夏の心地よい白南風吹き抜ける花街、紅梅楼の前に、大きな人集りができている。まだ陽が昇って間もない時間にも拘わらず、今日のこの日に立ち会わないわけにはいくまいと、下町に暮らす者の殆どがこの場へと集まっていた。 今日、白南風の頭領として下町を率いていた黒羽快斗は、宮廷へと上がる。花街の芸妓であった快斗の母千影と、第四十一代目皇帝との間に生まれた歴とした皇子である快斗は、皇位継承者のひとりとして知識や礼儀を学ぶため、宮廷へと上がるのだ。 もちろん、大兄である平次を含め下町の者たちは快斗が皇子であることを知らなかった。もともと皇位に興味のなかった快斗は、都と下町の確執を考慮し、わざわざ打ち明ける必要もないと判断したのだ。しかしこうなった今、彼らを率いていた者のけじめとして、快斗は全てを彼らに打ち明けた。彼らは突然のことに驚いたものの、自分たちの頭領を否定することはなかった。彼らにしてみれば、今まで充分すぎるほど自分たちに尽くしてくれた快斗を、皇族だと言う理由だけで拒絶することなどできるはずもなかったのだ。そして宮廷からの使者が迎えに来るという今日、快斗の姿を最後に一目見ようという者たちで、こうして人集りができている。 「うへぇ…おまえの人気は相変わらずやなぁ」 人集りを掻き分けて何とか快斗のもとに辿り着いた平次が、額に軽く汗を浮かべながらぼやいた。それを迎える快斗は、普段の気楽な格好とは違い、純白の生地に菊の花をあしらった仕立てのよい服を纏っていた。かつて皇帝より贈られた月桂樹の衣装にも見劣りしない見事なそれは、快斗の義妹で織師である青子が餞別にと作ってくれたものだった。 「なに情けないこと言ってんの。これからは平次が頭領なんだから、しっかりしろよ」 途端、平次の眉が情けなく下がる。 「んなこと言うたかて、俺より徹の方が適役やったんちゃうかぁ?」 「馬鹿言うな。一度譲った地位に今更返り咲く気はないぞ」 「せやかて、俺にこいつらまとめられると思うんか?」 あくまで弱気の平次を、快斗と徹は兄弟揃って笑い飛ばした。平次が見かけに寄らず弱気な男だと言うことはよくよく知っているふたりだが、彼が頭領となった今、いつまでも弱気でいられては困るのだ。 過去の伝統「頭領の座を襲名する者は現在の頭領に闘って勝利する」に則ることはできなかったが、快斗が平次に頭領の座を譲った時、白南風の仲間たちからはもちろん、下町の人々からも異論の声は上がらなかった。平次は快斗よりも長く白南風として彼らに尽くしてきた男なのだから当然だろう。 「もっと自信持てよ。みんなが選んだ頭領はおまえなんだから」 もとより頭領になる気などなかった徹は、ただ励ますように平次の肩を叩いた。 ――あれから。結局のところ、徹はお咎めなしという形で片が付いていた。今回の事件の首謀者は守谷卿であり、実行犯は澤田の護衛に当たっていた兵士ということで治まった。実際、脅迫されて犯行に及ばざるを得なかった徹には情状酌量の余地が十二分にあったため、皇帝も始めから刑を軽減するつもりだったらしい。新一が言うように怪我をしたのは新一ひとりであり、その新一が構わないと言うのであればと、皇帝からもあっさりとお許しが出たのだ。今更だが、本当に食えない人だと、徹は思い知った。 だが、食えない人物と言えば、あの舞師もそうだ。聞けば、十を過ぎる頃には宮廷書庫の全ての書物を読破し、更にその内容をまるまる記憶してしまったという彼は、その豊富な知識を用いて決裁の大半を代任していたと言う。皇帝自身でさえも、時には書庫の資料を漁らなければ是非の判断が付かないものもあるというのに、である。あの時皇帝が言った「工藤は私の影を務める男だ」という台詞も、決して誇張されたものではなかったのだと、その時になって漸く思い知った。その証拠に、彼は見事に徹の罪をもみ消してしまったのだから。 結果、徹はこうして何もなかったかのように日常生活を送っている。とは言え、何の罪悪感もなく日常に戻れるはずはなく、一時は真剣にこの国を離れようかとさえ思った徹だったが、図ったかのように皇帝陛下より「宮廷付きの掛かり医者に寺井黄之助及びその息子徹を任命する」旨の勅命を受け取ってしまったため、そうもいかなくなった。