宮庭佳人





 皇子の宮とは言え、そう広くもない寝室で右へ左へと軽快に足を運びながら、新一は徹の刃を時には受け、時には流し、そして時に斬り込みつつ、互いに力を拮抗させていた。先ほど宣言した通り、徹が捌く刀には容赦がない。その力は間違いなく、あの日、下手をすれば致死にも値するほどの深手を新一の腹に負わせた賊のものだった。
 一週間前に賊を捕らえたあの時、新一はひとり真実へと辿り着いた。澤田の皇子の護衛にあたっていた兵士が賊だった、その事実が、新一を真実へと導いてくれたのだ。
 新一が見落としていたもの。それは、かつて寺井が陛下の主治医として宮廷に仕え、その名残で今なお都から診察に訪れる者がいるという事実だ。そして、寺井が賊であるはずがないという思いが目眩ましになっていたのだろう。その寺井とともに診療所で働く徹こそが、密かに都の者と手を結び皇子の命を狙う凶賊であると言う事実への。
 ――そう。下町と都の人間が最も自然に接触できる場所として紅梅楼に目を付けた新一だったが、実際は診療所こそが密会の場だったのだ。
 解けてしまえば何とも簡単な謎だった。
「貴方のことを、少し調べさせて頂きましたよ」
 気を抜けばすぐにも斬り殺されてしまいそうな火花散る攻防の合間に、新一はこの一週間で調べ上げた情報を脳裏に並べる。
「寺井徹さん。貴方は、澤田の宮の長男ですね?」
 その時、僅かに徹の剣先に動揺が走った。その変化を見逃すことなく感じ取った新一は、今口にしたことが正しいと確信する。
 澤田の宮――皇帝陛下の第八番目の側室であらせられる澤田貴子。寺井徹は、彼女の実の息子だった。
「おかしいとは思ったんですよ。襲われた澤田の皇子。診療所へ訪れる澤田の宮。挙げ句、捕まえた賊は澤田の皇子の護衛にあたっていた兵士。こうまで澤田の名ばかりが聞こえてくれば、何かあると考えるのが道理でしょう?」
 だが、千賀鈴が紅梅楼で見た役人というのが隠れ蓑となり、真の黒幕が誰か、すぐに分からなかった。彼女が見たという役人が誰かはすぐに分かったのだが、その男は賊を使って皇子を襲うどころか、陛下に背を向けて立つことさえ畏れるような小者。そんな男が謀反を企てるはずがない。そう思っていた矢先に捕まった賊。
 そこでふと新一は思いだした。千賀鈴の護衛をするうちに負った傷を診てもらうために寄った寺井の診療所で見かけた、澤田家の馬車。その時は、かつて寺井が皇帝陛下の主治医だったという言葉を真に受け、それ以上深く追求することもなかったのだが。
 もしも、寺井ではなく徹が賊だとしたら?
 思い至った真相に、新一は愕然とした。しかし、そう考えれば考えるほど、今まで疑問として新一の中に残っていた謎の全てがするすると解けていった。
 徹は診療所に訪れる澤田の宮、正しくは彼女の護衛としてともにやってくる兵士から都で手引きを行っていた男の指示を受けていたのだ。そして男の指示通りに澤田の皇子の寝所まで侵入を果たした徹はそこで兵士に扮した新一と対峙し、切り裂いた。
 今思えば、あの時の彼には本気で皇子を襲う気はなかったのだろう。皇子を庇って受けた初太刀には大した威力を感じなかった。だからこそ第二陣の威力をはかり間違え、危うく命を落とそうかという深手を負う羽目となったのだ。おそらく黒幕となる男からこう指示を受けていたのだろう。皇子の寝所に侵入し、皇子ではなく兵士の誰かを殺してこい、と。
 あの男の考えそうなことだ。皇帝陛下の第十八皇子であらせられる澤田浩毅皇子殿下を次期皇帝に、と強く推している男――総務省大臣、守谷貞治卿なら。
「守谷卿は、澤田の皇子の摂政となることでこの国の統治権を得ようと企んでいる。そしてたった七歳の皇子が賊を撃退したとあれば、その評判が皇子の後押しになるだろうと彼は考えた。貴方は、彼のその野望を叶えるための駒として選ばれたのでしょう。なぜなら、彼は貴方の弱みを握っているからだ。そしてその弱みとは――」
「――黙れっ!」
 がちっ、と音を立て、新一の手から小太刀が吹き飛んだ。気付けば、指先が震えている。それどころか、足も震えている。震えはやがて全身に渡り、今や新一の体は自分で支えることもままならないほど毒に侵されていた。
(薬、か…!)
