新一と徹の力は、薬の力を借りなければその均衡を崩すことができないほどに等しかった。その新一の実力は、近衛府の頂点に立つ三人の将官と肩を並べるほどのものだった。つまり、その新一と互角に渡り合う徹の実力もまた、将官と肩を並べるほどのものであると言うことだ。 けれど今、病に冒される身でありながら、信じられないことに陛下はその徹を圧していた。 背筋を伸ばし顎を引き、左手は腰に宛てたままという凛とした姿勢を崩すことなく、右手に握った刀一本で徹を翻弄している。刀と刀がぶつかり合う音でさえもまるで美しい旋律のようだ。 軽口を挟む余裕もない徹だが、それでも賞賛の声を掛けずにはいられなかった。 「さすがは花処の皇帝であらせられる御方ですね…」 「それほどでもない」 にこりと笑みさえ浮かべて見せる陛下には、まだまだ余裕がありそうだ。この御方が、かつて近衛府の猛者百人を相手に戦い、その全てを地に沈めたことのある実力を有する方であることは知っていたけれど、病床に伏す今もなおその秀でた能力を保持しておられるとは。 (なんて…凄い…) けれど、その身の内に恐ろしい病魔を飼っていることもまた、誤魔化しようのない現実なのだ。今はいいかも知れないが、いつ無理がくるか分からない。新一は無様に床に転がったまま、どうにかしなければと思考を巡らせた。 志保のおかげで眩暈もなく嘔吐感もなく、呼吸も随分楽になった。それでも、指先にも足にも未だに痺れが残っている。こんな状態では刀を振るうどころか、まともに立つことさえままならない。 陛下を守るために強くなったはずなのに、結局またこうして陛下に守られているなんて。あの日から何も変わっていない自分がひどく悔しかった。あの――神の庭でひとり朽ちていこうとしていた自分を、陛下が救い出して下さった日から。 その日、新一はいつものように離れを抜け出し、幾千万もの花々が入り交じり咲き乱れる庭園の中を人知れず散策していた。近頃、何やら大事な賓客を迎えるとかで、女たちはいつも忙しそうに動き回っている。おかげでこうして人目を気にせずに歩き回ることができるのだから、名前も知らない賓客とやらに新一はこっそり感謝していた。 花々に埋もれるようにして建つ本堂からは、今日も美しい旋律と歌声が聞こえてくる。しかし賓客を持て成しているためだろう、その演奏はいつもよりずっと素晴らしかった。 何とはなしにその音色へと耳を傾ける。生まれた時からずっと耳にしてきたからか、それともこの身を流れる華族としての血が騒ぐからか。新一は、華族の中においても人一倍音を愛していた。たとえこの音色を奏でている者が自分を忌み嫌っていようと、音はそんな自分にも優しく、温かい。 暫し時を忘れ音に聞き入っていた新一は、その時不意に頭上から影が差す気配を感じ、慌てて顔を上げ、そしてそのまま――呼吸を止めた。 上から下まで全てを純白の衣に包み込み、月明かりを背負って静かに佇む姿。それはまるで月の光が集まり形を成した月の化身のようだった。柔和な、それでいてその奥に厳しさと鋭さを秘めた眼差し。通った鼻梁。軽く持ち上げられた唇の端に、顔に似合わず悪戯な、愛嬌のある笑みが浮かんでいる。 「これは、何とも愛くるしい花の精がいたものだな」 新一ははっと息を呑んだ。自分は何をしているのか。人に見つかった今、一刻も早く離れに戻らなければならない。 けれど、踵を返して走り去ろうとした新一の手をしっかりとその人の手が掴んでいる。月の化身の掌は、どこか人を突き放すような高潔な印象を裏切り、思いの外温かかった。おそらくその所為だろう。その手を振り払うことができずに、足を止めてしまったのは。 「そなた、名前は?」 新一の肩がびくりと揺れる。 自分に話しかけるこの方がどこの誰か、新一には分かっていた。女だけの園、女しか入ることの許されない神の庭、その場所に唯一入ることを許された男は、現人神であらせられるこの国の皇帝陛下その方だけである。