その日は、雨の後のむせ返るような湿気で空気が重くむっとした、ひどく蒸し暑い夜だった。こんな夜は寝苦しいからと、夜気の僅かな涼しさを求めて窓を開け放っているところが多い。それは宮廷においても同様で、皇子や皇女が眠る宮の窓も広々と開け放たれていた。 こんな時こそ、夜通し警備に立つ兵士たちがしっかり守らなければならないのだが、生憎彼らも人の子だ。熱気と湿気で体力の半分を消費してしまった彼らは、自然と頭の働きも鈍くなる。それこそが彼の狙いだった。 雨で湿った地面が巧い具合に気配と足音を消してくれる。闇を照らす夜の女神でさえも分厚い雲に覆われた今、彼の行く手を阻むものは何もないように思われた。 狙うのは――今年十八の成人を迎えたばかりの皇子が眠る宮。別に彼としてはどこの誰が標的であろうとやることは変わらないのだが、彼を手引きしている男に言わせれば、そこが「狙い目」らしい。大それたことを計画する割には自分で手を下す度胸もなく、そのくせ姑息で抜け目がない。男は彼が最も嫌いな種類の人間だった。 男が言うには、つい一週間前、最年少の皇子が住まう宮で警備を行っていた兵士の中から賊が捕まったからと、今日、宮廷近衛府の中で大幅な兵士の異動が行われた。何でも澤田の皇子が命を狙われているのではないかと見た宮廷近衛府の曹長が澤田の警備を厚くしたため、他の宮の警備にしわ寄せが生じたらしく、中でも今夜の標的である皇子の宮は、皇子が成人を迎えているということもあり、特に警備の手が薄くなっているのだ。しかしそれも時間とともにすぐに補完されてしまう。つまり、狙うなら今日しかないと言うことだ。 宮廷の周りをぐるりと囲った塀にぴたりと背を張り付け、彼は細く息を吐いた。 彼は、近衛府に捕まった賊のことを当然知っていた。言うなれば同じ目的のもとに集まった仲間だが、生憎そんな風に呼び合えるほど親しかったことはないし、親しくしたいとも思わなかった。それでもその男が捕まったことに顔をしかめてしまうのは、相手の身を案じているわけではなく、ただ単に面倒なことをしてくれたと煩わしく感じているだけだった。 いつものように、塀から少し離れたところに立っている杉を足場に素早く塀へと飛び移る。ちょっとどころでなく身軽でなければとても真似できる芸当ではないが、彼にとっては朝飯前だ。こんな場所に木が立っているとは何とも無用心だが、この杉は古くからご神木として奉られてきた大樹で、何より神を重んじるこの国ではご神木を足蹴にしようなんて罰当たりはまずいなかった。しかしそれも、信仰の薄い彼にとっては大した抑止力にもならない。 彼は難なく宮廷内に忍び込むと、事前に聞いていた警備の配置を脳裏に描き、その裏を掻くように、俊敏な動きで迷路のような宮廷内を目的の宮へと向かった。 時折通り過ぎる兵士たちが、牡丹の咲き誇る庭園に息を殺して潜んでいる彼の姿に気付く様子はない。彼は再び胸中の空気を全て押し出すように長い息を吐くと、音もなく庭園の中を駆け抜けた。 皇子の宮は、最奥にある皇帝陛下の寝所よりやや手前のところにあった。他の宮と同じく純白の壁に囲われ、その上を茜色のような薄紅色の鮮やかな瓦が飾っている。いくつもの四角が折り重なった模様の縦長の窓は、今は大きく開け放たれていた。薄暗い室内の様子までは分からないが、深夜も二時を回ったこの時間では、おそらく皇子も心地よい眠りの淵にいることだろう。 彼は静かに、腰に下げていた刀を抜いた。雲間から気紛れに顔を覗かせた月が、その剣呑とした光を反射させる。まるでこれから浴びるだろう鮮血を欲するかのように。 音もなく、気配もなく、身を寄せた窓からするりと室内に侵入する。僅かに影だけがちらついたが、それさえも再び姿を隠した月によって闇の中に消えた。