 徹が薬の調合師であることを失念していた。しかし、今頃気付いてももう遅い。徹は動けない新一を容赦なく殴り飛ばすと、倒れ込んだ体に乗り上げるようにして抑え込んだ。その喉元に食い込むほどに刀を宛い、声も低く言う。
「おまえに、俺の、何がわかる」
 見下ろす双眸が飢えた獣のように血走っている。
 …悲しい目だと、思った。
「俺が母上の子だと知れれば、母上は宮廷を追われることとなる。父親のいない俺を容赦なく捨てるような家だ。そんな醜聞を立てた娘を、澤田の家が迎え入れるはずもない。そうなれば母上は路頭に迷うことになる。母上だけじゃない、皇子もだ。都でしか暮らしたことのないあの方たちが、他の地で暮らしていけるはずがない。そんなのは、ふたりに死ねと言っているようなものだ」
 滔々と語る徹の声には、今まで堪えてきた感情が滲み出ていた。怒り、憎しみ、苦しみ、悔しさ。そして――罪悪感。
「母と弟を盾にとられた、俺の何がわかる。俺など生まれてこなければよかったと、心底自分を憎む心の、何がおまえに分かる!」
 分かる。そう思ったけれど、新一は口に出さなかった。
 徹は、まだ十五歳だった貴子がケスタドールから訪れたある貴族との間に生んだ子供だった。澤田の家に世話になっていた青年と貴子は恋に落ち、ともに夜を過ごした。そのたった一夜で、貴子は青年の子供を身籠もってしまったのだ。けれど貴子が子供の存在に気付いた時には、青年はそのことを知らぬままケスタドールへと帰ってしまっていた。
 当時、彼女は既に皇帝の側室として宮廷に上がることを申しつけられていた。そのため、澤田の当主は徹の存在を一切認めず、人知れず生んだ子供は国一番の名医である寺井のもとへと預けられた。
 だが、息子と離れて暮らすことになろうと、側室として宮廷に上がることになろうと、貴子は変わらず息子を愛した。名医である寺井のもとへ診察に来ることを理由に、貴子は何度も徹のもとへ通った。皮肉にもその事実は後に接触してきた守谷卿の口から知らされることになるのだが、その時、徹は自分がどれほど彼女に愛されているかを知った。その母を守るため、彼は守谷の企みに手を貸さざるを得なかったのだ。
 自分の存在こそが、愛する彼女を傷付ける。自分さえいなければ、彼女を傷付けずに済む。その事実は、どれだけ彼の心を痛めただろう。
 それは、新一にも嫌と言うほど覚えのある感情だった。
 新一の母は、かつて華族一の才と美貌を誇った天才音楽師だった。そしてその才能を買われ、皇帝陛下付きの宮廷音楽師を務めていた。宮廷において彼女の名を知らぬ者はなく、神の庭においても、対≠ニしてではなく初めて才能を認められ宮廷に召された彼女は一族の誇りだった。
 けれど彼女はただひとつの過ちを犯した。神に逆らい禁忌を犯し、この世に厄を産み落とした。その厄こそが――自分。
 女たちは一族から誇りを奪った新一を蔑み、畏れ、激しく憎んだ。そして新一もまた、誰に望まれることもなくただ憎まれるためだけに生まれてきたような自分の存在を激しく憎んだ。ともすれば自分をこの世に産み落とした母をさえ憎んでしまいそうな自分が許せなかった。
 それでも、そんな自分でも、他でもない陛下が許して下さるから、こうして今を生きている。
「私を殺して、それで貴方はどうするつもりですか?」
 ぎりぎりと押しつけられる刃の鋭さに耐えきれず、皮膚が破れ血を滴らせる。不快ではあるけれど痺れた手では拭うこともできず、新一は僅かに顔をしかめるだけに留めた。
「守谷は欲深い男だ。永久に彼の言いなりでいるつもりですか?」
「俺が捕まれば、母上や皇子にまで迷惑がかかる。俺は捕まるわけにはいかないんだ」
「私は初めから貴方を捕まえる気などありませんよ」
