こうなるともう、こちらの声が聞こえているかどうかも怪しい。
 徹は三度溜息を吐いて、それから快斗が聞いていないのを承知で呟いた。
「快斗。当然、おまえなら分かってると思うけどな。…おまえが彼を追うって選択肢もあったんだぞ」
 彼を引き留めることはできなくても、彼の後を追うことはできたはずだ。けれどそれをしなかったのは、おそらく快斗の中の責任感とも罪悪感とも呼ぶべき感情が故だろうと徹には分かっていた。
 快斗に白南風の頭領の座を譲ったのは徹だ。実力的にも快斗は徹を上回っていたし、あの時はそうするのが一番だと思った。そして快斗もそうなることを自分で望んだ。今でもそれが間違いだなどとは思わないし、そうしたことで得られたものが多くあったことも確かだ。けれど、それが原因で快斗が「自由」を失ったのもまた確かだった。
「おまえは白南風を、延いては下町を率いる男だ。でもそれは、おまえを縛るためのものじゃない。おまえが望むなら、おまえはいつでも好きなところに行くことができる」
 ただひとつ、頭領の最後の仕事として、次期頭領にその座を継承すれば。
「それほどにおまえが彼を望むなら、…まあ寂しくはあるが、俺も黄之助さんも止めねえよ」
 聞こえているのかいないのか。何の反応も返さない快斗に、もう何度目か分からない溜息に苦笑を乗せて、徹は背を向けた。なんだかんだ言っても可愛い弟だ。できることなら、もうこれ以上ないくらいでれでれに甘やかしてやりたいくらいなのだが、他でもない本人が嫌がるのでは仕方ない。
 徹は居間の扉に手を掛け、ふと振り返った。
「そうだ。俺はこれから出張で二、三日ここを空けるけど、あんまり黄之助さんに迷惑かけるなよ。暇なら診療所の受付でも手伝ってやりな」
 それだけ言い残すと、薬瓶の詰まった鞄を手に、徹は診療所を後にした。

(…変な気まわしてんじゃねーよ、ばーか)
 ぱたん、と音を鳴らして扉が閉まったのを皮切りに、快斗は盛大な溜息を吐くと長椅子に突っ伏した。
 全く以て恥ずかしい男だ。あんな台詞、素面で聞けるはずがない。快斗は当然聞こえていたが、敢えて聞こえないふりをしていたのだった。
 徹が純粋に自分を心配してくれていることは分かっている。けれど、何と言うか、これは寺井にも言えることなのだが、快斗は自分のことを深く理解してくれている人ほど、何とも言い難い気まずさと言うか、気恥ずかしさのようなものを感じるのだ。
 外面や愛想といったものを一切捨て去った自分がどれほど未熟で子供じみているか、快斗はよくよく理解している。それはおそらく誰もが持っていたはずのもので、通常なら相応の時期に徐々に昇華されていくはずのものなのだ。けれど快斗はそれを昇華できないままに年を重ねてしまった。そうした快斗の事情を知る徹や寺井にそういう気まずさのような気恥ずかしさのようなものを感じるのは、仕方がないことだった。
 そんなことよりも。
「重罪人、か」
 そう言われた時、なぜかぴんとくるものがあった。
 もちろん新一を人殺しなどと疑っているわけではない。ただ、「ここにはいられない」と快斗に告げた時の新一の微かに震えた声が、自分を責めているような、心底自分を憎んでいるような、そんな風に感じられたのだ。あれは、自分の何かに罪を感じている者の声だった。
 彼は「ここにはいられない」と言った。つまり、「いたくない」わけではないのだ。それだけでも救われるような気がした。
「いいのかな――」
 ――迎えに行っても。
 裏切られたくないと言った彼。快斗にまで裏切られたら、もう立ち上がれないのだ、と。
 それほどまでに彼を追いつめたものとはいったい何なのか。何がそこまで彼を傷付けたのか。そして、彼から人を信じる心を根こそぎ奪った裏切りとは、そして人にそうさせてしまうものとは、いったい何なのか。快斗は何ひとつ知らない。それでも。
 快斗には、快斗の思う形で彼を裏切る自分など、到底考えつかなかった。
 たとえば、彼が救いようのない人殺しだったとしても。たとえば、彼とともにいることで自分も人殺しと罵られたとしても。彼を罵る自分など想像できない。
 たとえば、彼が人にも劣る悪魔のような男だったとしても。最悪、神に見放された本物の悪魔だったとしても。誰かのために命を懸け、誰かのために涙を流し、誰かのために苦しみに耐える彼を、どうして裏切ることができるだろう。
 そんなこと、できるはずがないのだ。だったら。
「…やっぱ、迎えに行くしかないか」
 自分の呟きに突き動かされるように、快斗は体を起こした。この一週間で初めて頭の中がすっきりしている。随分長いこと腐っていたが、その間ずっと悩み続けたおかげで、心が決まった今はもう一切の迷いもなかった。
 よしっ、と小さく気合いを入れ、快斗は居間を飛び出した。取り敢えずは診療所にいる寺井に謝罪と礼を言わなければなるまい。生憎決心をつけさせてくれた徹はいないが、彼が帰ってきてから言えばいい。
 そうして診察室へと飛び込もうとした快斗は、待合室で意外な人物と顔を合わせることとなった。