つまり、月の化身かと見紛ったこの御方こそが、花処國第四十一代目皇帝陛下、白竜≠フ君主号を冠する御方なのだ。そして今日のこの日、皇帝陛下の御生誕を祝うため、華族は陛下を神の庭へとご招待したのだった。 自分は何というところに出てきてしまったのだろう。温まりかけていた胸がすうっと冷えていく。 けれど次の瞬間、驚いたことに、皇帝は掴んでいた手をぐいと引っ張り、新一を抱き上げていた。 「なっ、何をなさいます!」 「そう言うな。今日は私の生誕祝いなのだから、少しぐらい羽目を外しても良かろう?」 皇帝を相手に下手に暴れるわけにもいかず、ろくに抵抗もできぬまま連れられた場所は――本堂。華族のものなら誰でも一度は上がったことがある、けれど新一は生まれてこの方一度として上がることを許されなかった、華族にとっては聖堂のような場所だ。 女たちは、一族の汚点とも言うべき厄の子を抱いて唐突に現れた皇帝に、驚愕のあまり悲鳴を上げた。 「へ、陛下っ、どちらでソレを…!」 「ふふ、あまりに愛らしかったものでな。つい連れ去ってしまった」 女たちの突き刺すような視線は慣れたものだが、優しく抱き上げ頭を撫でる温かい手に戸惑い、新一はどうすることもできずに皇帝の腕の中で身を固くする。 そこへ華族の長である、齢二百を疾うに過ぎた、しかし見目だけは至極麗しい女が進み出た。 「畏れながら陛下、この者は楽も奏でられなければ歌も唄えぬ無能でございます」 「だが言葉は喋れよう?どうだ、明日にも宮廷に上がり、私の話し相手になってくれぬか?」 皇帝は新一を腕から下ろすと、両肩を掴みながら新一の目を覗き込むようにして言った。それは、今まで向けられたこともないほど優しく、温かく、綺麗に澄んだ真っ直ぐな瞳だった。 けれど。 「…お断り申し上げます」 その誘いを、新一は躊躇いもなく断った。いや、躊躇いならあったかも知れない。けれどこの時の新一にはまだ、自分の誇りをへし折ってまで皇帝の望みに従うことはできなかった。 「なにゆえ断ると?」 なぜなら。 「私は誇り高き華族のひとり。愛でられるだけの花では御座いません。如何に皇帝陛下がご命令とは言え、この身の誇りを汚さぬためにも従うわけにはゆきませぬ」 それが、これまで新一を支えてきた最後の意地だったのだ。 自分は華族としては不完全かも知れない。それどころか、人としてでさえも不完全かも知れない。それでもこうしてつまらない誇りに拘るのは、もう自分にはそれしかないからだ。そんなものでもないよりましだからだ。 華族でもなく、ただの人でもなく。楽も奏でられず、歌も唄えない。そんな自分を支えるものはただひとつ―― 「――では、舞ってみよ。そなたの母は花処一の楽師であった。楽も奏でず歌も唄わずでは、母の名が汚れるぞ」 そう言った皇帝の挑発を、新一は怯むことなく受けて立った。 流れる音に乗り、重なる歌に合わせ、縦横無尽に舞い踊る。風に躍る花弁が如く可憐に、水面を漂う花弁が如く優雅に。子供とは思えぬほど柔軟でしなやかな体を精一杯駆使し、新一は誰よりも美しく舞ってみせた。 その舞は、見る者全ての魂を鷲掴みにした。誰の真似でもなく、彼の裡から創り出された舞は、まさに神が彼に与え賜うた天賦の才としか言い様がなかった。 「さすがは花の御子がひとりだな」 その賞賛に異を唱えられる者などいるはずがなかった。 「して、そなたの名は?」 「…工藤新一と申します」 「では工藤よ。明日より宮廷に上がり、我が舞手となれ」 「――謹んで、拝命致します」 その翌日、陛下はわざわざ御身自ら新一を迎えに来て下さった。そして数日と経たぬうちに新一は陛下の人柄と優しさ、思慮深さ、その全てに心惹かれ心奪われ、気付けば全身全霊を以て陛下を敬愛するようになっていた。 陛下は新一の母を知っていたのだ。そして、かつて宮廷音楽師を務めていた母とそっくりな顔を持つ新一をすぐに彼女の子供と見抜き、そうしてあの神の庭から救い出してくれた。その上陛下は、自分が生まれるとともにこの世を去った母の愛に触れることのなかった新一に、彼女が残した愛情を確かに伝えて下さった。 