慎重に歩を進めれば、部屋の奥、天蓋の垂れ下がるその奥に皇子はいた。深く長く繰り返される呼吸が、深い眠りに就いていることを克明に知らしめている。彼は刀を右手に、天蓋の外から皇子を見下ろした。 彼にとって、これが初めての殺しだった。 一度目は、手引きをした男の立てた計画のあまりの稚拙さに失敗した。二度目は、運悪く兵士に見つかって失敗した。その後に続く四度の計画もことごとく失敗に終わった。だが、計画が失敗した最大の理由は、今まで彼が一度として全力で事に当たらなかったからだった。 正直、次期皇帝なんてものに興味はない。十八人いる皇子の誰が皇帝の座に就こうと今の治世が大して変化するとも思えないし、そもそもにして下町に住む彼には都のことなどどうでもよかった。 けれど今、こうしてここに立ち刀を握る彼は、初めて本気だった。本気で、刀を振り上げた。それを振り下ろす手にも、見下ろす目にも、まるで躊躇いはなかった。 ――しかし。 キン、と言う金属特有の鳴き声を上げながら、刀は途中で動きを止めた。寝ているとばかり思っていたはずの相手が身をよじり、布団の下に隠していたらしい懐刀でこちらの刀を受け止めたのだ。 その時、雲の切れ間から再び月が顔を覗かせた。室内を支配していた闇が逃げるように去っていく。 「まさか貴方が賊だったとは――徹さん」 暗闇に浮かび上がった皇子は見たことのある顔で、言葉とは裏腹に別段驚いた様子もなくそう言った。徹も負けじと言い返す。 「俺も驚いたよ。まさか君が、あの宮廷舞師だったとはね」 その言葉に僅かに眉をひそめたものの、新一も自分の正体がばれていたことに驚くことなくさらりと流した。 宮廷に忍び込み皇子を襲った賊は、白南風の大兄であり、頭領の兄でもあるあの寺井徹だった。そして賊の凶刃を受け止めた皇子は、つい一週間前まで白南風の小兄と呼ばれ、都においてはその溢れる才能で宮廷舞師の座を不動のものとした、あの工藤新一だった。 だが、どちらも互いの正体に驚くことはなかった。新一は賊の正体が徹であることを見抜いていたし、徹もまた、新一が十年もの長い年月を宮廷に仕える宮廷舞師であると言う情報を手にしていた。 もちろん始めから気付いていたわけではない。白南風の小兄として快斗に紹介された時は、純粋に大兄として彼を迎え入れた。足に怪我を負って診察に訪れた時も、快斗の説明をやや腑に落ちないと感じつつも納得した。新一が舞衣を着ていたと言う事実さえ、千賀鈴を守るための変装だと解釈していたくらいだ。 だが、新一の代わりに千賀鈴の護衛に就くことになり、紅梅楼に詰めかけていた時に、気になる話を耳にした。ただ護衛に就いていただけの新一が、芸妓顔負けの素晴らしい舞を披露して見せたのだ、と。そしてその舞は、客も芸妓も魅入らずにはいられないほど素晴らしいものだった、と。 それを聞き、徹の疑いは確信に変わった。新一は、千賀鈴が襲われたところにたまたま居合わせたために賊の捕縛に関わることになったのではなく、賊を捕縛するために千賀鈴の護衛を引き受けた、都から送られてきた使者だったのだ。案の定、徹が預かることになった賊に確認してみたところ、その素性はあっさりと割れた。男は顔こそ知らなかったものの、「工藤新一という名の舞が巧い男を知っているか?」と聞けば、すぐに「皇帝陛下付きの宮廷舞師だ」と答えた。 「噂には聞いてたけど、てっきり蝶よ花よと育てられた腑抜けかと思えば、随分と武道にも通じているんだな」 仕事柄、患者の相談事や愚痴を聞くことも多い徹は、宮廷において常に煙たがられてきた宮廷舞師の話も当然聞き及んでいた。男でありながら皇帝陛下の寵愛を一身に受け、陛下の別宅とも呼べる蒼の宮に住まうことを許された、まるで陛下の稚児のような存在だ、と。