「嘘を吐くな。命乞いのつもりか?」
 こんな状況ではそうとられてしまうのも仕方ない。けれど、たとえ冗談でも、そんな風に言われるのは心外だった。
「貴方が狙ったのが陛下だったなら、私も容赦はしなかった。しかし貴方が狙ったのは皇子で、傷を負ったのも私ひとり。ですから、今夜貴方と話すことで、私は全てをなかったことにするつもりだったんですよ」
 できることなら彼を捕らえることなく今回の件を片づけたい。そう思ったのは新一の本心だ。なぜなら彼は白南風の大兄であり――快斗の兄だったから。
 新一には兄弟がいない。それどころか、家族と呼べる存在もいない。だから、「家族」と呼ぶべき絆がどういうものなのか、本当のところはよく分からない。それでも、快斗がそれらをとても大事にしていることは分かる。だからこそ、彼の大事にしているそれらを、できることなら壊したくないと思った。
 けれど、罪は罪。新一が命より大事に思う皇帝を脅かす者を見逃すことは絶対にできない。だから、新一は快斗に何も告げずに下町を離れた。彼とふたりで蹴りを付けるために。
「私と、取引しませんか?」
 こんな状況下にありながら口元を綻ばせてみせる新一に、徹は何か異様なものでも見るように目を眇めた。
「馬鹿な。これほどの騒ぎをなかったことになんてできるものか。皇帝が納得しないだろう」
「勿論、賊は捕らえます。しかしそれは陛下への謀反を企てた逆賊として、守谷卿に罪を償って頂くつもりです」
「…どうしてそんなまどろっこしい真似をする必要がある?」
 徹にはまるで新一の考えが読めなかった。
 新一だとて、始めはただ単純に賊を捕まえるつもりだったのだ。それが誰でも関係なかった。陛下のために、陛下の存在を脅かすものはその全てを削除する。そう思っていた。
 けれど、気付いてしまった。彼がひどく自分と似ていることに。
「貴方のような人がなぜ守谷などの言いなりになるのか、私にはそれが分からなかった。しかし、自分の立場を危うくするにも関わらず、賊を捕らえるという危険を冒してまで千賀鈴さんを守った貴方を見て思ったんです。貴方は誰かを守るために、甘んじて賊という愚者に成り下がったのだと」
 徹はとても優しい人なのだと思う。それ故に、守谷のような男につけ込まれたのだ。母を、弟を守りたい。その思いが彼を縛り付けた。そして徹が慕っていた千賀鈴を襲うことで、守谷は彼から更に自由を奪おうとしたのだ。
「貴方を捕らえれば澤田の宮が悲しまれる。そうなれば陛下もお心を痛められる。それは私の望むところではない。貴方が彼女を護りたいと思うように、私も陛下の全てをお守りしたいと思っているのです」
 それは嘘ではないけれど、真実でもなかった。陛下をお守りしたいと思う心は本物だ。それと同時に、彼≠守ってやりたいと思う心があった。
 けれど。
「黙れ!分かったような口を利くな!たかが舞師風情が思い上がるのも甚だしい。おまえに何ができると言うんだ!」
 そうして叫ぶ姿は、かつての自分を見ているようだった。
 憎しみにまみれて生きていた。何もかもが信じられなかった。夢も希望もなかった。誰も、たとえ神でさえも、自分を救ってくれるものはいないのだと思った。
 …それは、切ないほどに間違いだった。
 本当は、分かって欲しい。認めて欲しい。気付いて欲しい。思い上がりでもいい、勘違いでもいいから、手を差し伸べて欲しい。そして、優しい誰かに憎しみを吐きかけるこの声を止めて欲しかった。
 今にも泣きそうな顔をしたこの男は、新一自身なのだ。
 考える。かつて、陛下はどうやってこの口を塞いでくれただろう。分からない。ただ、分かる。彼の痛みだけが、痛いほどに。