「おまえは母の誇りのもと望まれて生まれてきたのだ」 その日から、新一の心は皇帝のものとなったのだ。 自分を救ってくれた陛下を守るためなら何でもしよう。そう誓い、そのためだけに生きてきた。それなのに、自分は未だに何もできぬまま、こうして陛下に守られている。 陛下の刀が徹の頬を削る。血が飛沫を上げる。気にも留めず、徹が踏み込む。がら空きになった懐に刀を突き出す。陛下がひらりと躱す。互いに素早く振り返った二人の刀ががちりとぶつかり合う。組み合ったままぎりぎりと押し合う。 「やめろ…」 なぜ、ふたりが戦わなければならないのか。 陛下は恐れ多くも自分を守るため、そして徹を守るために刀を握っている。徹は母と弟、そして彼に関わる全ての人を守るため、凶刃を握っている。 おかしいではないか。刃を向けるべき相手は互いではないはずだ。それなのに、なぜ彼らは互いに刀を向け合っているのか。 押し合っていた刀が弾かれ、同時に数歩後退る。引いた左足をぐっと踏ん張り、蹴り上げ、すぐさま互いに踏み込んだ。振り上げられた刀が危うい光を放つ。徹が咆哮を上げ、陛下が唇を引き結び、渾身の力を込めた刀が勢いよく振り下ろされる。 「やめてくれ――っ!」 耳を劈くような悲鳴とともに、ふたりの握る刀が折れた。 石造りの床に金属の弾ける音が二、三度響き、折れた刀の先がふたつ、床に転がった。獲物を失って暫し呆然とするふたりの喉元にぴたりと刀が突きつけられる。ふたりはそれまでの荒々しさも忘れ、獲物を奪ったらしい人物を見遣った。 「よう。随分と楽しそうなことしてんじゃねえか」 それは、黒羽快斗だった。新一を含め、その場にいた誰もが驚きを隠せなかった。 陛下が手にしていた刀はもちろん、徹の持つ刀だとて、そんじょそこらの鈍ら刀とはわけが違う。それを、この男はいとも容易くへし折ってみせたのだ。不意打ちとは言え、こんな芸当はなかなかできるものではない。ここが戦場であれば、獲物を失った兵士が辿る運命は死あるのみ。陛下も徹も、快斗の前に完全なる敗北を突き付けられたのだった。 「快斗…どうしてここに…」 呆然と呟く徹に、快斗は感情の読めない静かな声で言った。 「どこぞの狸が寄越した使いっ走りが全部話してくれたよ」 「おやおや…狸とはまた随分ひどい言い草だな」 「はっ!最初から全部知ってて知らねー振りしてるような奴を、狸以外になんて言うんだ?」 仮にも皇帝である男を相手に、たとえ長年朝廷と確執してきた白南風の頭領とは言え、そのあまりの暴言に徹と新一が揃って息を呑む。しかし、当の本人である陛下にはまるで気にした様子がない。 快斗の双眸には、紛れもない怒りが揺らめいていた。まるで徹を、新一を、宮廷や下町の人々を、そして快斗自身を手玉に取って弄ぶかのようなこの男に、快斗は心底怒りを覚えていた。 たとえばそれが、この国をよい方向に導いていくために必要な策略だったとしても。 「――工藤を、泣かせるなよ」 彼を泣かせる者は、傷付ける者は許せない、と。快斗は陛下をきつく睨み付けた。 快斗に言われて初めて自分が泣いていることに気付き、新一は慌てて目元を拭う。けれどどこかの螺子が外れてしまったらしく、拭っても拭っても止まらない涙に苦心していると、頭を包み込むように快斗の腕が回された。 「くろ、」 「なんでこんな奴がいいんだよ」 呼びかけた声を遮り、快斗は更に強く新一を抱き寄せる。顔を胸に押しつけたような状態だ。少し苦しいぐらいの抱擁に新一は戸惑っていたが。 「こんな、おまえを泣かせるような奴のどこがいいんだよ」 その言葉にかっとなって快斗の体を無理矢理引き剥がした。 「陛下を悪く言うな!無礼にも程があるぞ!」 「いいや、俺には言う権利がある」 「何を…!」 引き剥がされた体を再び無理矢理引き寄せ、快斗はきつく新一を抱き締めながら言った。 「これがあんたの言う幸せ≠ネら、そんなものくそ食らえだ――親父」 新一が目を見開く。