 同じ頃、天宮の蒼の宮で。
「随分気乗りしない顔をしているのね」
 久しぶりに帰り着いた離宮の寝台に静かに横たわっていると、牡丹の香りとともに志保が顔を覗かせた。
 新一が都に戻ってから一週間が過ぎようとしていたが、こうしてゆっくりと体を休める時間が取れたのは、実は今日が初めてだ。都に戻るなり近衛府に向かった新一は、佐藤とともに宮廷内の兵士の配置を動かしたり、朝廷に顔を出しては滞りかけていた決裁を済ませたりと、目まぐるしいほどの忙しさだった。おかげで戻ってからこちら、まだ一度もまともに陛下にお会いしていない。
「…少し、疲れただけだ」
 そうして深く息を吐く姿は確かに疲れているように見えたが、他でもない新一の天花である志保の目を誤魔化すことはできなかった。
「嘘ね。皇帝のために動いている時の貴方は、疲れたなんて弱音、今まで一度だって吐いたことないもの」
 全く以てその通りだ。新一はばつが悪そうに顔をしかめた。
 確かに、疲れているわけではない。いや、体は確かに疲弊しているのだが、それよりも疲弊しているのは心の方だった。
 一週間前、新一は都へと戻ってきた。それきり、快斗とは会っていない。
 別にどうと言うこともないと思っていた。ただ、今までの生活に戻るだけなのだと思っていた。新一には新一の、彼には彼の生活があり、特別な事情によって一時的に手を組むことにはなったが、それが終われば今まで通りの生活が待っているのだ、と。
 なのに今、新一の日常はがらりと姿を変えてしまっていた。
「…心配しなくても、手を抜くつもりはない」
「別に、皇帝の命に従おうと逆らおうと、私としてはどうでもいいのだけど。中途半端な心構えで危険を冒すつもりなら、許さないわよ」
 どこまでも自分の味方でいてくれる志保に新一は苦笑を零す。
「――明日だ」
 そうして唐突に笑みを消した新一は寝台の上に静かに起き上がると、蒼色の瞳をぎらりと光らせた。
 明日、この一月に及ぶ捜査に漸く決着が付く。新一はこの日のために一月もの間綿密な調査を重ね、この一週間をかけて緻密な計画を立ててきたのだ。全ては、明日のために。
「決してしくじるな」
 強く呟く新一の意志を汲み、志保も確かな頷きを返す。
 誰よりも敬愛する皇帝陛下のために、陛下を脅かすものは、たとえ誰であろうと容赦なく排除する。その誓いを貫くことに今更迷いはなかった。





B / N