宮庭佳人





 ばたばたと足音も高く、天宮の中を闇雲に走る。幸い、徹の施した睡眠薬のおかげで、真夜中の騒音に文句を言うような者もない。そうして漸く蒼の宮近くまで戻ってきた時、とうとう膝から力が抜けて、新一はがくりとその場にしゃがみ込みそうになった。堪えきれずにすぐ傍にあった白い石柱へ体を預け、乱れてしまった呼吸を整えようと努める。
 分かっている。もう毒の影響など殆どない。それでも力が入らないのは、陛下のあの言葉が、新一を支えてきたあらゆる力を根こそぎ奪ってしまったからだった。
 ――花君と、呼ばれた。絶望的だ。誰に何と呼ばれようと構わないけれど、陛下にだけはその名で呼ばれたくなかった。なぜならその名は、陛下ただひとりを敬愛する自分を否定するものだからだ。つまり陛下は、自分を拒否されたのだ。遂に自分は、陛下からも拒まれてしまったのだ。
 ぐらりと、世界が傾ぐ。音もなく静かに崩れていく世界に抗う術もなく、新一はただひたすら惨めにも石柱に貼り付いていた。
「――工藤」
 どれぐらいそうしていただろう。背後から掛けられた声に、びくりと新一の肩が跳ねた。
 あまりに動揺していたため、背後から近づいてくる気配にもまるで気付かなかった。いや、たとえ普通の状態だったとしても気付くことはできなかっただろうと、新一は自嘲気味に唇を歪めた。
「…何の用だ」
 振り返るまでもなく相手が誰かなど分かり切っていたけれど、ここで振り返らなければまるで自分がこの男から逃げているようだと、新一は嫌々振り返った。思った通り、笑いの欠片もない真剣な表情で快斗が佇んでいる。
「驚いたよ。まさかおまえが陛下の御子息だったとは、まるで気付かなかった」
 普段通りを装って皮肉ってみるものの、嘘だ、と自らに反論する。明確な答こそ出せなくとも、新一は快斗の言動のところどころに何かを感じ取っていたはずだ。一度ならず、この男の抱える得体の知れない何かに恐怖にも似た感情を感じていた。そのため、彼が陛下の御子息であると聞かされても、驚くどころか逆に納得してしまったほどだ。
 それでも、手を組んでいた一月近くもの間そのことを秘密にしてきた快斗でも、自分が華族であるという事実をひた隠しにしてきた新一には到底敵わないだろう。
「…工藤。俺が皇帝の息子であることをおまえに言わなかったのは、俺にとってはそれがどうでもいいことだったからだ」
「――嘘だ!」
 新一が噛み付くように吠える。けれど、驚くどころか狼狽えもしない快斗に苛立ちは募るばかりだ。
「どうでもいいはずがあるか!一生つきまとうことだぞ?たとえおまえにとってはどうでもいいことだとしても、周りが放っておかない!それをどうしてどうでもいいなんて言えるんだ!」
 それは、他でもない新一自身への慟哭だった。
 自分を異端児と呼び、蔑む者たち。花君と呼び、敬う者たち。ただ華族である母のもとに男児として、牡丹の天花である志保を持って生まれただけだと言うのに、いつまでもどこまでもその名がついて回る。その名が、自分を苦しめる。
 知られたくなかった。知られて、嫌われたくなかった。初めて自分をこれほどまで強く求めてくれた彼にまで裏切られたら、もう立ち上がれないと思った。
 けれど、神は残酷だ。裏切られないために彼の前から逃げ出したのに、こうしてわざわざ秘密を知られる機会を用意して下さるのだから、全く有り難すぎて涙が出そうだ。こんなになっても、神はまだ自分を苛め足りないと言うのだろうか。今は何もかもが、目の前の男でさえも憎らしく感じる。
「おまえは陛下の御子息だ。俺は、…華族の異端児だ。それはどうしたって変えられない事実だ。それでもおまえは、どうでもいいと言えるのか…!」
 答は、ひとつしかなかった。そんなはずがないのだ。今まで誰ひとり、陛下でさえも、新一が花君であるという事実から目を逸らしてはくれなかった。だから、これは何かを期待しての言葉ではなかった。いっそもう二度と立ち直れないほどに傷付いてしまいたかった。
 けれど。
「ああ、どうでもいい」
「――え?」
「おまえが華族だってどうでもいい。異端児だって構わない。この世で最も神に愛された者だろうが、そんなの俺には関係ない」
 一瞬、何を言われたのか分からなかった。そしてその意味を理解した瞬間、新一は瞠目した。
 この男は自分の言っていることが分かっているのだろうか。そう思うと同時に、それは愚問だとも思った。快斗の目に映るのは、嫌悪でも同情でもなく――狂おしいほどの渇望。
「おまえが好きだ」
 どくりと、一際高く鼓動が鳴った。まるで凍っていた血が温もりを取り戻したかのように、僅かな痺れとともに熱い血潮が体を駆けめぐる。
 その言葉の意味を真に理解したのは、おそらくこの瞬間だった。どれほど書物から読み取ろうとも何度人の口から耳にしようとも、今まではぼんやりとした輪郭しか捉えることができなかったそれが、なぜ理解できなかったのかすらもう思い出せないほどに、今はしっかりと新一の中に象られている。それは、他でもない新一自身が、その思いを彼に対して抱いていることの証明に他ならなかった。
「俺のものになれ、工藤。俺なら、あんな風におまえをひとりで泣かせたりしない」