それは皇帝が、或いはあの舞師が、わざわざ自分のために用意した免罪符であろうことに当然徹は気付いていた。そして、おそらくそうしたのが後者であろうことにも。 (不思議な男だ…) 花君と呼ばれる特別な存在であるという以前に、彼は不思議な魅力を持った人間だと徹は思った。何か人を惹き付ける力というか、人を魅了する力というか、そういうものを持っている。快斗や皇帝にもそういう力はあるのだが、彼らのように人の上に立つ者の資質とはまた違うのだ。そうではなく、全てに等しく降り注ぐ陽光のように、大地を潤す雨のように、何の見返りもなく与えられるそれは、まるで天に御座す神の慈愛に似ていると思った。 この世で最も神に愛された者。それはきっと、この世で最も優しい人のことなのだ。 「新一君を泣かせるなよ、快斗」 快斗の耳にだけ届くように囁けば、当然だと、快斗は片眉と口角を器用に吊り上げた。それに徹は安心したように微笑んだ。 と、車を引く馬蹄の音と車輪が石畳に軋む音が聞こえ、騒がしかったその場が一気にしんと静まりかえった。都から下町へと繋がる唯一の石道を、朝廷の紋が刻まれた馬車がゆっくりと下ってくる。いよいよ快斗の迎えが来たのだろうと、誰もが固唾を呑んでその馬車を見守った。 やがて人集りを避けて馬車が停止すると、馬に跨っていたふたりの宮廷近衛兵が下馬し、目の前の群衆にもまるで気圧されることなく厳かに馬車の扉を開いた。中から現れたのは、緑の制服をすっきりと着こなした長身の青年、白馬探だ。見覚えのある顔に、いったいどんな偉そうな親父が出てくるのかとはらはらしていた平次は安堵の溜息を吐いた。 白馬はまるで祭りのような騒ぎに軽く目を眇めるだけで受け流すと、快斗の前にゆっくりと進み出て静かに拝跪の体をとった。 「貴方さまを、第四十一代皇帝陛下が第十九子、黒羽快斗皇子殿下とお見受け致します」 そのあまりに堅苦しい表現に快斗が辟易しながらも「ああ」と請け負えば、相手は満足げに頷いた。そして徐に立ち上がると一歩退き、脇に控えるようにして起立の姿勢を取った。てっきり彼が迎え役だとばかり思っていたのだが、まだ他にいたのだろうか。 だが、その疑問はすぐに解消された。前触れもなく、牡丹の芳香がそこかしこに満ち溢れたのだ。 快斗は目を瞠った。それどころか、その場にいた誰もが驚いてあちこちを見渡している。けれど快斗の視線が馬車から逸らされることはなかった。 まず視界に入ったのは、極上の乳白色の牡丹だ。濡羽色の艶髪に飾られたそれらは驚くほどによく映え、黄金色の飾り簪で固定されている。簪の先からは細い針金で作られた「ぶら」が垂れ、動くたびに細く繊細な音を奏でた。 次いで現れた、空の蒼かと見紛うほどの鮮やかな蒼い衣。深い紺青色の糸で細やかに牡丹が描かれたそれには、両の骨盤の辺りから足下までのきつい切れ込みが施されており、膝下にまで伸びる腰に巻かれた紺青色の帯や、袖の先から垂れ下がる薄布とともに歩く度にゆらゆらと揺らめく様は、まるで神の庭に棲むと言う蒼い蝶を思い起こさせた。 だが、何よりこの目を奪うのは、纏う衣より更に深く鮮やかな神の色を宿した――至高の蒼玉。染め上げられた衣など遠く及ばないその崇高なる輝きは、まさに神にのみ許された色彩。 この神聖な存在が神の一族であることを否定できる者などいるはずがない。一点の曇りもないその双眸を前に、快斗は暫し呼吸を忘れた。 「う、嘘やん…あれ、工藤さんっ?」 和葉の奇声を皮切りに、それまでの静寂が嘘のようにざわめきが波紋となって広まった。 工藤と言えば、ついこの間まで白南風の小兄としてこの町の治安を守ってくれていた少年の名だ。千賀鈴を狙っていた不届き者を捕らえてくれたのも彼だと聞いていた。彼が国に帰ったと聞き、少なからず彼と関わりを持った者たちは随分と残念に思ったものだ。その彼が、なぜ、このような格好で朝廷の馬車から現れるのか。 新一は快斗の前まで歩み寄ると、流れるような動きで優雅に腰を折った。 「改めまして。華の御子がひとり、宮廷舞師の工藤新一と申します。