「――それはどうかな、澤田の子よ」

 ふたり以外には誰もいないはずの室内に第三者の声が響く。
 聞き慣れた声は重く静かで揺るぎない。けれど、いつもは優しく穏やかはずの声が、冷たさと厳しさを含んでいた。
 ふたりは、突然現れた皇帝陛下に目を瞠った。
「陛、下…」
 陛下は呆然と呟く新一ににこりと笑みを向け、まるで目の前の光景など目に入ってもいない様子で純白の長衣を優雅に靡かせながら室内へと上がった。
「工藤はこれでも私の影を務める男だ。おまえの罪をもみ消し、守谷を処することなど雑作もない。もとより守谷の謀反は知れたことだ。この子が裁かずとも、いずれ私が裁いていた」
 暗に、脅されてとは言え宮廷に混乱をもたらした賊を新一が見逃そうとしていたことに気付いていたと嘯く陛下に、新一は二の句が継げない。もちろん陛下に隠し事をするつもりはないが、せめて全てをうち明ける心構えができてから、と思っていたのだ。それが心構えどころか、もしかせずとも始めから知られていたとあって、新一は蒼白になった。
「馬鹿ね。いつまでも私が貴方の我侭を聞いてあげると思ったら大間違いよ」
「志保っ?」
 陛下の影からするりと姿を現した志保を見て、新一は全てを悟った。
 いつからか知らないが、志保と陛下はぐるになっていたのだ。
「私が何よりも優先するのは貴方よ。そのためなら、皇帝だって利用するわ」
「志保!馬鹿なこと言ってないで、とにかく陛下を、」
「黙りなさい」
 ぴしゃりと言い放ち、志保は一瞬で室内を噎せ返るほどの牡丹の芳香で満たした。彼女の体には幾つもの大振りの牡丹が咲き誇っている。この香りは、華族のものにとっては何よりの妙薬なのだ。
 志保は、怒っていた。怒りを湛えた天空の蒼が震えるほどに神々しい。
「貴方、自分が何の毒に侵されているか分かっているの?――トリカブト。猛毒よ」
 そんなこと、当然分かっていた。先ほどからのひどい眩暈と嘔吐感、そして呼吸器への障害。だが、それが何だと言うのだ。そんなことよりも、刀を持った賊がいるこの部屋に陛下がいる、そのことの方がずっと重大な問題だった。
「志保…頼むから、陛下を安全な場所へ…」
「嫌よ」
 ぱっ、と華が散る。志保は新一の体を侵す毒を消し去るため、新一の中へと消えたのだ。それこそが新一の天花である志保の本来の役目だった。
 新一は低く唸った。まだ体は動かない。それでも先ほどまでは少しも焦りなど感じなかったのに、陛下がこの場に姿を現された今、動かない体に思考が焼け焦げそうなほどの厭わしさを覚えた。
 どうしてこんなことになったのか。途中まではうまくいっていたはずなのに。
「すまないな、工藤。おまえが私を守ってくれようとしていることはよく分かっている。だが、私だとておまえを守りたいと思っていることを、おまえは知るべきだ」
 陛下が何を仰っているのか、新一にはまるで分からなかった。自分が陛下をお守りするのは当然のことだ。陛下は新一の全てなのだ。神なのだ。神の創造物たる自分が創造主である陛下をお守りするのは当然のことではないか。その創造主たる陛下が、創造物のひとつに過ぎない自分を守って下さる意味が分からない。
 困惑を隠すこともできずに蒼然と見上げている新一に陛下は苦い笑みを浮かべ、徹へと向き直った。
「澤田の子よ。このまま工藤がおまえを許そうというなら、それもいいかと思っていたのだが…」
 すらりと刀を抜く陛下に従い、徹も陛下へと向き直る。
「この子を傷付けるというなら、話は別だ」
 吸い寄せられるように、二本の刀がぶつかり合った。





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