「…ぬかせ…どうせおまえも、俺をおいて死ぬくせに…」
 華族の寿命は永い。たとえ男児であろうと、華族として確かに神の加護を受ける新一は人よりも遥かに永い時を生きる。仮に陛下が病気を患っておられなかったとしても、いずれ自分をおいて先立たれることは変えようのない運命だった。だからこそ、尚のこと、華族に生まれた自分の身が、新一には煩わしくてならなかったのだ。
 それを今更、この男への気持ちに気付いてどうすると言うのだろう。始めから終わりが見えている未来に、何の望みがあると言うのか。
 けれど、最後の足掻きでそう言った新一に、あくまで快斗は不敵に言うのだ。
「言ったはずだ。俺はおまえを絶対に裏切らない。俺が死ぬなら、その時は、おまえも殺して連れて行くさ」
 俺のいない瞬間を、他の誰かと生きるなんて許さない。
 そう言った快斗の、いっそ傲慢なくらい強気な笑みに、新一はもう何ひとつ抗う術を持たなかった。
 気付けば、新一の腕は快斗の首へと伸びていた。絡みつき、引き寄せ、きつく抱き締めている。快斗の右手は新一の腰をしっかりと抱き寄せ、後頭部へと回された左手は新一の髪に緩く絡んでいる。ふたりの唇は、今や深く重なっていた。
 きつく閉じた瞼の裏に全ての激情を抑え込み、無我夢中に舌を絡める。初めて感じる他人の熱は驚くほどに熱くて、新一の思考はすぐに熔けた。ただ込み上げる衝動のままに熱を求めれば、聡い相手は望むままに際限なく与えてくれる。
 熱い舌。熱い吐息。熱い、唇。何もかもが熱くて今にも体ごと熔けてしまいそうだと思った瞬間、気付けば新一は石柱に押しつけられていた。自力で支えられなくなった体は、腰に回された腕一本で支えられている。
 ともに乱れた吐息を鼻の擦れ合う距離で繰り返していると、うっすらと持ち上げた瞼の向こう、驚くほど熱に浮かれた双眸がじっとこちらの瞳の中を見つめていた。きっと自分も彼と変わらないくらい熱に浮いた目をしているに違いないと、新一は思った。
「綺麗な目だ…」
 月の光を受け、一切の誤魔化しのない澄んだ蒼色の双眸が熱に潤んでいる。それは紛れもない神の色だ。神聖なものを穢す、一種背徳めいた感覚に酔いながら、その神々しい瞳に快斗は情欲を帯びた動きでゆっくりと舌を這わせた。ぞくりと背筋を這い上がってくる言い様のない感覚に、新一は微かに身を震わせる。
 そしてふと、自分の体の異変に気付いた。胸の奥、心臓の真上がひどく熱い。まるで先ほどまで感じていた熱が全て凝縮してそこにあるかのようだ。
 新一は目を瞠った。それが何を意味するのか、新一は知っていた。
「そんな…まさか、おまえが俺の…?」
 華族に生まれついた者には、ひとりの例外もなく神の定めた対≠ネる者が存在する。それは永きを生きる彼女たちに神が与え賜うた伴侶の呼称であり、その者でなければ天花の加護を受けることはできない決まりだ。そして、対に選ばれた者だけが彼女たちとともに永きを生きることができる。
 対が誰かを見極めるは天花の役目だ。今、彼は、新一の対として志保に認められたのだ。
(こいつが俺の対≠ネんだ…こいつが俺の半身≠セったんだ…!)
「どうした?」
 困惑顔の快斗へ新一は緩く首を振る。目の端に滲み出すものを抑えることができない。
「何でもない…ただ、おまえを好きになってもいいんだって分かっただけだ…っ」
 そうして零れだしたものを見られまいと、新一は快斗の肩に深く顔を埋めた。
 快斗は、初めて新一の口から聞かされた肯定的な言葉に、どうしようもなく胸が躍った。これまで二度も三度も新一に自分の気持ちを告げてきた快斗だけれど、その度に「ふざけるな」だとか「信じられるか」と否定されてきた。それを、今初めて認められ、あまつさえ新一からも「好き」という言葉を貰ったのだ。これを喜ばなかったら嘘だと、快斗はきつくきつく新一を抱き締めた。
「くろ、ば…」
「――快斗、だ」
 存外真剣な声できっぱりと告げた快斗に、新一はゆるゆると顔を上げた。
「黒羽≠カゃなくて快斗≠セ。これから俺は、おまえを手に入れるために皇位を継ぐ。皇帝の真名を呼べるのは正妻だけだ。俺はおまえ以外の奴にその特権を与える気はない」
 言っている意味は分かるだろう?と快斗が笑う。散々皇位に興味はないなどと言いながら皇位を継ぐと言い出したことにも驚きだが、よりにもよって自分を正妻にするなど、新一にはとても正気とは思えなかった。けれどよくよく考えれば、この男が正気でないことなど今更だ。この自分を好きだと言っている時点で、もう充分普通の域を超えているだろう。
 新一の顔にも笑みが浮かぶ。まるでこちらを挑発するように不敵に笑う新一に、今にも手を伸ばして組み敷いてやりたいような、喉の奥が焼け付くほどの衝動を覚えながらも、快斗はすんでのところで踏み止まる。
「…いいだろう。裏切らないと、おまえが言ったんだ。その言葉が真実かどうか、俺に証明してみせろ」
 だから、待っていてやるから。
「俺を奪いに来い――快斗」
 そう言った、自分を魅了してやまない人の唇に、快斗は誓うように口付けた。





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