それだけ聞けば、陛下の寵愛をいいことに贅の限りを尽くす高慢な王妃か、或いは世の汚れなどひとつも知らない深窓のご令嬢、と言った印象を持っていた。 しかし実際はどうだ。深窓のご令嬢どころか、破落戸顔負けの腕っ節と文句なしの度胸。襲いかかる賊もものともせず、それどころか怪我を負って尚敵に襲いかかる姿は、まるで獲物に襲いかかる獣のようではないか。それでいて、その動きには花弁の如き優雅な風情を感じさせられる。武を極めれば舞に通ず、とはよく言ったものだ。 「私の存在をご存知なら、私が何者かもご存知なのでしょう?」 そう言った新一の瞳は、神のみが纏うことを許された深く澄んだ蒼色だ。 ――華族に生まれた唯一の男児。異端なる子供。 その存在の罪深さには、信仰の薄い徹でさえも戦慄せずにはいられない。 「生きるために学んだ術です」 静かな声には怒りも憎しみも、悲しみさえも感じられなかった。 「なるほどね。なかなか苦労してるみたいだけど、それで俺に勝ったつもりか?」 できることなら一撃で。当然そう思って準備をしてきた徹だが、たとえ一撃で皇子を殺せずとも、どころか、皇子が舞師とすり替わっていたとしても、徹の計画に狂いはなかった。 徹は薬の調合師だ。薬草を使わせれば右に出る者はいない。ここへ辿り着くまでの道々撒いてきた薬は、呼吸器から体内に入り込み人を眠りに就かせるものだ。効果には個人差があるが、それでも二、三時間はまず目を覚まさない。それだけの時間があれば、新一を黙らせ皇子を殺すことに何ら問題はないだろう。 ――けれど。 「…あまり甘く見ない方がいいですよ?」 ひゅっ、と風を切る音に反応し、素早く構えた腕にびりびりと振動のように痺れが走る。徹からの刀を受ける手とは逆の手を軸に、新一が左足で蹴りを繰り出したのだ。予想外の衝撃に怯んだ一瞬の隙をついて、新一は素早く寝台から床へと降り立つ。徹は目を瞠った。 新一は左足に怪我を負っていたはずだ。あの傷は一週間やそこらで治るほど軽いものではなく、だからこそ、右足を下に横たわった姿勢では不意打ちはこないだろうと、小太刀にばかり気を取られていた。 「ご存知ありませんか?華族は全て、治癒能力に非常に長けているんですよ」 怪我の後遺症など少しも感じさせない、一切の隙のない姿勢で小太刀を構える新一に、徹は思わず舌打ちを鳴らした。 もちろん知らないわけではなかった。しかしそれでは、あの小道で賊に襲われた時も、快斗や徹の援護がなくとも、新一ひとりの力でどうにかなったはずだ。けれど彼は怪我のために賊の攻撃を避けきることができず、快斗に庇われていた。だから徹は、華族ではあるが男児であるために、新一には人並みの治癒能力しかないものだと思っていたのだ。 「…そんな形でも、一応は華族の端くれってことか」 「残念ながら。しかしそのおかげで、こうして貴方の前に立つことができる」 徹の皮肉も意に介さず、新一の構える剣先に迷いはない。いつから気付いていたのか分からないが、彼はとっくに「戦う気」でいるのだ。何のことはない、迷っているのは自分の方なのだと、徹は溜息を漏らした。 仮にも、同じ白南風の男として同じものを守ろうと手を携えた相手だから。いや――そうではなく、きっと彼が、他でもない快斗の選んだ相手だからこそ、徹は迷っているのだ。彼を傷付けていいのか。彼を傷付けることで快斗をも傷付けることになる、それでもいいのか、と。 …いいわけがない。それでも、もう後には退けないのだ。 徹は下ろしていた刀の先をしっかりと新一に向けて構えると、彼に、そして自分に言い聞かせるように宣言した。 「それじゃあ、そろそろ本気で命の遣り取りといこうか」 |
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