刀を握り直す気力もなく項垂れていた徹までも、驚愕に彩られた顔を持ち上げる。陛下だけが、静かに瞼を閉じた。 「黒羽が…陛下の御子息、だと…?」 「まあな。所謂愛妾の子供ってやつだ。知ってんのは寺井ちゃんと紅子ぐらいだよ」 快斗はまるで何でもないことのように言う。皇帝陛下に十九人目の皇子がいたとなれば国中を沸騰させかねないほどの大事件だったが、快斗にとっては実にどうでもいいことだった。実の父親がこの国の皇帝だったところで、皇位なんてものに興味はないし、煩わしいお世継ぎ問題に巻き込まれるなど以ての外だ。だから今更あんたの息子だなどと名乗り出る気はないのだと、三年前に皇帝より「栄光」を与えられた時、はっきりと言ってあった。 それを今更、何のつもりか知らないが、朝廷の若造――名を白馬と言ったか――を使ってわざわざ自分をこの場に呼び出し、過去の醜聞を露呈するような真似をする。その意図が、快斗には分からなかった。 「俺は別に、あんたとおふくろの在り方にけちつける気はねえよ。傍にいなくても、ふたりがどれだけ思い合ってたかなんてよく分かってる」 だけど、だからこそ、尚のこと分からないのだ。 「大事な人が泣いてる時に抱き締められないなら、この手は何のためにあるんだ?」 快斗の母はいつも元気で明るくて、そしていつも遠くを見つめているような人だった。彼女は息子を愛したが、彼女の心が自分ではない誰かの傍にあることを快斗は知っていた。彼女はどこか遠くにいる誰かを、目の前にいる自分よりも深く愛していた。常に母とともにいたはずが、快斗は常に孤独だったのだ。だから、遠く離れていながらも繋がっている思いというものが快斗は大嫌いだった。 誰かを愛するなら。誰かに愛されるなら。そのふたりは、絶対に離れてはいけないのだ。さもなければ愛はいつしか苦しみに変わり、その人ばかりか周りの人までも苦しめる。 「…それでも…」 ゆっくりと閉じていた瞼を開き、陛下が呻くように言った。 「それでも、これがこの子のためにしてやれる最期のことだったんだ…」 そうしてふわりと髪を撫でられた新一は、わけが分からず首を傾げた。知らず、陛下の口元に笑みが浮かぶ。 陛下は新一を実の息子のように愛していた。愛する者を失い、この世に生きる意味さえ失いかけていた自分に、再び生きる意味を与えてくれたのは新一だ。一心に自分だけを見つめていてくれる彼がひどく愛しかった。彼と過ごす日々は楽しくて、幸せだった。 だから、つい忘れていた。この身に――病魔が巣くっていることを。 最初に倒れた日のことを今でも覚えている。まるで自分の身に起きたことのように、ひどく苦しげに顔を蒼白にして自分を見下ろしていた子供。その時悟った。自分は、この子供をおいて逝かなければならないのだ、と。 自分が死ねばこの子はどうなるのか。そんなことは分かり切っていた。かつての自分がそうだったように、愛する者のいない世界に絶望し、生きる意味を見失い、後はただ朽ち果ててゆくだけ… この子にだけは、そうなって欲しくなかった。 「おまえの世界でいられたことを嬉しく思う。私だけを見つめていてくれたおまえをとても愛しく思う。だが、そろそろおまえを解放してやらなければならないらしい。私はもう長くない。死にゆく私ではなく、おまえはもっと広い世界を見ていかなければならないんだよ」 陛下の言わんとしているところを漸く理解し、新一はゆるゆると首を振った。 「そんなもの…陛下さえいて下されば、それで…」 事件の詳細も、犯人も。全て知った上で沈黙を守り、その全てを新一に託した陛下の真意は、皇帝ただひとりの世界に囚われている自分に世界の広さを見せるためだったのだ。ろくに宮廷から出たこともない、狭い檻の中にいた自分に、書物でしか知らない世界を直に肌で感じさせるため、「捜査」という名目で陛下は新一を檻の外へと放った。 だが、陛下は勘違いをされている。他でもない、新一は自分の意志でそこにいたのだ。世界がどれほど魅力的でも、陛下の前に全ては色褪せてしまう。