皇帝陛下の命により御身をお迎えに上がりました――皇子殿下」 そうして花が綻ぶように微笑んだ新一に、快斗は咄嗟に応えることができなかった。 蒼い瞳に蒼い衣。近衛兵から芸妓まで、様々なものに扮する彼を見てきたけれど、彼の本来の姿を見たのはこれが初めてだ。瞳に宿った神の色と、身に纏った神の色。ただそれだけのことでこうまで違って見えるものなのか。 「奪いに来いとは言ったが、大人しく待っているとは言わなかっただろう?」 と、いつまでも呆けている快斗に、頭を上げた新一はいつものように悪戯な笑みを浮かべる。それだけで、まるで人形のようだった表情が一気に血の通った人のものになった。自然、快斗の口元にも笑みが浮かぶ。 気高くて、綺麗で。けれどそれだけではないこの男が、どうしようもなく愛おしい。 「俺を失望させるなよ、快斗?」 「…当然。必ずおまえを手に入れてみせるさ、新一」 そうしてその白磁の手を取って口付ければ、俄に周囲が色めき立った。事情をよく知る平次は呆れたように天を仰ぎ、和葉と千賀鈴は頬を赤らめ口元を手で覆った。嬉しそうに、微笑ましそうに眺めている寺井の隣で、徹もまた穏やかに見守っている。 そんな彼らを掻き分けふたりの前に現れたのは、紅梅楼の女主人、小泉紅子だ。いつものように艶やかな梅花柄の衣装を身に纏い、緩く結った艶髪に梅の花を飾った紅子は、ふたりの前へと静かに跪く。 「殿下。貴方は必ずや皇帝となり、この国をより高みへと導かれていくことでしょう。 我が君。貴方さまのお幸せを、わたくしはいつもお祈り申しております」 紅子の相変わらずの言動に眉を寄せる快斗に反し、新一は彼女の言葉に素直に耳を傾けた。快斗という対を得た今――花君として神の叡智を授かった今――彼女がなにゆえこのような行動を取るのかも新一には分かってしまった。 彼女は、常に新一のために祈っていてくれたのだ。そしてこれからも祈り続けてくれるのだろう。 「おふたりの門出を、心よりお慶び申し上げます」 広げた腕の先から梅の花弁が幾重にも折り重なるように咲き乱れ、馥郁たる香りをまき散らし、風に乗って天上へと舞い上がってゆく景色は、なにものにも勝って新一の胸を打った。 これは、今は亡き母が息子へと贈る祝福なのだ。かつて母の天花であった紅子が、彼女に代わって新一を祝福してくれている。胸を打たれるに任せ、熱くなる思いのままに込み上げてくるものを吐き出しそうになり、新一は慌てて唇を引き結んだ。 突然の出来事に驚く者、歓声を上げる者、喜ぶ者と様々だったが、その騒ぎに背中を押されるようにして快斗と新一は馬車へと乗り込んだ。緩く回り始めた車輪の音をかき消すように、人々の歓声が後を追ってくる。快斗の名を、新一の名を、口々に叫びながらふたりを祝福している。ふたりがいないと寂しいと、慕ってくれた白南風のちびっ子たちが泣いている。 「こういうの、嬉しい≠チて言うんだろうな…」 人の好意にまだまだ疎い新一は、胸に浮かぶ仄温かい思いをどうしていいのか分からずに、くすぐったそうにはにかんだ。快斗はがたがたと揺れる車内で徐に立ち上がると、向かいに座る新一を閉じ込めるように顔の横へ両手をついた。新一が微かに息を呑む。快斗を魅了してやまない蠱惑的な瞳が、ただひとり、自分だけを見つめている。 白馬は兵士たちとともに馬に乗ってしまったため、車内には快斗と新一のふたりだけだ。誰の目も憚る必要はない。 快斗は右の膝を座席に乗せ、微笑む唇を触れ合わせながら囁くように言った。 「違うよ。幸せ≠チて言うんだ」 そして吸い寄せられるように深く重なった唇は、馬車が朝廷に着くまで幾度となく吐息を絡めたのだった。 広大な海の彼方、四方を海に囲まれた華の都、花処國。 後に生まれる第四十二代皇帝獅子王≠フ代は、その後二百年もの間続いた。 そしてその傍らには、その類なき叡智で皇帝を導く花の王の姿が、いつまでも寄り添うようにあったと言う。 獅子に、牡丹。 その名は、花処の歴史に最も深く刻まれた。 |
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