新一の世界は陛下ただひとりでいいのだ。陛下さえいて下されば、それでいいのだ。 それなのに。 「おまえは私の宝だ。そして、この国の宝だ。たとえ今は誰も認めずとも、いずれ分かる時がくる。おまえは確かに我らが父なる神に見初められた花の王なのだよ――我らが花君」 その瞬間、新一はくしゃりと顔を歪めると、勢いよく立ち上がって快斗の手を振り払い、猛然と部屋を飛び出した。その顔には言い様のない哀しみが抑えようもなく滲んでいた。 慌てて後を追おうとした快斗の手を掴み、陛下が無理矢理引き留める。遠慮も容赦もなく睨み付ける息子を、陛下も真摯な顔つきで見つめ返した。 「あの子が何者か分かっているのか、快斗」 「何だって構うもんか」 「あの子の闇は深い。それを知らなければ不幸になるだけだぞ」 「不幸がなんだ。あいつといられないなら、それこそ不幸だ。どっちにしろ不幸になるなら、あいつといる方がいいに決まってる」 一瞬の躊躇いもなく言いきって見せた快斗を、陛下は少しだけ羨ましく思った。かつての自分にもこれだけ言い切れる自信があれば、今頃は彼女を、快斗の母を、正妻として迎えていたかも知れない。 だが、過去は過去だ。過ぎ去った日々は戻らない。自ら選択し歩んできた結果、それが現在なのだから。 「いいか、快斗。よく聞きなさい。あの子は、工藤新一は、華族に生まれたたったひとりの男児にして、この世で最も尊い存在だ。あの子は華族の中でも花君≠ニ呼ばれる特別な存在で、この国になくてはならない存在なんだ。花君とはこの世で最も神に愛された者に贈られる称号だ。そしてこの世で唯一神の叡智を知り、その叡智によって我々を導いてきた者の称号でもある」 そこで陛下は一度間を置き、部屋の隅でもう動く気力もなく座り込んでいる徹を軽く睨んだ。 「おまえがしようとしていたことがどれほど恐ろしいことか分かったか?」 徹の喉がごくりと動く。そんな男を自分は殺そうとしていたのか、と。あの時陛下が間に入ってくれなければ、徹は新一を殺していたかも知れない。知らなかったこととは言え、とても恐ろしいことだと徹は思った。 陛下は快斗に視線を戻した。 「だが、華族の者たちは誰ひとりあの子を花君として認めなかった。あの子が男児だからだ。あの子は異端児として蔑まれ、厄と呼ばれて育ってきたんだ。七年もの間、狭い部屋の中に隠すように閉じ込められていた」 快斗の顔が強ばっている。寄せられた眉、見開かれた目。薄く開いた唇からは今にも「そんな…」という呟きが漏れそうだ。 いつだったか、出たくても外に出して貰えなかった、と言っていた彼を思い出す。その時は、その言葉にそれほどの重さがあるとは思わなかった。だが、七年間も閉じ込められていたのなら、愛情を知らなくて当然だ。好意に不慣れで当然だ。生まれた時から厄と呼ばれて続けていたのなら、彼がそう信じ込んでしまうのも当然ではないか。 「私が退位すれば、あの子は再び神の庭に閉じ込められるだろう。あの子を自由にできるのは皇帝の称号を持つ者だけだ。そしてその資格が、おまえにはある」 ここからが本題だと、陛下は一歩踏み出した。陛下が何を言いたいのか、快斗にも分かった。 「あの子が欲しいか、快斗」 「ああ、欲しい」 気持ちいいくらいに快斗の返事に迷いはない。けれど、それは何も思いのままに口にしているのではない。一週間、悩みに悩んだ末に出た答がそれなのだ。快斗にはもう、新一が傍にいない生活など考えられなかった。 「あんたや母さんのように離れて暮らすなんて死んでも御免だ。俺は大事なものは決して手放さない。生涯かけて、俺はあいつの隣にいる」 陛下は掴んでいた手を離した。 「では、ここまで来い。そんなにあの子が欲しければ、おまえがここまで奪いに来なさい」 「――上等」 言うなり駆けだした息子の背中を、もう引き留めることなく、陛下は穏やかな表情で見送った。 |
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